116:エルデ嬢?
畑で作業する許可までは下りなかったが、外出は可能とポルタ医の診断を受けたナシェルは、本日の朝食から伯爵家族と席を共にするのだと、伯爵の書いた本を片手にいそいそと食堂へ向かった。本の感想を伝えたいらしい…
そのナシェルの看病に付き添っていたエルデには、家族とゆっくり過ごす事を提案したが、伯爵から仕事を全うする様に言われていると首を横に振り、俺の専属侍女に戻ってきているのだが…
「失礼致します。殿下、お義兄様、カイン様、ソアデン卿も、おはようございます。朝食をお持ちしました」
「おはよう、エルデ」
「…おはようございます、エルデ嬢」
「ソアデン卿も朝食はまだですよね?扉の外でアズールの騎士が護衛に立ちますので、こちらの席で朝食をどうぞ?」
「ありがとうございます、エルデ嬢…殿下の後で頂きます」
「…え?何これ?喧嘩?」
「……フラン様…空気を読んで下さい」
久し振りに王宮侍女の制服を身に付けたエルデは、その表情も無に戻り感情を読み取る事は困難。だが、破壊力抜群の笑顔でエルデに挨拶を返す叔父上の機嫌は良く、扉の直ぐ横に控えるネイトの顔は引き攣っている。
婚約前よりも遥かに後退した2人のやり取りにに困惑する俺に、空気を読めと言っていたカインも目を丸くし、カレンとドナも支度する手を止めてしまった。
「叔父上…あの2人はどうしたんですか?」
「ネイトが拗ねてるだけだ」
「…ネイトが拗ねているとは?」
「ネイトと仲の良いエルデが気に入らないんだろ」
この中で2人に何があったかを知る唯一の人間から返ってきた答えは支離滅裂。
庭園でワインの樽を抱えていた人物と同一とは思えない程の気品を漂わせて、1人掛けのソファで優雅に紅茶を飲む叔父上に冗談を言っている様子はなく、拗れていると思われる2人は仲が良くて、その仲の良い状況をネイトが気に入らないと言う…妻となったセシルを囚われた叔父上は状況把握どころか、最早自分の考えを正確に伝える事もままならなくなってしまっているのか。
あの2人を気にしている場合ではない。叔父上の8年待った結婚生活も始まらないまま、このアズールの地で終わりを迎えてしまう事だけは避けなければならない。
「叔父上…何を言ってるんです?頭は大丈夫ですか?ポルタ医を呼びますか?」
「カイエンの要塞に夫人が囚われると知ってから、乱心気味ですからね…」
「お前達、言葉には気を付けろ…落とされたくなかったらな」
「「理不尽!!」」
朝食後にポルタ医の診察を受けた俺も、眩暈と足の腫れが治まり、コルセットで胴を固定すれば外出してもいいという許可を得た。
逸るナシェルと、苦笑いのカインと共に久しぶりに外の空気を吸うと、オレンジの花の甘い香りが鼻腔を優しく刺激する。
ゆっくり歩いて着いた、緩やかな斜面が森まで広がる整地を終えた畑には、騎士と魔術師達、そして畑に従事しているアズールの平民達の楽しそうな会話が飛び交い、初日の鬱蒼とした雰囲気はどこにもない。
「プハッ…アズール騎士団のネイトか」
「ネイサンだ」
間髪入れずに突っ込んできたネイトは濃紺の軍服を身に付け、今日から俺の護衛に戻っている。
畑までの道すがら、ネイトから昨日の話を聞いた俺は吹き出すのを堪えられなかった。
ネイトがネイトに嫉妬とは…更にエルデからソアデン卿と呼ばれる始末。
「アズール騎士団は、初日に団長が挨拶に赴いて来たな」
「騎士団員達は街の警備をしていましたね。大通りに立つ軍服を見かけました」
「討伐も、受け持ちの範囲が別だったから顔を合わせる機会がなかったし、親善試合も流れたからな…」
アズール騎士団とは、親善試合を予定していたが、俺とナシェルが負傷する騒ぎが起きた事で流れてしまった。
士気を高めていた両騎士団員達には悪いが、その機会は直ぐにくるだろう…アズール領に異変の原因があると言ったレナは、領地のあちこちを泳ぎ回って調査をしてくれている。
「で?ネイトがエルデの初恋の相手だって誰に聞いたんだ?」
「私です。小説の品評会の時に初恋の話になって、ネイト殿に情報提供しました」
「小説の…品評会?」
「…恋愛小説です…」
「聞くまでもなかったな…」
ナシェルの看病に付き添っていたエルデは、ここぞとばかりに、数多の小説をナシェルに読ませて、小説について語り合っていた。
その甲斐あっての情報ではあるが、代償は大きかったらしく目が死んでいる。
エルデの心打たれた台詞とやらを幾つか教えてもらったが、そんな言葉を吐いた日には間違いなく恥ずかしさで死ねる…
エルデ大好きネイトでさえ、それだけは無理だと膝を着いた程。
「エレノア嬢の専属侍女をしているマリー殿と3人で、幼い頃からの付き合いだそうです。エルデ殿はデュバル公爵家へ入りましたが、王立学園でギール兄妹と再会したそうで、その時が初恋だと…まあ、高等学園で貴族科と騎士科に分かれて初恋も自然消滅したそうですが…」
「幼い頃の初恋だと思っていたが、学園時代か…割と最近だな」
「再会した幼馴染の成長した姿に、恋心を抱く…小説のまんまですね」
「もしも騎士科に進まなかったら…ネイト殿と一緒になって、ネイト殿とは一緒になってなかったかもしれませんね」
「それはありません。ネイトが好きなのはマリーですから」
「「「「エルデ((嬢))(殿)?!」」」」
「殿下、手袋をお忘れです」
「あ、ああ…ありがとう……」
アズールの侍女を伴って現れたエルデは、慣れた手つきで俺に白手袋を嵌めていくが、俺達はエルデの口から放たれた言葉が飲み込めない…何と言っていた?ネイトがマリーを…好き?
マリーはエレノアの専属侍女で、俺も何度かキリングの屋敷でエレノアに付き添うマリーと対面している。
ギール子爵家の人間でありながら、アズールを出てラスター侯爵家の侍女に入った事に多少の違和感を感じてはいたが、それ以上気にした事はなかった。
俺達の困惑に気付いているのかいないのか…美しい笑みを浮かべて、侍女と共に屋敷へ戻って行くエルデの背中を見送る俺達は、衝撃に固まったまま。
爽やかな空気の中、この一画だけが切り取られた様に空気が重い…困惑と、触れてはいけないものに触れてしまった背徳感から、誰も口を開けず、立ち尽くすだけの4人の背に新たに声がかけられた。
「マリーは弟夫婦の子供なんですよ」




