19‐6 たとえ、星々より遠のいたって
「……落ち着いたか?」
俺の胸からそっと頭を離したセレナに、俺はそう聞いた。頬に強い涙跡が残っていて、セレナは一度、鼻をすすってから答える。
「……はい、ちょっと、楽になりました」
頭は離しつつも、片手はまだ俺の胸の服を掴んでいる。
「……そうか。それはよかった」
俺は彼女の頭に回していた手で、胸を掴んでいたセレナの手を握った。もう震えは止まっている。本当に落ち着いてくれたんだと知って、意を決するようにセレナの目を見つめる。
「セレナ。明日、というか今日になるのか。どちらにしろ、夜が明けたらさ、もう一度アトロブに行こう。そこで、しっかり答えを伝えるよ。約束する」
俺の体がとても緊張しているのが、心臓の鼓動から感じ取れる。
「本当、ですか?」
「ああ」頭をうなずける。
「絶対にその時までに決断する。絶対に決めるから、だから、セレナはもう、一人で勝手に悩まないでくれ」
そう確かに伝えると、セレナは不安に顔を曇らせたまま、それでもなんとか納得しようとうなずいてくれると、少しだけ笑みを浮かべてくれた。
「分かりました。その時まで、私も準備しておきます。ハヤマさんがどんな選択を選んでも、ちゃんと向き合えるように」
「そっか。ありがとな、セレナ」
俺の感謝にセレナが微笑みで返してくる。そうして握っていた手を離すと、セレナは物惜しそうに服から手を離し、そのまま体を起こして立ち上がった。俺も上半身だけ起こし、しばらく黙って立っている彼女を見上げる。
「……私は、そろそろ寝ますね」
それだけ言って、彼女は部屋に戻ろうと振り返った。俺はたった一言「おやすみ」と告げる。それにセレナも「おやすみなさい」と返し、手にかけていた扉をゆっくり閉めていった。
扉は音もなく閉まり、それを見送った俺はまた寝転がって、天井を眺めた。夜の暗さに慣れた目が、木板を敷いた隙間まで細かく映す。
じっとそれを見つめたまま、答えを出す。
心の中に、たった一つの答えを、今から留めておく。
どうして、俺はこうも不器用な男なんだろう。
目の前の幸せに手を伸ばす。ただそれだけで、俺の人生は楽しいものになるはずなのに。それなのに、本当に自分の納得いく答えを求めてしまう。
自分で問題を深堀しておいて、自分で自分を苦しめて、結局最後も、自分の都合で結果を出そうとする。
本当にどうして、こうも俺は不器用なんだろう。
彼女と出会うまでは、そんな不器用な自分に気づくことだってなかった。
そうだ。彼女と出会うまでは、俺は俺を知らなかった。何も知らなかったんだ。
そんな大事なことを教えてくれた彼女に、悲しい思いなんてさせられない。あの涙を見てしまったら、到底無理な話しだ。
俺に足りないものは、けじめなんだ。今も、昔も、それだけが足りなかった。
……だからもう、迷わない。
風が、頬を優しく撫でていく。天然パーマに微かな涼しさを感じられて、アトロブの花畑も、白い絨毯が揺れているかのようになびいている。
その真ん中に立っていた彼女は、風に流される長い髪を軽く抑えていた。片手にはデリンの木杖を持っている。それを使うかどうかは、これから伝える選択次第で決まる。
花畑の中に、足を踏み入れていく。赤い茎と白い花。どちらも傷つけないよう、ゆっくり、着実に地面の土を踏みしめる。
「決まったんですね、ハヤマさんの答え」
そう口にする彼女の前で立ち止まり、顔を合わせるや否や体を抱きしめる。何も言わないまま、赤子を抱き上げるように優しく、心臓の鼓動が伝わってきそうなほどぎゅっと。
俺の背中にも、両手の温もりが触れてくる。セレナも黙ったままいてくれると、そよ風で揺れる花の音を聞きながら、俺たちはしばらく抱き合っていた。
心の中に決断は下っている。後はそれを伝えるだけ。俺ができることは、もうそれだけなんだ。
俺はセレナから体を離し、一度背を向けて四歩ほど距離を取った。そこで顔を上げて振り返ると、その場にとどまっていたセレナに向けて、俺は重たかった口をとうとう開いた。
「セレナ。……転世魔法を、頼む」
胸が裂かれるような思いで、それでも彼女から目を離さないよう、はっきりとその言葉を口にした。
