10‐6 これが、最後の選択だ
ピトラの裏道。小さな城門を潜って、その先も道に沿って走り、途中で外れては、やがて山のふもとへ。そこを登っていきながら、どれだけの時間探し回ったことだろう。葉っぱの天井が光を遮る森の中を、俺たちはオーレンの匂いをたどって、右に左にと振り回されるように歩いていた。
「はあ……はあ……」
歩いている途中、背後から荒い息切れが聞こえ、足を止めて振り返ってみると、ミリエルが呼吸を乱しながらひどく疲弊した様子でいた。
「大丈夫ですか、ミリエルさん?」
セレナが隣に立ち、顔色をうかがいながらそう聞く。
「だ、大丈夫。ちょっとしか疲れてないから」
「少し、休んでいくか?」
俺はそう聞き、ミリエルはブンブンと首を横に振った。
「そう言うの、今はいいから。早くしないと間に合わないかもしれないじゃん」
半ばキレるようにそう言われる。俺は黙って振り返り、また臭いを嗅いで道なき道を歩いていった。次第に強まってくる匂い。それはきっと、オーレンとの距離が、そう遠くないことを示しているはず。あと少しでオーレンを見つけることができるか。そう思った瞬間、古い血の臭い。それも虫の臭さが混ざったような臭いを感じた。同時に辺りの光景に既視感を覚える。
「あれ? ここ、もしかして……」
見間違いじゃなければ、この先にあれがあるはず。奥へと足を踏み入れていくと、やはりそこには、二体のリトルワスプと、一体のキングワスプの死体が転がっていた。
「これ、私たちが倒した魔物? それじゃこの近くに!」
「オーレンの匂いもこの先に続いてる。間違いなくデリンの所に向かっているぞ!」
「それじゃ急がないと! 走れる? ミリエルちゃん」
「うん! いける!」
気迫に満ちた答えを聞くや否や、俺たちは真っ先に走り出した。血の臭いに紛れて土混じりのデリンの臭いもしてくる。それに獣の臭いも混じっていると、まだ彼が生きているのだと確信した。必死な思いで走り続けると、俺たちはとうとうデリンが見えるところまでたどり着いた。その彼の前に、キツネのオーレンもちゃんといる。
「見つけた!」
そう言いながらミリエルが先頭を走っていく。すぐに彼らの前まで迫っていくと、二人も俺たちに気づいて顔を向けてきた。
「っひ!? ど、どうしてここが!」
情けない声を上げながら一歩後ずさりするオーレン。「ま、間に合った」とミリエルは息を整えながら呟く。デリンも変わらず細い体と木杖、足下もちゃんと布で隠していると、その口から小さな呟きが聞こえた。
「これはこれは。――本来の救世主のお出ましか」
「ふう……」とミリエルが息を落ち着ける。そうしてパッと目を開き、しっかりと瞳をオーレンに向けると、彼女はおどおどとした様子の彼に優しく語り掛けた。
「ねえお父さん。どうして教会――」
「違う!!」
森中に響き渡りそうな怒号が、彼女の言葉をかき消した。
「え? 違うって、何が違うの?」
「君は! 本当の娘じゃない! 本当の娘じゃ、ないんだ……」
まさかの言葉に俺はギョッとしてしまう。本当の娘じゃない? あんな顔していた彼が、そんなことを言うのか?!
