17‐4 見覚えがある
「嘘だろ……セレナ! いないのか! ネア! どこにいったんだ!」
息を整えながらそう叫んでも、どこからも返事はない。端に置かれたセレナのバックパック。床に敷くはずの布団が壁に投げられたようにもたれかかっていて、真ん中には座布団と丸テーブルがひっくり返っている。
「ラシュウ。俺の言葉は分かるか?」
「ああ。さっき突然に分からなくなったのは、お前とセレナの距離が離れたからなのか?」
「きっとそうだ。翻訳魔法のトランスレーションは、対象と距離が離れてしまえば効果が届かなくなる。今全力で走ってきて聞こえてるってことは、セレナはまだ近くにいるはずだ」
「ハヤマ。窓を見ろ」
ラシュウに言われて部屋の角を見てみる。ガラスなどを使わず、ただ木の格子があっただけのその窓は、格子の柱が破壊された跡が残っていた。
「これは……この大きさ、身を縮めれば人が出入りできるくらいだ。まさか、ここから誰かが入ってきたのか?」
ラシュウが身を乗り出して外に顔を出してみる。二階の高さにあるこの部屋からなら、地面までの距離はさほど高いものではなかった。
「ここから侵入されたと考えるのが妥当だろう。セレナには転移の魔法があるんだろう?」
「クソ! なんだってセレナまで!」
そう吐き捨てながら怒りを覚えると、部屋の真ん中に灰色の魔法陣が浮かび上がってきた。噂をすれば転移の魔法だ。真っ先にセレナの仕業だと気づくと、光の柱から見えてきたのは、膝をつきながら息を乱すネア、ただ一人だった。
「ネア!?」
苦しそうに息切れする彼女に、ラシュウが慌てて駆け寄る。
「無事だったのか?」
「ラシュウ? ユリアもいるの? ここは、セレナちゃんの部屋?」
「何があったんだネア? 誰に何をされたんだ?」
「ネアは大丈夫。平気だよ。でも……あ!」
ラシュウの背後にいた俺を見ると、ネアの表情が一変した。
「大変なんだよハヤピー! ネアたちのところに黒服たちが襲ってきて、ネアたちに魔法をかけて拘束してきたの。そのままどこかに連れ去られそうになってけど、セレナちゃんがネアに転移魔法を使ってくれて、ネアは今大丈夫になって。大丈夫なんだけど、でも、でも――」
「落ち着けネア」
堂々巡りになりそうになるのを、俺は両手で気持ちを静めるように諭す。
「ゆっくりでいいから、丁寧に説明してくれ」
「分かってる。分かってるけど、セレナちゃんの周りには、まだ黒装束の人たちがたくさんいるの。きっともう魔法を使えないようにされてるかも。速く助けてあげないとセレナちゃんが、セレナちゃんが……」
思わず泣き出しそうな顔に変わっていくネア。それにつられるように俺も焦りを憶えるが、今はとにかく情報だと自分に言い聞かせる。
「セレナを連れ去ったのが、前にネアを攫った黒装束と一緒なんだな?」
「うん。ごめんハヤピー。ネアのせいで、セレナちゃんが……」
「安心しろ。セレナは絶対に取り戻す。俺はあいつらを絶対に許さない」
片手を強く握る。俺は絶対に奴らを許さない。セレナを誘拐したことを、必ず奴らに後悔させてやる。湧き上がりそうになる殺意を理性で保ち、抑える。
「とりあえず、奴らの居場所を突き止めないと。ネア。その黒装束がどこにいったか分かるか?」
ネアの顔を見てそう聞いたが、ネアは困ったように首を傾げていた。その様子が単に知らないだけというより、もっと根本的に理解できていないように感じられる。まさか、という言葉が脳裏によぎった時、隣にいたラシュウが自分の口に指を立て、首を横に振った。言葉が通じていないと、彼は伝えようとしている。
「マジかよ。もっと遠くに逃げやがったか」
今もなお、黒装束はセレナを連れて逃げている。なんとかできないかと考えようとすると、俺の前にユリアが歩いてきた。片手に持っていた一枚の厚紙を、黙って俺に渡してくる。厚紙を手に取ると、そこには不規則な図形とうねった線、そして異世界の読めない文字が書かれていた。