再び風の音が俺の耳に入ってくると、セレナはしばらく顔を下げたまま、黙って俺の足下の花を見つめているようだった。その顔は、決して悲しそうだとか、泣きそうだとか、そんな顔ではなかった。ただ無言で口角だけが上がっていると、優しい笑みを浮かべたまま、俺の目を見つめ返してきた。
「そうですよね。ハヤマさんは、元々この世界の人じゃない。最初から帰すと約束してた以上、帰さないといけないですよね」
嘘の臭いを感じさせない、真っすぐに呟かれた言葉。それに俺は何も返せずにいると、セレナが木杖を縦に持ち替え、集中するように目を閉じた。
「転世魔法。ワールドゲート」
俺の足下に出来上がっていく魔法陣。銀色の線が円を描き、内側にも模様の羅列と三角形を作っていく。俺はただ出来上がっていくのを見ていると、やがてそこに転世魔法のための魔法陣が完成する。
「最後に、いいですか?」
セレナの声に、俺は顔を上げる。杖を下ろしていたセレナは、依然笑みを浮かべたまま、その口を開いていく。
「今までありがとうございました。私の勝手で呼び出したのに、ハヤマさんは私のわがままに付き合ってくれました。それにはすごく感謝してます。すっごくすっごく、感謝してもしきれないほど、ありがとうの気持ちでいっぱいです……」
名残惜しそうに言葉を区切ると、セレナは右手を胸に当て、こみ上げる何かを抑えるようにしながら続ける。
「……お別れ――」
突然涙ぐむ声が入り混じって、でもセレナは急いで首を振って、表情一つ変えずに再度続ける。
「お別れですね、私たち。これから、お互い別々の道を歩んでいく。告白されてから短い間でしたけど、私はすごく楽しかったです。ハヤマさんとはもう会えないですけど、私の思い出に、ハヤマさんは残っていますよ。ですから、ハヤマさんもいつかは、私のこと、思い出してくださいね。……やくそく、ですからね……」
最後の一言を言った時には、抑えていた涙が溜まらず流れていた。必死に笑おうとしながらも、止まらない涙のせいで、その顔は悲喜交々(ひきこもごも)とぐしゃぐしゃになっていた。だが、もう俺にその涙を止める権利はない。お別れを切り出された以上、もう彼女の傍に戻ることは許されない。
決して、許されない。
この手を伸ばし、涙を止める権利は、俺に。
今は……。
今だけは――
「セレナ。俺からも約束だ」
涙を拭うセレナに向かって、俺は右手を真っすぐに伸ばしていき、指を立てて数字の二を表す。
「二年だ。二年だけ、お互いに時間を作ろう。その間、俺は向こうでやるべきことを終わらせる。話すべきことを話し、すべての未練を終わらせる」
ハッと、セレナが驚く。
「だからお前も……お前も、もう一度俺を村に召喚してみせてくれ。今度は、お前自身の魔法で、アトロブの花も、デリンの木杖も使わない、お前自身の実力で」
これが、俺の下した決断だ。セレナは、嗚咽を殺そうと口元に手を押し当てた。
「俺は、元いた世界に残した因果と向き合い、すべてをさらけ出して、そして受け止めくる。その上で俺は、またセレナの元に帰ってくる。絶対に」
「本当、ですか?」
「俺のことを二年待ってくれたお前だ。きっとこの間に、俺はやるべきことを済ませるからさ。お前も、この二年で転世魔法を完成させて、俺を連れ戻してきてくれ。そうすれば、お前の母親にも、成長した姿を見せることができるだろ?」
魔法陣の光が、視界に入ってくる。
「いいんですか? また、ハヤマさんを呼んでも」
「お前が呼んでくれるなら、当然」
そう言った瞬間、また彼女が泣きじゃくりそうになった。慌ててそれを手で拭い取り、期待のこもった笑顔を見せながら木杖をギュッと握りしめる。
「絶対に呼びます! ハヤマさんのこと、二年後に絶対に呼びますから!」
「俺も絶対に戻ってくる! もしもその時に、お前に新しい出会いがなかったのなら、またこの想いを伝えてやる!」
そう伝えて、セレナは泣きつつも嬉しそうに「フフ」と微笑んだ。
「変わりません。絶対に変わりませんよ。私が、あなたのことを好きでいるこの気持ちは、たとえ時空を超えたって、絶対に変わりませんから」
「俺だって変わらない。たとえ、星々より遠のいたって、俺はお前を忘れたりなんかしない」
