糸を紡ぎ、機を織る
針を刺す手を止めて、わたしは窓のほうを見た。くもり硝子を経て伝わってくる陽射しが日に日に強くなっている。
もうすぐ夫と一年ぶりに会える日だ。
「可愛いアリアネ、おまえのお婿さんを決めてやったよ」
父が満面の笑みでわたしに告げたのは、一年半ほど前のことだった。
婿を探していると聞いたことも、どんな男がいいか訊かれたこともなかったが、わたしは特に驚きもしなかった。
父は各国に支社を持つ大手筋の織物商だが、跡取りの息子はおらず、妻もすでに亡い。ひとり娘のわたしが婿を取ることになるのは、以前からわかっていたことだった。
「五年前から我が商会で働いている、ヤンという男だ。将来有望な若者だよ」
「その方は、この家に一緒に住んでくださるの?」
「もちろんだ。おまえはこれまで通りの生活を続けられる」
父の本邸であるこの屋敷から、わたしはほとんど出ることがない。子どものころに体が弱かったために、父が外に出そうとしないのだ。
屋敷の中でわたしがすることと言えばただひとつ、父が買いつけた織物に刺繍を施すことだ。わたしが刺繍した品は評判が良く、他国でもよく売れているという。
夫を迎えても、わたしは変わらずこの屋敷で刺繍を続けることになるのだろう。
「アリアネお嬢さま、今日はお疲れになったでしょう。お体は辛くありませんか」
寝室でふたりきりになると、夫のヤンがわたしにそう尋ねた。
はじめて顔をあわせてから十日後のこの日、わたしは町の教会でヤンと結婚式を挙げた。ヤンは快活で人あたりの良い青年だが、父の娘であるわたしに丁重な態度を崩さなかった。
「なんともないわ。体が弱かったのは子どものころだけなの」
この先も何かあるたびに気を遣わせては申し訳ないので、はじめが肝心とわたしは念を押すように伝えた。言ってしまってから、心配してくれた夫に無愛想だっただろうかと思った。
「でも、心配してくれてありがとう」
子どものころと比べて体は丈夫になったが、外に出ることが少ないので人と話すのは得意ではない。
わたしがぎこちなく付け足すと、ヤンはにっこり笑った。笑うと目が糸のように細くなる。
「おれは生まれが卑しいもので、お嬢さまに失礼があったら遠慮なくお叱りください」
「ご実家は商売をなさっていたの?」
「いいえ。ここからずっと遠くの、田舎の酪農家でした。おれは五男坊で、八歳の時に口減らしに奉公に出された後、めぐりめぐってここのご主人に雇っていただいたんです」
ヤンは自分が生まれた村の名前を言ったが、わたしの知らない地名だった。
わたしには知らないことが多すぎる。酪農ということは、ヤンの親兄弟が作ったチーズやバターを、わたしも口にしているかもしれないのに。
「良かったら、あなたの話をゆっくり聞かせて。あなたが生まれた村のことや、これまでに住んだ場所のことを」
「大して面白い話じゃないですよ」
「面白くなくてもいいの。子どものころの話じゃなくて、今の仕事のことでもいいわ。父のもとでどんなことをしているのか、少しずつでいいから教えて」
「いいですよ」
結婚したその日から、毎晩ヤンの仕事の話を聴くことが、わたしの日課となった。
ヤンはたくさんの話を聞かせてくれた。父に雇われることになった経緯や、その前に働いていた場所の事業の内容。
この国の織物は際だって質がいいと他国でも名高いこと。戦争の終結から市民生活が豊かになり、高価な布を買い求める家庭が増えていること。衣類の材料を選ぶ女性客の目は真摯な光で輝いていること。
「アリアネお嬢さまが刺繍した布は特に人気なんですよ。本当です」
そう話してくれる時のヤンは、まるで自分のことのように誇らしそうだった。
ヤンにそれを言われて以来、昼間にひとりで刺繍をしている時でも、ふと手を止めて思いを馳せてしまうことがあった。
わたしが刺したこの布は、どこの誰が買ってくれるのだろう。その人の手でこれは何に生まれ変わるのだろう。誰かの身を飾ったり、どこかの家の居間を見守ったり、喜ばれて大切にされていれば、こんなに嬉しいことはない。
想像を掻き立てられたわたしは、夜ごとにヤンに新しい話をねだった。
わたしのどの刺繍があの家にいくらで売れた、その家の主婦はこういうものを仕立てると言っていた。
ヤンの話は、わたしを実際にその場に連れていってくれるようだった。
「わたしも行ってみたいわ」
「商い先に、ですか」
「ええ。だめかしら」
「ご主人が許してくださるかどうかですね」
わたしが病弱な子どもだったころから、父は一貫して過保護だった。三人の子を幼いうちに亡くしていることもあり、ただひとり残った娘に神経質になってしまうのは当然かもしれない。わたしが出歩かずに屋敷で刺繍をしているほうが、商品になる布が増えることにもなる。
