14‐12 どこにも行かないで!
「やっと目覚めてくれたな」
突然、声がした。真っ暗で何も見えない闇の中から、確かにそう聞こえた。煤や黒曜石なんかよりももっと真っ暗で、光なんかが届きそうにないようなところで、声の正体は見えないし、頭の中に直接響いてくる感覚だ。
「殺したいやつがいたら殺す。やっと殺意をむき出しにしてくれたな」
俺に話しかけているのか? 誰だ! どこにいる?
「お前の中だ」
俺の中? まさかお前が。お前がもう一人の俺?
「もう一人の俺。赤目の人格を持ち、殺意に溢れたお前自身だ」
どうして俺の中にいる? いつからお前は現れた?
「お前が、初めて殺意を持った日からだ」
それは、元の世界の話しか?
「そうだ。その時俺はお前の中で生まれた。けれど殺意は足りなかった。だから今まで、俺は出てこれなかった」
足りなかった? 足りなかったのか、あれが。
「全然だったさ。あの時の殺意は、迷いでしかなかったからな」
そうか。まあ、そうかもしれない。誰かを殺そうと、明確な意志を持ったのはこれが初めてだったしな。
「まあ厳密には、いくら殺意を持とうとこの俺は現れなかっただろうがな。この世界には、殺意を形にする存在がいた。お前がこの世界に来た時、その存在にお前の体と俺の意識が反応したんだ。だから俺はこうして、赤目の力を持って人格を持つことができた」
は? さっぱり意味が分からない。異世界に来た時に、お前は人格を手にいれたってのか?
「ああそうだ。それまでは俺自身、生まれていることに気づいていなかったんだ」
お前には虚言癖でもあるようだな。生まれたことに気づかない? 異世界に来て人格を手にした? いい加減を言うのも大概にしてくれ。
「嘘なんかじゃないさ。覚えているか? 初めて異世界に来た瞬間、俺はお前に呼び掛けていたはずだ。『目覚めろ』と」
目覚めろ? そんなの、昔過ぎて覚えてねえよ。
「だが知ってるはずだ。夢の中で、お前は俺と出会っている。その体で直接、俺の意識を体感してきたはずだ」
夢の中で? もしかして、最近見ていた悪夢の正体って……?
「お前が俺に近づく度。つまりお前が殺意を強める度に、お前の意識が俺に近づいていった。そうしてお前は夢の中で、俺の殺意の中を垣間見ていたわけだ」
……にわかに信じがたいな。
「まだ疑うのか。だったらあれはどうだ? 命の危険を感じた時、唐突に目の前が真っ暗になった瞬間があっただろ?」
命の危険? ……はっ! 最初のビッグワスプ! それに、魔剣の噂を聞いて行った、墓場のダンジョンのボス! まさか、あの時の攻撃はお前が?!
「これで分かっただろ? 俺はお前の中にいて、殺意を抱くことで俺が表に現れることができた。俺はお前の中にいて、俺たちを繋げるコアは殺意なんだよ」
殺意がお前とのコア? ふざけるなよ。俺が抱いた殺意は、お前のなんかじゃない。
「知るかよ。実際お前は記憶がなかったんだろ? 殺した瞬間を。目元が熱くなる感覚があったか? 心臓の脈打ちが痛くなるのを感じたか? 衝動に駆られた瞬間お前は眠る。そして血の巡りと入れ替わりに、俺が殺意を具現化して現れる」
……お前は何者なんだ? 俺なのか? それとも、俺ではない別の誰か?
「それは俺の質問だ。どうしてお前が俺の中にいる? 本物の葉山明人はどちらかでいいだろ」
本物?
「ああそうだ。俺が本物だ」
違う。本物は俺だ。
「俺だ」
俺だ。
「お前じゃない」
お前でもない。
「じゃ誰なんだ?」
俺だ。本物は俺なんだ。
「俺に決まってるだろ」
そんなことない。お前じゃなくて俺だ。俺の中にいる俺なんだよ。
――あれ?
