17-8 俺を置いて、勝手にいなくなろうとするな!
イデアを助ける。そんな一心で俺は前に進み続けていく。依然ラシュウがイデアを相手にしていたが、そこまでの道を遮るように、ネアが俺の前に現れた。
「ネア? もう立って大丈夫なのか?」
顔を俯かせるネアにそう聞いたが、彼女はそれに答える代わりに神妙な声を出してくる。
「……ハヤピー。イデアちゃんを、殺すつもり?」
「いや違う。イデアを助けられる方法があるんだ。俺はなんとしてでもそれを――」
「聞いたよ。さっきの話し、ネアも聞いてた」
俺の話しを遮って、ネアは続ける。
「イデアちゃんの体。あれを引きはがせば、イデアちゃんは、ネアの妹は、助けられるかもしれない。そう言ってたんだよね?」
「ああそうだ。イデアの理性はまだ残ってる。魔物の体から引きずり出せば、助けられるはずだ。だから――」
俺がそこまで口にすると、ネアは頭を上げて俺を見てきた。既に多くの涙を流した跡が残った頬。それなのに、無理して笑おうとする表情。そんな悲しみに満ちた顔に、俺はなんと返してやればいいのか分からなかった。
「もう、助からないよ……イデアちゃんは。あんなになったら、絶対に、助からないよ……」
今にも泣き崩れそうな声。自分の身内であり、今まで知らなかった姉妹。その彼女の痛みを知っているかのように、ネアはそう呟いていた。
でも、俺は助けたい。目の前で苦しんでいると分かっているなら。この手が届くというのなら、なんとしてでも。
「絶対に助けてみせる。助けてみせるさ、ネア」
「助けるって、どういう意味か知ってる? 記憶を失って、どうしようもない事実を突きつけるのが、ハヤピーの言う、助けるって意味なの?」
「そ、それは……」
俺は、言葉を失う。ネアの言っていることは、助けた後のこと。魔物の呪縛から解き放たれた後に残る後遺症なんて、怒りのせいで全く考えてなかった。
「ネアたちはもう、何もかも奪われた。ううん。壊されたの。心も。体も。家族でさえも。全部、全部壊された。ネアたちの人生は、全部壊されたの。それで残ったのは深い絶望。お母さんに利用された、残酷な真実。それを知ることになるって分かっていても、ハヤピーは助けられるって言うの?」
ネアの顔を直視できず、顔をそらしてしまう。その先で、ユリアが依然、意識がどこかに飛んでいってしまったかのように呆然と膝をついているのが見えた。床には粘り気のある水が広がっているというのに、それにも全く気にしていない様子だ。
深い。深すぎる。彼女らが今、どれだけ心の中に絶望を埋め込まれたのか。外から見るだけで十分すぎるほど伝わってしまう。
イデアも、そうなってしまうのか?
木の枝のように細い腕が、ラシュウを殴りつけるために奮われる。俺のイタズラに使った水魔法が、俺たちの足元を侵してくる。閉じたままだった目には、世界のどこにもなかった闇を映し出している。
イデアはもう、すっかり変わり果ててしまった。あれが人間に戻るのだろうか。無為に痛みを与えるだけなんじゃなかろうか。それに果たして、彼女を人間に戻すことが、彼女を救うことになるのだろうか。そんなの結局、自分なら助けられると思い込んでいるだけじゃないのだろうか。
「実験でラシュウたちに血を与えて、それをネア自身が拒まなかった。とても罪深いことをしちゃったのに、ネアはそのことを忘れてしまってた。こんな辛いこと、忘れられるんだったら忘れたかった……」
とうとう、ネアは座り込む。
「嫌だよ……もう、壊されるのは嫌……」
その言葉がたちまち、俺の心を侵食してくるように痛く刺さる。
「ねえ、ハヤマ」
ネアの呼び方が変わる。彼女は思い切ったような顔をして立ちあがり、腰の剣を引き抜いて刃先を自分の首筋に突きつけた。
「お前!? 何やって――!」
「ネアが一足先にいくからさ。ハヤマ君は、イデアちゃんを楽にしてあげてね。そしたら、ネアが天国で、イデアちゃんの面倒見てあげるから……」
手を出したら、本当にネアが自分を刺してしまいそうで、俺はただ訴えることしかできなかった。
「冗談じゃない。馬鹿なことはやめろ!」
自殺するなんて馬鹿げてる。
