9‐7 愉快なお祖母様のお戯れ
キュンキュンと跳ねだしそうな勢いの幽霊お祖母ちゃん。もはやその目にハート模様すら浮かんでいそうな感じに対し、セレナは冷や汗をだらりと流し、絶望するようなほど顔を引きつらせていた。それを抑え続ける俺と、隙を伺うエング。そしてガヤで楽し気にしているだけのソルス。傍から見れば誰も近づこうとしないような光景だが、女ものの水着を着せられた俺たちは至って真面目だ。
「ひいっ! ひいぃぃ!!? ハヤマさん! 前! まえ! マエェ!?」
「大丈夫だ! お前を襲ったり呪ったりなんかしないから! もうちょっとだけ耐えてくれ!」
「いい゛い゛っ!?」
喉を酷使してそうな悲鳴が出てくると、老婆のヤギはセレナの前でウインクした。キランと音を鳴らすには、少し絵面に無理がある顔だ。それでも好みのイケメンに見えているセレナに猛アピールを続けると、今度はその目線を降ろし、スケスケの手で彼女のぷにぷにな腹を撫でるように触れていった。性別なんて関係なくセクハラのいやらしい触り方だ。
「な、ななななんなんですかあ!?」
暴れ出した拍子にセレナの手の甲が俺の額を殴ってくる。結構な衝撃を受けているのを横目に、ソルスがこの状況を説明してくれた。
「あー、多分腹筋を触ってるんだと思います。筋肉マッチョが好みなので」
イケメン筋肉フェチだとは。セレナの腹に筋肉なんて微塵もついていない。さすが幻の効果と言うべきか。そう思った時、幽霊お祖母ちゃんは満足いくまで触ったのか(感触はないはずなのに)、最後にパッと両腕を広げて彼女に抱き着いてきた。持っていた扇子が背中に、俺の手の届く範囲に来ると、すかさず俺はセレナを離してそれに手を伸ばした。
「――取った! 取ったぞエングさん!」
「よくやりました! 早くこちらへ!」
パッと扇子を投げ渡し、エングがしっかり両手でそれをキャッチする。一瞬でセレナはまた俺の背後に隠れると、エングは真っすぐに両腕を伸ばして横一閃に扇子を開いた。
「眼を汚せし幻惑よ。我らへ真実を示せ!」
円を描くように腕を振り回し、扇子から描かれるように紫の魔法陣が浮かび上がる。そうして耳のと書かれただけの缶詰めのデザインがクシャッと畳まれると、エングは魔法陣を切り裂くように扇子を振り払った。魔法陣に一瞬でヒビが入っていき、ガラスのように砕け散っていく。
目に映っていた景色が、強い日差しで溶けるように揺れ動いていく。青い海もキラキラとした砂浜も、快晴の空も真っ白な太陽も、果ては俺たちの着せられた水着まですべて。ゆらゆらと蒸発するように、それらが揺れていく。やがて辺りが突然真っ暗になったかと思うと、昇っていた太陽は月に変わっており、俺たちの服装も元に戻っていたのだった。
「戻った、のか?」
急な変わりように、俺は半信半疑でそう呟く。波が静かに漂い、肌に冷たい空気が触れていく。セレナとエングも自分や他の変わり具合を確認していると、ソルスだけは微かに「わ……」と驚くような声を上げていた。背後に振り返ってみると、幽霊のお祖母ちゃんが優しい顔をして、ソルスの頭をいい子いい子というように撫でているのだった。
いきなりのことソルスも困ったような顔をしている。俺たちも水を差せないような空気感を感じていると、やがてお祖母ちゃんの両足がキラキラと輝くように消え始めた。膝を超えて腰、胴体、首まで順当に、空へ還るように消えていく。そして、最後に満面の笑みとなでている手だけが残ると、それらは一緒に、例にならって音もなく消えていったのだった。
……。
全員が黙り込んだ。黙ったままみんな、幽霊がいたはずの一点を見つめていた。辻斬りのように唐突に現れ、嵐のように騒がしては、立つ鳥跡を濁さないように去っていった。