本物の俺って、誰なんだ……。
「……ろ。……きろ。起きろって」
新しい声が割り込んでくると、俺はすぐに目を開けて起き上がった。鉄格子の奥に、ヴァルナ―が覗き込んでいるのが見える。また、嫌な夢を見ていた気がする。
いや、気がしているなんて違う。見てたんだ。夢という曖昧な意識の中で、俺はもう一人の自分と――
「――おおい。聞いてんのか?」
また声が聞こえると、それが俺を呼んでいるのだと気づいて意識をはっきりさせる。今さっきの出来事を片隅に置いといて、とりあえずは彼と相手をする。
「なんだよ」
「なんだよ、じゃねえよ。さっきから小さい声で、ぶつぶつぶつぶつ言っといてよ。気味が悪いってんだ」
「そう、だったのか。多分寝言だ。お前が気にすることじゃない」
そう言って、俺はまたマットに横たわる。ふいにヴァルナ―の舌打ちが聞こえてくる。
「ッチ。不貞腐れやがって。もう半年も経ったってのに、まだそんな調子かよ」
「半年……。あっという間だな」
「その様子だと、数十年は変わりそうにないな」
「変わるも何も、元々俺はこういう人間だからな。期待するだけ損だと、何度も言ったはずだ」
ヴァルナ―は呆れるように乾いた笑い声を出す。
「ッハ、そうかい。むしろ悪化してたか。そんなんだから、セレナちゃんにも愛想つかされたんだろうな」
セレナか。最後に残した言葉は確か、嘘泣きはやめろ、だったっけか。そう言えばあいつ、泣いていたんだっけか。閉じ込められた俺がそんなに哀れに見えたんだろうか。今頃はジバの元で時間魔法の習得に勤しんでたりしてるんだろうか。それとも俺と別れたから、もう村に帰って平和に過ごしてるんだろうか。
まあ、俺が知る必要はないか。
「今度は無視かよ。もう真っ暗な夜だ。よい子はちゃんと寝とけよな」
ヴァルナ―はそう吐き捨てると、俺の前から姿を消していった。恐らく交代の時間だろう。彼らはいつも代わりばんこで俺の見張りをしている。ここには窓がないから、大体の時間把握は見張りの交代時間で探っていた。と言っても、時間など気にする必要はないのだが、一応夜に寝るという生物としての生活は俺なりに続けていたのだった。
「夜か……」
石の天井を見上げて、この世界の夜空を頭の中で思い浮かべてみる。この異世界に来て初めて感動した景色。元の世界では一生見られないようなそんな素晴らしい景色。もう久しくそれを見ていない。
景色……。思えばこの異世界で、色々な景色を見てきた。人だらけで身がすくんだ大国に、獣人だらけのファンタジー王国。とてもきれいでおしゃれでありながら寂れた都市とか、やけに和風の都、壮大なコロシアムに、海の見える研究所もあった。
移り変わっていく景色に沿って、色んな人とも出会えた。魔物と戦うギルドに、魔法を研究する者。人のためにと頑張る人もいれば、私欲のために限りを尽くした人間もいた。何か目的を果たすために、禁忌を犯す人だって。
どれも今となっては思い出だ。楽しく刻まれた、俺の思い出――
思い出?
こんな俺に思い出がある。そして俺は今、それを懐かしんでいる。
戻りたいのか、俺は?
戻りたがっているのか、俺は?
「……バカバカしい」
そうはっきり声に出し、考えることをやめようと天井から目をそらすように寝がえりを打つ。向こう側の石壁が目に映る。呆然と、それを見つめ続ける。何もかも忘れようとするように。この異世界での思い出とか、セレナと歩いてきた記憶とか、赤目の人格とか、そういうのはもう、どうだっていい。すべてが終わった今となっては、どうだっていいんだ。
こうしてただ怠惰に時間を過ごしているのが、一番の時間だ。引きこもりの頃からずっとそうだった。このまま頭を空にして、自堕落な日々を過ごす。今までのは長くて壮大過ぎる夢だったんだ。元々の生活に、このまま戻っていこう。
……。
こんな毎日を、続けてたんだ。
こんな、虚しいだけの毎日を、俺は……。
ふと、石床に線が引かれていく。灰色の一本線が、円の形を描くように伸びていく。ぼんやりとしていた俺は、その円の中に魔方陣が描かれていった時になって初めて体を起こした。
灰色の魔法陣。見覚えのあるそれが形を成した時、柱を作り出すように強く光り出した。突然の眩しさに思わず両目を腕で遮る。やがて光の気配が消えてなくなると、俺は腕を下ろしていった。そして、そこにいた正体に目を疑った。
消えゆく魔法陣の上に立っていたのは、セレナだった。
「――できた……できた!」
一人で勝手に喜びだすセレナ。
「お前!? どうしてここに!」
急な出来事に、俺は何がなんだか分からずそう聞いた。セレナは俺を見て共感を求めるように頬をほころばせる。
「ハヤマさん! やっと会えました。ずっと練習してたんですよ、転移魔法!」
