11‐1 私から離れたら、ダメ、なんですよ
だだっ広い緑が広がる大地、フェリオン連合王国。ピトラを出た俺とセレナは、乱れもない穏やかな平原を歩いていたのだが、気がついた時には空は厚い雲に覆われ、俺たちの頬にも、冷たく厳しい風が強く当たってきていた。
「急に冷えてきたな。雪でも降ってくるんじゃないか?」
「そ、そうかも、しれませんね……」
セレナの返答に、俺は何かに引っかかった。いつもよりか細いように聞こえたからだ。
「セレナ?」
彼女の顔を覗き込む。辛そうな顔からかすかに聞こえてくる息切れ。真っ青に見える顔が、明らかに雲のせいではないことに気づくと、セレナの体が前のめりに倒れそうになった。
「おい!?」
急いで腕を伸ばして支える。肩に手を当てて立たせ、調子を聞く。
「大丈夫かよ?」
「す、すみません……なんか、目の前が、くらくらして……」
顔色といい元気のなさといい、まさかと思い俺はセレナのおでこに手を当ててみた。異常なぐらいの熱を感じる。
「熱がある。風邪か」
体温も高い。急いで寝かせなければ。幸い、目の先には村が見えている。目視できっと五百メートルくらい。俺はそこまでセレナを運んでいこうと、バックパックを体の前に背負って、彼女の体を背中におんぶした。
「うっ! ……重い」
「う……うるさい、ですよ……」
四十程度の重さプラス、彼女の背負っているバックパック分の重みが背中にのしかかる。セレナが特別重いわけではないが、今まで人をおんぶしたことがない俺にとっては、それだけでも十分過酷なものだった。
「目の、まえの、むぅらまで、行くから。だから、それまで、我慢してろよ」
既に限界だと言いたくなるのをこらえて、着々と一歩ずつ進めていく。そうして弱ったセレナをおぶりながら、俺は精一杯歩き続けていくのだった。
「ふう……」
肩の重りが外れたような身軽さを感じながら、一段落がついたことに口からため息がこぼれた。俺の目の前では、布団の中で寝静まったセレナの額に、氷水で濡らしたタオルをのせてあげているお祖母ちゃんがいた。村に入るや否や、たまたま外で洗濯物を取り入れようとしていたこの人が、俺たちを助けてくれたのだ。
「いやあ、お祖母ちゃんのおかげで何とか助かりました。ありがとうございます」
「いいのよ。困っている人は助けてやらんといかんからね」
そう言いながら、お祖母ちゃんは白髪に染まった頭を振り向かせた。六十は超えているだろうその顔には、まるで俺たちを孫として見ているかのような、そんな温かさを感じられるようだった。
「あなたもこの子が回復するまで、しばらく休んでいきなさい。ここまで運んでくるの、大変だったでしょ?」
「ぜひお願いします。肩とかが結構限界に近くて」
「そうかい。汗もかいてるようだからお風呂に入った方がいいかもね。お湯を沸かしてくるよ」
「ありがとうございます」
お祖母ちゃんはそう言って立ち上がると、扉のない吹き抜けの部屋から出ていった。俺は部屋の中を適当に見回してみる。積み上げた石を塗り固めた壁に、木材で作られた床。寝室用の部屋だからか、その部屋は一人少女が寝ているだけで、半分以上の面積が取られていた。
「全く風邪なんか引きやがって……」
無表情で眠ってる顔にそう言ってやると「……うるさいですね」と口だけが動いた。
「まだ起きてたのか」
セレナはゆっくりと両の目を開く。
「さっきまで苦しかったのが、横になってちょっとは楽になりました。でも、手足がとても冷たいです……」
覇気のないような、スカスカとした声でセレナは話してくる。
「今日は一日休憩だな。家のお祖母ちゃんに甘えさせてもらおう」
「ごめんなさい。私のせいでとんだ手間を。風邪なんて滅多に引いたことがなかったのに……」
「急な気温変動に、体がついていけなかったんだろうな。病気なんていつかはかかるもんだし、気にしなくていい」
「ケホッ、ケホッ」
喉奥が何か詰まってそうな、苦しそうな咳込み。意外と重症なのかも、と思った時、お祖母ちゃんが部屋に戻ってきた。
「困ったねえ。風邪に効く薬草が切れてたみたい。この村には売ってないから、急いで街まで買いに行かないといけないんだけど……」
「あ、そう言うことだったら俺が買いに行ってきますよ」
お祖母ちゃんが動きだす前に、俺はさっさと立ち上がる。
「あら、ゆっくりしなくていいの? お風呂もすぐに沸くわよ?」
「風呂なら帰ってきてからゆっくり入ります。少しの間、セレナのことお願いします」
「そう? じゃお願いしようかしらね」
セレナのバックパックから金貨袋を見つけて、手の平に適当にひっくり返して、十枚くらいをズボンのポケットに入れておく。念のためサーベルも備えておこうと手に取った時、セレナのかすれた声が聞こえた。
「ハヤマさん」
「ん、どうした?」
「その……一人じゃ、ケホッケホ、ウウッケホッケホ」
