18-8 クロスオーバー
外の世界は好きだ。
朝の日差しを浴びたら気分がいいし、私の知らない人たちが、それぞれの生活をしているのを考えたりすると飽きないから。
あの日思い切った決断で村を出たのも、今振り返れば人生の中で大きな分かれ目だったんだと思う。色んな場所を回って、そこで新鮮な景色を見たり、色んな人と関わって、仲良くなって。そうして今は、みんなが私の思いに応えてここに集まってくれた。
この世界で、私はたくさんのものを手に入れたんだ。
だけど、今はそんな世界が嫌いになりそうになる。
この世界はとても広くて大きくて、そして何より、硬い壁に覆われている。
私が伸ばした魔力が、全くこの世界を突き破る気配がない。まるで、翼のない私たちが空を見上げるしかないかのように、私は自分の無力さを思い知らされてしまう。どうしてこんな見えない壁を越えられないのかと、つい癇癪を起したくなってしまう。
届いてよ。私の魔法、届いてよ。
「チッ。中々しぶとい」
「女を一度守ると決めたら、男ってのはいくらでも抵抗するもんなんだ!」
ふと目を開けると、ヴァルナ―さんの土拳がアマラユさんの足元から生え、大きな手で握り潰そうとした。けれど一瞬の内に魔法を使われていると、拳の隣に転移の魔法で平然と現れる。
「ッフ。いくらでもか。そんな信念、簡単に捻じ曲がるものだと教えてやろう!」
今度は背後から気配がして、私はヴァルナ―さんと一緒に振り向いた。地面に浮かんだ黒い靄。地中から湧き出てくるように、もう一体の巨大骸骨が出てきている。
「クソ! 最上級魔法を同時発動とは!」
「ここはとてもいい場所だな。本来不可能なことでも、魔力を吸収すればいくらでも可能にできる」
「お前なんかに、彼らの思いを踏みにじられてたまるか!」
ヴァルナ―さんが剣を地面に刺して、その手にもう一つの土の魔法陣を作り出し、握った。そして、彼の背後から二本目の腕が湧き出てきた。
「せいぜい最後まで足掻いてみせるがいい!」
その一声に巨大骸骨が同時に拳を振り下ろしてきた。
「足掻くんじゃねえ! 俺は守り切るんだ!」
すぐにヴァルナ―さんも両手を開き、全開に広げた土の拳でパンチを受け止めようとする。
ぶつかり合った瞬間、まるで深海で巨大な沈没船が落ちたような、鈍く大きい衝撃音が鳴り響いた。土の拳からか、それとも骨の拳からか。強い力に軋むようなメキメキという音が聞こえてきて、その音に挟まれながら、私はヴァルナ―さんを信じてもう一度目を瞑った。
落ち着いて、冷静に、魔法の基本から思い出そう。
魔法はイメージ。イメージを魔力に乗せて、魔法陣を通じて発動される。
それじゃ転世魔法のイメージは?風は『吹かせたい』で、土は『揺らしたい』。
転移は『飛びたい』。時間は『止めたい』。
……全部思いだ。なんとかしたいっていう、思いから発動されてる。
それじゃ、転世魔法にかける思いは何? 何を思えば、転世魔法は形になってくれるの?
すぐに、その答えが頭の中に浮かんだ。
――あの人に、会いたい!
どこまでも飛んで、時が離れてしまおうとも、『逢いたい』!
