2‐15 過去よりこの時間にたどり着いた者
一瞬の出来事だった。瞬きが許されないとか、そんな次元じゃないほど、一瞬の出来事。俺たちの目の前で起こっていたのは、ページをミスしたパラパラ漫画のような、それだけ唐突に起きたことだった。
幻想的な淡い水色の光が消えた時、俺たち全員の目が一点に集められた。この目に映ったのは、前のめりに倒れたキョウヤと、それを片膝をついてそれを支えていた、見ず知らずの男の背中。キョウヤの小柄な頭と、その男の大柄な体の比率は倍くらいあって、一目で彼が筋肉質な男なのだと気づく。体をしっかりとした鎧で包みつつ、兜を被っていない頭からは、白に近い灰色の髪を縛られていて、顔が見えなくとも迫力を感じてしまうのは、きっと足元に置かれた武骨な大剣のせいだった。
「だ、誰だお前は!」
バルベスが声を荒げてそう聞く。それに大男は反応すると、支えていたキョウヤを優しく地面に寝かせた。そして、置いていた大剣を片手で掴みながらゆっくりと立ち上がると、俺たちに振り向いてその顔を見せた。
「そ、その目は、赤目!?」
驚きの声を上げるバルベス。立ち上がったその大男の目は、フードの男と同じで、真っ赤な色に染まっていた。だが、彼から発せられる緊張感は、フードの赤目とは比較にならないほど大きなものだった。
立ち上がった彼は、全身二メートルを超えてそうなほど巨体で、体格を見て近づこうとする人は恐らくいないだろう。少なくとも俺はそうだ。それに加え、セレナの体と同じくらいに見える大剣を片手で持つ太い腕。猛獣を前にしたような圧力をかけてくる赤目の左には、歴戦の猛者の威厳を漂わせるような傷跡が残っていた。
「なぜだ!? なぜ赤目がここにいる!」
バルベスの問いかけに、大男は低く重い、落ち着いた雰囲気の声を発する。
「我が名はミスラ。ハクヤ様の命より、過去よりこの時間にたどり着いた者」
「過去だと? 訳の分からんことを言うな! 貴様もワシをバカにするのか!」
バルベスはそう喚くが、ミスラと名乗ったその男は、彼に気にすることなく辺りを見回し、俺たちの顔を一人一人見ていった。
「おい! ワシを無視するつもりか!」
その言葉にミスラの目が再びバルベスに戻る。するとその時、ミスラの背後からフードの赤目が音もなく近寄り、不意打ちを狙うように槍を突き出そうとしていた。
「な!? おい、うし――」
俺は慌てて後ろと叫ぶつもりだった。だが、それを最後まで言うよりも先に金属音が鳴り響くと、フードの赤目が持っていた槍が、奥に広がる林の木々に吸い込まれるように吹き飛んでいた。襲われたはずのミスラはというと、大きな体を素早く捻り、大剣をまるで一本のナイフのように軽々しく、それでも大きな風音を鳴らすほど豪快に振り切っていたのだった。
「んな!? 奴の不意打ちが利かない!?」
フードの赤目も動揺するように後ずさりすると、ミスラは何事もなかったかのようにスッと振り返った。そして、その赤目でバルベスを見つけると、すぐに鋭い眼光を利かせた。威嚇のようなそれに、バルベスはたまらず怯んでしまう。
「き、貴様ら! 早く一斉にかからんか!」
そう叫びながら呪符を握り潰すバルベス。市民と兵士たちが再び頭を抱えて悶えると、一人の兵士が地面に捨てられた剣を拾い上げ、糸を引かれる操り人形のように体を起こして剣を構える。剣を拾う人間が一人、もう一人と増え、やがて六十人全員が剣を手にしていた。そして、一人が限界だと言わんばかりに叫んだ瞬間、残りの人間も全員一斉にミスラに向かって走り出した。
「「「うおあああ!!」」」
本物の戦場にこだましているような、思わず体を委縮させてしまうほどの絶叫。それを前にミスラは、その体の大きさ通り、至って冷静に肝を座らせた目で眺めていると、途端に大剣を両手で頭上まで持ちあげた。そして、眠っているキョウヤの体より前に出るように一歩を踏み出すと、それと同時に大剣を低く重い風音と共に振り下ろした。