「……一体、何しに来たんだ」
いつものような能天気さを見せるそいつに、俺は突っぱねるようにそう返した。セレナは一瞬ムスッとした表情をみせ、またすぐに顔つきを真剣なものに変える。
「伝えたいことがあって、ここに来ました」
冷めた目つきを、俺は向ける。聞きたくなんかないと、そう訴えるような顔で彼女を見続ける。だが彼女は、そんな顔に動じず口を開いた。
「ハヤマさん。私はまた、旅に戻るつもりです」
「あっそう。それじゃ俺は、お前にお別れを言えばいいんだな」
「またそうやって、私から逃げるつもりですか?」
鋭く放たれたその一言に、俺の体が固まる。生意気な口利きに、素直にイラッときてしまう。
「逃げる? 俺が、お前から?」
「そうです。ハヤマさん、私から逃げてます」
「何を根拠に」
「私はてっきり、コルタニスの時のようにまた、ハヤマさんが一人で先走っちゃったのかなって思ってました。でも本当はそうじゃない。私はあの時、ちゃんとハヤマさんに言いました。今度からは、一人だけ犠牲になるようなことはしないでくださいと」
アンドロイドのように無反応を示し続け、それでも彼女は俺の顔を見て怯まず話しを続ける。
「イデアちゃんのことだって、私に話す時間はたくさんあったはずです。でも、ハヤマさんは私に話してくれなかった。ヴァルナ―さんはそのことを、私を巻き込みたくなかったって言ってましたけど、でもそれは違います。私だって、イデアちゃんのことは悔しかった。どうして私を頼ってくれなかったんですか? 私に話してくれたら、また別の方法を考え出せたはずなのに」
少し潤んだ目で、セレナはそう最後にまとめた。その瞳の奥の心情が真実だろうが虚像だろうが、今の俺にはどうでもいいことだ。
「人を殺したいって言って、お前は素直に協力したか?」
「……らしくないですね」
水面に水を一滴垂らすように、突然ポツリとそう言われた。おかしなことを言いだす。そう思って、俺は黙り続ける。
「今まで直接力でねじ伏せるようなことは一切してこなかったのに、今回に限っては、こんな過ちを犯す結果になるだなんて」
「イデアが目の前で死んで、そうとも知らずにぬくぬくと生きていたあいつを見つけた時、殺す以外の選択肢をお前ならとれるのかよ?」
「私だけだったら多分、その人に真正面からぶつかって、返り打ちにあっていたと思います。けど、私の知ってるハヤマさんなら、そこら辺をもっと賢く、最も効果的な方法でどうにかできてたと思いますよ」
「妄想ならよそでやってくれないか?」
振り返ってきたセレナに、俺は冷たく言い放つ。まるで自分を知った風な言い方に憤りを感じて、戯言を吐くんだったらさっさといなくなってほしいとさえ思う。
「妄想なんかじゃないです。私が知ってるのは、そういうハヤマさんですから。元の世界で何をしたのか知りませんけど、この世界に来てからのハヤマさんはそういう人です」
「あっそう。お前の目はさぞ節穴なんだろうな。この牢屋に閉じ込められてるこの男は、そんな利口な男に見えるか?」
セレナは鉄格子に近づいて、その内の一本をそっと軽く握る。
「この状態は、過去のことを引きずってる証拠ですよね? そうじゃなきゃ、ハヤマさんがこんなところにいるはずないですから」
「そんなことは――!」
俺は言い返そうとしていた。けれどそれ以上の言葉は、俺を優しい瞳で見つめていたセレナの顔を見て、喉奥に引っかかってしまう。彼女は膝を折って地べたに座り込み、俺と目線を合わせてくる。彼女は一度、顔を上げて天井を見上げる。
「ここは何も見えませんね。外では今頃、星の輝きがとっても綺麗なはずなのに」
そう言ってしばらく彼女は見つめていて、何もないのによく見ると思い、俺も天井を見上げた。長方形の石がレンガ造りのように敷き詰められただけの、灰色の天井。どう見ても変わりようがないその景色から、俺は目を降ろしていく。そうして前を向いた瞬間、グッと顔を近づけていたセレナがいた。反射的に身を引くが、彼女は瞳孔に俺を映したまま口を開く。
「前は私が聞いてもらいましたから、今度は私が聞く番です」
「聞く番ですって。お前には何も話さねえよ」
「ずっと待ちます。話してくれるまで、私はこの街を出ないって決めたので」
「どうして頑なに俺の話しにこだわる? お前のこれからとなんの関係がある?」
「後悔しないためです」
力強い即答だった。俺は不意をつかれたように驚いてしまう。その言葉は本当で、尚且つ強い意志を持っているのを感じた。
嘘を知らない純粋バカ。決めたことは譲ろうとしないピンク髪。
はあ、とため息を吐く。どうやらコイツがここに来れた時点で、俺のするべきことは決まっていたらしい。