「お願い! 私と彼を、もう一度――!」
次の瞬間、土の拳が砕ける音がした。
――――――
「はあ……はあ……はあ……」
息切れが激しい。この魔界エンヴリムに来てから、魔物としか会っていない。赤目の人格はさっき体力切れでも起こしたかのようにいなくなってしまって、いわゆる黒目の俺は、十体ほどの魔物に囲まれたまま、ただ攻撃を避け続けることしかできなかった。
背後を振り返れば、そこには百、いや、形が残っていないのを含めると千もいってるほど、大量の死骸が列をなすように転がっている。赤目の人格が辿ってきた形跡が、血と異臭によって残っていて、中には空から岩でも降ったかのような形跡もあった。
けれども、前を見てみれば巨大な銀色の魔法陣が光っていて、そこまで想定一キロ以上は離れている。その周りにはびこる無数の魔物を見てしまえば、到底気が遠くなりそうだった。
「まだこんなに残ってるとか……冗談きついって……」
右手に握ったサーベルが重く感じ、思わずそこから体が崩れていき、サーベルをついてしゃがみこんでしまう。囲んでいた魔物たちがじりじりとにじり寄ってくる。
「もしここで俺が死んだら、あいつは俺を見つけてくれるかね……」
立ち上がる気力が起きず、少し弱音を吐いてみる。それで気分が晴れることは当然なく、そのままおかしく思って笑ってしまう。
「ハハ……見つけられりゃ、もう見つけてるよな……」
そう呟いた瞬間、自分の足下から銀色の光が浮かび上がった。もしやと思って地面を見てみると、俺を囲うように魔法陣が浮かび上がっていた。
銀色の、あの魔法が、光っている。
「……おいおい、マジかよ」
――――――
転移魔法の光が晴れて、私は前にいたアマラユさんと、二体の巨大骸骨が未だ私たちを見下ろしている状況を確認した。隣にいるヴァルナ―さんも無事だ。
「とっさに転移魔法で避けたか。小賢しいやつだ。そろそろ諦めたらどうかな? 君たちじゃ私の相手にはならない。おとなしくしてくれれば、私も痛みを与えずに殺すことができるというのに」
「そう言われて、おとなしくする人がいると思いますか!」
驕った態度の言い方に、私は強く言い返した。アマラユさんが何か悩み込むように顎に手をつける。
「ふむ。死ぬのが怖いというのなら、取引をするのはどうだろう?」
一度口を閉じ、顎につけていた手で、私の持っている木杖に指を差してくる。
「君の持っているそれ。計り知れない魔力を秘めたそれを渡してくれれば、命だけは助けてやろう」
私はアマラユさんを強く睨みつける。
「嫌です! これは渡しませんし、ここで死ぬつもりもありません」
「ふむ。まあそうか。どの道生き残っても、魔物に支配されてしまっては結果は同じ。それなら抗うことを選ぶのも当然だ」
そこまで話すと、アマラユさんはうっすらと笑みを浮かべ、私を睨み返してきた。
「セレナと言ったか。ここまで進めた私の計画を邪魔できる存在は、転世魔法を扱える君だ。まだ不完全なものだとしても、君の力は侮れない。その杖をもってしても、召喚できる人間は一人だけだろう。だが、その一人の力が底知れないものだった時、すべての計算が狂ってしまう。だから……」
右手を胸の前に上げ、そこに黒い魔法陣が浮かび上がる。同時に、巨大骸骨にスイッチが入れられたみたいにそれぞれの腕が上がっていく。
「悪いと思うが、さっさと始末をつけさせてくれるかな?」
今にも光ろうとする魔法陣。それをゆっくり私に見せつけてきては、私を脅してくる。
……この手には、確かに手応えを感じていた。転世魔法の、成功した手応えが。
――それも、私の思った通りに。
私は、思い切って杖から両手を離した。木杖がカタンと音を立てて転がり、そこでアマラユさんは初めて驚く顔を見せた。
「転世魔法なら、もう発動してます」
「なに?」
腑抜けた返事が返ってきた瞬間、アマラユさんはハッとして、顔を空に向けた。そこに迫ってくる影が見て、苦悶の表情を浮かべた。
「うおおおぉぉ!!」
