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その聖女、ゴリラにつき  作者: 時任雪緒
第1章 幸福な子ども時代
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1ー1 輪廻転生

 最初に意識が覚醒した時は、何も感じなかった。いや、正確には何も感じないほどに快適だったと言える。ふわふわと漂うような感覚。外界の音を何かに隔てられるように、どこか遠くに聞こえた。それでいてすぐそばで、全身に降り注ぐような規則的なリズムが、常に体を揺らす。そして、温かい何かに、真綿で包まれるように揺蕩っている。




 この状況はなんだろう? 目も開かなくて真っ暗だし、声を発することも出来ない。それでも決して不快ではない、それどころか快適極まりない。


 自分が置かれている、この不思議な環境がなんであるのか、それを理解したのは少ししてからだった。




 外から聞こえてくる音で、1番良く聞こえるのが、かすかに遠くに、それでも響くように聞こえる女性の声。耳が詰まっているのか、自分が閉じ込められているからか不明だが、何を言っているのかまでは聞こえない。でも、優しい声色なのではないかと思う。




 ある時、自分の手足が少しだけ動くことに気づいた。それで思い切り動かしてみたら、外から女性の驚いたような声が聞こえて、次に優しい声色で何かを語り、外からトントンと振動が伝わってきた。




 それで、あぁもしかして、と思った。


 私はきっと、胎児なのだ。




 あんまりお腹を蹴っても、母が痛がるかもしれないと思って、運動を試みるのはやめた。そして、思索にふける。


 手足が動くということは、妊娠後期であることは確実。少なくとも5か月は経っているだろう。

 多分、私は胎児だ。でも、胎児はお腹の中にいる時に、こんな風に考え事をするものだろうか? こんなに自己認識があるものだろうか? もしかしたら胎児や新生児だって考え事をしていて、それを覚えていないだけなのかもしれない。


 おや? 覚えていないというのは、誰の立場だろうか? 私は現在胎児なのだし、他の人間と遭遇したわけでもなければ、自分が成長したわけでもないのに、まるで自分が、大人だから子供の頃のことを覚えていないように考えている。




 不思議に思っていると、ふと記憶に白い服が浮かんだ。


 あ、これは白衣だ。私の仕事着。仕事? 仕事ってなんだろう?


 次に思い浮かんだのは、パソコンに表示される電子カルテ、おむつ、高齢者の顔。そうだ。私は看護師だった。


 看護師だったって、いつ? 私は胎児よ?




 色々疑問には思ったが、ひとまず記憶を漁ることを優先してみた。




 名前は本田樹里。どうやら私は看護師だった。職場では中堅くらい。年齢は30代半ば。職場の同僚や上司のことは、ぼんやりとしか思い出せない。でもなぜか業務連絡とか、仕事の相談内容は詳細に思い出せる。多分、私は職場の人には興味がなかったんだろう。


 恋人がいて、彼の名前や顔、会話や思い出は思い出せるが、職業は思い出せない。彼のことは覚えていても、彼の付加価値には興味なかったということだろうか。それはそれで、どうなんだろう。もっと人に興味もて。




 そして樹里の性格だが、これは樹里主観だとはっきりしなかった。そこで参考になるのは周囲の態度なのだが、これがまぁ千差万別なのだ。


 恋人は樹里を、それはそれはもう、大切にしてくれていた。顔は普通だしちょっと太ってるけど、こんなに大事にしてくれる人に愛されている樹里は、きっと幸せだったはずだ。

 樹里の記憶の中の彼はいつも笑顔で、樹里といると幸せそうだった。きっと彼にとって樹里は、それだけの愛情を与える価値のある女で、樹里も彼を愛していたのだろう。



 仕事では、特に上司に気に入られる事が多かったようだ。上司と口論になった事もあるようだが、樹里は仕事人間だったらしく、それなりに職場に貢献していたらしい。同僚の多くも、樹里に辛く当たる人はほとんどいない。むしろ心を開いて、樹里に愚痴を零したり、相談してくる人が結構いた。

 真面目に仕事をこなしつつ、職場の人間関係の調和を保てるくらいには、社会性はあったようだ。


 半面、樹里よりキャリアが長いのに、樹里より仕事が出来ない人に対しては、かなりの塩対応だったようだ。なので、仕事を押し付けておしゃべりばかりしているオバチャン連中からの評判は悪い。



 プライベートでは樹里を信頼する友人はいたようだが、樹里を避けたり嫌っているような人もいた。

 一見すると評判が良くていい人そうな相手にも、樹里から距離を取ることがあったようだ。


 樹里を忌避している人の特徴を総括すると、日和見っぽい印象の男性と、ものすごく女性的な女性。

 多分樹里は、結構苛烈で合理主義で、懐疑的な性格だったんじゃないかと思う。


 結論から言えば、樹里は仕事人間で、合理主義、人間不信。そして他者評価を気にしないから、不器用な癖にしぶとく生きてた。

 他人の目を気にせず、表面上はいい人ぶって、好きな相手としか付き合わない。なんていうか……難儀だけど自由だと思う。 



 それと、樹里はものすごくチャレンジ精神旺盛だった。

 樹里の持論。人生の三分の一は睡眠に消費され、起きているのは三分の二しかいない。100年生きても70年分の経験しか得られない。ならば、やりたいことは、出来るうちにやらなきゃ損だ。


