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14‐13 明人

 ――あなたは医者になりなさい。


 母親がよく俺に言っていた言葉。俺はこの言葉が大嫌いだった。望んでいないその一言を、母親はことあるごとに俺に言ってくるからだ。


「ただいまー」


 古いアパートの一階。家の扉を開けても、返事は返ってこない。俺が七歳の頃、専業主婦だった母親はある日を境に仕事をするようになった。父親の働いていた会社は倒産したのが原因だ。


 迎えてくれる人は誰もいない。でも、俺は気にしなかった。お金がないと生きていけないことくらい、子どもでも知っている。


 宿題を三十分以内に済ませ、図書館で借りてきた本を読む。当時読んでいたのはひらがなの多い子ども向けの童話もの。読んでいたら勝手に時間は流れていって、次期に母親が帰ってくる。そしたら俺は本を閉じ、母親が買ってきた冷凍食品を電子レンジに入れて温める。次いでに買ってあるお酒も冷蔵庫の中に入れておいて、母親のシャワーが終わるまでにご飯をよそって配膳までを済ませ、そのまま夕食を一緒に食べるのだ。


「ああ疲れたー。今日来たあいつマジで覚えとけよ」


 荒々しい声色で、母親はそう呟く。大して珍しい光景ではない。母親の仕事は基本的にサービス業。ヒステリックな性格だけあって、自分にとって気に食わないものはこうやって声に出して発散している。俺は特別何も思うことなく、ただ箸を進める。


 父親はいつも夜遅くまで働くので、俺と一緒に食べることはほとんどなかった。その時から父親との時間は極端に少なく、知っていることと言えば普段は弱気で、声を荒げる母親にもビクッとしていること。


 けれど、それは夜、俺が部屋の電気を消した時にまるで性格が変わる。俺が入れた冷蔵庫のお酒を飲んで酔っ払った時、父親は豹変するのだ。


「前の会社が倒産しなければ、俺は今頃新車を買えてたはずなんだ!」


 部屋の中にまで父親の声がする。昨日も言ったことじゃないかと、俺はあくびをこぼす。


「お前ももっといい仕事見つけられないのか?」


「はあ? 一生懸命働いてるって言うのに、それ以上もとめるわけ?」


「ただの接客だろ? お前のやってることは?」


「何よどういうことよ! あなただって電線いじってるだけじゃない!」


 その日はエスカレートする日だった。そういう時に俺は、布団の中に顔をうずめて、うるさいBGMを聞きながらなんとか眠ろうとするのだ。


 休みの日には、父親はパチスロを打ちに出かけるのがほとんどで、母親は家にいて家事をすることが多い。洗濯も一度にまとめてするし、掃除機もタバコを吸いながらやっている。それらが終わったら基本的にテレビをつけて寝転がっているが、たまに俺に構おうと話しかけてくる。


明人あきと~。また本読んでるの~?」


 やけに優しい声色で、母親は俺に聞いてくる。俺は一度母親の顔を見上げてから、また本に目を移す。そうして、


「学校は楽しい?」「いい天気よ。友達とは遊ばないの?」「今日の料理は何にしようか?」と母親に聞かれるのを、俺は準備された定型文を使って


「楽しい」「面倒」「何でも」と黙々と答えていく。せいぜい母親の機嫌を損ねないよう、返事だけはちゃんとしておくのだ。


 こうして続いた俺の日常。険悪ながらも続いていたそれは、俺が中学に上がった頃に崩壊の兆しを見せた。俺は毎日学校に通っていて、とりあえずクラスでハブられないような立ち位置をキープして、最低限口の利ける人間関係も築いてと、外見上は至って平凡な生徒として生活していた。いじめの現場とか、場の空気感とかは外からのがよく見えるから、誰に気をつければいいのかとか、波風立てない立ち回りとかは自然と身につけられた。


 しかし、問題は学校よりも家庭にあった。俺は勉学に関してあまり自信がなかった。勉強なんてつまらないし、やる気も起きない。適当でもどうにかなるだろうと思っていたものだったが、中学からはその甘えは通用しない。


「こんな酷い点数見たことない……」「どうしたらこんな結果になるの?」「あなたに期待したのが間違いだった……」


 自分の実力が数字として表れ、試験結果を見た母親は決まってこれらの言葉を俺に向かって並べてくる。そしてその後、最後に言われる言葉が決まってこれだった。


「あなたはやればできる子なの、明人」


 やればできるなんて、そんなの誰に対しても言える言葉だ。やればできるなら、そのやり方を教えてくれと、いつもそう思っていた。そう思って口にしても、母親から返ってくる言葉は勉強しろだの。真面目に授業受けろだの。塾なんてお金の無駄だの。それくらいのものだけだ。