図形に見覚えがある。恐らくこれは地図だ。
一番外側の線から察するに、この地図はログデリーズ帝国の全体図。国境線に近い王都ラディンガルと、その隣に位置する都ジバの間には、赤い丸と異世界の文字が書かれ、いかにも目的地として目立たせている。
もしやここにセレナが連れていかれたのか。そんな予想が頭の中をよぎると、ネアが横から顔を覗かせて地図を見てきた。パッと見ですぐに目に入る異世界文字を見ると、ネアがそこを指差しながら俺を見てくると、何かを訴えるように話しかけてきた。しかし、案の定ネアの言葉が分からないでいると、それを察したのかネアは、とっさに俺の服の袖を引っ張ってきた。
彼女の今の行動で予想が確信に変わっていた。地図に書かれた場所にセレナがいると分かると、俺は腰にサーベルがついているのを確認し、急いで窓から飛び降りようとした。
「待ってろよセレナ。今行くからな!」
壊れた窓に向かって体を丸めるように飛び出し、そのまま空中で一回転してから片膝をつけるように着地する。そしてすぐに顔を上げると、地図を頼りに俺は駆け出した。背後からもラシュウとネア、最後にユリアが飛び出してくると、俺は三人と一緒に城を抜けて都を出ていった。
地図までの道のりは遠かった。都だけでも三十分は走ったというのに、そこから更に一時間以上走っても、まだ目的地は見えてこなかった。走っては歩き、少し休んで回復してはまた走ってを繰り返し、もう十キロは平原を進んできただろうか。空にはもうくっきりと光る満月が昇っていて、ジバの城壁も全く見えなくなっていた。
そうして、やっと目的地の近郊。敷地的にはラディンガルの城下町に近い所まで来ていると、俺たちは今、見知らぬ森を奥深くを突き進んでいた。
辺りに漂う霧と湿った空気が、夜の静けさに相まって不気味さを醸し出してくる。暗がりの中に木が生い茂っているだけの林を、セレナが見つかるまで適当に歩き続けていくが、全く見つかる気配がない。俺は一度足を止め、ユリアから受け取った地図をもう一度確かめた。
「ここら辺のはずなんだが、誰もいねえじゃねえか」
荒々しい口調でそう呟きながら、再び途方もない森の中を見回す。頭をかいてどうしようかと悩んでいると、横からラシュウが前に出てきた。
「……見覚えがある」
「うお!? 急にまた言葉が。……って、ここに来たことがあるのか?」
どこにでもありそうな林だったが、ラシュウは気を張ったような顔でこう言った。
「ここは間違いなく、あの場所に繋がっているはずだ」
「あの場所?」
「ネアも知ってる。ここを通って逃げた記憶が残ってる」
ネアも前に出てきた。彼女の顔も、いつものおちゃらけた様子とはまるで違う。
「逃げたって。じゃこの近くでまさか」
逃げるという言葉で勘付いた俺に、ネアが目線を向けて黙ってうなずく。そして再び前を見返すと、霧に包まれた先を真っすぐに指差した。
「記憶違いじゃなければ、この先に……」
不安そうな声で言葉が途切れると、ラシュウが霧の中を進もうと歩き出した。それに俺たちも続いていて歩いていく。
霧は段々と濃くなっていき、肌に当たる湿気が強まってくる。もはや水の中にいるかのように錯覚してしまうほどの冷たさ。もしかして、神隠しにでもあったんじゃないかという不気味さが募った時、突然、俺たちの周りから霧が一気に晴れるのだった。そして、俺たちの目の前には、錆だらけになった鉄製の小屋がポツンと建っていた。
「なんだ、これは?」
そう呟きながら俺は小屋に近寄ってみる。鉄扉が一つだけつけられたその建物は、全身茶色の錆だらけで薄汚く、中に入っても五、六人ぐらいでいっぱいになりそうなほど小さかった。
ここが地図で記された場所なのかと疑うと、背後からふとネアの声が聞こえた。
「ユリア? どうしたの?」
ネアが近づいていくと、ユリアは頭痛でも起きたのか片手で猫の頭を抑えていた。
「大丈夫? 頭、痛い?」