 この精神で樹里は色んな事にチャレンジしまくり、読書、映画、家庭菜園、裁縫、DIY、電気工事、水道工事、農業、畜産、射撃、料理、販売、投資、営業、法律、不動産、金融、医療など……もう本当に列挙しきれないほどの趣味や職業に手を出し、その全てにドハマりしていた。

 こんなにたくさんやることがあったら、そりゃぁ人間関係も疎かになるだろうなと、ちょっと納得した。


 そんな私が今胎児になっているのだから、多分樹里は死んだのだろう。事故などに遭った記憶はない。

 前後の状況を考えると、多分過労死。流行していた感染症によって、職場でクラスターが発生したものだから、樹里は連続夜勤に加えて毎回残業し、日に20時間以上労働していた。それが数ヶ月も続けば、そりゃぁ死にもしますわな。



 元々人数の少ない職場で、公休まで潰して働いていた樹里が死んだのだ。かつての上司の薄い頭髪が、更に薄くなったであろうことを想像すると、なんだか申し訳ない限りだ。

 樹里のことが大好きだったおばあちゃんたちも、きっと悲しんだだろう。



 それに恋人にも、申し訳ない。樹里が逃げ回っていたのだが、彼は樹里との結婚を希望していた。いつか、と先延ばしにしていたら、その機会は永遠に失われてしまったのだ。「いつか」なんて、本当に来ないのだと思い知った。

 今回はいつかなんて甘えたことを言っていないで、ちゃんと掴み取ろう。



 家族にも。買ったばかりの車の代金や、葬儀費用とか諸々含めたら500万くらいになるのでは……。

 いや、金のことしか謝罪要件がないとはどういうことだ。


 前世の自分の人間性がかなり疑わしいが、まぁいい。今は。




 前世の自分、樹里の記憶は、記憶だけで感情は伴っていないから、私にとっては記憶というよりも他人の記録に近い印象だった。例えるならば、ドキュメンタリーや伝記映画を見ているようなものだろうか。


 それでも樹里の人生は非常に波乱万丈で、樹里の恋模様や、転職癖があったらしく経験した様々な職場での出来事、高校まではサボりまくっていたくせに、案外勉強家だった樹里の知識、尋常じゃないほど多趣味で蓄えられた知識は、私を随分と楽しませてくれた。私は退屈な胎児生活を、樹里のヒューマンドラマを鑑賞することで、退屈を紛らわした。








 そうして過ごしていたら、突然足元から水流が発生した。む、これはもしや破水か? だとしたら由々しき事態だ。足元から羊水が出たということは、私は逆子だ。


 私は慌てて手足を動かして、体の位置をどうにか入れ替える。その間に母の呻く声が響き渡るけれども、この方が出産の成功率は高いから今は我慢してくれと思いつつ、母に苦痛を与えながらもどうにか体の位置を入れ替えた。




 出産間近で胎児が体位を変えるなど、母にとっては地獄のような苦痛だった筈だ。どうにか私を無事に出産して、母も無事でいてほしいと祈りながら、その時を待つ。


 私が逆子だったせいで、母はひどく消耗した筈だ。出産に失敗したら、私も母も無事では済まないかもしれない。もしかしたら私は小児麻痺、それはまだマシで死ぬかもしれないし、母だって生きられないかもしれない。




 徐々に周囲から押し出されるような感覚を受ける。頭が子宮口に触れた。母の苦痛を孕んだ呻き声が聞こえる。ここからが本番だ。




 お母さん、頑張って。私もお母さんが出産しやすいように動くから、一緒に頑張ろう!




 頭を強烈に締め付けられる。母の呼吸に合わせて頭を動かして、必死に祈りながら、少しでもスムーズに出産できるように向きを変える。


 頭が抜けた。肩さえ抜けたら、この苦しみから母を解放してあげられる。




 お母さん、頑張れ、頑張れ!


 私はきっと無事に生まれるから、お母さんもきっと!


 もう少しだよ、絶対大丈夫。


 私もお母さんも死んだりしない。だから、あきらめないで!




 私の祈りが天に届いたのか、肩が抜けるとするりと足元まで冷気に晒された。


 誰かに背中を撫でられて、咳き込んだ後に自分が無事に生まれたことに気がついて、思わず「よっしゃぁ!」と叫んだ。




 その声は、「おぎゃぁ!」という産声と共に、母の腕に包まれたのだった。

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