「一体、なんだったんだ……」
俺はそう言って、やっとこの沈黙を崩した。波の音が一つ、相槌代わりにザザーと鳴ると、エングが広げた扇子を見つめながら口を開いた。
「愉快なお祖母様のお戯れだった、ということですかね」
それにソルスが口を挟む。
「多分、僕たちにイタズラして、楽しんでたんだと思います。僕のお祖母ちゃん、結構そういうのが大好きだったんで」
「なるほど。そしたら私たちは、まんまと遊び相手にされた、ということですね」
エングがそう納得し、俺も思い返してみれば、随分と楽しそうだったなと理解する。幽霊になってもなお孫と遊びたかったって。相当の、というか、異常なほどの茶目っ気だ。おかげでこっちはいい迷惑でもあったが、まあみんな無事なら、めでたしめでたしってことにしておこう。
「セレナも大丈夫か? 漏らしてたりしてねえよな?」
「そ、そそそんなことはしてないですよ」
「そうみたいだな。とりあえず、俺の腕から離れてくれねえか?」
さっきからギュウッと片腕にしがみつかれていて、それも結構な握力で握られてるせいで、そろそろ腕が痺れだしそうだった。それでもセレナは小刻みに首を振ってくると、頑なに俺から離れようとしなかった。「はあ……」とため息をつく。
「まあ、お前もお前なりに一応頑張ったか」
そう呟いた時、扇子を凝視したまま、指で頭をかいていたエングがうなるような低い声を出した。
「うーん……なんなんだこれは?」
ソルスも横について顔を覗かせ、魔法をも発動させていたその奇妙な扇子を一緒に見つめる。
「これは僕にも分かりませんね。お祖母ちゃんが持っていたものじゃないのかも……あ! もしかして、用意された大金ってこれのことじゃないですか?」
閃いたようにソルスは話し、俺は記憶の中から幽霊が誘った手紙を思い出した。――あなたの夢を私も応援したい。ここに呼ばれたのはそもそも、大金が用意されてると書かれていたからだ。
「それじゃ、その扇子がまさか?!」とセレナが俺にくっついたまま喋る。エングももう一度扇子に目を落とすと、試しに軽く振って、また紫の魔法陣が現れたのを確認した。
「ふむ。調べてみる価値はありそうです。これが一体なんなのか。もしかしたら、理魔法完成への新しい手がかりになるかもしれません」
「それじゃ、早速戻って研究ですね! エング先生!」
そう意気込み、ソルスが先にログハウスへの坂道を登ろうとする。しかしエングは「いや、その前に――」と一呼吸置くと、空に目を向け、誰かに語り掛けるようにこう呟いた。
「ソルスのお祖母様。素敵な贈り物、ありがとうございます。どうか、安らかに……」
消えたお祖母ちゃんへの弔いの言葉が空に浮かんで、すぐに波の音にかき消される。隣でセレナもやっと腕を離し、両手を合わせてすりすりとこすり合わせると、彼女も「どうか安らかにー」と強く念じるのだった。
平原を歩いていたら突然地雷が爆発したような夜から時間は流れ、次の日の昼。
「エングせんせい、なんだかねむそう」
エング先生授業の生徒の一人、ウサギの獣人がそう呟く。いつもの魔法の授業を終えた後の昼休み。ログハウスの前でセレナとソルスが、他四人の子どもたちと楽し気な雰囲気に包まれていると、それをベンチで眺めていた俺とエングの前にその子は心配そうな顔をしているのだった。
「大丈夫だよ……みんなと遊んでおいで……」
今にも消え入りそうな声でエングはそう言う。ウサギの子は余計心配そうな顔になったが、クマがはっきり映った顔に笑みを浮かべられると、その子はあどけなく笑い返し、みんなのいる元に走っていった。
「……大丈夫なんですかエングさん? 授業中も結構ふわふわしてましたけど」
「うー、やはりそうでしたか……。昨日手に入れた扇子の研究で、つい夜更かしを……」