「……過去に。この世界に来る前に、俺は犯罪を犯した。人を、――殺そうとしたんだ」
この話しを、初めて誰かの前で口にする。セレナは表情曇らせずずっと俺を見てくる。
「そいつが嫌いだった。憎くて憎くて、しょうがなかった」
「その人は、一体……」
「母親だ」
躊躇いもなく俺は正体を明らかにする。セレナは一瞬目を見開き、血の気が引くような表情をする。
「でも、ハヤマさんのお母さんは、どこかに行ってしまったって」
セレナが恐る恐るそう聞いてくる。よくもまあ覚えているもんだ。
「殺せなかったんだ。刃物を突き付けて、殺す一歩手前までいった。なのにそこで急に怖くなったんだ。急に冷静になって、今殺してしまったら、俺が俺でなくなるような気がしてしまって。それで気がついたら、周りに人が集まっていた」
つい、その時の感触を思い出してしまう。切り裂いてしまった母親の腕。無我夢中で振ってしまったナイフは、何の抵抗もなくそこに傷を作ったんだ。ピチュッと、生々しい音と共に血が油のように跳ねてきたのも。頬に当たったそれが、水なんかよりも重みのある液体だったのも。恐怖に満ちた顔を見て、思わず笑ってしまった自分がいたことも。
すべて。すべて俺は、覚えている。
気がついた時、俺は全身が震えていた。顔が真っ青になるのを感じて、見つめていた手も、寒くもないこの場所で恐怖に飲まれている。
ふと、その手をセレナが握ってきた。俺よりも冷たい体温で、それを温めようと両手で優しく。でも俺は、その感触に寒気を感じてすぐに振り払った。乱暴に振った拍子に、手の甲がセレナの体を強く跳ね飛ばす。
「――きゃっ!?」
勢い余って地面に手をつけるセレナ。「ハヤマさん?」と不安気に聞かれ、俺は握られた手をギュッと固く締め、もう片方の手で自分の感触を取り戻すように包む。
「触るな! そうやって偽物の優しさを振りまくな!」
「偽物だなんて……そんな……」
また全身がブルッと震える。俺の体だけ、氷点下の世界と繋がってしまったかのように震えが止まらない。頭に過去の生々しい記憶が巡り続ける。この手に残してしまった感触を、急いで忘れさせないと、と必死になって体を丸めていく。
「どうせ誰も見てくれない。誰も葉山明人を見てくれない。人が呼んでる俺の名前は、俺を呼んでない。嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ、全部嘘だ!」
自分に言い聞かせる。そう言い聞かせて、自分の中にあるどこかに潜り込もうとする。けれど、逃げられるところなんてどこにもない。どこにも居場所がない。
やがて呼吸が荒くなって、心臓の脈打ちが早くなっていく。段々と目元が熱くなって、このまま意識が飛んでいきそうになる。
そして、俺の中の誰かが、俺に話しかけてくる。
――居場所がないなら、居場所を奪う奴らを壊せばいい。と。
「ハヤマさん!」
俺の頭が、セレナの体に抱き寄せられる。また嫌な温もりを感じて、俺は反射的に彼女を引きはがそうとする。けれど次の瞬間、
「どこにも行かないで!」
と言われた時、思わず腕の力が凝結するかのように固まった。
「……落ち着いてください。私は別に、ハヤマさんの敵じゃないですよ。嘘だってつけませんし、自分で思ったことしかできません。私が単純なのは、ハヤマさんも分かってるじゃないですか」
背筋に伝う氷のような寒気が全身に伝わって、でもそれが、俺に触れるセレナの体温が吸い取るように包んでくれる。震えていた体は次第におさまりを見せていって、目元や心臓に感じていた熱は一瞬で冷めていった。
しばらくすると、彼女をどかそうと脇腹に当てていた手に感触を感じた。頭も冷静になってきて、今さっきまでの俺がどうかしていたと気づく。
「……十分だ。離してくれ」
俺はそう言うと、セレナはちょっと余計に抱きしめてから体を離した。立ち膝のまま少しだけ後ろに下がり、そのまま正座して俺とまた目線を合わせる。
「本当に、大丈夫ですか?」
「……ああ。お前には敵わないから、さっさとここを出て行ってくれ」
目をそらしてそう言ったが、セレナは構わず顔を近づけてきた。
「私が言ったこと、忘れたわけじゃないですよね?」
言い逃れは許しませんと、そう言わんばかりにじいっと目線を送ってくる。あれを話すのか、と俺はため息を吐く。
「はあ……話したら帰るんだな?」
「もちろん。聞かないで後悔するより、聞いて後悔したいですから」
「……嫌な奴だよ、お前は」
強い敗北感を押し当てられ、俺は諦めるようにそう呟く。
嘘を知らない純粋バカ。決めたことは譲ろうとしないピンク髪。
そんな奴に俺は、意を決して口を開く。