6‐5 想像の何倍も最悪よ
「殺せ! 殺せ! すべてを殺せえ!!」
皇帝の口から飛び出る命令。片目を布で覆ったその頭は、黒く鋼のように固そうな手に鷲掴みにされ、その背後に影のように揺らめく魔王が薄ら笑っている。
「この世界は魔王のもの! 全軍! 奴らを打ちのめせえ!!」
「皇帝陛下! 一体どうされたのです?!」
「口答えするなヴァルナ―!! 貴様らの力など、魔王の前では無力なのだ!!」
「皇帝陛下! っつ!?」
無数の魔物の群れが、皇帝の背後、いや、魔王の背後からなだれこんでくる。俺はすぐに頭の中に土を操るイメージを浮かべ、右手に魔力を込めて魔法陣を握り潰す。そうして俺の前に土拳が現れると、右腕を乱暴に振り払って、机の書類をどかすように魔物たちを一気に吹き飛ばした。だが、そこに魔王は煙のように透けてただ突っ立っていると、皇帝の姿はそこにはなかった。
「皇帝陛下!?」
あの皇帝が自分の土拳ごときにやられるはずがない! 一体どこにいったんだ?
「ぐお!? ダファーラ貴様っ!!」
聞こえた叫び声に顔が動く。そこには、十数人の獣人の騎士たちの死体。白き虎の姿をしたスレビスト国王が、皇帝陛下の魔剣サイクロプスに体を突き刺されている光景があった。
「ここからが本番だぞガネル国王。もうじきこの地に、何万もの死体が山となって溢れる。歴史的大戦争の始まりだ。言うなればこれは、洗脳大戦だ!」
「チッ! 魔王がほざきそうなこと言ってんじゃねえぞ!!」
国王の巨斧が皇帝に振られる。皇帝陛下はそれを軽やかに下がって避けると、その瞬間、獣人の兵士たちの目の色が変わった。
「ログデリーズ皇帝がスレビストに刃を向けた!?」
「裏切ったのか、ログデリーズ帝国は!?」
「魔王がいる横で一体なにを!? まさか、奴らと繋がっていたのか!」
「国王様! 魔王と魔物たちが撤退していきます! いかがいたしましょう?」
「先にこっちだ! 奴は魔王の配下に下った! 魔王はこいつらを沈めてからだ!」
「はっ!」
この場が瞬く間に混沌に支配される。一体何がどうなっているのか。どうして皇帝陛下はこんなことを。何が狙いで彼らに武器を突き付けた?
「全く見損なったよ、あの皇帝には」
背後からの声。振り返るとそこに、群青色の羽が土だらけに汚れていた鷲の獣人、三英雄のゼインが弓を構えていた。
「いきなり国王様を裏切るだなんて。魔王の配下に下っていたのなら、さっさとそう言えばよかったものを!」
ギュッと音を立てて引き絞られる弓矢。その狙いはダファーラ皇帝だと知ると、思わず俺は魔法を発動して彼の前に土の壁を浮き上がらせていた。
「止めろ!」
「なんだお前は! お前も魔王の味方か!」
「違う! 皇帝陛下がこんなことをするはずない! きっと何か。魔王に何かされたんだ!」
「聞いていられるか、そんな話し!」
ゼインは羽を広げ、一瞬にして空へ飛び上がった。そこで羽ばたきで高度を保ったまま、かぎ爪を使って器用に弓に矢をつがえ、長い片脚を曲げて見事に構えてみせる。
「魔王に何かされたのなら、なおさらこっちのが話しが早い!」
「くっ! 待ってくれ!」
土拳を展開して彼をその場から退かす。邪魔されたゼインは、空に飛んだまま俺を睨んできた。
「チッ! 裏切り者どもめ。お前から殺してやる!」
「殺す必要はないはずだ! どうにか方法を探せば、皇帝陛下に話しを聞いてみれば!」
「言い訳無用!」
ゼインの足から弓矢が放たれる。それに俺は何も抵抗できないまま、金縛りにあったように体を動かせないまま、矢が目に入ってくるのを――
「ッハ!? はあっ! はあっ! はあっ!」
心臓の脈打ちが痛いほど早い。荒れた呼吸を整えようと、暴れる心臓を抑えるように胸に手を置いた。ゆっくり、少しずつ、戦場に出る前の心構えを思い出すように。
「はあ……はあ……」
鼓動がだんだんとゆったりになっていくと、そこでやっと、自分が包帯を巻かれた胸に手を当てていることに気づいた。辺りが真っ暗な中、どうやら俺はベッドから起き上がり、酷い夢を見ていたのらしい。あれは、間違いなく洗脳大戦の光景だった。かつての惨劇を、また目にすることになるとは。これが、生き残った者の背負う、業なのだろうか。
「ったく。勘弁してくれよ……」
「勘弁してほしいのはこっちよ」
彼女の声に反応し、小さな部屋の、その入り口に目を向けた。そこには案の定、ゼインの妹のミツバールが立っていた。
「寝ている途中に過呼吸が聞こえてくるなんて、こっちの心臓に悪いわ」
「ああっとすまなかった。ちょっと悪夢を見てしまったせいで」
俺がそう言うと、ミツバールは少し間を開けてからこう言った。
「……それって、お兄様のこと?」
ドンピシャの回答に口を開くのをためらい、つい目をそらしてしまう。
「……あなたは、どうしてそんなに背負うの?」
