小野妹子
〇 遣隋使
推古天皇の時代に大陸の統一王朝である隋に使者が送られました。それが遣隋使です。
遣隋使は隋との対等外交を目指したとも言われていますが、完全なる対等外交ではなく冊封体制に入らない独立国として認めてもらう意図はあったにせよ小国としての配慮はあったようです。
隋の二代皇帝の煬帝の暴政により各地で反乱が起きて隋は滅びました。
それで遣隋使は合計四回の派遣で終了したようです。
□ 敏達22年(581年) 隋が建国される
□ 崇峻22年(589年) 隋が中華を統一する
□ 推古22年(600年) 第一回遣隋使
□ 推古22年(607年) 第二回遣隋使
□ 推古22年(608年) 第三回遣隋使
□ 推古22年(614年) 第四回遣隋使
□ 推古22年(618年) 隋が滅亡する
□ 舒明04年(632年) 僧旻が日本に帰国
□ 舒明12年(640年) 南淵請安が日本に帰国
――隋の興亡と遣隋使について小野妹子に話を伺います。
小野妹子「こんにちは、男です。小野小町と混同しないでください」
――隋は約二百五十年ぶりに中華を統一しました。日本ではどのように思われていたのでしょう。
小野妹子「崇峻天皇の御代ですね。崇峻天皇は朝鮮半島への出兵を考えていましたが、隋が中華を統一したことで大陸と朝鮮半島の情勢が不透明になり外交の転換が求められるようになりました。ですが、崇峻天皇は出兵を強行しようとしたことで、蘇我馬子らに排除されています」
――日本としては新羅征伐をしたい。ですが、それに対しての隋がどう反応するか分からないの不安ということですね。
小野妹子「それで新羅征伐を平行して最初の遣隋使が派遣されました。日本書紀には記録が残されていませんが」
――隋の高官に倭国は政治体制が未熟な蛮族だと言われて恥をかいたので歴史から抹消したと。
小野妹子「私は一度目の使節には無関係だから知りません」
――これに対して推古天皇と聖徳太子と蘇我馬子が政治改革を行いました。
小野妹子「日本側は冠位十二階・十七条の憲法などで国内の政治体制を改めて二度目の遣隋使を派遣します。その時の大使が私です」
――第二回遣隋使ですね。この時に「日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや」の国書を隋二代皇帝の煬帝に渡して激怒されたのですよね。
小野妹子「激怒は大げさですよ。不快感を示されたくらいです。隋の官吏に裏で怒られましたけど」
――よく無事で済みましたね。
小野妹子「隋は高句麗遠征を繰り返してまして、高句麗の反対側にある日本と仲良くして挟み撃ちにしたかったのでしょう。少なくとも敵対したくはなかったはずです」
――当時の日本と朝鮮半島の関係はどのようなものだったのでしょう?
小野妹子「日本の友好国は百済でした。そして百済と日本の共通の敵が新羅です。ただ、新羅は日本に朝貢して機嫌を取ったり、朝貢辞めて敵対していたりと方針が二転三転していましたね。潜在的な敵国で隙あらば攻めようとしていました。そしてこの頃の高句麗とはどちらかと言えば友好国です」
――高句麗と仲良かったんですか? 意外です。
小野妹子「新羅が漢江付近を占領したせいで百済と高句麗が国境を接しなくなったんです。高句麗は新羅と敵対、百済は新羅と敵対で敵の敵は味方論理ですね」
――隋はその情勢を理解した上で日本が高句麗を支援しないように遣隋使を受け入れたと考えられますね。遣隋使を無礼と切り捨てたら、日本が高句麗を支援する口実を与えますから。日本からすれば新羅を屈服させたいので高句麗はどうでもいい。
小野妹子「謁見は無事にすんで隋の使者の裴世清と共に帰国しました」
――その時に隋の親書を無くしたんですよね?
小野妹子「大王を侮辱するような内容でしたので海に捨てました………太子も了承済みですよ」
――そうでしたか。
小野妹子「それなのに大使と馬子の両者が私一人に罪を着せて流罪にしようとしまして。腹立つなぁ。大王の口添えで恩赦されましたが………」
――ご愁傷様です。
小野妹子「罪を許す代わりに裴世清を隋に送り返す任務を任されました。それが第三回遣隋使になります」
――ご自身で二度目の遣隋使で特筆すべきことはありますか?
