※‐2 新しい出発地点
大量に詰まっていた箱の中身が、あっという間に消える。跡形もなくきれいさっぱり食べ終わり、セレナはそれを片づけてバックパックに戻す。そうしてまた俺たちは、雨に打たれ続ける、美しさの欠片もない湖を眺めていた。
「……日頃の行い、なのかもな」
ふと、俺はそう呟く。
「どういう意味ですか?」と、セレナに聞かれる。
「今日、それも頂上まで来たこのタイミングに限って、雨なんか降るか普通?」
「……久々に、嫌味を言うハヤマさんが見れました」
クスリと笑ってみせながら、セレナはそう言った。「見れた?」と、不可解だったその単語を聞き返す。
「湖は見れなかったけど、こうして今、ハヤマさんと同じ景色を見ている。一年を共にした人と、またこうして、いつかの時のようにゆったり雨を眺めている。そんな毎日がまた帰ってきたんだなって思うと、なんだか懐かしい親友に会えた気がして、無性に楽しく感じているんです」
「随分と気に入られたもんだ。これでも元いた世界と、この異世界プルーグの犯罪者だって言うのに」
「元いた世界のハヤマさんなんて知りませんし、召喚した後のハヤマさんだって、理由もなしにそんなことをする人だって思えなかっただけです」
信じることや決めたことには真っすぐな性格だったと、俺は思い直す。有力な手がかりもなかったあの状態から三年。ここまで来れているのがその証拠だ。たまに厄介事に首を突っ込んでは命の危険に何度か晒されたが、そんな彼女だからこそ俺は救われている。
さしずめ、問題児を救えるとしたら、別の問題児でしかできないと言うことか。多分それだけ、俺たち二人は人として尖っているんだ。
会話が途絶え、雨の中に沈黙が生まれる。とても柔らかい、心地のいい空気。横に人がいるのが、全く気にならない。何も話さない時間が、逆に安心できる。
そんな雰囲気に押されるように、俺は、ある重大な話しを投げかけようとした。
「――セレナ」「――ハヤマさん」
セレナを呼んだ瞬間、セレナも俺を呼んだ。全く同じだったタイミングに、お互い苦笑いが出てくる。
「お前から言えよ」
「そしたら、私から」
一つ咳払いを挟むセレナ。俺は彼女の開かれた口に目と耳が引かれる。
「イデアちゃんのことについてです」
途端に、俺の耳から雨音が途絶える。意識してなかった心臓の音が、強く聞こえてくる。
「ハヤマさんが殺した人が、イデアちゃんのお父さんだということはヴァルナーさんから聞いていました。ハヤマさんも復讐のために動いたことはすぐに分かりましたよ。だけど……また、一人で動いたんだなって」
黙ったまま俯き、セレナを視界から外す。
「一人で勝手に抱え込んで、その結果、一人で罪を全部背負うことになった。……ハヤマさんにとって、私ってそんなに頼りない人に見えてるんですか?」
そう聞かれた時、俺はすぐに返事を返せなかった。セレナの発言は遠まわしなもので、その中に悲しく切なかった想いを、俺は感じていたからだ。
「……イデアは最後に。死ぬ直前に夢を語ったんだ。たった一つの、唯一叶えたかった夢。それは、家族に会いたいって」
俯いたままそう呟いてから、やけに重たかった頭を上げて小雨になっていた外を見る。
「それで現れた本当の家族が酷い奴だと知って、つい頭に血が上ってたんだ。だけど、冷静に考えればよくないことだったなって、今は素直に反省してる。お前の心も傷つけてしまったし、イデアが愛したかったはずの存在だって殺してしまった。お前たち二人を、裏切る結果になってしまった……」
自分自身に言い聞かせるように、そう言っていた。一気に重苦しくなった空気に、セレナもすぐに返事をしてこなかった。それもそうだろう、と俺は思う。ここで何を言ったところですべて過ぎたこと。決して、誰かの救いにはならないんだ。
それこそが、俺の犯した罪でもある。
イデアを捨てたローダーにも罪があり、そのローダーを殺した俺にも罪がある。そして、中心人物であるイデアにはもう何も聞けない。誰が正しくて何が間違いだったのか。それを確かめる術は、一つの歯車を失った瞬間に消えてしまったのだ。
「……失ったものは、もう取り戻せない。私が初めてそれを知ったのは、お母さんが亡くなった時です」
突然呟かれた言葉に、俺の顔が糸で引っ張られるように動く。