最後に大きな欠伸をするエング。とても気持ちよさそうにするのに俺も誘われそうになる。
「そ、そうですか。扇子について、何か分かったことはありましたか?」
「そうですねぇ。とりあえずは、扇子自体に魔力が込められた、特別な武器であること、ですかね。込められた魔力は闇属性。形式的に、魔界武器なのかもしれません」
「魔界武器! でも確かに、特別な力を持っているのなら、そういう類のものでしょうね」
過去にあったジバの謀反。それを引き起こした元凶が、確か呪符というものを持っていて、俺たちを拘束して苦しめたことがあった。あの扇子も、それと同じものだったとは。
「詳しいところは、これからの研究で解明していきます。ふわあ……」
またエングは大きく欠伸する。とても眠そうな様子に、俺は「休んだ方がいいのでは?」と聞いたが、エングはそれを否定した。
「いえ、ハヤマ君とセレナ君を見送りますよ。もうすぐ行かれるのでしょう?」
まさかそれだけの理由で起きていたのか。俺は空を見上げる。太陽が真上に昇っているのを確認すると、そろそろ時間か、と頭の中で呟いてベンチから立ち上がった。
「セレナー。そろそろ出発しよう」
背中にバックパックを背負い、腰にサーベルをつけて外に出る。セレナも準備万端だという顔を俺に向けると、俺たちはログハウスの前で、エングたちと別れを告げようとするところだった。
「色々とお世話になりました。エング先生。ソルスさん」
セレナが丁寧にお辞儀をし、俺も「助かりました」と軽く頭を下げる。
「君たちの助けになれたのなら、こちらも嬉しいよ」
「理魔法の宣伝も、しっかりできましたしね!」
上機嫌にそう呟くソルス。宣伝だったのか、と心の中で呟くと、二人の横についていた子どもたちも「帰っちゃうの?」とざわめき出した。聞かされていなかったからか、不思議そうな顔をする彼らに、セレナは膝を折って目線を合わせる。
「今日でバイバイなんだ。お姉ちゃんは行かなきゃいけない所があるから」
「そうなんだ。それじゃ、気をつけてね!」
ウサギの子がそう声をかけてくれ、他の四人にも広がって「元気でね」「また会おうね」と、各々元気よく別れの言葉を口にしていった。可愛らしい子どもたちにセレナも「みんなも元気でね」と笑顔で返すと、折った膝を戻して改めてエングたちに向き直った。
「それじゃ、私たちはそろそろ行きます。エング先生の夢、ずっと応援してますね!」
「ありがとうセレナ君」
「魔法学校が出来たら、私、絶対に遊びに行きます!」
「それは嬉しいね。セレナ君も転世魔法の習得、頑張ってください」
「頑張れ~」とソルスが口を挟み、セレナは「はい!」と自信満々に答えた。そうして俺と一緒に振り返り、俺たちはいよいよ出発への一歩を踏み出した。後ろを向きながら、彼らに手を振りながら。
「皆さん、お元気で~!」
「またいつか会いましょう」
俺も手を振ってそう声を出すと、エングたちも全員、手を振り返してくれた。子どもたちの「バイバーイ!」「じゃあねえセレナお姉ちゃんとハヤマお兄ちゃん~」と言う声が、顔を前に向け直しても聞こえてきていた。
アトロブから始まったスレビスト王国。決闘祭りなんかでちょっと成長したり、やっと転世魔法の手がかりを手に入れたりと、まとめてみればそうでもないようだが、またこうして歩き直してみれば、結構長いこと留まっていたのだと認識できた。
次なる目的は、フェリオン連合王国のコルタニス。そこまでまた遠い道のりだが、またいつも通り、歩いて食べて、土魔法の中で寝ての、のんびりとした旅路となるだろう。どうせ時間の限りなんて存在しない俺たちは、またゆっくり足並み揃えて進んでいくのだ。
九章 時空を操る魔法
―完―