「ふうん!!」
地面に強い振動が伝わり、ミスラより後ろにいた俺が思わず手をつけてしまう。それだけ強い揺れに、前にいた兵士たちは当然その場に立てずにいたが、その後すぐに俺は信じられない光景を目にした。大剣で叩きつけられた土が、剣の形に添ってひずみを生み、そのヒビが地割れのように伸び広がっていくのに気づくと、次の瞬間、五十人の兵士がいた平面の地面が、いきなり無人のシーソーに巨人が乗ったかのようにぐわりと隆起したのだった。
あまりの光景に俺は言葉を失う。十平方メートルはある地面が人の手で三角形になり、そこに生えていた木は根っこを引きちぎられていれば、六十人の人間がみんな空中に投げ出されているのだ。
もはや人工災害。強い。強すぎる。化け物の域だ。
俺たちが呆然としてしまう中、ミスラは振り下ろした大剣を再び片手に持ち直す。そして、未だ獣が宿ったような目をバルベスに向けると、今度はその足を一歩踏み出してきた。
「っひい!? こ、こんなところで、死んでたまるかっ!」
バルベスが一瞬にして身を翻し、猫のようにさっさと逃げようとする。その後を追おうと、ミスラも地響きがなりそうな重たい足取りで駆け出し、大剣を腰まで下げて引きずるようにして走り出した。疾走感を感じられない走りでありながら、大きな体格を生かして歩幅を大きくするそれは、まるでこん棒を持った鬼が人を追いかけるようだった。
その気配にバルベスも気づくと、足を止めないまま顔を白くし、ブルブルと震えながら片手を突き出した。
「っひいい!? 来るな! 化け物が!」
紫の魔法陣を作り出し、さっさと黒い棘をミスラに向かって放つ。それをミスラはいとも容易く大剣で切り捨てると、バルベスはもう片方の手から呪符を三枚投げつけた。だが、一枚を横振りで切り捨て、振り戻しにもう一枚も両断すると、最後の一枚は素手で掴まれてそこら辺に捨てられた。
「ぬお!? なぜだ!? なぜなのだ!!」
慌てふためくバルベスが、往生際悪く呪符を何枚も投げ続ける。みだらに飛んでくるそれをミスラは正確に大剣で切っていくと、千鳥足になっていたバルベスとの距離を着実に縮めていった。そして、向かってくるすべての呪符を切り捨てた時、ミスラはバルベスの目の前までたどり着いていた。
「ひっ!? こ、こここ、こんなところでえ!!?」
バルベスが必死の思いで手を突き出す。するとその袖の中から、直接五枚の呪符が飛び出していった。あまりの至近距離にミスラの反応も遅れると、上半身に五枚すべてが絡みつくようにくっつき、怪しい光を発してミスラの体と両腕を縛り付けてしまった。
「っは!? ――アハ、ア、アッハッハ! 驚かせよって。動きが止まればこっちのもの――」
そう笑い出したのも束の間、ミスラは両腕に力を入れて無理やり開こうとすると、呪符の拘束を力ずくで解放していた。
「なにぃ!?」
目が飛び出そうなほどバルベスが驚くと、ミスラはその体を力強く地面に蹴り倒した。その体格から出される蹴りに、バルベスも頭を地面に打つ。そして、ミスラは自分の片足をバルベスの体に重く乗っけると、もう逃げ場がないことを示すように、大剣の刃を下に向けて光らせた。
「終わりだ」
「う、嘘だ……私の力が……私の力が! こんなところで!?」
うるさく喚くバルベス。そこにミスラが体重を乗っけると、バルベスはすぐに甲高い悲鳴を上げた。
かなり長い間続いていた戦闘。いつの間にかその元凶を壁、というよりかは地面に追い詰め、その最後はもう目の前まで来ていた。最後の怒濤の流れに俺はまだ信じられない目をしていると、隣でもセレナとアミナ、ヤカトルも似たような顔をしていた。
「終わった、のかよ……なんなんだ、あの人」