「忘れられなかった分、今まで生きてきたじゃないか! ラシュウとユリアと一緒にいて、俺たちみたいな人と会って! まだこれから、この惨劇を忘れられるくらい、楽しいことが待ってる可能性だってあるだろ!」
ひたすらに止めようとした。言葉で殴りつけるように、とても強く言い放った。
だけど、ネアは涙を流して笑った。
「もう、期待させないで……」
腕を首まで、一気に押し当てようとする。それを止めようと手を伸ばすが、一歩出遅れてしまう。
「ネア――!?」
俺の手が届かないと察してしまう。首が、切られる――。
「……誰が、ここで死んでいいって言った?」
彼が、声をかけていた。ネアの剣を寸前で、刃の部分を直に触って止めながら、彼はネアに顔を向ける。俺の尻目に、イデアが体に突き刺さった槍を抜こうとしているのが映る。
「……ラシュウ。ネアを止めないでよ。もう、楽にさせてよ……」
ネアが力なくそう言うと、ラシュウはカッと目を赤い目を見開いた。
「俺を置いて、勝手にいなくなろうとするな!」
一つの怒号が、部屋一杯に響いた。ラシュウはネアの剣を奪い取り、苛立ちの声を続けた。
「お前が言ったことだぞ! この実験場を出られた時、これからは三人で生きていこうって。他の被検体たちが自ら死んでいく中、お前は俺たちにそう言ってくれた。その言葉が、どれだけ俺の心を救ってくれたことか! なのに、言い出しっぺのお前がここで生きるのを止めてどうする!」
その間にイデアが槍を引き抜くと、俺たちの下へ走ってきた。とっさに俺は前に出て彼女の注目を誘い、イデアが力任せに振り下ろしてきた槍をサーベルで受け止める。落石のような攻撃に踏ん張ってみせながら、俺も思い思いに叫ぶ。
「壊されたのなら、いくらでも作り直せばいい! 現に俺はそうしてきた。異世界に来るまでただの死人のように生きていたけど、ここできっかけを手に入れて、自分で変わろうとして強くなって、過去の自分とも向き合って、新しい自分と出会えた」
鼻息を荒くして、槍の攻撃を返してみせる。
「それで今は、比較的最高の人生になってんだ。分かるかネア! ここで諦めたら、もう過去の過ちも何も、全部取り戻せないんだよ!」
「ハヤマ……」
「いつものあだ名はどうした? 名前だけでも明るい人間になるようにつけたあれは? お前がそんなに暗いなら、俺がお前のことネアピーとでも呼んでやろうか?」
よろめいていたイデアが再び迫り、今度は槍を横に薙ぎ払ってきた。豪快な振りに、サーベルが手元から宙に舞い上がってしまう。
「っが! しまった!」
すぐさまイデアの左手から氷の糸が飛び出てくる。それがまた首に絡みつこうとして、俺はなす術もなく目を瞑ろうとした。けれどその時、背後から誰かが俺の前に飛び出してきた。流れていた涙が風に流れ、俺の頬に一粒当たってくる。その冷たさを感じていると、彼女は手に持った剣でその糸を切り落としていた。
「ネア! お前!」
「逃げたくない! ネアは――」
前を向き、立ち直ろうとするネア。そこにイデアがまた槍の振りかぶってくる。
「っく! ――うう!」
ネアの体がずるずると押されていく。腕がだんだんと押し上げられ、限界が迫っていく中、とっさに近づいたラシュウが、ネアの背後から腕を回して剣を一緒に握った。
「諦めるな! お前と俺とユリア。そして、この子を連れてここを出るぞ!」
「ラシュウ! ……うん! 絶対にそうする!」
二人が力を合わせて剣を押していく。蜘蛛の足も止まったのを見て、俺は急いで背後に飛んでいったサーベルを拾いに走った。その間に、背後の二人が声を振り絞る。
「うおおぉぉぉ!」「はああぁぁぁ!」
二人の剣が、最後の一押しまで強く振り切られる。蜘蛛の体が押され、大きく後ろに下がっていくと同時に、槍も宙高く舞い上がっていった。ラシュウはすぐに飛び上がり、空中でその槍をしっかりと掴み取った。
サーベルを取り返した俺がネアの隣に立ち、同じく槍を取り返したラシュウが逆の隣に着地し、俺たち三人が並ぶ。不躾かもしれないと思いながらも、俺はネアに聞く。
「戦えるんだなネア。もし無理してるなら、早く離れた方がいいぞ」
ネアの首が横に振られる。