「どんなに悲しくても、結局は前を向かないといけないと、私は思うんです。たとえ命が失われたとしても、私の中にはお母さんは生きている。転世魔法という形として、生きているんです。それを大切にしてあげれば、きっとお母さんは生き続けてくれるから」
セレナは自分の胸を両手で押し当てながらそう語る。自然と俺も自分の胸を見下ろして、イデアの存在を思い出した。偶然出会っただけの少女。だけど、親に見捨てられたという共通の痛みを心に負っていることと、死ぬ直前まで夢を追っていた純粋さに感動した記憶が、そこに残っている。
切ないという、その感情を思い出すことによって、確かにイデアは残っている。
「……あのまま牢屋にいたら、この感情も消えてたかもしれないな」
忘れるわけにはいかない。親に捨てられ、育ての妖精たちからもいずれ消えていく存在を、俺が忘れるわけにはいかない。彼女は確かに、人としてこの世界にいたのだから。
「あ! ハヤマさん見てください! 空が!」
いきなりはしゃぐようにセレナがそう言って、俺は何事かと思って外に目を向けてみた。暗く鬱蒼とした雰囲気だった空から、山々のこの大地に向かって一筋の光が強く差し込んできている。雨が止み、太陽が顔を出そうとしている。
俺たちはドームの外へと出てみる。夜のように薄暗かった景色が、怪盗を追うヘリコプターのライトのような明るさで俺たちを照らす。眩しさに目を閉じながらも、次第に光度の変化に目が慣れていく。
そうしてなんとか前の景色をしっかりと見れた時、ふもとで広がっていた湖の色は、深海のような紺色だったさっきまでと打って変わって、まるで宝石のような、とても澄んで見えるエメラルドグリーンに光っているのだった。
「色が、変わってる!」
「本当だ! うわー! すごく綺麗」
真珠をちりばめたように、あるいは夜空の星がそこに浮かんでいるかのように、湖が光輝いている。それも幻想的な色。湖とは到底思えないような、美しいエメラルドの色に。
「神秘的だ。晴れた瞬間に色が変わるなんて……。あ、セレナ! 空を見てみろよ」
そう言って斜め上の空を指を差す。そこに架かっていたものを見て、セレナが歓喜の声で叫ぶ。
「虹!」
赤から黄、緑、青といって紫まで光った七色のアーチが、太陽の光を背に受け、青空の背景に色濃く浮かんでいた。実態を持たないその透明な輝きは、俺たちを更に幻想的な世界へと誘ってくれるようで、さっきまでの灰色模様だった景色がまるで嘘みたいに移り変わっていた。
「スゴイです。本当にこんな景色がこの世界にあったなんて。ふもとまで降りてみませんか?」
俺はすぐにうなずく。雨で濡れた苔だらけの傾斜を、俺とセレナは小刻みに足を動かして、慎重に降りていく。そうして湖の縁まで近づいてみると、そこにはまた別の絶景が広がっていた。
「あれ? 色が変わってる。虹色になってる!」
水面に映る蛍光色を覗き込んで見てみる。やはりさっきまでのエメラルドグリーンから、まるで空に浮かんでいる虹に反射するように、七色の色彩が段を作るように湖に広がっていた。
「本当です! これが、虹色の湖!」
興奮が収まらないまま、俺とセレナははしゃいでいた。空には点々とした雲が目に余るほどの、爽やかな青水色が浮かんでいて、それを背景にした虹がくっきりと目に映る。そうして俺たちの立つこの地には、誰の目をも奪ってしまいかねない、神秘的過ぎる湖が悠々と広がっている。
しばらく俺たちは、今しか見られない世界を前に、愉悦に浸るように黙って眺めていた。たとえカメラなんかがあったとしても、この目で見た感動は残せない。少しでもそれを、この目に焼き付けておきたかった。
「――ハヤマさん」
ふと、ずっと湖を眺めていた俺に、セレナが声をかけてくる。反応して目を向けると、セレナは湖を見ているようで、ただどこでもない前を向いているようだった。
「さっき話したかったこと、まだ話してませんよ?」
互いに名前を呼んだ時のことを、彼女はぶり返してくる。そうだったと頭の中で思いながら湖に目を向け直し、今一度心の中で覚悟を決める。
今まで互いにすれ違いの思いがあった、あの事について。いつかは決めなければならない。顔を上げて、俺ははっきりと語り出す。
「転世魔法を、習得できた時の話しだ」