「それに、子どもができるかもしれないし」
屈託のない笑顔で言われ、わたしは思わずはにかんだ。
ヤンと結婚してから、わたしの役目は刺繍の他にもうひとつ増えた。父の商売を継がせる孫息子を産んであげることだ。
「それは――まだよ」
「わかってます。神の思し召しですから」
「だから、今ならわたしも外出できるわ。父が許してくれたら、外へ連れていってくれる?」
「仕方ないですね、お嬢さま」
わたしは自然とほほえんだ。
人づきあいに慣れておらず、結婚した当初はぎこちない受け答えだったが、今はだいぶ寛いでヤンと話せるようになっていた。
「それ、もうやめましょうよ」
ほとんど躊躇もせず、わたしは流れるように続けていた。
「はい?」
「わたしのことをお嬢さまと呼ぶの、もうやめましょう」
「でも、じゃあ何て――」
「名前で呼んで。わたしはずっとヤンと呼んでいるのだし」
ヤンにしてはめずらしく返答に詰まっていた。わたしが雇用主の娘であることをいまだに気にしているのだろうか。
でも、わたしたちはもう名実ともに夫婦なのだ。それに、婿取りをする前に思っていたよりずっと、わたしは夫に親密さを覚えている。
「アリアネ」
試しに口にしてみたという感じで、ヤンがそう呼んだ。
アリアネ。わたしをそう呼ぶ人は、父と亡き母の他にははじめてだ。
「もう一度、言ってみて」
「アリアネ」
今度はよりしっかりした声で、ヤンが呼んだ。ほんの少し戸惑っているような笑いかたがとても可愛らしかった。
「なあに、ヤン?」
わたしがふざけて呼び返すと、ヤンはわたしの口を塞ぐように、すばやくキスを落とした。
わたしがヤンと一緒に外出してみたいと言うと、父はちょっと意外そうな顔をしたもの、頭ごなしに禁じたりはしなかった。
「いいとも、アリアネ」
「許してくださるのね」
「ああ。ただし、これからの一月間はだめだ。他国の支社へ急に出向くことになってね。留守中におまえに何かあったらと思うと、仕事が手につかなくなってしまう」
わたしは素直にうなずいた。父に心配をかけるのは本意ではない。
翌朝、わたしは無事の帰宅を願いながら、笑顔で父を送り出した。
外へ出るのが延びたのは残念ではあったが、ヤンと一月もふたりで暮らせることが嬉しくもあった。寝室だけではなく食事の時もふたりきりとなったわたしたちは、これまでに増してさまざまなことを話すようになった。
毎朝、ヤンが仕事に出かける時はキスを交わして送り出し、夕方に帰ってきた時はすぐに行って出迎えて、やはりキスを交わした。
寝室のベッドでふたりきりになると、毎晩わたしは夫に話をせがんだ。
わたしの興味は自分の刺繍が売れることだけではなく、父の商売に関わるすべてに及びつつあった。ヤンはいやな顔ひとつせず、わたしの質問に辛抱強くつきあってくれた。
「きみはやっぱり義父上の娘だな」
わたしの膝に頭を載せて、わたしを見上げながらヤンが言った。
はじめて膝を貸してあげた時のヤンはひどく戸惑っていたが、今はずっと昔からそうしていたように自然に求めてくるようになった。
「アリアネ、きみには商才があるのかもしれない」
「商才――」
「義父上とはこんな話をしてこなかったのか?」
わたしは無言で首を振った。父の商売に口を挟んだことなど一度もない。
糸を紡ぎ、機を織るのは妻や娘の仕事だが、それを運んだり売ったりするのは父や夫の仕事だ。わたしは家の中でひたすら刺繍をして、それが売れた話を夫から聞くだけで満足するべきなのだ。
「興味があるなら、もっと詳しい話をしようか」
わたしはためらった末にうなずいた。
興味を持つのは無駄なことではないはずだった。わたしに息子ができたとしても、その子の前に父の商売を継ぐのは娘婿のヤンだろう。それならば、妻のわたしがそれを学んでおくのは決して悪いことではない。
日々を繰り返すうちに、ヤンの話はやがて経営や流通のことにも及ぶようになった。わたしはこれまでと同じくらい熱心に聞き入った。
刺繍を施した織物が――わたしが刺したものだけではない――国境も海も越えて広い世界で人を喜ばせている、その仕組みを学ぶのはとても楽しいことだった。
ふたりだけの生活が一月を越えて、父が予定どおり無事に帰宅した。
「可愛いアリアネ、変わりはなかったか?」
「ええ、何も」
わたしと父は抱擁を交わすと、並んで階段を上りはじめた。留守中にわたしが仕上げた刺繍を父に見てもらうためだ。
「無事にお帰りになったのだから、ヤンと一緒に出かけてもいいでしょう」
「もちろんだ。おまえの刺繍が喜ばれているところをぜひ見てくるといい」
「それだけではなくて、他の縫い子たちがいる工房にも行きたいの」
「工房だと?」
