17-9 諦めたら、何も取り戻せないんだよね?
胸の奥から焦りがにじみ出てくるが、全く何も浮かばない。ただ糸を切ることしかできないでいると、とうとうイデアが目の前まで迫ってきてしまった。
「くそ! イデア! 目を覚ましてくれ! 理性が残ってるなら、魔物なんかに支配されたら駄目だ!」
「フラアアァァ!」
声帯に寄生虫でも住んでいるかのような音が部屋中に鳴り響き、イデアが両腕を振り下ろそうとてくる。
「っく! イデア!」
俺の叫びもむなしく、イデアの腕が振り下ろそうとする。その時、背後から二人分の足音が聞こえてきた。
「「はあああぁぁぁ!!」」
けたたましい声を出しながら、背後からラシュウとネアが飛び出し、それぞれ武器を突き出す。二つの刃が、イデア本体の隣に向き出ていた目玉を貫いた。どす黒い液体が噴き出ると共に、イデアがまた叫ぶ。
「ヌラアアァァ!?」
耳をつんざくような絶叫だった。蜘蛛の足も悶えるように暴れていると、イデアがラシュウとネアの足を掴み、そのまま床に投げつけた。
「――ぐおっ!」「――っあは!」
二人の背中が強く打ち付けられる。その拍子に武器も一緒に目玉から離れ、イデアが奇妙な声と洩らしながら自分の体を抱きしめようとする。好機だと思った俺はすぐに足を上げる。
「イデア!」
彼女の目の前まで走り、勢いのまま両肩に手を回す。
「しっかりしろイデア! 今そこから出してやるから、気をしっかり持ってくれ!」
蝋燭みたいな感触が指に伝わって、それでもイデアの本体はそこにちゃんとあった。引きはがそうと力を加えていく。
「フラアアァァァ!」
耳鳴りが鳴りそうな、キーンとした悲鳴がすぐ真横から響く。一瞬ビクッとしてしまったが、臆せず再び引きはがそうとする。
「我慢しろイデア。お前、言ってたじゃないか。世界を見たい、家族に会いたいって。お前には、姉ちゃんが二人いるんだ。無口だけど頼れる長女と、元気で小うるさい次女。お前の家族が、今ここにいるんだよ!」
「……か――ぞ――」
「――っは! イデア!?」
「っぐ、ぐああぁあぁぁ!!」
微かに穏やかな、イデア本人の声がしたかと思ったが、イデアはまた苦しむように悲鳴を上げ始めた。しかし、その悲鳴さえも人間のような声に戻ってきているのに気づくと、俺は引きはがす手に更に力が入った。
「耐えろイデア! もうすぐ魔物の体とも離れられる! だから頼む! 耐えてくれ!」
「あああぁぁ! うああぁぁああ!」
「頑張ってくれイデア! ここから出られたら、お前の見たかった家族と、広い世界が待ってるんだ! 俺たちと一緒に、好きなだけ世界を見て回れるんだ!」
「ああああぁぁぁ!!」
悲鳴は、子どもが苦痛に泣き叫ぶようなものへ変わっていく。引きはがそうとする俺の意識を拒もうとしてくるような、痛々しい叫び。それでも、イデアの手は暴れてはいるが、俺の腕を掴まずにいてくれている。そうして俺は、やっと一つの手ごたえを感じた。
それまでビクともしなかったレバーが、ガクッと少しだけずれ動いたような感覚。俺の腕に確かにそんな感覚が通ると、瞬間的にイデアがまた叫び出した。
「ぐあああああ!!」
今度は頭を抱えるように悲鳴を上げると、途端に俺の腕を掴み、有り余っている腕力で宙に振り上げ、勢いよく床に投げつけた。
「がはっ!」
全身に激痛が走り、肋骨が耐えきれずに軋んだ気がした。床に水が敷かれているのに、電流のように流れる刺激のせいか、全身に何の感覚も通ってこない。俺から手を離したイデアが、そのまま頭を抱えて悶えだしたが、俺はとても立てる気がしなかった。
「っくそ……感覚が、おかしい……体が、動かねえ……」
どこにも力が入らず、ただイデアの叫び声だけが聞こえると、視界の横からネアが覗き込んできた。
「ハヤピー! 大丈夫? まだ生きてるよね?」