 そうして更には、仕事帰りの母親は俺の頭を撫でながらこう続ける。


 ――あなたは医者になりなさい。


 医者は儲かるからと。休みもちゃんと取れていい仕事だと。かたくなにそう母親は俺にそう勧めてくる。俺はそれを適当に聞き流していた。医者なんて偉い人のなるものだと。俺みたいな人間にできるわけないと、そう決めつけていた。


 実際、俺の成績は優秀とはほど遠かった。学年の平均を取るのが精一杯で、家に持ち帰る試験結果はいつも見返すのをためらう数字。総合順位だって下から数えた方が早い。


 ある時、俺はいつものように試験結果を母親に見せた。その日も母親は三つの言葉を、適当に無感情に言うのだろうと思っていた。だが、実際は違った。


「こんな酷い点数見たことない!」「どうしたらこんな結果になるのっ?!」「あなたに期待したのが間違いだったわよ!」


 母親は、ヒステリックに怒鳴ってきた。もちろん俺は驚いていた。そして同時に分からなかった。どうして俺はこんなに怒られているのか。その意味が、全く分からなかった。


 それでも、決まって最後はあの言葉を言ってくる。それも怒ることなく、途端に感性が抜け落ちたように優しい口調で。


「あなたはやればできる子よ、明人」


 その次の試験に迫った時、俺は生まれて初めて勉強というものをやった。直接俺が怒鳴られたのは、それが初めてだった。それなのに怒られた理由が分からなくて、どうすればいいか分からない内に俺はそうしていた。


 とりあえず教科書を何度も読み返し、がむしゃらに問題集を解き続ける。結果、俺は今までにない点数を取った。すべての教科が平均点超え。中には結構羨ましがられる順位も取っていて、我ながら大した偉業を成し遂げたつもりだった。


 その日の帰りは、とても気分がよかったことを覚えている。待ちに待ったドラマの続編に間に合わないとというような、新しいゲームを買ってもらえて急いで帰りたいような、そんな気分で家まで帰っていった。そして、初めて自身満々で試験結果を母親に見せた。


 そうして返ってきた言葉は、たった一言。


「へえ。次も頑張りなさい」


 さっと目をそらしながら、順位表を机の上に置く。言葉の色は無色で、なんの感情も込められてなかった。


 俺は、一体どんな反応を期待していたのだろう。がくっと肩を落としたくなるような、とてもがっかりした気分になったのを覚えている。


 それでも俺は母親の言葉に従った。父親にも見せようとしたが、どうせ褒められる点数じゃないと思って見せるのを渋っていた。そして、きっと母親にとって納得のいく点数ではなかったのだと、そう思い込んで更に勉学に励んでいった。


 しかし、俺がそこから更にいい点数を取ることは一度もなかった。逆に前の点数を下回れば、それに対してヒステリックにとやかく言われるようにさえなっていた。


 ――あなたは医者になりなさい。


 俺の願いではない、母親の願い。いつしかそれは、願いではなく命令なのだと、俺は思い始める。


 時間は流れ、高校受験を控えた頃。俺の志望は県内で最上位の偏差値を誇る高校。もちろん、俺自身の志望ではない。すべて母親の言った通りに従っただけだ。


 父親は進路について何も言ってこなかった。「子育てはお前の担当だろ」の一点張りで、すべてを母親に丸投げしていた。それを何度も耳にしていた俺は、期待してくれてるのは母親だけだと。唯一信じてくれてるのは彼女だけなのだと、異教徒の教えを信じるように躍起になっていた。


 来る日も来る日も問題を解き続ける。忘れないように復習をやり続け、差をつけるために予習もしていった。たった一人。教えてくれる者もなく、夜にコーヒーなんか出してくれる人もなく、俺はずっと一人で、机に向かい続けていったんだ。


 そして、試験当日。


 俺は全力を出し尽くした。出し尽くせたと、人に言えるほど頑張った。頑張った、はずだった。


「あなたはやればできる子よ、明人」


 不合格を知らせた瞬間、母親は優しい口調でそう言ってくれた。俺はその時、なんだか肩透かしを食らったような気分だった。また怒られると思っていた。取り返しのつかない失敗をしてしまったと、自分で自分を責めていた。それなのに、返ってきた言葉はその慰めの言葉だけだった。


 でもなぜだろう。その言葉は、母親自身にも言い聞かせてるような気がする。自分自身でさえ、それを信じたくないかのような、そんな思いが通じてくる。


「だから、今回の失敗を受け入れて、滑り止めの高校でも頑張りなさい」


 前日に受けていた別の、私立の高校。あれだけ金がないからそこに行くなと。絶対に合格するのよと。そう言っていた母親が、あっさりとそう言ってきた。


 ……。


 俺、頑張ったよ?


 精一杯頑張ったよ。


 それなのに、できなかったんだよ。あんなに毎日やったのに、合格できなかったんだよ。


 これ以上、何を頑張れっていうの?


