6‐4 軽い男
かれこれ三十分は走っただろうか。もう俺とセレナの足取りはかなり重くなっている。体の限界にぜえぜえと息を吐きながら足を止めると、俺たちはやっと小さな村にたどり着いていた。
「があ……はあ……こんなに、走ったのは……久しぶり、だ」
息を切らしながらそう呟くと、セレナも呼吸を整えるのに必死な様子だった。村にたどり着けば、あとはミツバールの家を探すだけ。俺はなんとか顔を上げて辺りを見渡した。木で作られた小屋ほどの家がわずかに五つ。長く使い続けたことを示すように、どの家も汚れで黒ずんでいる。小さな畑はあれど、その土は乾ききっていて、辺りに緑なんかも見当たらない。お世辞にも、いい村とは言えないのが第一印象だった。
その中からミツバールの家を探そうとすると、一番手前に見えていた家に、ヴァルナ―の馬が立っていた。
「あそこがミツバールの家みたいだな。行こうセレナ」
疲れ切った足に鞭を打つようにして、俺は先に歩き出す。セレナも後から追いついてくると、二人で扉の前まで進んでいった。セレナがコホンと咳込んで息を整えると、前の扉をトントンと叩く。
「ミツバールさん。いますか?」
中から「開いてるわよ」と返事が返ってくると、セレナが扉を開けて中に入っていった。俺も続いて玄関に上がると、すぐにこじんまりとした居間が出てきた。その隣の部屋にミツバールの姿が見えると、目の前にあったベッドの上にヴァルナ―が寝かされていた。矢が刺さっていた胸には包帯が三重ほど巻かれ、既に止血が済んでいるようだった。
「ミツバールさん。ヴァルナ―さんの状態は?」
セレナが彼女の隣に立ち、ヴァルナ―を眺めながらそう聞く。
「命に別状はない。少し休めば、勝手に目が覚めるはずよ」
「そうですか。はあ、よかったです。死んじゃったらどうしようかと思いました」
セレナが安堵の息をついてる後ろで、俺も一安心する。後は時間を待つのみかと思ったが、わずかにヴァルナ―の指が動いたかと思うと、その口から小さな声が出てきた。
「……こえ、は……」
セレナが反応してベッドのすぐ近くに寄る。
「ヴァルナ―さん! 聞こえますか?」
「その、声は……」
再びそう呟くと、ヴァルナ―はハッとしてその目を開いた。すぐ横にいたセレナを見つけると、今度ははっきりとした声を出した。
「その声はやはり、あなたのものだったか。ああ、俺のことをそんなにも心配してくれてたなんて」
「え、ええっと……。思ったより、元気そうですね……」
「その心意気が、俺の心に沁みる。この世で一番の傷薬だ。ッハ! まさか君は、俺のことを好きなんじゃ――」
「違いますから、もう少し寝ててください」
「ああそんな……でも、冷たい態度も、可愛らしいぞ」
セレナとミツバールが呆れるようにため息をつく。さっきまで顔色を悪くしていた男が、すっかり元通りだ。俺は具体的な体調を聞こうと、女性二人の変わりに口を開いた。
「実際に、もう平気なのか? どこか痛むところとかは?」
「なんだよハヤマ、お前もいたのかよ。折角のハーレムを無駄にしやがって」
「悪かったな」
聞いた俺が馬鹿だった。心配するだけ無駄だったと思い知ると、ミツバールが部屋を出ようとした。それを見たヴァルナ―が慌てて上半身だけを起こし、彼女を呼び止めた。
「待ってくれミツバール。君が俺を手当てしてくれたんだろ?」
ミツバールは足を止めると、声だけを返した。
「気づいていたの?」
「うっすらとした意識の中でな。君が丁寧に傷口を抑えてくれたのが見えたんだ」
「あっそう。だとしたら何なの?」
「良かったのか、俺を助けて? お前の兄さんの仇なんだ。あそこでくたばるまで放っておく手段も、お前には選べたはずだ」
その言葉にミツバールは考え込む素振りを見せると、少ししてヴァルナ―に振り返った。
「私の矢で死なれると、目覚めが悪いじゃない。それにあなたを殺しても、お兄様は帰ってこない。殺すだけ無駄だってのは、私が一番よく知ってるわよ」
「それでいいのか? 君は今も、俺を憎んでいるはずだろ?」
「一つ教えて。さっき聞いたお兄様の言葉は、私に伝えるように言われてたの?」
「そうだ。俺はゼインに、その言葉を託されたんだ」
それを聞いて顔を横に振ると、ミツバールは床に視線を落とした。
「私も今はっきりしたわ。あなたを助けようとした理由をね。お兄様はきっと、あなたを信用してたのよ。だから遺言をあなたに預けた。そしてあなたは、戦争が終わってからずっと、アトロブの花畑の前で、私に話す機会をうかがっていた」
ミツバールは間にため息を挟む。
「私って、案外馬鹿だったのかもしれないわね。たとえあなたを殺そうと、人間たちをいくら憎もうと、お兄様は帰ってこない。それなのに、あなたたち人間を憎むことで、救われようとしてたのよ。どうしたってこれ以上、救われないと言うのにね……」