サーベルを腰に回しきった時、セレナはさっきよりもひどい咳込みをした。
「おい大丈夫か? 心配しなくても、薬草くらい俺一人で買ってくるよ」
「そ、そういうことじゃ……ッコホ」
「無理するなって。すぐに行ってくるから、ゆっくり寝てるんだぞ」
早く買ってこようとして、俺はそれだけ言い残して玄関に向かって部屋を出ていった。田舎村特有の、玄関及びキッチンでもあるそこで、かまどの横に丁寧に置かれていた靴を履き、ついてきたお祖母ちゃんに俺は聞く。
「ここから一番近い街ってどこですか?」
「南に商店街のある街があるよ。道の通りに進めば一時間くらいかかると思うけど、行けそうかい?」
「大丈夫です。すぐに戻ってきますね」
「気をつけるんだよ」
お祖母ちゃんにそう見送られながら、俺は扉を開けて一人で家を出ていった。
「南の道。なるべく急がないと」
そう呟いて、恐らく魔王や魔物の襲撃によって半壊した村の光景を横目に、俺は駆け足で出発していった。
バタン、と扉が閉まる音が聞こえてくる。しばらくして水道の流れる音もすると、何かにため込んでいるのだと気づく。やがて水が止められると、おばあさんが水入りバケツを持ちながら部屋に入ってきた。
「大丈夫そうかい?」
「まだ喉が痛い、です……」
私はイガイガする喉を使ってそう答えた。おばあさんは額の濡れたタオルを取って、バケツに入れてあった氷水でそれを洗い始める。
「もうちょっと、寝ていないといけないね」
力強くしぼられたタオルが、再び額に優しく置かれる。ひんやりとした氷のような冷たさが、全身の熱を癒してくれそうで心地いい。
「ありがとう、ございます。……あの、ハヤマさんは、もう、ッケホ」
言いたかったことが咳に遮られてしまう。おばあさんは優しく「喋ってはいけないよ」と私を諭す。
「あの男のことなら、あんたのために薬草を買いにいったよ。心配なのかい?」
おまけに私の伝えたかったことに返事をしてくれた。私はどうにかして楽に喋れないか口の中で模索して、これなら、と思ったやり方でガビガビな声を出した。
「私から離れたら、ダメ、なんですよ」
「そうなのかい? 彼なら何も心配いらないと思うけどね」
そう言うことじゃないんです。その一言が、咳によって封じられてしまう。
「きっと大丈夫だよ。お嬢ちゃんが思っているほど、彼はしっかりしてるよ。さ、ゆっくりお休み」
そう言っておばあさんは、私を残して部屋から出ていった。そう言うことじゃないのに、と私は背中を見つめる。別に子どものように扱ってるわけじゃない。もっと他に問題があるのに。
意識も朦朧とするようで、吐き気を感じる前に目を閉じて寝ようと努力する。そうして頭の中で、私はこう思うのだった。
異世界から来たハヤマさんは、きっと一人で薬草を買うことができない、と。
村を出てから一時間。一本の道を真っすぐに歩き続け、俺は街で一番目立っていた商店街にやってこれた。街自体は某ネズミのテーマパークほどの面積であったが、人気や雰囲気はやはり寂れている。商店街だと言うのに、大通りで人を見れるのは一分に一人か二人ほどだ。
土の道を歩いていき、両側に立ち並んでいる店を次々に流し見していく。セレナのためにもさっさと薬草を買わなければならないのだが、少し困った問題が発生していた。
店に建てられた看板の文字。それはいわゆる異世界文字であって、棒や丸みたいな記号が羅列されたそれらを、俺は読むことができない。それに、店は緑一色、もしくはそれに近い色の壁と、目立った装飾のない看板が立っているだけで、パッと見だけでは全くなんの店か分からないのだ。
「ちょっと困るな……。人に聞くか」
丁度前からすれ違おうとする男女の人間中年夫婦。ごにょごにょと話しながら歩いてくる彼らに聞いてみようと、俺は近づいていった。だが、すぐに違和感を感じて足を止めた。
「……マジか」
夫婦が不思議そうに俺を見てから、そのまま通り過ぎていく。そうしてまた、背後から夫婦たちの会話声が聞こえてくる。勘違いなんかではない。会話からは、俺にはまるで分からないような、全く聞いたことのない言葉が飛び交っていたのだった。
「なんでだ? 今まで普通に聞こえてたのに……あ、そう言えば、初めて異世界に来た時……」
空から落ちたあの時。俺はセレナと出会った際、最初に聞いた声が全くよく分からないものだったのを思い出す。俺のいた世界の、どこの国にもなさそうな、少なくとも日本語ではなかった言葉。それが確か、彼女の手から出た魔法陣が光った瞬間、言葉が分かるようになったのだったっけか。
「魔法、ってことなのか。言葉を理解する魔法。それで、その魔法の効果が今は切れてしまっている。だから言葉が分からない……」
言葉に出して一つひとつ整理していく。どうして効果が切れたんだ? セレナが弱ったから? 離れたから? それとも解除した? 魔力切れ?
