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悪役令嬢シリーズ

一緒に歩きたい悪役令嬢と、一歩も踏み出せない王子の話

「クローディア! 君との婚約は破棄させてくれ!」





公爵令嬢クローディア・ギルデンシュタインの婚約者――ユリアン・クライデル王子は、必死の形相で言った。


一方、クローディアは突然の宣言に戸惑い、慄き、震える声で言った。


「ど――どうして!?」

「何言ってるんだ! 見ればわかるだろう!?」



ユリアンは奇妙な体勢のままそう言った。



「クローディア、いいかい? 僕の目を見るんだ――見るんだ!」

「何を言ってますの!? 殿下、落ち着いて! 今はそんなこと言ってる場合じゃないでしょう!?」

「クローディア……頼むよ、僕の話を聞くんだ!」

「イヤ、イヤよ! 貴方が何を言っても、私はここを動かないわ!」

「我儘言って僕を困らせないでくれ! 頼む、僕は今ここで君との婚約を破棄したいんだ!」




思わず声が大きくなった途端、王子の体勢が崩れかけた。




あわわ! と情けない声を出して、ユリアンは慌てて体勢を戻した。




王子のブーツの下にあるもの。

土と厚く積もった草に隠れてよく見えないが。

それはおそらく金属製と思われる、円筒形の缶。




いわゆる、地雷――である。




冷や汗にしとどに顔を濡らしながら。

ユリアンは悲鳴のように言った。




「僕は地雷を踏んでるんだぞ! 一歩でも踏み出したら即死だ! 頼む、僕を置いて、君だけでも生き残ってくれ!」





「ハイキングに行こう」


婚約者であるユリアンにそう誘われたのは今朝のことだった。


彼と婚約したのはクローディアが10歳の時だった。

そのときからもう10年が経過したことになる。

王家であるクライデル家の王子と、王国最大の有力貴族であるギルデンシュタイン家令嬢の婚約。

それは最初こそ、もっぱら二人の両親たちの意向によるものだった。

お互いのことなど殆ど何も知らないまま、婚約という約束だけが取り決められて10年。

だが意外にもそれは、世間の一般的な傾向を無視して、二人にとっては穏やかな時間だったように思う。

優しくて穏やかな気性のユリアンは、クローディアを最初は友達として、長じてからは恋人として、大切に扱ってくれた。

まだ世間知らずの若者だった頃。

お互いにお互いを意識しあい、かなり婚約者っぽく振る舞いあっていた時期もある。



だが、いよいよ成人、そして結婚という段になると、話も変わってくる。



今の自分たちは、もう昔みたいに、若さや勢いだけでは生きていられない。

やがてやってくるだろう現実の厳しさや将来への不安が、殊更高い壁に見えてくる頃だった。


いつかは夫婦になる恋人同士――。

それだけで十分だった歳はもうとっくに過ぎていた。

本当にこのまま夫婦になってよいのだろうか。

ちゃんと支え合って生きていけるだろうか。

仲睦まじい家庭を作れるだろうか。

王として王妃として、自分たちはちゃんとこの国の未来を担っていけるだろうか――。



一時は確実に二人の間に息づいていたもの。

それはいらぬ将来への不安ばかりが増大したことで、近頃、確実に冷めつつあった。



そんな最中、降って湧いたように提案されたハイキングへの誘い。

従者も、案内人も、護衛も付けない、二人だけの小さな旅にするという。


おそらく、ユリアンにもさしたる深い考えがあってのことではなかっただだろう。

ただ、既に形骸化の兆しを見せつつある二人の関係について、一度話し合う機会がほしかったのだと思う。

このままだと二人の関係は修復不能になる――その危機感がクローディアの中にもあったのは事実で、少し迷った末にクローディアはその申し出を受けた。




ユリアンは、行き先など最初から考えていないようだった。

城を出てからも、二人はほとんど無言で道を歩いた。

お互い、言葉を交わさなくても心がわかるほど成熟してもいない。

そんな沈黙を心地よいものだと思えるほど大人でもなかった。

ただただ、どんな話をしたらいいのかわからなかったのだ。


ユリアンにはそれが気まずかったのだろう。

こっちに行こう、と言って、ユリアンは道から逸れ、西の方に進路を取った。


いくつか谷を越え、川をまたいで歩くと、広い草原地帯に出た。


「ここは戦争の時は激戦地帯だったんだ」


ユリアンがぽつりと言い、なにもない草原を見渡した。

熾烈を極めた隣国との戦いが集結して二十数年。

ユリアンとクローディアがまだ生まれていない時代だった。


「父も――ここで戦っていたのかな」


ふと、ユリアンが呟いた。

偉大すぎる父親と、自分を比較していたのかも知れない。


ユリアンの父である国王は《豪傑王》の異名で呼ばれた歴戦の王だった。

かつての戦では、若くして数々の戦地に参戦し、自ら軍を率いては敵を打ち破ったという。

優しく、繊細なユリアン王子とは、似ても似つかない叩き上げの英雄だった。


クローディアは――というと、何も答えることが出来なかった。

そこで、そうかも知れないわ、とか、きっとそうですわね、とか。