心配そうに声をかけるネア。ユリアは空いた片手を突き出してネアを止め、頭から手を離して何事もなかったかのように顔を上げた。
ネアは確かに言っていた。ユリアだけは本物の記憶喪失だと。もしかしたら、この小屋を見たせいで当時のことが蘇りかけたのかもしれない。それを察したかのように、ラシュウが喋り出す。
「ここから先に行くなら、人数を絞った方がいい。この先はきっと危険だ」
ラシュウの顔が動くと、フードに隠した瞳を、二人だけに見えるように向けている。
「ネアとユリアはここに残れ。ネアはともかく、ユリアにとっても危険すぎる」
「そんな!」
ネアが口答えするのを無視して、ラシュウが俺に振り向く。
「お前はどうする? 行くとするなら、お前にも覚悟が必要だ」
「セレナが攫われたんだ。行かない理由なんてないし、覚悟だってとっくにできてる」
「そうか……」
「待って! ネアも行くよ」
いきなり飛び出た言葉に、ラシュウが「駄目だ!」とすぐに振り返る。「どうしてよ!」と反論する彼女に、ラシュウは険しい顔つきを変えない。
「お前じゃこの先に行っても、足手まといになるだけだ」
「それでも! ネアはセレナちゃんを助けたい。三年前だってネアは助けられたし、今日だってセレナちゃんに助けられたもん。いつまでも助けられたまんまじゃ、ネアは嫌だ!」
「お前の分も俺とハヤマで助け出す。ネアはここでユリアと待っていろ」
「ネアも一緒に行く。足手まといなんかにはならない。絶対にならないから!」
断固として引かないネアに、ラシュウがついに黙り込む。この押し問答にこれ以上付き合ってられないと思った俺は、先に扉を開けてしまおうとした。
「悪いが先に行かせてもらうぞ。セレナが待っているからな」
「待てハヤマ」
ラシュウの声が俺を止める。
「なんだ?」
俺は不機嫌そうにそう返したが、ラシュウの様子は少しおかしかった。さっきまでとは少し雰囲気が変わったというか、俺たちが来た霧の中を集中して見ているようだった。ユリアも片手を胸元に伸ばし、いつでもクナイを出せるよう準備をしてる。
二人の警戒心に誘われ、注意深く霧の中を見てみる。微かに足音が聞こえたかと思うと、霧の中から人影が見えてきた。影はざっと十人。扇状に彼らが霧の中から正体を現すと、ペストマスクの黒装束を束ねた、テオヤが姿を見せた。
「入るだけで時間のかかる奴らだ。中でカミエラ様が待っておられる。さっさと中へ入ってくれないか」
「テオヤ! どうしてここに? まさか、俺たちをつけてきたのか?」
「お前たちをカミエラ様の前に差し出す。それが俺が受けた命令だ」
自然と舌打ちをしていた。あのうさん臭い眼帯女に従うのが、そんなに大事なことかと今にも殴りかかりたい気分だった。
「セレナを攫ったのはその女の指示なんだろうな? もしセレナに何かあったら、俺はお前たちを!」
腰のサーベルに手をかけながらも、こみ上げてくるものをなるべく抑えようと踏ん張る。
「彼女は無事だ。その実験場の最下層にいる」
「本当なんだな?」
威圧するようにそう聞いたが、テオヤからの返答はなかった。生意気な態度。顔が見えないせいで本心かどうかも分かりづらいことにもイライラする。
「嫌な態度だ。何が狙いかは知らねえが、早く案内してくれよ。その最下層ってところに。そこにカミエラ様ってのもいるんだろう?」
俺が荒々しくそう聞くと、テオヤの顔がネアたちを順に見回した。
「お前たちにも来てもらう。断るのなら、この場で死ぬ覚悟を決めることだ」
テオヤのその言葉に、俺たちを囲う黒服たちが一斉に魔法陣を浮かび上がらせる。色とりどりの魔法陣が、俺たちに逃げ場がないことを知らしめてくる。ラシュウがボソッと「卑怯な」とだけ呟いたのが耳に入ると、テオヤは片腕を広げて黒装束が魔法陣を消した。
「ついて来い」
テオヤが俺たちの間を通り過ぎ、錆びた鉄扉を開けた。彼の後に俺は躊躇いもなく続くと、後からラシュウたちと、最後尾に黒服たちも続いてくる。