「ううん。もう散々泣いたし、散々嫌な思いもした。もうネアには何も残ってない。だからこそ、ネアは今、新しく生まれ変わるの。ラシュウとユリアと一緒に。その中に、イデアちゃんも一緒にいれて。だから、ハヤピー」
名前を呼ばれ、彼女と目が合う。強い涙跡を残した顔。その瞳が今は、ちゃんと光ってみえる。
「また一緒に、手伝ってくれる?」
俺は嬉しくなって微笑んだ。
「お前がまたよく笑うようになるのなら、俺は何度だって協力してやるさ」
「……うん。ありがとう!」
邪悪な気配に向き直り、魔物化したイデアが気味悪い目を向けているのを目の当たりにする。
六つの単眼と、イデアの汚れた二つの目。ネアが決意を決めた今、なんとしてでも彼女の瞳に光を宿さなければならない。ラシュウが確認を取るように俺に聞いてくる。
「ハヤマ。戦ってる時に聞こえたせいではっきりしてないが、あの子はまだ死んでいないんだな?」
「そうだ。イデアはまだ生きてる。あの魔物の体から、彼女の体を引っ張り出せれば、イデアは解放されるはずだ」
俺がそう答え、ラシュウは槍を構えながらイデアに向き直る。
「なら、さっさと解放してあげよう。もうあいつらの実験に振り回されるのは御免だ」
そう言ってラシュウが一気に走り出した。イデアの手から炎と氷の糸を伸びてくると、ラシュウは身を捻りながら槍を奮い、それらを切り落とした。同時に、切れた糸が落ちる前に、彼は一瞬にしてその場から高く飛び上がり、上空から迫っていく。
「レイジストライク!」
槍を下に向け、天から急降下してくる。その刃が蜘蛛の体を捉えたかと思ったが、イデアがとっさに両腕を上げて糸を操ると、槍の柄に何重にも絡みつき、体に突き刺さる前に空中で固定されてしまった。
「っく! 動かない!」
ラシュウが力いっぱい腕を下ろそうとしても、槍はビクとも動かない。イデアが両腕を振り上げ、操り人形のように槍を扱うと、それを掴んでいたラシュウの体ごと宙に浮きあがり、そのまま奥の壁に向かって放り投げてしまった。
「ラシュウ!」
ネアが叫び、大きな音と振動が響き渡る。激突したラシュウが立ちあがろうとするが、膝を崩して片手を床につけてしまう。それを見て、ネアが悔しそうにイデアに振り返る。
「これ以上は!」
糸の水に足を取られながら、ネアがそそくさと走り出していく。だが、再びイデアが糸を魔法で出しては、近づいてくるネアに向けて伸ばしていた。
両手首に糸が絡みつく。イデアが両腕を大きく広げると、ネアの腕も同じように開かれた。また操り人形のような状態になってしまうと、腕を交差させ、更にネアの腕を広げようとする。
「っくう……ああ!!」
このままでは腕を引きちぎられる。俺は急いで走り出す。
「ネアを放せ!」
サーベルを使い、左腕についていた氷の糸を切り捨てる。急いでもう片方の糸も切ろうとしたが、とっさにイデアが腕を上げると、さっきのラシュウと同じようにネアの体が宙に浮いた。
「ネア!? やめるんだイデア!」
「フン、ウラアアァァァ!」
イデアは俺の声に耳を貸さず、そのまま糸を操ってネアを放り投げた。その先がラシュウと同じ方向に向かっていると、立ち上がろうとするラシュウの上に直に落ちていった。
俺だけがイデアの前に残る。イデアはまた糸を繰り出してくると、俺はサーベルを持ってそれらを切り捨てた。だが、切れた部分からまたすぐに糸が伸びてくる。
「マジか!」
急いで武器を振りなおすと、また糸が伸びる。それをまた切っては伸びてくるのを繰り返すと、俺は後ろに下がりながらひたすらにサーベルを振り続け、なんとしてでも耐えしのごうとした。
「ぬおらあぁ! やられて! たまるかってんだあ!」
一キロはあるサーベルで、右に左に、上に下に斜めにと振り回す。これまでにない動きに体も悲鳴をあげてくる。それなのに、どれだけ頑張っても状況は変わらず、果ては、糸を出すイデアが俺に近づいてきていた。
糸は容赦なく伸び続けてくる。このままではイデアの腕に直接掴まれてしまう。糸によって逃げることも叶わない。
どうにかしなければ。
だが、どうすれば?
どうすれば、イデアを助け出せるんだ。