気の利いた相槌でも打てば、そうすれば結果は変わっていたかも知れなかった。




だが、クローディアはクローディアで、無言だったのには理由がある。




彼に「あのこと」を伝えなければならない。

クローディアの頭はその思いでいっぱいだった。




クローディアはクローディアで、このハイキング中に「あのこと」を言い出すタイミングを見計らっていたのである。


クローディアが意を決して打ち明けようとしたときだった。

無言でいるクローディアに失望したような表情を浮かべ、ユリアンが下を向いた。


「帰ろうか」


ぽつりとそう言って、ユリアンは踵を返した。

あ、とクローディアは咄嗟にユリアンの手を掴んだ。


「ま……待って!」


その一言に、ユリアンが驚いたように振り返った、その時だった。




急に、カチッ、という音が足元に発した。




「ん?」


二人が反射的に下を向いたときだった。

えっ……!? とユリアンが声を上げた。


「こ、これって……!?」


ユリアンの右足の下に埋められていたもの。

大きさも形もクッキー缶程度の大きさの缶である。


その表面にびっしりと刻まれたルーン文字。

いまだそれが現役で活動中である事を示す赤い光。

如何にも軍事用でござい、と言いたげなオリーブ色。


クローディアも、この間まで在籍していた魔法学院の教書の挿絵で何度か見たことがあった、それ。




魔導性地雷――。




これを踏んだ人間がそれに気づかず、足を上げたが最期。

刻まれたルーンが所定の効果を発揮し、大爆発を起こして人間を粉微塵に吹き飛ばす悪魔の兵器であった。


「でっ、殿下――!? どっ、どうしましょう……!?」

「うわ、ちょ! クローディア! 手を、手を離して! 足が外れちゃう!」

「あっ、ご、ごめんなさい!」


クローディアが手を離すと、ユリアンがもう一度足元を見た。

そして顔を上げ、不安そうにクローディアを見る。


「こ、これ、地雷、かな……?」


頼む、そうでないと言ってくれ――。

今思い返せば、ユリアンの顔はそう言っていた気もする。


だが生憎クローディアからも、猿芝居をするような余裕は消失していた。

クローディアは馬鹿正直に答えてしまっていた。


「地雷、ですわね……」


クローディアの一言に、ユリアンの顔が地獄を見たような表情になった。



そして――今現在である。


「頼む、クローディア! 僕を見捨てて逃げてくれ!」

「逃げるわけにいかないでしょう!? 殿下、まず対処方法を探しましょう!」

「何の対処法があるっていうんだ! 地雷だぞ! 頼む、僕のことは忘れてくれ! そしてもっといい人と結婚するんだよ、いいね!?」

「落ち着いて! 落ち着いて殿下! まだ私たちにもできることがあるかも知れませんわ!」

「頼むよクローディア、生きてくれ! そして王宮に帰ったら父と母に伝えてくれ、『愛してる』って……!」


ダメだこの人、パニックになると何も聞こえなくなるんだ……。

新たに知った婚約者の一面に驚きつつ、クローディアはワァワァ騒ぎ続けるユリアンを見た。

ユリアンは相変わらず必死の形相で、愛してる、とか、逃げろ、とか、そんな言葉を唱え続けている。


それはアンタが良くても、こっちが良くない。

なんとかユリアン王子を落ち着けなければ会話もできやしない。


クローディアは一か八か、腰に手を当てて、言い聞かせるように静かな声で言ってみた。


「……殿下。殿下がそこまで仰るなら、私はひとりで帰りますわ」

「ふぇ?」


そう言った途端、ユリアンの目が点になった。

その情けない顔に向かって、クローディアは念押しするように言った。


「帰ってもいいんですのね?」

「あ、う、それは……」

「どっちなんです?」

「い、いや……その」

「殿下、いいですか? 落ち着いて、落ち着いてください、いいですわね?」

「う、うん……」


やっとユリアンが落ち着いた。

クローディアは「まず、荷物を調べてみましょう」と静かな声で宣言した。


ほとんど思いつきで城を出てきたために、持っているものは殆どなかった。


クローディアが持っていたのは、手鏡と小さな物入れの袋、二人分の昼食と一本の水筒、そして袋の中に忘れていた一冊の本。

ユリアンが持ってきたものに至っては、護身用のナイフ一本だけだった。

どう考えても、これだけで地雷を何とかすることなど出来はしない。


次に、クローディアとユリアンは救助の可能性について考えてみた。

だが、生憎ここは山奥であり、なおかつクローディアは土地について明るくない。

運良く城に辿り着いて救助を呼ぶまでに一体いくらかかるだろうか。

そもそもここは地雷原であり、危険な魔物もうろついていると訊く。

うかつに歩き回ればミイラ取りがミイラになる可能性もある。


地雷に石か何かを置いて抜け出せないかな、という意見は、クローディアによって言下に否定された。

そもそもこの地雷は魔導兵器である。

乗っているのが無機物か有機物かの違いなど、魔法はたちどころに見分けてしまう。

魔導兵器相手に浅知恵を発揮するのは厳禁だと学院で教わったでしょう?