「明人。私の愛しい子。大丈夫よ、あなたは頑張れる子よ」


 母親が俺を抱きしめる。


 どうしてだ? 母親の言葉が、俺に向けて言ってるような気がしない。


 その言葉から、何も感じられない。


「あなたは頑張って、立派な医者になるの」


 その言葉は、誰に向かって言っているの? 


俺、医者になりたいなんて言ったことないよ?


 母さんの言葉、俺には全く届かないよ。響いてこないよ。


「大丈夫よ。私の可愛い明人……」


 ――ああ。そうか。


 そうだったのか。


 母さんが見てるのは、俺じゃない。


 明人っていう名前の、全く別の人なんだ――


「大丈夫。大丈夫だからね、明人。本当に大丈夫……」


 俺を見ているようで、別の誰かを見るかのような瞳。俺の背後霊でも見てるかのような言葉。


 母さんの呼んでる明人は俺じゃない。母さんの見ようとしている明人と、ここにいる明人は別人。


 そしたら俺は、今までその明人の分を頑張ってたんだ。


 知らない他人のために、俺は今まで、ずっと一人で……


「お母さんはずっと見てるわよ明人。あなたのことを今までずっと。そして、これからもずっと、一緒にいてあげるからね」


 ……ふざけるなよ。


 誰を抱きながら、その言葉を吐いてるんだよ。


 今まで俺のこと見てなかったんだろ? 頑張ってきた俺のこと、見てこなかったんだろ? そんな奴が、俺を呼ぶような声で話すなよ!


 俺は、――明人は、ちゃんとここにいたのに! ここで生きてきたのに!


 お前は! お前が見てたのは、別の――


 感情に任せて、俺は母親を突き飛ばした。そして、台所の上に置かれていた、肉切り包丁を手に取る。目元が熱くて、心臓が跳ねるようで、居ても立っても居られなかった。


「や、やめなさい明人! やめてっ!?」


 腰が抜けたように倒れたまま、女は叫び出す。俺は刃物を握ったまま、ゆっくりと近づいていく。


 このまま首を切ってやる。いや、体中を切り刻んでやる。


 この裏切り者を、絶対に許さない!


「や、や、やだ、やだ、やだああっ!?」


 俺は刃物を掲げ、横に振りかぶった。とっさに上がった片腕の皮を切り裂いた瞬間、ピチュッと嫌な音が鳴って、同時に頬に返り血が数滴つく。皮膚に纏わりついて確かな感触を残すように、重みのある感じでそれが滴ろうとする。女の腕から壁を作るように血が溢れだすのが目に映ると、俺はいいざまだと笑ってみせた。


 その瞬間、恐怖心を抱いた。


 ここで殺せば俺はどうなる? 明人じゃない俺は、どうなるんだ?


 殺したい。なのに、あと少しの手が全く動かない。自分の中の葛藤がこの腕を、エラーメッセージを受けた機械のように忽然と動かなくなっている。


 どうなる? これ以上やったら俺は。俺は一体……


 大量の蟻が体中を這いずり回るように、ぞわぞわと罪を犯した恐怖が俺を支配してくる。やってしまったと、俺の頭がその言葉で埋まっていく。


「あ……明人?」


 そう聞こえた瞬間、頭の中の言葉は一瞬で飲み込まれた。俺がコイツを殺して何が悪い、と。憎悪と呼べる思いが、次に俺を支配していた。


 気がついたら俺は叫んでいた。いや、発狂していた。胸の奥に詰まった感情をすべて吐き出すように、自分の存在を証明するかのように、腹の底から大声を、気が済むまでずっと上げていた。そうして最後、扉が乱暴に開けられた音が聞こえたところまで、俺は覚えている。




 俺は、殺人未遂の罪を言い渡されていた。牢屋に入れられる代わりに、保護観察として日常生活を監視されることとなった。当然、その日からもう元の生活には戻れなかった。


「あなたのお子さんを否定するわけじゃないのですが、内にも譲れない事情がありましてね」


 入学予定だった高校からは遠まわしに入学を拒否してほしいと言われた。


「色々大変だったんだろうけど、今回ばかりは先生も助けられないよ。ごめんな」


 進路を手伝ってくれた先生にも。


「ま、まあ色々辛かったよな。今度時間作るから、そん時に話し聞くよ……」


 適当に関わっていたクラスメイトからも。口々にそう言われた。


 その日から全員、俺と目を合わせなくなった。慌てるように言葉を探し、みんな決まって左上の方向に瞳を動かして、思ってもいない言葉を俺に投げかけてきた。挙句の果てには父親もそうだった。


「あ、明人……と、父さんはちゃんと面倒見てやるから。だから、これからは、ちゃんといい子でいてくれよな」


 これからは?


 そうか。俺ってやっぱり、悪い子だったんだ。


 そしたら、本物の葉山明人も、悪い子だったんだろうな。


 きっとそうに違いない……


 あれ?


 葉山明人は、俺なんだっけ?

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