俺の言葉に誰も答えようとしない。異世界に慣れていない俺の反応は、何も間違っていないことを知ると、背後からキョウヤの声が聞こえてきた。
「まさか、予知で見た方が、赤目の戦士だったとは」
すぐに振り向いたアミナが、すぐ横まで来ていたキョウヤを見つける。
「キョウヤ! 立ち上がって大丈夫なの?」
「ええ。大きな地響きで、つい意識も覚めてしまったようで。とてもお強い方ですね、彼は」
キョウヤの顔は疲れた人のように真っ白だった。それでも足を前に進ませようとすると、それをアミナが腕を首に回して支えてあげる。
「ありがとうアミナ。バルベスの件については、元々私の不始末が生んだもの。だから、私がケリをつけなければ」
「分かってる。もう終わらせよう。私たちも、最後まで付き合うから」
キョウヤはアミナにうなずき、二人はゆっくりとバルベスに向かって歩き出した。その裏でヤカトルが勝手に走り出していると、先にバルベスの元へ行ってその体を縄で縛り上げた。俺とセレナもキョウヤの後を追って歩き続けると、バルベスの前まで近づき、正座させられた彼の顔を、ミスラを加えた六人全員で見下ろした。
「都で市民たちに強いた圧政と、私や仲間たちに対する蛮行。己の犯した罪の重さは、言うまでもないでしょうね、バルベス」
そう言ってキョウヤは、アミナの抜いた刀をしっかりと受け取る。
「ま、待ってくれ!? ワシは本当に都の制度を変えたかっただけなのだ! 魔法一つで決まる王など、はたから見ればおかしなものではないか!?」
態度からして嘘八百の言葉だが、見苦しい命乞いに、俺はもう何も言う気分になれず、すべてをキョウヤに任せた。
「あなたはただ、己の欲望に従っただけ。元々、王としての素質などなかったのです」
「そんなことはない! ワシはジバ王バルベス! 誰よりも偉く、誰よりも力を持った絶対な王なのだ!」
キョウヤは失望するようにため息を吐き、呆れるように首を振る。
「何があなたを、そこまで醜いものにさせたのでしょう。昔はとても頼りになったというのに、とても残念です」
「あなたごときに! 今まで王の右腕として、都を管理し続けてきたワシを、あなたごときに! 殺せるはずなど――」
「もうよろしいでしょう。バルベス」
きっぱりと刺すような目を向けると、キョウヤはバルベスの首元に刃を突き付けた。
「もう、あなたにこれ以上はない。最期はせめて、私の手で」
「っひ!? た、頼む! いえ、頼みます。どうか……どうか、命だけは……」
バルベスがキョウヤの目を見て、涙ながらに訴える。しかし、もうキョウヤの手は、後戻りできなかった。これから起こるだろう光景が目に浮かび、吐き気を感じそうになった俺は慌てて顔をそらした。
「どうか――」
その言葉が途中で区切られると、大きな石のような何かが地面に落ちる音がした。すぐに血なまぐさい臭いが鼻を刺激してくると、俺は目にしなくとも、確実にすべてが終わったのだと悟った。
「やっと終わったんだね、キョウヤ」
「ええ。そうですね。とても辛く、過酷な戦いでした。よくやりました。アミナ。ヤカトル。それに、ハヤマとセレナも。本当にありがとう」
キョウヤのお礼にセレナが「本当に、よかったです」と安心しきった声で答え、俺はバルベスの遺体が目に映らないように振り返り、少しキョウヤから目を離すようにしながら「良かったな」とだけ口にした。
ジバを脅かした暴君バルベス。俺たちを追い詰めたその男は、突然現れたミスラによって捕らえられ、キョウヤの手によってその最期を迎えた。バルベスの横にいたフードの赤目も、知らない内にどこかに消えていて、帰ってくる気配はなかった。長く辛い、死の瀬戸際だったこの戦いは、これでやっと終わったのだ。
「なんとかみんな生き残れたな。正直奇跡だぜ」
ヤカトルがそう言ってみせると、キョウヤはその後ろにいたミスラに話しかけた。
「それも、あなたのお力があってこそでした。感謝申し上げます、ミスラ」