そうなれば一巻の終わりですわ――。


長い時間を掛けて話し合い、だいたいそんな結論に達した時だった。

ユリアンが呆けたように言った。


「じゃあ――どうしよう」


どうしよう、と訊ねられて、クローディアも困ってしまった。

困りはしたが、とにかく希望的観測を述べなければならない。


「とっ、とにかく! 今は無闇矢鱈に動くべきじゃありません! 王子と公爵家令嬢がいっぺんに行方不明になったら、すぐに捜索隊ぐらい来ますわよ!」

「でっ、でも、それはいつぐらいになるのかな……」

「それは……それはわからないけれど、とにかく!」


クローディアは胸を張った。


「殿下には、私がついています! 希望を捨ててはいけませんわ!」


それは何の根拠もない、単なるハッタリであった。


それでも――意外にもユリアンの表情が和らいだ。


「クローディア、ありがとう。悪いけど、僕のそばにいてくれ」


その声に、ほわっ、と、温かい風のようなものがそばを通り過ぎた気がした。

クローディアは、久しぶりにユリアンの笑った顔を見たような気がした。


死なせない。

今この人には私しかいない。

私がきっと、然るべきときまで支えきってみせる。


そのときまでは、クローディアはそう決意していた。



一時間が経過した。

三時間が過ぎた。

半日経った。

夜が来て、一晩中熱帯夜が続いた。


白白と夜が明けて――遂に朝が来た。


「来ないね――救助」


ユリアンが立膝のまま、ぽつりとそう呟いた。

もう右足の感覚がないよ、と弱音を吐いてから、更に半日が経過していた。


王太子と公爵令嬢の突然の逐電。

おそらく、今頃城は上を下への大騒ぎになっていることだろう。


だが、ユリアンとクローディアがあまりにも後先考えずに歩き回ったのが仇となったらしい。

ここにいるぞ、と狼煙でもあげればよかったのだろうが、生憎火種なんかこちらは持ってきてはいない。

最初のうちこそ、おーい、おーいと声を上げたりしてみたものの、それはいたずらに喉が渇くだけで終わる結果となっていた。


「――もう水がありませんわ」


クローディアは水筒を振って呟いた。

「ああ」と一言だけ言って、ユリアンのぼんやり顔が朝日に照らされ始めた。

その顔には目の下のクマと共に、疲労が色濃く浮かんでいる。


どうしよう――クローディアは寝不足の頭で考えた。

切り詰めたはずの食料は既に心もとなくなっているし、水は底をついた。


既に暴力的に感じる太陽の光を見ながら、クローディアは考えた。

今日もきっと暑くなるだろう。

ユリアン王子のシャツは夜通しの熱帯夜のせいで、既に汗で肌に張り付いてべちゃべちゃだった。


このままでは、地雷のせいでなくとも脱水で命の危険がある。

なにより、救援が来るまでにユリアン王子の気力が持たないかもしれない。


水を手に入れなければならない。

クローディアはそれだけを決めて立ち上がった。


「殿下――私、水を取ってきます」

「あぁ」


そう言って立ち上がったクローディアにも、ユリアンはこちらを見ようともしない。


他人事のように聞こえるユリアンの返事に、クローディアは少しムカッとした。


自分が今から一体誰のための水を取りに行くつもりだと思っているのか――。


そんな思いが頭をよぎり、クローディアは束の間ユリアンが置かれた立場も忘れて、ユリアンの顔をまじまじと見つめてしまった。


「え――何だい?」


こちらが何に憤っているのか、本気でわかっていない表情だった。

その表情には、怒りや憤りよりも呆れが先立った。

クローディアはため息交じりに言った。


「いいえ――なんでもありませんわ。殿下、このナイフを預けていきますわね」


クローディアはナイフをユリアンの手に握らせた。


「もし魔物が来たら、これでなんとか応戦できますか?」

「うん。頑張ってなんとかするさ」


ユリアンは言葉少なに頷いた。


本当はクローディア自信が護身具として持って行きたかったのだが、ここから動けないユリアンには必要なものだっただろう。

