17-7 探せばあるはずだ!
ラシュウが背後のネアを庇えるように身構えると、俺も赤目の人格を呼び覚まそうとした。殺意は十分湧き上がっていて、いつでもこの意識が遠のいていきそうだ。
そんな赤黒い意識を集中させる。心臓から始まり、全身が熱くなるのを感じてくる。血管をたぎらせ、網膜にまで昇ってきたかと思ったその時、俺はついイデアの顔を見てしまった。人とは思えないくらいの潔白とした顔が、俺の殺意を鈍らせてくる。
純潔で好奇心のまま生きていたイデア。どす黒い色に変わり果ててしまったとしても、彼女だと認識できてしまう。そんな彼女に、殺意を向けるのか?
「ハヤマ!」
ラシュウに呼ばれてハッとすると、俺の目の前に二本の糸が飛んできていた。それぞれ炎と氷で作られた蜘蛛の糸。あっという間に俺の両手首が捕まってしまう。
「っな! しまった!」
急いで二本の糸を引きちぎろうとしたが、ジリジリと焼ける痛みと、ピリピリと皮膚がはがされそうな痛みに襲われる。
じわりとする痛みをこらえながら、なんとか頭を上げてみる。蜘蛛の糸を掴んでいたのはイデアだ。彼女は細腕からは想像つかない力でそれを引き、段々と俺の体が引っ張られていく。俺は必死になって苦悶の顔を浮かべるのに対し、カミエラはとても上機嫌に笑い出す。
「アッハッハ! まさか魔法まで使えるなんて、これはかなりの傑作だわ!」
腹立たしい言葉だ。今すぐにでも殴ってやりたい気分だが、俺は両方の痛みに耐えるのに必死だった。なんとか足を踏ん張らせてその場にとどまろうとしていると、ラシュウが助太刀に飛び出してきた。
流れるような二度振りで糸が断ち切られ、俺はその場から急いで下がりながら両手首に絡んだ糸を取り払う。どちらも肌が真っ赤に変わっていたが、腫れた部分を撫でる暇もない。すぐに体勢を取り直すと、その間にラシュウが臆することなくイデアに迫っていた。
「はあ!」
威勢よく突き出された槍が頭に向かう。イデアの不気味な目が、その刃の頂点をしっかり捉えていると、とっさに体を横に捻り、槍の刃は後ろの胴体に突き刺さった。短い刀身のすべてが、蝋燭に爪楊枝でも突っ込むかのように胴体に食い込んでいく。イデアは何も感じていないのか、ビクともしない反応を見せつけていると、ゆっくりと槍の柄に手を回した。
慌てて槍を引き抜こうとするラシュウ。だが、槍を持つ主導権がイデア移っていると、彼女は抜き取った槍を高々と上げ、ラシュウごと叩きつけるように投げ捨てた。ガタン、と鉄の音を響かせながら背中を打ち、ラシュウが俺の隣まで跳ねてくる。
「大丈夫か!?」
「この程度、なんてことはない」
すぐに立ち上がるラシュウ。目立った外傷はなく、本当に無事だと言わんばかりに話しをしてくる。
「糸に魔法を込められるのが厄介だ。捕まった瞬間に、やられる可能性がある」
炎と氷の糸。彼女の手に握られたそれを目にして、俺はある出来事を思い出す。初めて彼女と会った時、使える魔法の話しをした時のこと。両手から魔法を出し、実演していたあの光景。
「イデアは元から、炎と氷の魔法が使えていたんだ。その効果が魔物になっても残ってるのかもしれない」
「なるほど。魔法を使えるのは彼女自身の力か。彼女が使えたのは、その二つだけか?」
「いや、まだ一つある」
唯一身をもって受けた魔法がまだ残ってる。額に向けられてイタズラされた魔法。それが何か口にする代わりに、イデアは両手を床に向けて広げ、そこに青色の魔法陣を作り出した。そこから妙に泡っぽい水が湧き出てきたかと思うと、魔法陣をはみ出るほどそれらが溢れてきて、俺たちの足下まで流れてきた。
「これは、水魔法か」
ラシュウが納得する横で、俺は片足を上げてみようとする。すると、靴がスライムにでも粘着したように離しづらく、尚且つ足を戻した時に滑りそうになった。
「っと!? なんだこの水。足場が最悪だ」
ローションとも呼べそうな液体だ。それが既に入り口にいたテオヤたちの所まで広がっていて、完全に俺たちの足場は支配されている。ラシュウは落ち着いてしゃがみこみ、その水を指で粘り気を確かめてみる。
「この粘着。蜘蛛の糸が混ざっているようだ」
「そういうことか。さっきの炎と氷の糸といい、魔法が魔物の力に影響して変化してる。こんなの、俺の知ってるイデアじゃない」
「彼女はもう変わり果てている。さっさと止めを刺してあげるのが、一番の救済だろう」
とっさに俺は「駄目だ!」と叫んでいた。
「イデアはまだ生きてる。殺すなんてできない」
そう口にするや否や、イデアが蜘蛛の足を使って近づいていた。両腕が今にも振り下ろそうとしているのを見て、俺たちはその場から飛び退いていく。