……ここで考えたところで、答えが分からないんじゃ推理する意味はなさそうだ。とりあえず、俺がやるべきことは……。
「……とりあえず歩くか」
――――――
グッと胸の奥から何かが昇ってくる感覚がして、パッと目が覚めて手を口元に当てた。
「ッケホッケホケホ!」
息を吸わせてくれる余裕を与えず、激しく咳が喉をついて出てくる。もう、これで何回目なの。ゆっくり眠ろうとしても、風邪は容赦なく私の眠りを妨げてくる。何度か眠っているはずなのに、全く苦しさがなくならない。喉の痛みもどんどん増していくばかりだった。
おばあさんは別の部屋にいるみたいで、壁越しからかまどを焚いている音が聞こえてくる。一人で作業をしている様子に、私はハヤマさんのことを心配してしまう。
きっともう、魔法の効果範囲から離れているんだろうなぁ。今ごろは、街の商店街で右往左往しているのかもしれない。
言葉や文字が分からない状態で、一人で薬を買ってこれるなんて到底できない。ハヤマさんはずっと、私の魔法によってこの世界の会話を成り立たせてきたのだ。潔く諦めて、早く帰ってきてくれればいいんですけれど……。
ふと、部屋に置いていった、ハヤマさんのバックパックが目に映る。いつも背負っているハヤマさんのバックパック。ポツンと部屋の角に、邪魔にならないように置かれている、ただそれだけの光景。
……なぜだろう。私いま、心の奥がぽっかりと空いてる気分。とても泣きたくなるほど怖くて、何を考えても不安になりそうで心細い。
「……帰って、こないかな」
「――帰ってきましたー!」
突然の声にビクッとしてしまう。扉が閉まった音と、おばあさんの「お帰り」と言った声が聞こえっると、すぐにハヤマさんが部屋の中に顔を見せてきた。
「セレナ。帰ってきたぞ」
部屋に入りながら、ハヤマさんが私に声をかけてくる。私はお帰りなさいと言いたいのに、声を出そうとした瞬間に喉の濁りが邪魔してきた。
「ッゲホッゲホ!」
「悪化してるみたいだな。ちゃんと買ってこれてよかった」
――え? 買って、これた?
言葉の意味を処理している間に、ハヤマさんは左手に持っていた茶色の包みを見せてきた。中央に描かれた、薬草をイメージさせる緑色の草の模様。その上に書かれていた文字には、しっかりと“風邪用”と人の字で書かれてあった。一体、どうやってそれを?