これで自分は丸腰だ。なんとか自分で身を守らなくてはならない。


クローディアは水筒を持つと、遥か下に見える森林地帯を見た。

ここに来る途中、あの森の中に小川があったはずだ。

クローディアは森を目指して歩き出した。



グルルル……! という不機嫌な唸り声が背後を行き過ぎる。

ミシ、ミシ……と小枝を踏みながら通り過ぎていくのは、二本足の怪物だった。


「ひっ……!」


恐怖に震えながら、クローディアは水筒を持っていない左手で口を押さえ、必死に悲鳴を我慢した。


クローディアをつけ狙っている怪物からは、吐き気をもよおす程の獣臭がした。


無事、小川で水を汲むことに成功したクローディアだったが、幸運も束の間、帰り道のあの深い森の中で、よりにもよって最悪の相手と出くわしてしまったのであった。


人狼――。


それはこの国にいる猛獣の中でもとりわけ厄介な怪物である。

通常の狼とはなにもかもが桁違いの大きさと膂力。

二本脚で立ち上がり、その嗅覚と夜目の鋭さで旅人を引き裂き、喰らう凶獣である。

よりにもよって、そんなものに遭ってしまうなんて――。

クローディアは自分の不運を呪った。


人狼はクローディアを見失っていた。

あちらの藪をかき分け、こちらの木の上を探し、倒木をへし折り――。

風向きが変わったためか、はてまた隠れ方が巧かったためか。

消えた獲物を探し回る人狼は、すぐ背後の樫の木の陰に身を潜めるクローディアに気づいていない。


一体どれだけの時間が経っただろう。

獲物を見失ったことを認めたらしい人狼は、不機嫌に咆哮を上げると、四つん這いになって森の奥へと消えていった。


それからしばらくして、クローディアは立ち上がった。

しばらく、足腰に力が入らなかった。

何度も転び、手足はあっという間に擦り傷切り傷にまみれた。

それでも若木に縋ってやっと立ち上がり、クローディアは膝下に力を充満させた。


既に日は高くなっていた。

このままだとユリアンは相当消耗しているに違いない。


クローディアはよたよたと歩き出した。



「ん――? おかえり。遅かったね」


その時のユリアンを見て、クローディアは唖然としてしまった。


ユリアンは、立膝のままクローディアの荷物である文庫本を読んでいた。

おまけに二人の最後の食料であったサンドウィッチを食い散らかすおまけつきで。


一瞬、あまりの光景に、クローディアは何もかも諦めてその場に座り込みたい衝動に駆られた。

この人は本当に自分が置かれた立場がわかってるのだろうか。

私は人狼に追われながらもあんなに頑張ったのに。

自分はおつまみ片手に暇つぶしの読書か――。


危機の真っ最中にもかかわらず、呑気にも恋愛小説を読んで待っていた、その能天気さ。

何の相談もなく最後の食料にまで手を付けるその思いやりの無さ。

大丈夫だったか? の一言もなく、あろうことか「遅かったね」とこちらの非をあげつらう理不尽さ。


ユリアンは更に余計なことを言った。


「君、こういう恋愛小説が好きなんだな……面白いけど、僕には合わなかったな。なんだか設定が古臭く感じてさ。どうせならもっと斬新で今風な話を……」

「……殿下、ずいぶん余裕がありますのね」


思わず、クローディアの口から皮肉の言葉が出た。


「え? あ、い、いや……そんなことは」


ユリアンはそこで初めて、自分の身に降り掛かっている危機を思い出したらしい。

慌てて恋愛小説を地面に置き、そこで初めてクローディアを見た。

傷と泥にまみれたクローディアの姿を。




「ど、どうしたんだい、その格好――!?」




――遅いわよ。


クローディアは氷点下の視線でユリアンを見た。

答える気力もなく、クローディアはユリアンの足元に水筒を放った。


「水です。好きなだけお飲みになって」


クローディアはそれだけ言って、ユリアンが食い散らかしたサンドウィッチを拾い上げた。

クローディアが自分の分として想定していた量の、ほぼ半分以上が食われていた。