「もったいなきお言葉」
ミスラは右手を胸に置き、軽く頭を下げると共にそう返事する。体が大きく赤い目も恐ろしく思っていたが、とても丁寧で慣れたような立ち振る舞いに、俺はその時、少しだけ距離を縮められそうな気がした。
ふとそんな時、背後から人の近寄る気配がすると、バルベスに洗脳されていたほくろの市民を先頭に、十人の市民と五十の兵士がその後ろに並び、みんな地面に膝をつけて頭の位置を低くした。
「キョウヤ様! 私たちに、どうかふさわしい罰をお与えください!」
先頭の市民がそうはっきり口にする。
「そんな! どうしてそんなことを?」
「キョウヤ様は私たちを思い、力の限りを尽くして私たちを救ってくださった。おかげで私たちはみんな、誰一人傷を負うことなく生き残れました。そんな恩人であるあなた様に、私たちはあろうことか、剣を向けてしまった……」
「仕方のないことです。皆さんは全員、バルベスの策で洗脳されていたのですから」
「それでも私は、自分を情けなく思います。決して許されないことをしてしまったと……。許してほしいなどとは思いません! どうか私に、罰をお与えください! この罪を償えるのなら、私は、どんな罰でも受けてみせます!」
ほくろの市民はそう叫び、最後には地面の土に頭をつけた。するとその行動は病気のように感染し、後ろの兵士が「私にもお願いします!」と言って、その隣の市民も「どうか私にも罰を!」「我々に罪を償わせてください!」と、瞬く間に全員が頭を下げていった。
まさかの土下座の文化に驚いたが、彼らこそ誰一人としてキョウヤを傷つけたわけではない。俺はそう思っていると、キョウヤは彼らに向かって一歩前進し、目線を合わせるように地面に正座した。
「顔を上げてください、皆さん。皆さんのお望み通り、私から罰を与えましょう」
その言葉に、市民のみんなが顔を上げていく。全員がどんな罰でも受けようと覚悟していると、キョウヤは彼らに優しくこう言った。
「私が皆さんに与える罰。それは、皆で生きてジバに帰ることです」
「……もしや、それだけですか?!」
先頭のほくろがそう聞くと、キョウヤは黙ってうなずいた。
「待ってください! それでは、私たちがしたことに示しが付きません! いかなる罰でも構いません。もっと私たちに、女王様に償えるような罰を!」
「よろしいのです。私に対する償いなど、不要なのですから」
「そんな……」
その市民が悲しそうに俯くと、キョウヤは言葉を続けた。
「償いとは、己の犯した罪を埋め合わせること。皆さんはそもそも、罪など犯しておらず、すべてはバルベスの仕向けただけのこと。もしもこの中で、自分の意志で剣を向けたという方がいるとするなら、その方はいつでも私の体を刺せたはずです。魔法を解除した瞬間は、何度もありましたからね」
「そ、それは……」
「見ていましたよ。あなたが洗脳に抗い、ハヤマを洗脳状態から解放してあげたことを」
そう言われた瞬間、ほくろの市民がパッと顔を上げた。
「最後の最後まで足掻かなければ、きっとミスラがここにたどり着くまでに犠牲があったでしょう。皆さんの強い信念のおかげなのです。私がこうして、生き延びることができたのは」
自分たちを思った慈しみの言葉に、何人かの市民が涙を流し始める。その光景を目の当たりにして、俺は心の中で密かに確信していた。誰が彼女のことを、ジバの女王にふさわしくないと言えるのだろうか、と。
「さあ、立ち上がってください。皆で帰りましょう。私たちを待ち続ける者たちの元へ」
先に立ち上がったキョウヤに、市民たちも続いて立ち上がっていく。そうして歩き出したキョウヤの隣に、アミナとミスラがしっかりついて歩くと、俺とセレナ、ヤカトルがその後ろについていき、ここにいる全員でジバに向かって歩いていった。
挿絵:ミスラのドット絵