「……な、何言ってるの父さん。ウチ、父さんの娘だよ?」
「違う。違うんだ。僕の娘は、エールは死んだ、死んだんだ。いや、死んでなんか……」
不安定な物言いをし始めるオーレン。ミリエルもどうしようかと黙ってしまうと、俺が試しに聞いてみた。
「あなたは昨日まで彼女を娘だと思っていた。それが今日、自分の思い込みだとやっと気づいた。そういうことですか?」
「……どうしてたんだろうね。彼女がエールにそっくりな訳ないのに。エールはもっと毛並みが綺麗で、誰よりも可愛らしい子だったんだ。けど、どうしても君がエールに見えてしょうがない。エールだと思えてしょうがない。違うんだって気づけたのに、認められないんだ」
いい加減な言い方だ。理性としては理解できているのに、本能がそれを認めようとしないということだろうか。
「あの時の喪失感が、恐怖が、心の底から抜けようとしない。武器を持った人間が、夜中にエールを襲うんじゃないか? 僕が見てない間に、どこかで生き埋めにされてるんじゃないかって。そんな不謹慎なことばかり、頭の中に浮かんでしまう。まるで君を忘れないようにするための呪いみたいに、エールの死が僕の背後にこびりついて離れないんだ……」
恐怖を訴えてくるオーレン。まともに考えるだけ無駄かもしれない。彼の言う君と、本物の娘のエールという名前がごちゃごちゃしていて、それだけ精神がぐるぐると渦巻いているんじゃ、俺が相手出来るような気がしない。
「僕はもう、この恐怖を感じたくない。拭い捨てたいんだ。だから頼む、シスターさん。僕のことを、放っておいてくれ……」
オーレンは最後に、胸を抑えるようにしてそう言った。その顔には、怒りと恐怖が混ざったような表情。そして、悲しみによってできた涙も、とうとう頬を流れていった。
「……オーレン、さん」
ミリエルが彼の名前を呼んだ。オーレンは一瞬、小さな悲鳴を上げて酷く怯えた。
「帰りましょう、教会堂に。娘さんは確かに亡くなったかもしれませんけど、あなたの死を、娘さんが望んでいるはずありません」
そう言って手を差しだし、ミリエルは一歩足を踏み出した。だが、オーレンは反射的に彼女から距離を取ってしまう。
「嫌だ。僕は、僕はエールのいる所に向かう。本物のエールと、これから会いに行くんだ」
「会えるとは限りません。それに、そんなことをしたら、エールちゃんは悲しむかもしれません」
「どうして君に、そんなことが分かるんだ? 君は、エールじゃないだろ!」
再び怒号が俺たちの耳を刺激する。ミリエルも思わず委縮し、伸ばしていた手を引っ込めた。
「君たちに分かるか? 小さな村で平和に暮らしていただけの日常が、突然恐怖に支配された瞬間のの絶望を! 歩けば死体が転がっていて、背後から魔物が迫ってるかもしれない恐怖に襲われる。炎の熱は肌を強く焼いて、悲鳴とうなり声は絶えず聞こえてきて、耳をかじられてからは音の聞き取り方もおかしくなった! そしてなにより! ……なにより、目の前でエールが、エールが……」
震えだした体を抑えようと、オーレンは両腕を組むように握って地面にうずくまってしまった。まるで子どものように、小さくなって恐怖から身を守ろうとする姿。想像を絶するような光景が、俺たちの目にも浮かんできそうだ。
「エール……君の元へ、父さんも……」
かすれた声でオーレンが呟く。重すぎる。たった一人、我が子を失っただけ。たったそれだけの出来事。それが一人の人間、或いは他の人を頼っても、とても抱えきれないくらいだ。俺からすれば、見ず知らずの親子の悲劇でしかないというのに、今目の前にしているのは、紛れもない絶望そのものだ。
触れれば自分も毒されてしまいそうな闇。そこに光を差し込もうと、ミリエルは再び手を伸ばした。
「手を取ってください。ウチはエールちゃんの代わりにはなれないかもしれない。けど、オーレンさんは決して一人ではありませんよ」
腰を屈めて、優しく笑いかけるミリエル。オーレンがハッとして顔を上げる。彼女の手をじっと見つめ、少しずつ右手が動き出す。小刻みに震える手を、着実に伸ばしていく。その手が彼女に触れようとした時、
「……む、無理だ!」
オーレンは逃げるように手を引き、その身をデリンに寄せた。
「きょ、教会堂より、もっといい場所があるんだ。この世界のことを忘れられる、最高の場所が、目の前に!」
オーレンは振り返り、そこに延々座り続けている男、デリンに口を開いた。
「あなたが、死神なんですよね?」
デリンの青い瞳を、俺たち全員が見つめる。
「我はデリン。神ではない」
ゆったりとした語りに、オーレンは前のめりになって話しを続ける。
「知ってるんですよ。あなたに会えば、この世を楽に去れるって。ここではない世界へと旅立ち、僕らは救われるって」
「死による救いを求めるか。だが、お主の場合は、それを望まぬ者がいるようだが?」