ただでさえこっちは栄養が必要だと言うのに――。

歯型が残って残飯のようになったサンドウィッチを見ていると、無性に頭に血が上った。


なんのために自分は半日以上も――。


悔しさと情けなさに、思わず涙が出そうになった瞬間だった。


「く、クローディア……もしかして、怒ってる?」


ユリアンのその一言に、必死に我慢していた怒りが爆発した。




「なんで怒らないと思うんですかッ!!」




クローディアが一喝すると、ユリアンがぎょっとのけぞった。


「私、人狼から死物狂いで逃げ回りながら水を取ってきたのに! あなたは今までここで何をしていたの!?」

「うっ……じっ、人狼……!?」

「おまけに最後の食料をこんなに食って食って食い散らかして! この食料が尽きたら私がまたあの人狼のいる森に探しに行かなきゃならないのよ! それなのに何よ! あなたは『大丈夫か』の一言もなく恋愛小説の品評!? 私が誰のために頑張ったと思うのよ! そんなに余裕があるなら何もかも自分で用意してっ!」


その一言に、ユリアンが、あう、と声を上げた。


クローディアはもう何も聞きたくなかった。

歯型の残るサンドウィッチを無理やり口に押し込んで、クローディアは後ろを向いて地面に座り込んだ。



「クローディア、ごめん。本当に僕が悪かったよ……機嫌直してくれ」


それから数時間。

クローディアは膝を抱え、貝になったつもりでユリアンの謝罪を拒絶していた。

ユリアンは念仏のように謝罪の言葉を口にするが、クローディアは聞こえないふりを貫いていた。


「ごめん、ごめんよ。君が人狼に追われてるなんて知らなかったんだよ、食料については……ごめん、次からは気をつけるからさ……」


ふん、とクローディアはあくまで冷淡にそれを無視した。

知らなければ何でも言っていいのか。

次から気をつけると言っても、こんな状況人生で二度と起こるはずがないのだ。

もっと惨めに謝っていればいい。

もっと罪悪感に苦しめばいい。

こんなに緊張感のない男だとは知らなかった。

こんなに思いやりのない男だとも思っていなかった。

これじゃあ、いつまで経っても「あのこと」すら言えないじゃないか――。


まだ消えぬ苛立ちに、膝頭に顎を埋め直したときだった。


はっ、とクローディアは顔を上げた。

風に乗ってやってくるこの匂い。

この吐き気を催すような――獣の匂い。


それは――人狼の匂いだった。


「こっ、これは……!?」

「え? どうしたの、クローディア?」


クローディアはユリアンに言った。


「殿下、獣の匂いがしませんか?」

「けっ、獣? ――ああ、本当だ。するな。それがどうかしたか?」

「マズイわ、人狼が近くまで来ています! アイツが追ってきたんだわ!」


クローディアの言葉に、ユリアンの表情が凍りついた。


「た――確かなのかい?」

「ええ、間違いありませんわ! どうしよう、私たちはここから動けないのに……!」


なにか武器は――と、クローディアがあたふたと辺りを見回したときだった。


「クローディア、こっちへ来てくれ」


ユリアンの言葉に振り返ると、ユリアンが固い決意を潜ませた顔をしていた。

なにか妙案でも思いついたのだろうか。

「え、えぇ……」とクローディアがユリアンの前に立ったときだった。




不意に――。

ユリアンがクローディアの両手を取り。

静かに顔を寄せてきた。


その直後、クローディアの唇に柔らかな感触が触れた。


あまりのことに、呼吸さえ出来ない。




しばらく経って、ユリアンが唇を離した。

放心しているクローディアに、ユリアンが言った。




「――クローディア、愛してる。だからどうか僕を置いて逃げてくれ」




「でっ、殿下――!?」

「クローディア……正直、僕は君との結婚を迷っていたんだ。本当に君とこのままやっていけるのかって。戦にも学問にも特別な才能がない僕が、ちゃんと父のように君を守っていけるかって――怖かったんだ。でも、今はっきりとわかったんだ――僕は、君を守れそうにないって」