ヴァルナ―が彼女の名前を呟くと、ミツバールの目がセレナに向けられる。
「あなたが羨ましいわ。大事な人を亡くしたっていうのに、あなたはもう、そこから立ち直れている。なのに私は、過去を引きずってばかり。人は二度と生き返らない。たとえ復讐を果たそうとも、神様に魂を売ろうともね。それに早く気づけなかったばかりに。いえ、素直になれなかったせいで、私は、今日までずっと……」
吐き捨てるように呟かれる言葉。その一言一言に場の空気に重さを増していく。彼女からそれだけ大きな喪失感と虚無感、葛藤が入り乱れているのが伝わってくるようだ。そんな彼女に寄り添っていったのは、他でもないヴァルナ―だった。
「ミツバール。君とゼインが救われる方法が、一つだけある」
「……今更、どうやって救われるというの?」
「ゼインの最後の言葉を思い出せ。彼は君の幸せな人生を、ずっと見守ってる。そう言ってたんだ。だから見せてあげてくれ。ゼインは今もきっと、君のことを傍で見てくれてるはずだ」
「私の、幸せな人生……お兄様がすべてだった私に、一体、どんな幸せがあると言うの?」
「新しく見つければいい。この世界は広いんだ。きっと何か見つかるはずだ。もしもあれだったら、俺が色々提供してやってもいい。君のためだったらなんだって用意してやる。お金も家も、服も娯楽も、友達とかも用意してやるさ」
「何でもって、適当なことは言わないで。お兄様と言ったら、あなたは用意できるの?」
「それは……」
「軽い男」
「す、すまない……」
「でも……伝えてくれて、ありがとう」
ヴァルナ―がハッとして顔をあげる。背を向けて部屋から出ていこうとするミツバールに口を開こうとしたが、先に彼女が喋り出した。
「まだ人間を許せないけれど、今日だけは特別よ。一日だけ、この家で休んでいきなさい」
意外な一言が飛び出してきた。ヴァルナ―も思わず「いいのか?」と聞いたが、ミツバールはそれに返事を返さず、別のことを口にした。
「そこの二人も、今日だけは好きなだけ休んでいきなさい。その代わり、今から夕飯の準備をするから、邪魔しないでよね」
そう言われると、セレナが嬉しそうに両手を胸まで上げた。今日初めての笑みが浮かんでいる辺り、よほど嬉しかったのだろう。俺もそれにつられて口角が上がると、セレナはミツバールに近づいていった。
「ありがとうございますミツバールさん! 私も料理手伝います。お母さんから少し学んでますから、邪魔にはなりませんよ」
「さっきの話し、聞いてた?」
「あ、すみません。でも、ミツバールさんが一日だけでも許してくれたのが嬉しくて。その、今日だけでも、仲良く接したらダメですか?」
「はあ……邪魔だけはしないでよね」
「ありがとうございます! 頑張りますね!」
二人はすぐ先のキッチンに並んで立つと、部屋に俺とヴァルナ―だけが残された。上半身だけを起こしていたヴァルナ―だったが、ゆっくりと動いて起き上がると、ベッドに座る形になった。
「痛まないのか、傷は?」
「これくらい大したことないさ。これでも、戦場を経験してきた人間だからな」
「それ関係あるのか……」
俺は懐疑な目を向けたが、ヴァルナ―はミツバールとセレナをじっと眺めていた。それも、最初にセレナに見せた下品な目ではなく、とても真剣な眼差しで。
「……話せてよかったな。そのゼインって人の話し」
「ああ。でも正直、まだ不安だったりする。俺が今までアトロブに通ってた日課は、彼女にとって、嫌なことを思い出させるだけだったんじゃないのかって」
「一日だけでも、ミツバールはお前のことを許してくれた。きっとあいつなりに、お前や人間のことを、分かろうとしてるんじゃないのか?」
「だとしたら、俺にとってはこの上なく嬉しいことなんだけどな」
ヴァルナ―が少しだけ明るい表情を取り戻す。
「これからどうするつもりなんだ? まだアトロブには顔を出すのか?」
「もちろんだ。ミツバールに会う以外にも、あそこにはいかなきゃいけない責任がある。それも、生き残った俺が背負うべき責任だからな」
「不憫だな。ヴァルナ―は」
「不憫? どうしてそう思うんだ?」
「だって、アトロブであった戦争って、前皇帝のダファーラ王が洗脳されて起きたものなんだろ? それなのに、お前たちが、っていうより。人間が獣人に憎まれたりとかって、おかしな話しだろ」
「戦争は人の心を支配する。当時皇帝が洗脳された時、俺たちの敵は、魔王ではなくスレビスト王国の兵たちだった。それまで築いていた関係性も、戦争という一文字だけで大きくこじれてしまう。そうして人々は、真実よりも信念を見てしまうんだ。スレビストは敵だ。獣人たちを残らず殺せ。ログデリーズ帝国に栄光あれって。笑えるかもしれないが、たとえ魔王が横で逃げ去っていくのを見ても、俺たち国の兵士は、そんなことを口にしていくんだ」