「意識はまだ……でも、体が、限界かも……ッハ! ネア!」
慌てて俺がそう叫ぶと、ネアが俺の目を追って後ろを見上げた。そこでイデアが片腕を掲げていると、ネアの顔面めがけてラリアットするように振りかぶってきた。
「――ネア!」
一瞬、俺とネアの間にラシュウの背中が見えたかと思うと、イデアのラリアットを食らって二人まるごと吹き飛んでいった。
それを目で追おうにも、俺の体はやはり立ちあがれない。それでもなんとか動こうと踏ん張ってみたが、いつの間に右足に糸が巻き付いていると、俺の体は高く上げられた。イデアの頭上が視界に映り、俺の体も床めがけて豪快に投げ飛ばされる。その先にラシュウが走りこんでくると、しゃがむように滑り込んで俺を受け止めてくれた。
「っぐは。た、助かった……ラシュウ。お前は無事なのか?」
「攻撃なら槍で受け止めた。体の傷だって、実験の頃に比べればなんてことない」
そう言ってラシュウが俺を下ろしてくれると、足に力が入らなくて体が倒れかけた。かろうじて床に手をついて耐えたが、なけなしの体力のせいですぐに肘がついてしまう。糸で粘りつく床が顔に迫り、このままつけてたまるかと意地を見せる。
「くそ! このまま、終わるわけには……」
「おい、無理をするな」
ラシュウが座り込んで語りかけてくると、俺は首を横に振った。
「嫌だ。このまま倒れれば、イデアはおろか、セレナさえ守れねえ。そんな惨めな自分には、もう、戻りたくない」
「今は休んでろ。俺がなんとかしてやる」
そう言ってラシュウは再び立ち上がろうとしたが、ふと彼の体がよろめいた気がすると、頭を抑えて膝をついた。
「おい、大丈夫か――」
俺がそう聞いた時、ラシュウの被っていたフードの中から、太くて赤黒い液体が流れてきた。
「血が! やっぱりさっきの攻撃で!」
「これくらい……なんてことは……」
「無理してるのは、どっちだよ……っが――」
吐き出す言葉に体がついて来ないと、とうとう俺の顔も床についた。横を向いたままの頬が水に触れる。冷たくて気味悪い感触が肌に伝わってきて、水に触れる片目を閉じたまま、無情に悶え続けるイデアを眺めた。
自分の痛みに嘆くような声と、激しく踊るように動き続ける蜘蛛の足。最初から何も変わっていない。こっちはボロボロになってしまっているのに、全く助けられる兆しが見えない。
「駄目なのか……所詮、俺じゃ……イデアは、助けられないのか……」
つい弱音を吐いてしまう。
所詮、赤目のない俺では、何も護れない。誰かに殺意を向けなければ、結局俺は何もできない。
弱者。軟弱。意気地なし。脇役。敗者。雑魚。
そう言ったところでどうにもならないと知っていながら、そんな意味を持つ言葉たちがだけが思いついてしまう。
「ハヤピーたちは、もう限界?」
ラシュウの背後から、ネアが足を引きずるように歩いてくる。
「ネア……」
「ハヤピーたちが無理なら、ネアだけで行くよ」
「無茶だ。三人がかりでも相手しきれないのに、お前一人なんて」
「それでもやるの。ネアには責任があるから、ラシュウたちに血を与えた責任と、お姉ちゃんとしてイデアちゃんを助ける責任が」
その言葉にラシュウが口を挟む。
「ネア。お前が無理する必要は……」
「必要とかじゃない。ハヤピーとラシュウが動けないなら、ネアがやらなきゃいけないの。だってもう、助けられるのは、ネアしかいないんだから……」
真っすぐイデアを見つめたまま、ネアはそう言い切った。もう体中は傷だらけで、布が破けた背中からは流血だってしている。それなのに、ネアはまだ立ち向かう気で、イデアを見つめている。
その姿はとても勇敢で、小さい体でも大きな存在に見えてくる。
「ネア」
俺が名前を呼ぶと、ネアは「なに?」と聞きながら振り向いてきた。
「失ったものは、取り戻せるとは限らない。もしイデアの体を引きはがせたとしても、そのまま生きてくれるかは分からないんだ。それでも、お前は助けようとするのか?」