「な、にを――何を仰るんですか、殿下!」


クローディアはユリアンの胸を拳で叩いた。


「私は殿下がいればそれでいい! 守ってもらうことなんて望んでないわ! 私はただ――!」

「クローディア、黙って聞くんだ!」


ユリアンがクローディアの肩を掴んで怒鳴りつけた。

一度も見たことのないユリアンの剣幕に、クローディアは思わず息を呑んだ。


「さっきの僕は君に何をした? 僕は自分のことばかりで――君のことなんか何も考えられない男なんだよ。こんな情けない男と一緒に君まで死なせたくない。僕を見捨ててくれ!」

「イヤ、イヤよ! 私はそんなつもりで言ったわけじゃない! 自分だけでカッコつけないで! あなただけ置いていけるわけがないじゃない!」

「クローディア、頼むよ……!」


その時だった。

天地を震わすほどの咆哮が迸り、二人ははっと草原の下の森を見た。


ギャアギャア、という不快な声とともに、森から無数の鳥たちが飛び立った。

人狼が――すぐそこまで来ているのだ。


残り少ない時間を察して、ユリアンの顔が歪んだ。

ユリアンはクローディアの頭を抱き、頬を寄せて言った。


「クローディア、こんな僕に長い間付き合ってくれてありがとう。僕は――幸せだった。頼むから僕の最期の願いを聞いてくれ、頼む……!」


懇願するようにユリアンが言う。

クローディアはユリアンの腕を振りほどき、ぼろぼろと涙をこぼしながらそれを拒絶した。


「うるさいうるさいうるさい! 私はあなたの言うことなんか聞かない! 私は絶対にあなたを見捨てないわ! あなたを見捨てるぐらいなら、私もここであなたと死にます!」

「クローディア……! 僕は君を守りたいんだ! わかってくれ!」


両肩を抱いて顔を離したユリアンは、なんとかクローディアを説き伏せようと躍起になっているようだった。



クローディアは奥歯を噛み締めた。


見捨てるなんて、そんな事絶対にしない。

私はあなたを死なせたくない。

私はあなたと一緒に一歩を踏み出したい。

ずっとあなたと歩いていきたい。

一歩も踏み出さないまま死ねない。

あなたに死なれたら、未来が消えてしまう――!




クローディアは自分の腹に右手を当て、大声で言った。




「あなたは私なんか守らなくてもいい! その代わり、この子の父親を守って!」




ユリアンがクローディアの顔を見た。


「え――?」


クローディアはべそをかきながら、ユリアンの胸板を左手の拳で叩いた。




「このハイキングで言うつもりだった! 私、妊娠してるの! あなたの子よ!」




その瞬間、ユリアンが見せた表情は。

戸惑い、驚き――いや、もっと違う表情。

涙と鼻水でぐちゃぐちゃになったクローディアの顔を、ユリアンはじっと見つめた。


「クローディア……ほ、本当かい?」


クローディアはしっかりと頷いた。


長い長い沈黙の後――。




ユリアンの汗だくの顔が、ぱっと笑顔になった。




「よかった!」




ユリアンが両手でクローディアを抱き締めた。




「僕――父親になるのか! クローディア、よくやってくれた! 僕たちの子なのか! やった――やったぞクローディア! 僕たちの未来だ!」




今まさに地雷から足が離れてもろともに爆死するかもしれないのに。

今まさに人狼に屠られるかもしれないのに。


ユリアンの腕に強く抱き締められながら、クローディアはわんわんと泣いた。


ずっと不安だった。

既に愛情が冷めつつあるユリアンが、この事を喜んでくれるのか。

本当に自分が母親としてやっていけるのか。

父親になることをユリアンが受け入れてくれるのか。




自分たちは――二人で大事な一歩を踏み出せるのか。




だが――その全てが取り越し苦労だと知って。

全ての不安を涙に変えて。

クローディアはいつまでも泣きわめいた。



「グルルルル……!」



不意に、そんないななきが聞こえ、二人ははっと音のした方を見た。


人狼だ! 森で見たときよりも、遥かに大きく見えた。

既に人狼との距離は20メートルもない。


どうしよう、このままじゃ……!