「それに、お父さまの商会の事務所にも。織物が作られている工場にも、輸出品が出荷される港にも行きたいわ」
父が押し黙ったのと同時に、わたしが縫い物に使っている小部屋に着いた。
「――これだけか?」
テーブルに広げておいた完成品を見て、父は呆然と立ち尽くした。
「少なくてごめんなさい。刺繍をする時間を使って、いろいろ勉強していたの。ヤンがお父さまの商売のことをよく話してくれるから」
父はつかつかとテーブルに歩み寄り、刺繍の横に置いてあった本を手に取った。
「これはなんだ」
「それもヤンが持ってきてくれたの。お父さまが商売なさっている国のことを、もっとよく知りたいと思って」
「――刺繍が進んでいないはずだな」
ぞっとするような低い声で、父はつぶやいた。
娘に甘く、いつも穏やかな父がこんな声を発するのを、わたしは生まれてはじめて耳にした。
「婿の選択を誤ったようだ。あの若造、恩を仇で返すようなことを」
その夜、ヤンは仕事からこの屋敷に帰ってこなかった。
わたしを置いて出ていった父は戻ってくると、ヤンを他国の支社に赴任させることにしたと告げた。同じ大陸の国ではなく、海に隔てられた島国に。今すぐ、この晩から。
「離れていればどちらも少しは頭が冷えるだろう」
せめて出航前に一目会いたいとわたしは懇願したが、父は頑として聞き入れてくれなかった。
商人としての父の顔を、わたしははじめて目の当たりにすることになった。父にとっての娘とは、価値のある刺繍と跡取りの孫息子を生み出す存在であり、商売に口を出すことなど断じて許さなかったのだ。
父としてはヤンを解雇し、わたしとの婚姻も無効にしたかったのだろうが、娘に離婚歴がつくことは望ましくなかったし、商人としてはヤンの能力と人当たりの良さを手放したくなかったようだ。
完全に縁を切らないかわりに、父はわたしたちを遠くへ引き離した。海の向こうがわとこちらがわへ。
夫を前触れもなく奪われたわたしは、毎日毎夜泣いて暮らした。
ヤンが持ってきてくれた本も取り上げられ、もちろん外出も許してもらえなかった。父とふたりだけのこの屋敷で、限られた使用人とだけ会い、身のまわりに残ったものと言えば刺繍の道具だけだった。結婚する前のわたしに戻ったのだ。
外に出たいなどと言い出さなければ良かった。商売のことなどに興味を持つべきではなかった。
わたしにできるのは糸を紡ぎ、機を織ることだけだ。それ以外のことができるなんて、どうして一度でも考えたのだろう。
自分の愚かさを悔やむ気持ちと、ヤンのいない寂しさに苛まれて、わたしはほとんど食べることもできなかった。
来る日も、来る夜も、ひたすら泣き続けて――ある時、涙に濡れた眠りから目を覚ますと、寝室の中に置いてあった刺繍道具が目に入った。ヤンがいなくなってから一度も手に取っていなかったものだ。
夜明けはまだ遠く、暗い部屋にひとりでいる心細さは耐えがたかった。わたしは蝋燭に火を灯し、ベッドの上に腰を下ろして、針と糸を動かしはじめた。
ただの時間潰しのつもりだった。手にしているのは商品になる織物ではなく、自分のために刺していた習作に過ぎなかった。それでも、一針、一針と刺すごとに、わたしは自分の手に力が戻ってくるのを感じた。
わたしの刺繍は人を喜ばせることができる。刺繍が売れることで商売が栄え、働く人々を豊かにもしている。海の向こうの異国でも、わたしが刺したものが誰かを幸せにしている。
屋敷に取り残されていても、わたしはひとりではない。糸を紡ぎ、機を織ることで、わたしは世界とつながっていることができる。
気力と健康を取り戻したわたしは、その日から憑かれたように刺繍を生み出し続けた。
わたしが泣き言をやめ、売り物になる刺繍を次々と作り出す様子に満足したのか、父はヤンと手紙を交わすことは許してくれるようになった。
一年に一度くらいは会わせてくれるとも約束した。海を渡ってからちょうど一年後の夏の日、ヤンは再びわたしのもとへ帰ってくる。
わたしは窓から目を離し、再び刺繍に取りかかりはじめた。
もうすぐ、もうすぐだ。
ヤンは赴任先での様子を手紙で知らせてくれていた。異国で少しずつ人脈を拓き、商売の足がかりを着々と築いている。父のもとから独立するつもりなのだ。
わたしのほうは父の商品を刺すかたわら、余った布と糸で日用的な小物を密かに作りためていた。高値では売れないかもしれないが、当面の生活の足しくらいにはなるだろう。
一年ぶりに夫と会う日、わたしはこの屋敷を、この国を出る。ヤンとともに海の向こうへ渡ったら、二度とここへは戻らない。
目の端で何かが動いた気がして、わたしは再び窓に目をやった。くもり硝子の向こうがわで、黒い鳥が悠々と羽ばたいていくのが見えた。