「多分合ってるはずだから、後はお祖母ちゃんに頼んでくる。もう少しの辛抱だから、頑張れよな」
ハヤマさんはそう言うと、おばあさんのいる部屋へ向かっていった。まさか一人で本当に買ってきたなんて。とても不思議で信じられない。
しばらく待っていると、部屋の中におばあさんとハヤマさんが一緒に入ってきた。おばあさんの手には、やかんと小さなお皿があり、私の隣で膝をついて座ると、やかんから緑茶のような液体を、小さい皿に注ぎ、私を起こしてその飲み物を口に近づけてくれた。
「さあ、ゆっくり飲むのよ」
ほのかに苦い、薬草の匂いがする。恐らく飲みやすくするよう、強くすりつぶした薬草を、水と混ぜてくれたようだ。私はお皿に口をつけると、おばあさんに言われた通り、ゆっくりその薬を飲んでいった。
一夜が明けて、新しい朝がやってきた。目が覚めた俺は、寝袋に入ったままゆっくり体を起こし上げた。窓から差し込む光が目に入る。その手前には、同じように体を起こし上げていたセレナがいた。
「お? 元気になったか?」
俺が声をかけると、セレナは俺に、すっかり元通りになった肌色の顔を見せてきた。
「はい。もう大丈夫みたいです」
「顔色も大丈夫そうだな。よかったよかった」
うなずきながらホッと胸をなでおろす。一日でよくなってよかった。そう思っていると、ふとセレナが俺のことをじっと見つめていることに気づいた。
「どうした? ぼうっとしてるのか?」
「……いえ、別に何も」
セレナは素っ気なく俺から目をそらした。その顔は逆光を受けて、表情がよく見えなくなるほど暗くなっていた。その状態のまま、一点を見つめるように固まった彼女を俺は見つめていると、何をしてるのかとハッとして寝袋のファスナーを降ろした。
「本当にお世話になりました。ありがとうございます、おばあさん」
外に出て家に振り返ると、セレナは深いお辞儀と一緒に感謝の気持ちを言葉にした。心からの礼にお祖母ちゃんもにっこり笑顔になる。
「元気になってよかったよ。これからは気をつけるんだよ」
「はい。おばあさんもお元気で。それじゃ、さようなら」
セレナがお祖母ちゃんに手を振りながら歩き出す。俺も軽くお辞儀をしてから隣についていくと、お祖母ちゃんは見えなくなるまでずっと背中を見送ってくれた。半壊した家や、焼き焦げた建物だらけの村を歩き続けていって、その光景も十分足らずで終わろうとすると、村の出口でセレナが俺を呼んだ。
「ハヤマさん」
「なんだ?」
歩きながら彼女の方に目を移す。セレナも同じように顔だけ動かすと、話しを進めた。
「昨日、どうやって薬草を一人で買えたんですか? 言葉が通じなかったはずなのに」
「薬草ねぇ。言葉が通じなかったのは結構厄介だったなあ。なぜか俺の知ってる言葉じゃなくなって、最初は焦っちゃったんだよな」
苦労を思い返しながらそう言うと、セレナが左手に小さく、オレンジ色の魔法陣を浮かべた。
「言葉が分からなくなったのは、私のトランスレーションの魔法のせいです。この魔法は音の振動を察知して、自分に分かる言葉に変換してくれるので、妖精と会話する時に使ったりするんです」
「やっぱりそうか。それじゃ俺が言葉が分からなくなったのは、その魔法が切れたからなんだな」
「そうですね。私から距離が離れてしまえば、魔力が届かなくなってしまうんです。言葉も分からず、おまけに文字も読めないのに、ほんとどうやって薬草を買えたんですか?」
本当に気になっていることのようで、もう一度セレナがそう聞いてきた。
「そんなに難しいことでもなかったぞ。薬草の店はまだ鼻が利いてたからそれで探って、店の爺ちゃんとは身振り手振りでなんとかやれた」
「え? 身振り手振りで、ですか?」
「ああ。適当に咳込むジェスチャーをして、喉が痛い~、みたいなのを伝えた感じだ。支払いも持っていた金貨とりあえず全部出しておいて、爺ちゃんに任せた」
「それ、騙されてませんよね?」
「そこは俺の目でちゃんと確かめたさ。金貨一枚と銀貨六枚の値段だったらしい。普通に優しい爺ちゃんだった」
はじめてのおつかい、イン、異世界プルーグ。薬草を手にいれるまでの経緯を俺は包み隠さずすべて話した。ふとセレナを見てみると、なぜか下を向いて俯いていた。
「セレナ?」
「……さすがですね、ハヤマさんは」
「え? お、おう。サンキュ……」
褒められてる、のかこれは? 声色もなんとなく神妙っぽく聞こえて、心から感謝されてるような感じに聞こえなかった。いや、病み上がりで喉も回復したばっかだ。本調子に戻れてないだけだろう。そう理解して俺は、そのままセレナと村を抜けて歩き続けていった。そして、振り返った時に村が、握りこぶしほどの大きさに見える距離まで来た時、不意に目の前の地面に、灰色の魔法陣が独りでに現れた。
見覚えのある魔法陣に俺たちは足を止める。それは転移の魔法だ、と頭で理解した時、魔法陣は光の柱を生み出すように天に光を放ち、やがて中から一人の人間が現れた。黒髪に混じった赤メッシュ。それに目がいった瞬間、俺はまさかの再会に目を疑うのだった。
「お前!? アマラユ!?」