経験者は語る、ということだろうか。確かに傍から聞いたら、理屈の通っていない変な話しかもしれない。だが、それを可能にできるのが、魔王の力だとしたら……。
「かなり、悲惨な状況だったんだな」
「お前たちは旅してるんだってな。魔王が討伐されてからは治まりつつあるが、一応心してはおけよ。戦争は終わったとはいえ、互いに互いの種族をよく思わない奴はまだいる。特に、このアトロブに近ければ近いほど、彼らの憎しみはとても強いからな」
「分かった。用心しておくよ」
会話に区切りがつくと、隣の部屋からセレナたちの会話が聞こえてきた。
「うわ、ミツバールさんお上手ですね、包丁の使い方」
「これくらい普通よ。ほら、見てないで手を動かして」
「ああすみません。すぐにこれも準備しますね」
ミツバールの声が軽い。ヴァルナ―に突き放すように喋っていたのとは別人のようだ。それだけセレナが上手いこと距離を詰めているのだろう。誰に対しても積極的に話せるあいつに、俺は改めて感心すると、いずれ夕日が沈もうとしていた。
夕飯を済まして夜が更けた時、俺とセレナはミツバールの家から出て、すぐ横に土魔法で寝どころを確保していた。小さな家で四人が寝るのは難しく、ケガをしているヴァルナ―のためにも、俺たちは外で寝るしかなかった。
セレナが「ベッド……」と恋しがりながらドームを完成させる。中に入って寝袋を広げていると、同じ作業をしていたセレナが話しかけてきた。
「ハヤマさん。どうして人って、分かり合うだけでも難しいんですかね?」
難しそうな質問に俺は即答する。
「だけって言うが、分かり合うなんて一番難しいことだと思うぞ、俺は」
「そうなんですか?」
「そうに決まってる。気に食わない人間がいたら、人は簡単にそいつのことが嫌いになれるんだ。それがたとえ、友達だろうが親だろうが関係ない。俺の場合は、人間という生き物そのものが嫌いなんだからな」
「それはかなり偏った思考なんじゃ……」
「それは一理あるか……なら、もしお前の目の前で、甘いスイーツをひたすら地面に投げ続ける奴がいたら、どう思う?」
「それは嫌です! 人としてあり得ません!」
「そう思うだろ? でもそれは、甘いのに目がないお前だからそう思うんだ。特に興味のない俺だったら、何も思わずさっさとその場から消えてくだろうからな」
「いや、そこは人として何か思ってくださいよ。地面に食べもの投げるような人ですよ」
「知らねえよ。俺が作ったものならともかく、ただのスイーツ投げる人間に思うことは、近寄ったらヤバイよなくらいのことだ。それくらいなんとも思わない人間もいるわけだよ」
「そうなんですか。なんだか悲しい気持ちになりました……今後ハヤマさんと、どう関わっていけばいいんでしょう」
「そこまでかよ……まあでも、戦争を体験した人と俺たちとじゃ、それくらいの差があるんじゃないのかきっと。だからこそ、互いに互いを認め合えない。分かり合おうと誰かが言っても、溝がどんどん深まっていくだけなんだ」
俺たちが既に敷き終えた寝袋の上に座り込んでいると、セレナが目線を下げて顔をしんみりさせた。
「そうかもしれませんね。私たちから見れば単純そうなことでも、本人たちからしたら、まるで別のものなのかもしれない。悲しいですね、戦争って」
「そういうの、俺が元いた世界でもあったけど、やっぱりいいものではないよな。まあ、俺たちがこんなこと言っても、どうしようもないけど」
「でもハヤマさん。私はやっぱり、おかしいと思うんです」
「何がだ?」
「プルーグの歴史から見たら、遠い昔には戦争は色んなところでありましたよ。でも、洗脳大戦。アトロブで起きたそれは、単に魔王のせいじゃないですか。それなのに、どうしてお互いにいがみ合わなきゃいけないんですか」
「まあ、確かにそれはそうだが、それを納得できるかはまた別問題なんだろ。真実を受け入れるっていうのは、残酷な事実と向き合わなきゃいけない訳だからな」
そう呟きながら、ふと俺はヴァルナ―との話しを思い出す。
「そうだ。さっきヴァルナ―から聞いたんだが、このアトロブの近辺には、あまり人間を好ましく思ってない獣人が多いらしい」
「そうなんですか? やっぱり、戦争が原因なんでしょうかね?」
「アトロブが戦場になったんなら、近くの村とかにも被害が出たんだろうな。多分王都にもそういう人がいるだろうし、面倒事にならないように気を付けないとな」
「村って、ここもそうですけど……」
そう言われて、俺は今更気がついた。ここはアトロブまで走って三十分。一番近くにあるだろうこの村に、人間をよく思わない人間がいないわけがない。
「そういえばそうだった……何事もなければいいんだが……」
「……明日は、なるべく早く出ましょうか」
「そうするしかないな……」
俺はそう返していたが、気づいた頃にはもう遅い話しだった。別の家の窓から見られていたのに、俺たちは気づきようがなかった。