床が叩きつけられ、振動が響く。イデアは立て続けに二色の糸がそれぞれに伸ばしてきて、俺は足を取られて転びそうになりながらも、狙ってくる炎の糸を身を捻って避けると、離れたところからラシュウの声が聞こえてきた。
「無理を言うな。化け物と化した奴を殺さずして、この状況をどう打破するつもりだ!」
氷の糸を何重にも切り刻んでいるラシュウ。俺もその場でサーベルを構え、炎の糸を断ち切る。
「探せばあるはずだ! イデア自身は魔法で生き返ってる。実験でこうなったとしても、お前たちが生き残っているのなら、こいつにだって生き残る方法があってもおかしくない!」
叫んでいる間にも伸びてくる糸を切り続ける。ラシュウも同じように懸命に槍を奮っている。
「根拠もなしによく言う! 一度は死んだ人間なんだろ。だったらもう、安らかに眠らせてあげるべきじゃないのか!」
切る度に新しい糸が伸びてきては、俺たちはそれを切り続けていく。
「こいつを、イデアを、俺は死なせたくはない! 生きる権利すら与えられなかった彼女から、これ以上希望を失ってほしくない! だから!」
俺がそう言い切った時、一本の糸を切りそこない、体勢を崩してしまった。振りかぶったサーベルに体重が持っていかれる。それに加えて、とっさにバランスを取ろうと動こうとした足も水魔法に取られて、俺は尻もちをつくように倒れてしまう。
「しまった! ――くっ!」
目の前に炎の糸が迫り来て、俺の首に巻きついてきた。
首の皮膚に焼けるような熱が伝わってくる。細い糸が何重にも巻かれ、熱した焼き網に叩きつけられているような感覚。突き出た声帯も締め付けられ、まともに息も吸えない。
「ハヤマ!」
ラシュウが助けに来ようとしたのが見えたが、支配された足場と氷の糸によって、その場から動けない様子だった。
俺は痛みに意識を持ってかれそうになりながらも、なんとか自分の手で糸を引きちぎろうと動かした。だが、それより先にイデアが俺の前まで歩いてくると、蜘蛛の足で俺の両腕を床に踏みつけてきた。四つん這いの体勢になった俺に、イデアが顔を近づけてくる。手から炎の糸を離し、その手で俺の首を直接掴んでくる。
首がへし折られそうなほど力が込められる。腕も上がらず、足も蜘蛛の体が邪魔で上げられない。抵抗手段が一切見つからない。
「イ゛……デ、ア゛」
彼女の目を見たまま、やっとの思いで名前を呼ぶ。動かせるのが口にしかなくて、足掻こうとして出てきた言葉がそれだった。すると一瞬、首を掴む手が緩んだ気がした。
「……ハ……ヤ……マ」
彼女の喉奥から、微かにだがそう聞こえた。そしてイデアの赤い目から、たった一粒の涙が零れ落ちていた。
名前を呼ばれた。彼女の声で。そう。紛れもないイデア自身の声で、俺は名前を呼ばれた。俺を知っている彼女が、俺の名前を呼んだんだ。
首に伝わっていた熱が一気に冷めていく。間違いない。イデアはまだどこかに残ってる。こんな醜い姿になろうが、彼女の意志はまだ生きている。
生きているなら、助けるしかない。助けてやるんだ。今度こそ!
決心を新たにしていると、横目にラシュウが映り込み、彼の槍が蜘蛛の体を深く突き刺した。
「フラアアァァァ!!」
イデアの口から気味の悪い、魔物としての叫び声が飛び出る。同時に蜘蛛の体がよろめき、俺の腕から足がどけられた。急いで腕を上げて首についた糸を引きちぎり、酷くせき込みながらなるべく遠くに離れていく。
「ッゲホ! ッゲホ! ……があ、はあ、はあ。死ぬかと思った……」
吸い込んだ息が焼けようとした喉を冷ましていく。それに少し刺激を感じながらも、サーベルを床に突き立てながら、なんとか呼吸を整えていると、背後から見ているセレナから声が飛んできた。
「大丈夫ですか! ハヤマさん!」
「おい、口を慎め。カミエラ様の前だぞ」
黒服に注意されるところまで聞こえた時、俺は片腕を広げてなんとか親指を立てた。それで伝わっていると信じていると、カミエラの微笑む声が耳に入った。
「ウフフ。彼はやる気なのね。中々の勇気じゃない」
いけ好かない態度につい舌打ちをする。イデアはラシュウを狙っていて、ラシュウは何とか攻撃を耐え忍んで時間を稼いでくれている。その間に、俺は呼吸を整えようとする。
そんな時、アマラユから耳を引っ張るような言葉が出てきた。
「あれは失敗だな、カミエラ」
失敗? イデアのことか?
「どうしてそう言えるのかしら?」
「見れば分かるだろう。赤目と魔物、両方の力を持っている割には、あまりにも弱すぎる」
「そう。薄々思っていたけれど、やはりそうだったのね」
あれが弱いってのか? あれだけ見た目が変化して、力だって遥かに上昇したあれが?