デリンの顔につられるように、オーレンはもう一度ミリエルの顔に振り返った。心配そうで今にも泣き出しそうな目を向けるミリエル。それを振り払うように彼は前に向き直る。
「か、彼女は……関係ない!」
ハッと顔を上げるミリエル。彼の一言が、彼女の顔から涙を溢れさせた。セレナも思わず絶句しまう気配を見せる。彼は選んでしまった。生きることによる救いではなく、死ぬことによる救いを。
「お主は、死が最大の救済だと信じるのか?」
デリンの言葉に、オーレンははっきりとうなずく。
「エールが、あの世で待ってる。エールに会えれば、それだけで僕は、救われるんです!」
今まで救おうと頑張ってきた誰かに対する、人でなしともいえる残酷な回答。なんだか心臓の奥底が熱くなる感覚がすると、デリンは俺たちに向けて話しかけてきた。
「若き者たちよ。彼ともここでお別れじゃ。どんな言葉をかけようとも、すべて彼の死を持って無に帰す。もしも、胸に秘めた思いがあるのなら、お見送りに一言どうじゃ?」
唐突に設けた別れの舞台。俺は老人の言ったことを十分に理解すると、ミリエルが呆然と涙を流して続けているのを見た。瞼から溢れる透明な水が、誰にも拭き取られることなく土に落ちていく。
「……なら、とりあえず俺から――」
俺は前に出てミリエルの隣に立つ。
「お前のやってきたこと、何も間違ってないからな」
小声でそう彼女に言って、ミリエルが振り向いてきたのを無視するように、俺はオーレンの顔を真っすぐ見据える。そして、腹底の怒りを丁寧にぶつけるように口を開いた。
「いい加減なこと言って人を傷つけるのも大概にしてください」
「いっ!? 傷、つけ……」
「お前を救ってあげたいって、慈悲をこめて助けたいって、心から思っている人がいる。そんな人、見つけようと探しても見つかるもんじゃない。死んだ世界に期待するより、よっぽどマシな選択があなたにはあるんです」
「い、いい加減を言ってるのはどっちだ! 僕にとっての救いは、この世界には存在しない!」
「あなたの娘は自分の救いの材料でしかないのか!」
俺はつい、声を荒げていた。胸の真ん中、そして頭がとても熱い。オーレンは怯えるような目を向けていて、周りもシュンと静まり返っている。それに気づいて、俺はまた冷静を保とうとしながら話を続けた。
「あなたの目的は救われること。それを可能にできる環境ならとっくに出来上がっているし、親身になって接してくれる人だってたくさんいるはずです。後はあなた次第なんですよ。それなのに、あなたは彼女たちの努力を、踏みにじろうとしている」
「だ、だが、僕は……」
「ここで死のうが生きようが俺たちは別れる。だから、言い残さないようにこれははっきり伝えます。俺は、あなたみたいな人が気に食わない。自分で自分を殺すことだってできるはずなのに、人に頼ってばかりのあなたを、俺は軽蔑しますよ」
最後まで言い切った瞬間、ひんやりとした感触が俺の右手に当たった。振り向いてみると、ミリエルが俺の手を握り、それ以上は、と言うような顔を向けていた。こんな時にでもにじみ出る彼女の優しさに、俺は不意をつかれたような顔をしてしまう。そのままミリエルはオーレンに口を開く。
「オーレンさん。ウチ、ちょっと気短いところとかあるから、もしかしたらその性格が、オーレンさんの前で見られちゃってたのかもしれない。心の傷を癒すのは、まだ未熟だって自分でも思ってる。だけど、ウチはあなたを救いたい。希望を持って、この世界を生きていてほしい。死んでいい命なんてないから……」
俺を掴んだミリエルの手が、もう一度オーレンに伸びていく。それを怯えた目で彼は眺めていると、デリンが口を割った。
「キツネの獣人よ」
全員の顔が、再び彼に集められる。
「これが、最後の選択だ。生きて彼女たちと共に行くか。それとも、彼女たちを裏切ってでも、この世を去るか。お前自身が選べ」
そう言って、デリンはしっかりと彼に選択を突きつける。彼女の手を取るか。この世の最後へ進むのか。
オーレンがミリエルに振り返る。空いた口がふさがらず、不安そうな表情でミリエルの手を見つめる。そのまままたデリンの方に顔を戻す。急に震えだした体を両腕で抑えてまたミリエルの手を。そこから目をそらすようにデリンの顔を。そうキョロキョロする彼のことを、俺たちは黙って眺めていた。結局はオーレンを中心に起こった出来事。最終的にどうするか。それを決めるべきは彼以外の誰でもない。
ただ、彼の選択を待ち続けた。ミリエルの想いが報われてほしいと、そう願いながら。
「……その決断に、悔いはないな?」
デリンの問いかけに、俺は血の気が引く。両手両ひざを地面につけたオーレン。その背中に、ミリエルの伸びていた手はゆっくりと閉じられていく。
「僕は、なんとしてでも救われたい。だから……」
そう口にして、オーレンはデリンに向かって四つん這いで歩み寄った。