自分の殺意に問いかける代わりに、ネアにそう聞いていた。俺の最後の言葉を耳にした時、ネアは穏やかに微笑みながらこう返した。
「諦めたら、何も取り戻せないんだよね? ハヤピー」
その一言を聞いた時、俺は頭の中の闇が一気に晴れた気がした。
自分が言った言葉。自分が体感した経験。自分が突き止めた真実。忘れてはいけないことを、俺自身が忘れてしまっていたことに気づかされる。
「たとえ可能性がなくたって、ネアはもう諦めない。失ったすべてを取り戻したいから。これからの未来のために、前を向いていきたいから。そのためにも、ネアは無茶をしてでも立ち向かうよ」
ネアが決意を示してくる。同時に、自分の愚かさが身に沁みてくる。
もう、最悪な人間だ。俺という奴は。
カッコいいこと言っておきながら、自分で自分の言ったことを実行できてないじゃないか。芯が通ってなくてブレまくりじゃないか。
簡単に諦めてどうするんだよ。それでも、あの時セレナを護ると誓った人間か? どうしてでも約束を果たすと決意した本人か? カッコ悪すぎるだろ。
「ネア。俺の体、引き上げられるか?」
「まだ戦えるの?」
俺にあるのは所詮、反抗的なひねくれ精神だけだ。
でも、それさえ失ってしまうには、まだ早すぎる。
「無茶するだけの体力は、まだ残ってる」
「――ハヤピー!」
俺は腕を上げ、ネアが俺の手を掴み、床の粘液についた体を引き起こそうと引っ張る。俺の体は段々と上がっていったが、長く寝すぎたせいか、粘着が強くてネアは苦戦していた。
「ふーん! あとちょっと……」
根性で引っ張り続けるネア。その手にラシュウの手が重なる。
「無茶なら俺だってしてやる。その分、最後まで力を出し切れよ、ネア!」
「……うん! 一緒に引き上げるよ、ラシュウ。せーの!」
二人が一緒になって力を振り絞ると、俺の体は粘液を離れ、やっと両足の底が床に立った。立ち上がった際、まだ力が戻り切らず一瞬膝が崩れそうになる。
「っと!?」
なんとか踏ん張りを利かせて立ち直ると、頑張って引き上げた二人に応えようと耐え続けた。その様子にラシュウが肩を回して支えてくる。
「すまないラシュウ。しばらくすれば力も戻るはず。そうしたら、今度はちゃんとイデアを引きはがして……」
俺がそう呟きながら二人から目を離すと、そこで想定外の光景が目に入った。床に膝をついたままの俯くユリア。そのすぐ前に、イデアが近づいていた。
「マズイ! ユリアが!」
俺の叫びにネアとラシュウも顔を向ける。その間にもイデアがユリアに手を伸ばすと、首をわしづかみにして床に押し付けた。
助けに行こうにも、俺はまだ体が自由に動かない。ラシュウも抱えた状態で一歩出遅れると、ネアが誰よりも先に走り出していた。
「ユリア!」
すぐにラシュウも俺から体を離し、ネアの後を追いかける。俺もわずかな神経で足を動かしていき、着実に一歩ずつ加速していく。
「ユリアを離して、イデアちゃん!」
ネアがイデアの腕を掴む。ユリアの首を潰そうとするその手をどかそうとするが、ネアの力では当然動く気配がなかった。
「ダメだよ! ユリアはイデアちゃんの姉ちゃんだよ! 家族なんだよ! こんなことで殺したら、絶対にダメ!」
そう語りかけても、依然イデアは力を抜かない。そこにラシュウが追いつき、イデアの右肩に手を伸ばす。
「今の内に引きはがす! ハヤマも急げ!」
「分かってる!」
倒れそうな体に耐えようとしながら足を運び、体重が前に持っていかれるように走っていく。そうしてイデアの下までたどり着くと、すぐに左肩に両手を重ねた。
「耐えろよイデア! また痛くなるからな! おらっ!」
引いた右足に体重を乗せながら、力の限りイデアの体を引きはがし始める。ラシュウも同じように引っ張り出すと、イデアの背中が離れだした。