奴の顔がだんだんと迫ってくる。間抜けみたいに驚いた表情がはっきりと見えてきて、奴はおもむろに黒い魔法陣を俺に向けてきた。それが光りそうになった時、俺はしめたとにやついた。
とっさに首から体を曲げ、背中を地面に向けた態勢になって。
そして、彼女の風魔法が飛んだ音が聞こえた。
アマラユの足下で爆発した空気。地面の土が若干えぐれるほど強い衝撃波によって、アマラユの体が吹き飛ばされていく。対して俺は、背中から風を受け、一回転をしながら空中に浮きあげられるちと、下で吹き飛んでいるアマラユをしっかり目で追っていた。
アマラユの体に左手を伸ばし、テニスでスマッシュを決める瞬間のようにタイミングを計る。そして、丁度俺とアマラユの体が重なった瞬間、俺は思い切り右腕を伸ばした。
「うおらあ!」
刃先から鉄にぶつけたような感触がして、それでもちゃんと刃は突き抜けていた。突き刺した左肩から、小石を落とした時に跳ねる水のように一瞬血が噴き出る。俺たちはそのまま地面に落ちていくと、サーベルの刃が地面の土まで届いた。
肩部分の服が赤黒く染まっていく。それを見て初めて刺したのだと実感すると、俺は思い出すかのように呼吸をした。
心臓がバクバクと高鳴っていたのを今さら感じる。痛みすら感じられるほどの鼓動を我慢し、俺は馬乗りの状態のまま口を開く。
「ここまでだアマラユ」
「まさか、君ごときに血を流すことになるとは……」
苦痛に感じるような顔を見せながらも、アマラユはまだ余裕を取り繕うような態度を示してきた。
「一度だけ言ってやるぞ。さっさとこの世界から帰ってくれ」
俺の忠告を、彼は鼻で笑ってくる。
「フン。同じ世界のよしみで、私に情けをかけるつもりか?」
その言葉に俺は、ただ黙ってアマラユの顔を見つめた。世界に否定され、孤独に生きた存在。俺の似た者同士に、何かを言おうとしても何も浮かばなかった。
アマラユは、呆れるように首を振る。
「全く大した人間だ。私は君たちを殺すつもりでいるのに、君はそれを見逃すというのか。二重人格だけで特殊というのに、その人柄も特殊だとは」
「もしもお前の野望を諦めないというのなら、俺はここでお前を殺す。自分の非を認めてやり直すなら、今だけだぞ」
「非を認めるだと? ッフ、笑わせてくれる」
「ハヤマさん!」
突然、セレナの声が背中から聞こえてきた。焦ったような物言いに顔がパッと動く。その時にある異変に気づいて、俺の目がアマラユの下半身に止まった。
「んな!? 足が! ――なくなってる!?」
消えていた。忽然と、音もなく腰から両脚が消え去っていた。一瞬で嫌な予感を感じて奴に振り返る。
「何をした!」
焦りから出た恐喝に、アマラユは涼しい顔をしながらこう答えた。
「転世魔法の禁忌級を知っているか?」
――禁忌級!?
瞳孔が丸くなったのを感じた次の瞬間、まるで壁を叩き割ろうとしているような、地響きにも聞こえる大きな音がどこからか響いてきた。アトロブ全土、もしかしたらこのプルーグ全域にまで響き渡ってそうな爆音。音の出どころがどこかと探っていると、次に鳴った音で、俺の目が空へと向けられた。
そこで、信じられない光景を目の当たりにした。
空に浮かんでいた、銀色の特大魔法陣。アトロブの大地に負けないくらい大きく広がったその真ん中に、一つのヒビ割れが入っている。大気という無機質なはずのそこに、時空の亀裂でも生み出すかのように。まるでガラスが張られているかのようなヒビが、俺たちの見上げる空にでかでかと入っているのだ。
「なんだ、あれは……」
呟いた声が、再びの振動音にかき消される。同時にヒビは更に広がって、魔法陣全体にまで走っていった。地面を揺らすような音が、もう一度空から鳴った、その瞬間。
バリン! と、厚い窓ガラスを割ったかのような音が響いた。それと同時に、ヒビを入れて魔法陣を突き破ろうとした生き物の手が、そこに出てきていた。
銀色の鱗がついた、巨大生物の手。それは俺が知るところの、空想上に出てくるドラゴンの手足だった。