嘘偽りなく吐いたその言葉に、俺は笑みと同時に涙が流れてしまう。泣かないと決めたはずなのに、それでもつい、彼女の前ではこらえきれなくなってしまう。それでも、最後に情けない姿は見せたくなかった。
「そしたら、二年後に答え合わせだ。それまで頑張れよセレナ。お前ならできるはずだから」
「ハヤマさんも、頑張ってくださいね。離れていても私は、いつまでも応援してますから」
「ああ、分かってる……」
何度も言葉を交わしてる間にも、魔法陣の光は強まっていて、いよいよセレナの顔を覆っていく。
別れの時が、近づいてる。
「じゃあなセレナ! また会える日まで、元気で!」
声が、自然と大きくなって。
「絶対会いましょう! 二年でも、十年でも、何年でも! 私、来てくれるまで呼びますから!」
セレナも、大声で返してきて。
そして、最後の瞬間に、互いに笑顔を浮かべて、別れの時は、光のように一瞬にして過ぎ去った。
――さようなら。
……。
グルグルと、物凄く回転していた気がする。気配がして目を開けてみる。
足下に咲いていたアトロブの花は消えてなくなり、久しく見ていなかったフローリングの床が映っていた。くらっとする頭を抑えて、しっかりと辺りを見てみる。
今立っているのは、自分の自室。隅に置いたベッドと、滅多に起動しないパソコン。それだけでこの小さな部屋が埋め尽くされており、異世界の面影はどこにも見当たらない。
あまりに呆気ない帰還だ。一瞬、今まで自分は夢でも見ていたのではないだろうかと思ってしまう。セレナとの出会いが、すべて作り話だったのではないかと。
部屋を出てすぐのリビングに出てみる。カーテンから入ってきている太陽の陽ざし。壁にたてかけた時計を見てみると、残り十分で十二時を迎える頃だった。この時間だったら、父親は仕事かパチンコに行っている頃だ。
テーブルの上には、飲んだまま置かれた缶ビールが四本。いつもより一本多い。カレンダーは二〇二一年の三月。ここにいなかった分の三年間が、ちゃんと進んでいる。奥に見えるキッチンには、当分使っていなかったことを示すように、綺麗さっぱり何もない状態。料理をしない父親では当たり前の風景だ。
「本当に、戻ってきたのか……」
そう呟いた時、がちゃりと扉の鍵が開く音がした。ここからでも見える金属の古びたドアが、誰かの手によって開かれる。そこから、白髪まみれになった頭が見えると、俺は父親と目が合った。
その瞬間、俺たちは互いにその身を硬直させた。金縛りにでもあったかのように、じっと互いを見つめたまま突っ立っている。
そんな中、父親が俺に向かって声をかけた。
「明人……」
聞こえた瞬間、なぜか目頭が熱くなっていった。懐かしいものに触れたから、というより、ずっと追い求めていたものだったものを、俺自身が思い出していた。
思わず、二足の足が進んでいく。のらり、くらりと、自分が触れていいものなのかと、疑うようにゆっくりと。狭いリビングを出て、キッチンの横も通り過ぎ、そして、
そのまま、父親に腕を回して、俺たちは抱き合っていた。
最終章 星々より遠のいたって
―完―
リビングから、時計の針が動く音が聞こえる。
ベッドに腰かけたまま、ふと、俺はため息を吐いてみる。「はあ……」と、胸の中から重たいものを吐き出すように。
もう、随分と時間が経ってしまった。二年というのはとても長く、それなのにあっという間に過ぎ去ってしまう。毎年同じ時間が流れているはずなのに、その実感が毎年湧かない。
――だけど。
大事な約束だけは、一時も忘れることなく記憶に刻まれていた。あの約束だけは、しっかり俺の中に残り続けていた。
もしも、この約束が、果たされるのなら……。
「……まさか」
俺の人生に、そんな綺麗ごとはあり得ない。
そう、あり得ないんだ。俺に限って、そんな都合のいい話し。
――あるわけがない。
……。
顔を、上げる。
俺の前に、光が浮かんでいるのを見つける。銀色の、円の中に模様が描かれた魔法陣。
ふいに、不適な笑みを浮かべる。そして、重たい腰を上げ、ゆっくりとその一歩を踏み出す。
最後までご愛読いただいた、名も知らぬあなたに最大の感謝を。