「フラアアァァァ!!」
激痛が走ったかのように叫ぶイデア。ネアがすぐ口を開くと、その音量に負けじと声を張る。
「頑張ってイデアちゃん! ネアが助けてあげるから! イデアちゃんの家族が、ずっと傍にいてあげるから!」
「――か――ぞ――く」
「そう! 家族だよ。イデアちゃんの家族だよ。色んなことがあって会えなかったけど、これからは一緒にいられるんだよ。だから頑張って! イデアちゃん!」
イデアの声にネアが必死にそう返す。その言葉が通じたのか、イデアの口から叫び声が出なくなったかと思うと、ユリアを掴んでいた手から力を抜いた。
「か、ぞく、み……ゆ、め……が……」
喉の奥からかすれて出てくるような、か細い声でネアがそう呟く。自我のあるその声に俺たちがハッとすると、ネアもイデアの脇の下に手を伸ばした。
「あとちょっと! あとちょっとだから、頑張って!」
「ぐう――うああぁぁぁ!!」
再びイデアが悲鳴を上げた時、蜘蛛の体の中から腰がはっきり見え始めた。着実にはがしていけてるのを確信すると、俺も励ましの声をかけようと口を開く。
「あと少しだ! あと少しで、お前は夢を叶えられるんだ! もうすぐそこに、お前の見たかった家族と出会えるんだ!」
「かぞ……あ゛あああぁぁぁ!! ――あ゛ああああぁぁ!!」
何度彼女の悲鳴を耳にしたことか。それだけ激痛を受けてきたイデアだが、理性はしっかり保っているのか、今だけは暴れずじっと耐え続けてくれた。
俺たちも助け出そうと、心を鬼にして容赦なく体を引きはがそうと力を入れる。ここまでボロボロにされようと、幾度となく投げ飛ばされようと、魔法の糸で死にかけるほど痛みつけられようと、意識が飛びそうなほど床に叩きつけられようと。それでも俺たちは立ち上がり、イデアを助けようと全力を振り絞ったんだ。
そしてとうとう、その思いが報われる時がきた。
「うう……うあああぁぁぁ!!」
「最後だイデア! 最後の踏ん張り時だ!」
「っく……あ゛あああぁぁぁ! があああぁぁぁ!!」
「っく! 離れろよ……こんのおおぉっ――!」
皮を剥いだようなベリッとした感触がして、イデアの足が魔物の体を離れた。その際に力が振り切れ、俺は勢い余って尻もちをつく。その拍子にイデアの体から手が離れると、他の二人からも手が離されていたイデアは、そこで起き上がっていたユリアによって体を受け止められた。ユリアは呆然とイデアの顔を覗き見ている。
「イデアちゃん!」
ネアが急いで起き上がり、イデアの顔を覗きこんで様子を伺った。魔物の体が動かなくなったのが目に映ると、俺も顔だけを動かしてイデアを見てみた。背中や下半身など、魔物の体についていた部分が全部紫色の液体に染まっている。酷く腐敗した臭いもしてくると、ネアはイデアの手首を掴み、二本の指を使って心拍を測った。
「……生きてる。ちゃんと生きてるよ、イデアちゃん!」
その報告に、俺の気持ちが舞い上がる。
「本当か! はあ、よかった」
そう言って近づこうとするが、体が言うことを利かない。それだけ限界が近かったのだと知る中、ラシュウも安堵の息をついていた。
「やったんだな、俺たち。ちゃんとこの子を助け出せた」
「やったよ! ネアたち、ちゃんと助けられたんだよ!」
イデアの体をもう一度見てみる。魔物の血に染まってはいるが、特別な外傷は見当たらず、今は気を失っているだけだった。
「頑張ったねイデアちゃん。本当によく頑張った……これからは、ネアたちが一緒にいるからね……」
そう言いながら、イデアの頭をなでるネア。その様子を俺とラシュウが黙って見つめる。イデアの小さな体を受け止めていたユリアも、猫の被り物の中からじっとイデアを見つめ続けていた。
その裏で、あの女は不服そうに一言呟くのだった。
「あーらら。本当に倒されるなんて」