「今だって、赤目の半分の力も持たない彼に苦戦している。本来予想していた力よりはるかに劣っているわけだ」
「ふうん。残念ね。何がいけなかったのかしら。赤目と魔物の力が噛み合っていないのか、はたまた彼女の器では足りなかったとか?」
未だにイデアを実験台としか見ていない口ぶりに、俺は苛立ちの目を向ける。
「また勝手なことを。俺たちがイデアにやられたら、お前たちはまたあいつを改造するんだな。それだけは俺が許さない!」
サーベルの刃先をカミエラに向ける。彼女はあざ笑うような目で俺を見てくると、アマラユが俺を止めるように腕を広げた。
「まあ待て。私には一つ、心当たりがある。彼女が本物の力を得られなかった理由。そして、助け出せるかもしれない方法を」
助け出せる! つい「本当なのか!」と聞き返していると、彼は持論を展開した。
「魔物に理性が備わっていないのは知っているか? 奴らは理性がないからこそ人を襲うし、頭を働かせないからこそ、本能のままに力を奮うことができる。逆を言えば、理性を失って暴れてしまえば、そいつは魔物と同然の生き物になりえるわけだ」
一度言葉を区切ると、アマラユは腰裏に手を伸ばし、真っ黒い液体が詰まった小瓶を見せてきた。
「これは魔物の脳を潰して作った特殊液だ。あの子にはこの液体が埋め込まれているわけだ」
その発言にセレナが顔を歪ませた。気色の悪いことを堂々と言う男だ。
「私は魔物を解剖して研究したことがあってね。彼らの脳にはそもそも人間とは違うんだ。そんな研究をしていた頃に、偶然この女と出会ってね」
アマラユの目がカミエラに向く。黒服がとっさに「おい、カミエラ様を!」と突っかかったが、カミエラが抑えるように腕を広げて、黒服がすぐに黙り込んだ。説明が続く。
「赤目と魔物を組み合わせれば、きっと今までにない強者が生まれる。滅茶苦茶な理想だとは思ったが、私とて興味がなかったわけではなかった。彼女の実験に付き合った結果、あの子は今の姿に生まれ変わったわけだ。だが、彼女は完成ではない。なぜなら彼女には――」
「フラアアァァァ!!」
そこでイデアがまた奇妙な魔物の叫びを上げていると、ラシュウの攻撃によって蜘蛛の胴体が傷つけられていた。イデアの顔が、痛みという苦痛に悲鳴を上げている表情を浮かべている。その様子に対し、アマラユはこう言った。
「彼女にはまだ、理性が残っている」
俺は耳を疑う。
「理性がある!? 本当なのか?」
「魔物の凶暴性を持っていながら、あれだけしか力を解放していないのは不可解だ。きっとあの少女が、自分の中で力を抑え込んでいるのだろう。お前を前にした時も、一瞬力が抜けていたはず。それが何よりの証拠だ」
イデアが俺の首をへし折ろうとした時、一粒の涙をこぼしたあの瞬間。あの時聞こえた、イデア自身の声。
「あの中に、イデアは残ってる。理性が残っているなら、彼女自身は魔物になっていない! あの体を引きずり出せれば、イデアは完全に魔物から離れられる。そう言うことだよな?」
俺の出した推測に、アマラユはすまし顔を浮かべる。
「命の保証はないがな。彼女の体は既に魔物と化している。無理やり引きはがすということは、体を引きちぎるのと変わらないわけだ」
「だとしても、可能性があるならやるしかない」
俺はそう呟きながら、再度アマラユの顔をまじまじと見つめた。彼はそれを見返してくると、動じることなく「何かな?」と一言だけ言ってきた。そこまでの様子に嘘の気配を感じられないでいると、俺は彼から目を離した。
「いや、最後まで疑っていただけだ。とりあえず、お前が気分でこの実験に参加した狂った人間ってのは分かった。その言葉、信じさせてもらう」
そう言ってラシュウとイデアの元へ歩いていく。なんとか自分の力で、あのイデアの体を魔物の体から引きはがす。その方法を頭の中で探りながら進んでいく。その後展開されたカミエラたちの会話には、俺は気づかなかった。
「アマラユ。どういうつもりかしら?」
「何がだ?」
「イデアを助ける方法を教えるなんて。まさか、その方法も本当のことを言ったつもりじゃないでしょうね?」
「私は嘘をつくのが苦手でね。考えうる予測を口にしたまでだ」
「あらそう。勝手な真似をしてくれたってわけね。私の娘なんだから、変なことはしてほしくないわ」
「家族関係にとやかく言うつもりはない。そもそも私は、あなたの実験や新世界なんかに興味はなくてね」
「ならどうして、私に協力してくれたのかしら?」
アマラユは右手に握りこぶしを作ってみせる。
「私自身の野望。それを果たすための寄り道だよ」
「世界に復讐するためのかしら?」
「そうだ。そのためには、ハヤマ。貴様も無事には済まさない……」
その言葉を、セレナはしっかりと耳にしていた。