「それは……きっと、あの時の自分の選択が、間違っていたからだ。俺は皇帝陛下を信じるあまり、陛下を疑うことをまるで考えなかった。もっとまともに考えが働いていれば、アトロブの地は、あんなことにならなかったかもしれない」
「そう。ちゃんといい人ぶれる答え方を用意しているのね」
彼女の冷たい言葉が、誤って触ってしまったガラスの破片のように、指の先からじわりじわりと入ってくるようだ。許せなくて当然なのは分かっている。俺は彼女の、大事なものを奪ってしまったのだから。
「君には、やはりそう見えてしまうか……」
「……はあ。そうして申し訳ない気持ちでいられるのも、逆に恨みづらくて腹が立つわ」
「そ、それは、もっと憎まれる態度を取ってくれってことか?」
「何真剣に考えてるのよ、気持ち悪い」
「すまない……」
俺はまた俯いてしまうと、会話が止まってしまった。ミツバールはまだ話しがあるのか、部屋から出ようとしない。いやきっと、ここから俺が出るのを待っているのではないだろうか。きっとそうに違いない。恨んでいる俺を家に残しておくだなんて、気分が悪いに決まっている。そう思った俺は、さっさとここから出て行こうとベッドから立ち上がろうとした。その時、ミツバールの嘴が突然動いた。
「家族を奪った人間が、自分の家で眠っている」
そう切り出された話しに、俺は腰かけた状態で止まり、彼女の目を見る。
「あなたには想像できるかしら? この状況になった時、当事者の私が、一体どんな気持ちでいるのかを」
「それはやっぱり、最悪な気分なんじゃ……」
俺は正直に答えた。するとミツバールは、俺から目線を外して石の天井を見上げた。
「想像の何倍も最悪よ。あなたは私の大事なお兄様の仇。一緒にいて気分がいい訳がない」
当然の言葉に俺の頭が下がっていく。
「魔王が死んだ後も、私はわざわざ王都を出て、アトロブに近いこの村に引っ越してきた。すべてはお兄様を迎えるため。いつか帰ってきてくれるはずのお兄様と、すぐに出会えるために。けど、あなたと何回も会うたびに、それは絶対にあり得ないと意識させられていく。本当に最悪な男よ、あなたは」
吐き捨てられるように続けるミツバール。すぐにこの場を立ち去ろうとベッドに手をついたが、立ち上がるよりも先にミツバールがこう続けた。
「けど、それ以上に最悪なのが、あなたを殺してもどうしようもない。その事実に気づいてしまうことよ」
「どうしようも、ない?」
「あなたを殺してもお兄様は帰ってこない。その上、私があなたを殺したという事実だけが付きまとってしまう。お兄様が私の幸せを願っているのを知った今、私があなたに復讐の念を抱くのは、全くの時間の無駄だって、それに気づいてしまったのよ」
「……なら君は、本当に俺を、このまま見逃すつもりなのか?」
「最初は殺すつもりだった。初めてアトロブであなたが仇だと知った時、怒りでどうにかなりそうになってた。けど、あなたを見ている内に、私が本当に欲しかったものがなんなのか、気づいてしまったのよ。私が欲しかったのは、お兄様だけ。あなたの命なんて、奪う価値がない」
「……ありがとう」
自然とその言葉が、俺の口から出ていた。今まで這い寄ってきていたものが、今の彼女の言葉で救われたような気がして、つい涙腺が緩くなってしまう。泣くわけにはいかないと、俺は自分の胸を包帯の上から強く抑えた。
「君には感謝してもしきれない。優しいその心に、俺は頭を上げられない気持ちだ」
「あっそう。感謝なんて勝手にして。別にお礼を言われたくてこんな話しをしたわけじゃないの」
「それじゃ、一体何が目的で話しを?」
俺がそう聞くと、ミツバールは部屋の隅に置かれていた、俺の鎧に目を向けた。胴の真ん中に砕けたような穴が空いた銀の鎧。彼女はそれを強い眼差しで見ていると、再び俺に振り向いた。
「私はここを出る。この村に残っていても、お兄様が帰ってこないんじゃ意味がないわ」
「王都に戻るのか?」
「いいえ、他に家族もいないもの。一人でどこかに旅立つわ」
「そうだったのか。君が求めるなら――」
「お金ならいらないわ。あなたから貰ったものなんて、使いたい気分にならないから」
提案する前にきっぱりフラれてしまう。
「とにかくそう言うことだから、あなたはあなたで勝手にしなさい。その態度が変わっていても、お兄様が帰らないんじゃ、私はもう殺そうとはしないから」
そう言ってミツバールが部屋から出ていこうとするのを、俺は声を張って止めた。
「変えはしない! 君の兄を奪ったことも。獣人たちの同胞たちを殺してしまったことも。俺の過ちから起こった罪を、絶対に忘れたりしない。あの時の悲劇を、忘れたりなんかしない!」
「……重いわね、あなたの罪」
「重くても背負うべきものなんだ。魔王なんか関係なく、男として」
「男、ね。……いつか、それを理解してくれる人が現れたらいいわね」
ミツバールは最後に言い残すと、振り返らないまま部屋を出ていった。