クローディアは涙でべちゃべちゃの顔でユリアンを見た。

その顔を見て、ユリアンは柔和に笑った。


「安心してくれ、クローディア。前言撤回だ、僕は絶対に死なない。君たちを置いて死ぬもんか」

「殿下、殿下ぁ……!」


ユリアンは泣きわめくクローディアの右手を握って言った。


「だから――僕はヤツと戦う。信じるんだ。父親になる僕を、母親として信じてくれ。できるかい?」


その一言に、クローディアは覚悟を決めた。

きっとよ、と、その言葉に全ての願いを込めて、クローディアはユリアンの身体から離れた。


のしっ、と、人狼が一歩間合いを詰めてきた。

ユリアンがナイフを右手に持ち、その切っ先を人狼に向け、とっておきの啖呵を切った。


「さぁ来てみろ、化け物め! この《豪傑王》が息子、ユリアンが相手だ!」



グオオオオオ!! と人狼が咆哮し、地面を蹴った。

ユリアンは地雷に乗せたままの右足はそのままに、左足を思い切り後ろに引いた。

人狼の右の爪撃がユリアンを狙い――ブオン! と爪が振り抜かれた。


瞬間、ユリアンは思い切り身を屈め、人狼の身体の下に滑り込んだ。

そのまま、逆手に握ったナイフで人狼の喉下を深く切りつけた。


「ギャッ!」


まさか躱されるとも、一撃を喰らうとも思っていなかったのだろう。

人狼が悲鳴を上げて飛び退り、唸り声を上げた。


ぼたぼた……と、少なくない量の血が滴り落ちる。

ユリアンはナイフを順手に持ち替えて人狼に怒鳴った。


「どうした、化け物! 僕はここから動けないんだぞ! 好きなだけ屠ってみろ!」


その挑発が届いたのだろうか。

人狼が桃色の舌をひらひらさせて咆哮した。


二本足で地面を蹴り、猛牛のように突進してきた人狼が、両手でユリアンを組み敷いた。

グッ! とうめき声を上げて、ユリアンが枯れ木のように地面に押し倒される。


「殿下――!」

「くそっ! こいつめ……!」


死んでも動かさないと決めたらしい右足で地雷を踏みながら、ユリアンは死もの狂いで左足を人狼の胸に突っ張り、なんとか引き剥がそうと躍起になる。

ガチン! ガチン! と目の前で空を噛む牙を、ユリアンは首をよじってどうにか避けている。

まずい! このままでは八つ裂きにされてしまう!

何か武器はないかと周囲に視線を走らせると、少し離れたところに水筒が転がっていた。

クローディアは咄嗟に水筒を両手で取り上げて立ち上がった。


「殿下を離してッ!」


怒声と共に、クローディアは満タンの水筒を横薙ぎに叩きつけた。

バキッ! という金属音が発し、人狼の牙が何本かへし折れて飛び散った。


ギャッ! と悲鳴を上げた人狼が、咄嗟に左手で顔を庇った。


「母は強いのよ……!」


そう言ってやると、怒りに燃える人狼の目がクローディアを見た。

ひっ、とクローディアが身をすくませたのと同時に、自由になったユリアンの右手が動いた。


「させるかッ!」


ユリアンの右手に握られたナイフが、人狼の左目に深々と突き刺さった。

歯を食いしばったユリアンが、ナイフに更にひねるような動きを与える。


「ギャアアアアアッ!!」


鮮血が迸り、苦悶の声を上げて人狼が両手をめちゃくちゃに振り回した。

その動きに、突き立てたままのユリアンの右手が弾かれる。

そのまま、人狼は地面に組み敷いたユリアンをすくい上げるようにして殴りつけた。

「ぐふっ……!」


まるでバナナの房のような爪に引っ叩かれ、ユリアンの身体が冗談のように宙を舞う。


「殿下――!」


三メートルほど宙を舞い、ユリアンが地面に墜落した。

クローディアが慌てて駆け寄ると、ユリアンの右腕は人狼の爪に深々と切り裂かれ、おびただしい血が流れていた。


「殿下……! ひどい怪我……!」

「クローディア、逃げろ! アイツが地雷を踏んでる!」


はっ、と見ると、両手で顔を覆った人狼の右後ろ足が、今までユリアンの足の下にあった地雷を確かに踏みつけていた。


まずい、人狼は今にも動き出しそうだ――!