小野妹子「前回の国書で天子は中華皇帝の尊称だから使うなと言われましたので、天皇と言い換えました」
――天皇? まさかこれが初出ですか。
小野妹子「良く知りませんが、太子が天の子がダメなら天の皇がカッコいいとか言い出しまして。この時だけの尊称で定着しなかったんですけどね」
――そう言えば今回の遣隋使では多数の留学生を連れて行きました。高向玄理、僧旻、南淵請安など八人が隋に渡りました。
小野妹子「三回目の遣隋使は留学生の方が重要ですね」
――では呼びましょう。旻と南淵請安の二人です。
旻「僧の旻です」
南淵請安「私も学問僧です」
小野妹子「あれっ、出番終わり?」
――小野妹子はもう少し後日談まで。留学生を隋に置いて帰国した小野妹子は冠位十二階の最高位の大徳にまで出世しました。晩年も没年も良く分かりません。
小野妹子「あっ、終わった。基本的に記紀しか情報源がないから脇役の晩年なんて不明なのが当たり前です」
――次の遣隋使が610年に派遣されたとの話もありますが、資料がなさすぎて第三回と混同されているとも言われてます。ややこしくなるので遣隋使は全四回で最後の遣隋使は614年ということにします。最後の遣隋使の大使は犬上御田鍬で小野妹子ではありません。偉くなったので出張しなくて良くなったかな。
小野妹子「隠居していたかもしれません。それでは本当にここまでです。お疲れさまでした」
――お疲れ様でした。さて、四回目の遣隋使ですが隋側の記録がありません。隋が混乱していたようで成果なく帰国したよです。
南淵請安「この頃の隋は荒れてました」
旻「理由は高句麗遠征と運河の建築ですな」
南淵請安「どちらも大事業で成功していれば大偉業だったのですが」
旻「民の負担が増えて各地で反乱が起きて隋は滅亡するのです」
――隋の二代皇帝煬帝は第三次高句麗遠征から帰国した後に各地の反乱から逃亡して引きこもります。そしてクーデターで殺されました。新たに中華を統一したのは唐となります。
南淵請安「私たち留学生は日本に帰れず隋の滅亡と唐の建国を目の当たりにすることになるのです」
――その頃の日本では聖徳太子が没して蘇我馬子が死んで推古天皇が崩御するなど、新たに建国された唐へ使者を送る余裕がなかった。建国当初の唐は各地を平定したりと安定していなかったので様子見をしていたというのもあるでしょう。日本で新たに舒明天皇が即位すると遣唐使が派遣されます。
旻「そして、その遣唐使の帰国に合わせて帰ることが出来ました」
南淵請安「私や高向玄理は学ぶことが終わってないので残留しました」
――僧旻は日本に帰還すると蘇我入鹿・中臣鎌足らに唐の情勢や学問を教えた。
旻「私の教え子の中でもっとも優秀なのは蘇我入鹿でした」
――僧旻は舒明天皇9年(637年)に流星が現れた時には天狗の吠え声と主張し、舒明天皇11年(639年)に彗星が現れた時には飢饉を予告した。
旻「中華の易学の知識に詳しいのですよ」
――舒明天皇12年(640年)には南淵請安も帰国します。
南淵請安「32年ぶりの日本です。帰国した私は私塾を開きます」
――南淵請安の塾には中臣鎌足や中大兄皇子が通ってました。塾の帰りに蘇我氏討伐の謀議をしていたとの話もあります。
南淵請安「間接的に乙巳の変に関係していたかもしれないわけですな。私は没年不明ですが乙巳の変(645年)以前に没しているようです」
――NHKの古代史ドラマでは蘇我入鹿に処刑されてます。史実は良く分かりません。
旻「乙巳の変で蘇我政権が終わり大化の改新政権が始まると私は新政府に国博士として登用されました」
――僧旻は国博士として大化の改新の政策にいろいろと関わりました。大化六年(650年)に白い雉が献上された時に元号を白雉に改元することを進言したという。
旻「私は吉兆の由来を話しただけですが改元となりました」
――白雉四年(653年)に僧旻は亡くなります。
旻「私の出番もこれで終わりです。ありがとうございました」
――旻の名前は資料の読み間違いで本名は日文という説があります。
旻「今更!?」