キラキラと輝き続ける湖を眺めたまま、俺は続ける。
「最初に言った通り、俺は元いた世界に帰りたいと思っていなかった。けれど、そうしたらお前と旅をしてきた意味がなくなってしまう」
「……どうしてもと言うなら、無理強いはしませんよ」
素っ気ないような声で、それでもどこか、何かを思っているかのような声色でセレナがそう言う。
「ちゃんと答えは出す。その代わり、お前の口からちゃんと聴いておきたい」
体ごとセレナに向け、彼女もこちらに振り向いてくる。顔を見おろし、桃色に見える瞳を、尻込みせずにちゃんと見る。
「俺は、お前の叶えたい夢を叶えさせてやりたい。だから、……いつか転世魔法を習得したら、俺を帰してくれるか?」
最初に決めたことと何も変わらない選択。
「……ハヤマさんは、それでいいんですか?」
セレナは俯いて、不安気にそう聞いた。多分、期待されてないことを言ったんだと気づいて、少しだけ心が痛くなる。
「お前に俺の全部を話した時、考え方が変わったんだ。ちゃんと自分の本音を言えば、もしかしたら俺の親は理解してくれるかもしれない。もしも両親が本当に俺を思ってくれていれば、きっと言葉は伝わるはずだって。……なんだか、馬鹿みたいだよな?」
自分で口にしときながら、俺は本当に変なことを言っていると自覚して愛想笑いを浮かべてしまう。裏切られたっていうのに、信じようとしている自分がいると言っているのだ。本当に、馬鹿な人間だ。
「……家族ほど信頼できる人って、そういないですもんね」
そう言われると、セレナは真っすぐに俺を見つめていた。彼女の瞳孔が、俺の心を見透かしてくるように向けられている。
「裏切られたとしても、ハヤマさんにとっては唯一の両親です。言葉が通じるかもって思うのも、変じゃないですよ」
共感される。胸がほんのり温かくなって、また、牢屋で泣きじゃくった時のような感情が湧き上がろうとする。
「……思い返して分かったんだ。何も俺は、ずっと一人で生きてきたわけじゃない。最後には見捨てられたりしたけど、それでも俺を育ててくれた親ではあるんだ。今もまだ生きているんだったら、ちゃんとすべてを伝えたい。セレナに言って伝わったように、二人にも理解してもらいたい」
彼女の前では、自分のすべてが晒け出せてしまう。自分一人で気づきようのなかったことでも、彼女と言葉を交わしていくことで、崖下に埋もれていた何かが新たに見つかっていく。きっと、崖に降りていく時に、彼女の手が俺を掴んでくれているからなのだと、俺は思う。
「……分かりました」
しばらく考えこんでから、セレナはそう言って、パンッと両の手の平を胸の前で合わせた。
「そしたら、今まで通りってことでいいですね?」
笑みを浮かべながら頭を少しだけ横に振る。
「いいや、今までとは違うさ。俺の中に目標ができた。それにセレナの目標が重なって、確かなゴール地点が作られたんだ。旅が終わりかけてから二年。俺たちは今、新しい出発地点に立ったんだよ」
「新しい出発地点……。その通りかもですね。私たちは今日、やっと隣に並べたような気がします」
「今までどっかにあった、あやふやな感じがなくなったんだ。まあ、大部分は帰りたくないっていう俺のせいだったわけだけど……まあとにかく」
ポリポリとかいていた頬から手を離し、それをセレナにむけて真っすぐに伸ばす。
「これから、またよろしくな」
セレナは俺の手を取って、両手で包み込むような握手をしてくれる。
「私こそ、よろしくお願いします」
冷たい肌が、優しく確かな温もりを感じさせる。俺たちの意志が、一つにまとまっていくのを感じていく。
「そしたら、絶景も拝めましたし、ジバに向かいましょうか」
手を離してセレナがそう言う。俺は降りてきた斜面を見上げて「荷物を取りに行かないとだな」と口にし、セレナが「私だけ転移魔法で戻りますね」と茶目っ気をもって言ってきた。
「あ、おいズルいぞ!」
「ズルくないですよ! 魔法使いの特権です! ハヤマさんだって赤目があるじゃないですか」
「こんな時に使ったら、もう一人に嫌われるっての」
ここからが俺たちの新たな出発地点。やっと見つけたゴールに向かって、二人で進んでいくのだ。
やっと目にできた最終地点に向かって、一直線に。
断章 虹色の湖
―完―