「走れ!」




ユリアンが血だらけの右手で、クローディアを引きずり起こした。

そのまま、人狼に背を向けて、二人は地面を蹴った。


人狼が目に刺さったナイフを引き抜き、血混じりの咆哮を上げた。

そのまま両手の爪で地面を掴み、人狼が二人に飛びかかろうとした、その刹那――。




実に一昼夜に渡って掛けられていた圧力が消失し――。

魔導性地雷の表面に彫られたルーンが強く発光した。




それは一秒にも満たない間の事だった。

紫色の火花が缶の表面中を疾駆し、中に封入されていた爆炎魔法を励起させた。

長い眠りから醒め、須臾の間に膨れ上がった爆炎の熱と大音響は、最初に缶そのものを、そして次の瞬間には、その上にあった人狼の身体をも容赦なく吹き飛ばした。




臓腑を揺るがすような大音響が草原を駆け抜け、山々に複雑に反響して轟いた。




きゃーっ! という悲鳴は、自分自身の耳にすら届かなかった。

凄まじい爆風に弾き飛ばされ、クローディアとユリアンは実に数メートルも吹き飛ばされて地面を転がった。


しばらく、全身が軋んで何も言えなかった。


咳き込みながら、どうにか首だけを起こす。

そこで初めて、クローディアはユリアンが自分の身体の下敷きになっていることに気づいた。


「でっ、殿下!」

「くそ、いててて……! 全身が痛いよ……!」


慌ててクローディアがユリアンの顔を手で撫でると、ユリアンの顔にごく薄い笑みが浮かんだ。

よかった、どうやら無事のようだ……と思った途端だった。


ドスン! という音とともに、何かが天から降ってきた。


ぎょっ――と二人が見ると、そこにあったのは人狼の首だった。

もはや何も写していない目を克と開いたまま。

引きちぎれた人狼の首は、ベロリと舌を剥き出したまま、完全に事切れていた。


思わず、全身から力が抜けた。

早くユリアンの身体から退かなければならないのに、身体が言うことを聞かなかった。


ぎゅ、と、下にいたユリアンが、クローディアの腹のあたりに手を回し、優しく抱き締めた。


「終わったね」

「えぇ、終わりましたわね――」

「でも――僕らにはこれが始まりだ。君のおかげだよ、クローディア」


その一言に、お互いが微笑みあったときだった。


「ユリアン! そこにいるのか!」


不意に、野太い声が聞こえてきて、二人は体を起こした。

厳つく組み上がった長身に、強い髭面。

ユリアンの父――《豪傑王》クライデル王が、大勢の手下を連れ、泳ぐように草原を駆けてきていた。


「父上――!」

「ユリアン、クローディア! 一体何があった?! 爆発音が聞こえたが……!」


その顔には、いつもの威厳の陰は少しもなかった。

あちこちに木の葉っぱをつけ、青い顔で汗だくで。

それは息子そっくりの――なんだか頼りなさげな表情だった。


ユリアンが立ち上がった。


「父上、僕たちは無事です。ちょっと怪我はしましたけどね」

「こ、これは――人狼の首じゃないか! お前たち、人狼に襲われたのか!?」

「えぇ、襲われました。でも、ユリアン殿下が倒してくださいましたのよ? 国王陛下、殿下を褒めてあげてくださいませ!」


ユリアンの腕を抱きながら、ね? とクローディアがユリアンに目配せする。

しばらくして、クライデル王は理解を諦めたかのように、ふーっと鼻息を吐いた。


「どうやら、城に帰ってから、ここであったことをたっぷりと聞かねばならんらしいな――とにかく、疲れているだろう? 帰るぞ、二人とも」


クライデル王は踵を返した。

それに続いてクローディアが一歩を踏み出そうとした時、ユリアンが言った。


「いえ、()()()()


ユリアンが言いった。

クローディアはその顔を見た。

自信と決意に満ちた表情で――ユリアンはクローディアの手を握った。




「僕たち、三人で帰ります」




その言葉に、振り返ったクライデル王が珍妙な表情を浮かべた。



ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


ワンシチュエーションサスペンス、というか、とにかくそんな物を書きたい。

そう考えて書き始めました。


蓋を開けたら全くサスペンス要素なくなっていました。

でも成人式的にいいネタになったような気がしなくもありません。


それでももしお気に召しましたら、評価・ブックマーク等よろしくお願いいたします。


【VS】

もしお時間ありましたら、この連載作品を強力によろしくお願いいたします↓


『悪役令嬢・オブ・ザ・デッド』

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