2-10 母の本心
お風呂に入って寝衣に着替えた後、お茶を用意して下がろうとする母を引き留めた。どうしても、聞きたいことがあった。
母にも自分のお茶を用意してもらって、ソファに座ってもらった。
「ねぇお母さん」
「なぁに?」
「お母さんは、辺境伯……お父様のこと、殺したいくらい憎んでいたけど、もう忘れたいんだって言ってたよね」
「……そうね」
「私、お父様は嫌な人なんだってずっと思ってたけど、この家の人達は、お父様の事が好きみたい。本当は良い人なの?」
途端に母の表情が硬直して、視線を泳がせると俯いてしまった。
母から聞いていた話で、私は辺境伯がとんでもない下種野郎なんだと思っていた。実際に母に対してした事は疑いようがないし、母にとってはそうだと思う。
だけど、話を聞いて思った。トバイアスお兄様、奥様から聞いた話では、辺境伯が嫌な人なんて印象は受けなかった。むしろ優しい人なんだろうと思ったし、二人とも明らかに好意的に思っている。なにより、ユージェニー様とルサルカお姉様は、辺境伯の事をとても愛している。
母は辺境伯に嫌な目に合わされたけれど、この屋敷で働いていたのだから、辺境伯がどんな人なのか知っていたはず。
それなのに、私にそのことを伝えなかったのはなぜなの? 辺境伯が憎くて、私にも一緒になって憎んで欲しかったの?
もしそうなのだとしたら、私は少し悲しい。だって、人を憎んだり嫌ったりするのは、すごく疲れる。私にまでその疲労を意図して強いたのだとしたら、母の気持ちを思えば仕方がないけれど、やるせない。
少しだけ母を責めたい気持ちになりながら、母が口を開くのを待つ。私が黙っているので観念したのか、ようやく母がポツリと話し始めた。
私が感じたとおり、辺境伯は本来公正で優しい人柄だと言う。母がまだ子どもで見習い侍女だったときは優しく声をかけてくれたし、令息であるギデオンお兄様達と戯れているときも、何も言わず見守ってくれているような人だった。
母が奥様専属になって、奥様と行動を共にすることが増えたから、自然と辺境伯と関わる機会も増えた。奥様の使いで辺境伯と話す機会も沢山あった。奥様が重用する母を、辺境伯は決して無下には扱わなかったし、むしろ信頼してくれていると母も感じていた。実際、セバスチャンと侍女長に次いで、母は奥様と辺境伯に近しい側近だったと言える。
だから母は、奥様からも辺境伯からも信頼されていると自信を持っていた。故に、奥様はもとより辺境伯の事も信じていたし、素晴らしいご主人様だと忠誠を捧げていた。
「……信じられなかったのよ、旦那様があんな行動をとるなんて……夢にも思わなかった。だからあの時私は、旦那様に忠誠を裏切られたと思ったわ」
加えてユージェニー様のこともあった。当然母だってユージェニー様と辺境伯の事は知っていた。お二人が大変仲睦まじくいらしたことも。それなのに、ユージェニー様の愛を裏切ったことも、信じられなかった。
辺境伯に忠誠を裏切られ、それまで信じていた「理想のご主人様」が、音を立てて崩れ落ちた。その時の母の絶望は、きっと私には想像もつかないもので――だから母は、そのショックから自分の心を守るために、辺境伯は「理想のご主人様」の皮を被っただけの、醜く卑しい男なのだと思い込もうとした。
それによって、母は自分の期待を裏切り傷つけた憎らしい男だと無理矢理変換して、その痛苦を凌いだ。
「だからっ、言えなかったのよ。奥様の侍女すらも顧みない、そんな人だなんて、あなたに言えるわけがないじゃない……」
本当は素晴らしい人だと知っている。だけどそれを認めたら、母の受けた痛苦はなんなのかということになる。かといって、私に辺境伯の悪口を吹き込みたくもなくて、矛盾でぐちゃぐちゃになった母の心は、沈黙を選んだ。
当時のことを思い出して辛くなったのか、ついには涙を流し始めた母を見て、流石に罪悪を感じて隣に移って母に抱き着いた。
「ごめんね、お母さんを泣かせたいわけじゃなかったんだよ」
「……わかってるわ」
「でも、今まで思ってたイメージと違うみたいだから、どうしてだろうって思っただけ。それだけのことだったのに、お母さんに辛いことを思い出させてごめんね」
「大丈夫よ……私も本当は、わかっているわ」
大丈夫と言いながら、やはり涙を流す母の一助にと、私は奥様から聞いた話を告げる。
「あのね、奥様にもお話を聞いたの」
「奥様に?」
「うん。それでね、奥様が言ってた。お父様は浮気なんて出来るような人じゃない。どう考えてもおかしいって。奥様達は、あの頃のお父様に呪いか何かがかけられていたんじゃないかって」
そう告げると、母はようやく涙が止まって、なにやら難しい顔で考え事を始める。
「……そうね、あの時の旦那様は、人が変わったようだったわ。誰かが干渉していた可能性は、あるかもしれないわ」
「そういうスキルとか呪いとか、魔法みたいなのがあるの?」
「魔法は私も分からないけれど、もしかしたら呪い屋か、支配のスキルか……いえ、支配はないわね」
「なんで?」
「支配を持っているのは大体は王族皇族よ。旦那様にそんな支配をかける理由が思いつかないわ」
「うーん、じゃぁ可能性としては呪い屋ってこと?」
「恐らくね。でも、その疑いがあるなら奥様達がすでに調べているはずよ」
「だよねぇ」
調べても証拠も何も見つからなかったか、もしくは証拠は見つけたけど犯人までたどり着けなかったか、というところだろうか。それか、思いがけないスキルの活用法があるのかもしれない。ちょっとこの家の人間を鑑定で調べてみよう。
もし本当に辺境伯が呪いを受けたり、何らかの影響を受けていたのだとしたら、母は完全にとばっちりだと思う。これが解決したとして、母が傷つけられたことには変わりはない。
だけどせめて、母が忠誠を誓った相手が、忠誠を捧げるにふさわしい人だったんだってわかったら、母も少しは心の枷がなくなるかもしれない。
私自身も辺境伯にわだかまりはあるけれど、同じ家の中でずっと陰鬱にしていたくない。ユージェニー様達をこれ以上刺激したくもないし、辺境伯の顔を見るたびに嫌な気分になるのは、本当に疲れるから。
だからお願いです、神様。辺境伯が私にとって素晴らしいお父様だと思えるように、そう思える私になれるように、力を貸してください。