一度引っ込んだ手足が、再び空の壁を叩こうとする。そこで、銀色の魔法陣は完全に崩れ去った。崩れたどころかそれ以上に、ヒビは魔法陣を超えて空を蜘蛛のネットのように広がっていって、乾いた肌から皮膚がボロボロと落ちていくかのように、たちまち曇り空が崩れ落ちていった。
そうして俺たちの目に映った新しい空は、赤黒いあの世界。魔界エンヴリムの大地が重力に逆らうように空に浮かんでいる光景。空一面が、きっとアトロブをも超えて、プルーグ全土の空がそうなってしまっているほど、空は赤黒い色へと変貌してしまったのだった。変わり果てたこの世界で、正体を露わにしたドラゴンが翼を使ってアトロブに降り立とうとするのを、俺たちはただ呆然と眺めてしまっていた。
「なんだよ……なんなんだよ、この状況は!」
抜けかけていた気を取り戻し、俺はアマラユに顔を向け直す。
「一体、何をしたってんだお前!」
俺の怒りとは裏腹に、アマラユは興奮するように言葉を返してくる。
「禁忌級転世魔法、クロスオーバー。今このプルーグは、魔界エンヴリムとの融合を果たした!」
「融合だと!?」
「二つの世界を一つにする。それが禁忌級転世魔法の効果だ」
「空を奪っておいて何が一つにだ!」
「1足す1が必ず2になるとは限らないのさ。二つのコップの水を一つのコップに移した時、その時の答えは必ず2にはなり得ない」
「何が言いたい?」
「つまりは消えてなくなるわけだ。この異世界と魔界は中和される。私が代償として払った体の半分のように、融合するために互いに何かが失われるというわけだ。そしてこの時の何かというのは、弱者である貴様ら人間どもだ!」
コイツを殴りたい気分に駆られた。けれど、拳が出来上がるよりも先に、遠くで大地が揺れるような地響きが聞こえ、銀色のドラゴンがとうとうアトロブの地に手足をつけているのだと気づいた。
四つの手足で四つん這いをするように降り立ったドラゴン。頭から長い尻尾に至るまで銀色の鱗に覆われていて、体の輝きは神聖な印象を与えてくれる。触れる者に罰が落ちるんじゃないかと錯覚してしまうくらいに高貴なきらめき。重たそうに首をむくっと持ち上げるその姿は、いつの日か見た、世界で一番巨大な恐竜を現実にしているかのようだった。
真っ赤な目が辺りの光景を見つめていく。近くにいた兵が足を震わせては、魔物までもがその体を委縮させている。そこまで遠い距離にいる俺にも、計り知れない存在感を放っているのが強く伝わってきてしまう。
「よくも私に禁忌級魔法を使わせたものだ」
ふとした言葉に目を落とすと、アマラユはそのまま話してくる。
「奴はかつて魔王が飼っていたペット、エンヴリムイフリートだ。溺愛されて自堕落に成長したドラゴンだが、すべての魔物が恐れおののく存在でもあり、私にも手が負えない絶対的な存在だ」
「あの一匹のために、お前は自分の体を犠牲にしたって言うのか?」
「フン。体がなんだ。足がなくなったところで、私の野望はなくならない」
「コイツ!」
きっぱり言い切ったアマラユに嫌気がさし、俺は今度こそサーベルで息の根を止めようと引き抜いた。その瞬間、アマラユが自分の背中にスカイブルーの魔法陣を浮かべると、振り下ろしたサーベルよりも先に、その場から滑るように動き、そのまま空中に浮かび上がっていった。空に飛んでいくのを見て、過去に空中に飛ぶ魔法があったことを思い出す。
「くそ!」
アトロブの上空に浮かんだ彼の背後で、魔界エンヴリムの大地から降ってくる魔物たちが映る。よく見ると、魔物たちが降ってくるそこは大きな山のような地形になっていて、きっとこの世界まで一番距離のある場所なんだと思った。そこで奴らは、まるで見えない壁を突き破るかのようにしてこの世界へと降ってきていた。
「敵もまだ増え続ける。ドラゴンも増えたってのに、最悪な状況じゃねえか!」
「足を失ってしまったが、ここで計画を崩されるわけにはいかない。私は、必ずあの世界に復讐してやるのだ!」