13‐5 ゆめ
「イデア! イデアァ! どこにいるんだ!」
大声で名前を呼びながら、薄暗い林の中を走り続ける。道なき道の林の中、遮る枝たちを強引に折ってどかしていく。パキパキと音が幾度となく鳴って、俺の頬に切り傷が出来たりもしたが、そんなの気にならないくらいに俺は焦っている。
「イデア! どこ行ったんだってっな――!」
足に太い木の根が引っかかり、俺は前のめりに転ぶ。周りばかり見ていて、つい足元の注意が足りてなかった。
「いってぇ……ん?」
頭を上げると、何かを感じ取った気がした。すぐに意識を集中させると、それは鼻から伝わっているのだと気づいた。
「匂い……匂いがする」
いつかの理魔法が今もまだ続いている。人一倍鼻が利くという謎の魔法。緑の自然に溢れた匂いの中から、甘い茶葉と鉄を要り交ぜたような匂いが感じ取れる。すぐにそれがイデアのものだと俺は分かった。
急いで立ち上がり、匂いの跡を辿るように嗅ぎながら歩いていく。匂いは一つの道を示すように細く、そして微かなものだ。踏み外せば落ちる床を進んでいくかのように、慎重に慎重を重ねてじっくり歩いていく。
次第に匂いが濃くなっていく。木々の間から見える山間から、朝日も顔を出してくる。どうやら林の出口に向かっているのだと気づくと、ふとこの場所に見覚えがあるような気がした。辺りを見回してみると、視界に崩れかけの土のドームが目に入った。それは間違いなく、最初にセレナと雨宿りしていた時の残骸だ。それ以上奥には平原が広がっている。
「まさか平原に出ていった? ……いや、この近くにいる!」
これ以上先に匂いが続いている気配はない。この場のどこかで強くとどまっているように感じて、俺はせわしなく周りをキョロキョロと見回していった。するととうとう、一本の木の裏に隠れるように倒れた、見覚えのある真っ白な足を見つけた。
「イデア!」
名前を呼びながらすぐに駆けつけていく。どうしてこんなところに。と声をかけようとするが、その言葉は俺の頭の中からポンっと消えてしまう。彼女の顔は酷く青ざめ、額には大量の冷や汗、苦しそうに呼吸をしていて、表情もとても辛そうにしていたからだ。
「イデア?!」
その場に座りこみ、両手で体を抱き起して意識を確認する。
「イデア? しっかりしろイデア!」
「……あ。ハヤ、マ……」
俺の耳に届いたのは、年寄りのようにかすれた声だった。細い体が、冷蔵庫の中に入れられてたみたいに冷たい。とても動物としての生命力が感じられなくて、俺は一瞬にして冷静さを失う。
「どうしたんだイデア? なんで急に?」
「――わた、し。きょう。さいご……」
「最後? 何が最後なんだ?」
「もう。たて、ない……」
全身から、血の気が引いていくのを感じる。今日が最後。もう立てない。細くて小さな少女の命が、ここで尽きようとしている。
「そんな!? こんな急になんてことあるかよ!」
困惑を大声で叫んでごまかそうとする。考えなくては。ここからイデアを救える方法。何かないか急いで考えなくては。
ケホッケホッと、イデアが苦しそうにくしゃみをする。風前の灯を目の前に、ただ焦りの歯車が脳内に追加されるだけで、何を考えても空回りして思考が定まらない。
「しっかりしろイデア! 昨日セレナと話したことがあるんだ! お前がこの世界を――」
「――ゆめ」
突然、イデアが俺の言葉を遮った。くぐもった中から、一筋の声を通すように、それははっきり聞こえた。
「……夢?」
「イデア……ゆめ……あった……」
どんどん力を失っていく声量。まるでもう、残り時間がないかのように、それは小さくなっていく。
「……どんな夢なんだ?」
俺は、自分の腹を切る覚悟でそう聞いた。
「みた、かった……」
俺の手に、儚く消えそうな命があるのに。俺にはどうすることもできない。そう、知ってしまったから。
「何をだ?」
「わ、た……の……」
「うん……」
俺がイデアのために今できることは、うなずくことだけ。
そして、彼女の遺言を聞いてあげることだけだ。
「か……」
たったそれだけだった。
なのに――。
「イデア? イデア!?」
何も言わなくなった彼女の体を、俺は何回か揺らしてみる。しかし、イデアはもう、呼吸をしていなかった。
「……嘘だろ。イデア……こんなことって……」
心臓の脈打ちが、痛いくらいに早くなっている。イデアを失った喪失感か、それとも何もできなかった自分の無力感か。ただ、こみ上げてくるものはただ一つ。虚しさだった。
「……イデア。お前、見たかったんだろ? この世界を、俺たちと同じ世界を見たくて、だからここまで一人で来たんだろ……」
目の前には、朝日が昇ってはっきりと目に映る鮮やかな黄緑の平原。この道の先、或いは俺たちの足で行ける世界は、この先に続いている。あと一歩。あと一歩だったんだ。
「……ちくしょう……」
涙は出てこない。ただ脱力感が押し寄せてくる。すべてを失ったような感覚が、まさに心の奥底から強く感じている。
ふいに、どうしてだろうと俺は考える。たった一日しか一緒にいなかった少女。その子のために、どうしてこんなにも激情にかられるんだ。あの時が雨が降っていなければ、ここで雨宿りをしていなければ、猫の誘いがなければ、会うことはなかった少女。
出会う必要なんてなかった少女に、こんなにも悲しい気持ちになってしまうのだどうしてだ。
「……全部、遅かったんだ……」
イデアと初めて出会った場所。木々が吹き抜けたその場所の真ん中で、セレナが土魔法を発動して山状の墓を完成させていく。彼女の顔には、皮を剥いだかのように強く涙の跡が残っている。山から完全に顔を出し切った太陽は、とてもすがすがしい朝日をもたらしてくれているが、俺たちの気分は黒い雨雲に乗っ取られているように暗かった。
しばらくして、墓が完成する。その様子を俺はずっと黙って見つめていた。セレナが手から茶色の魔法陣を音もなく消す。その目からまた涙が流れ出しそうになるのを見ていると、俺は心が余計痛むような気がしてバックパックを取りに歩き出した。だが、その足を頭上から飛んできた赤い妖精に止められる。
「おーいお前たち。イデアを見てないか? 探しても見つからないのだ」
他の三匹も赤い妖精の横に並んでこちらを見てくる。俺は言葉に出したくなくて、首を動かして目配せで彼らに伝えると、白い妖精が察してくれた。
「そう。とうとう眠ったのね」
白色の後に青色が続ける。
「でも、結構長かったと思うの。私、一年も持たないと思ってたの」
更に茶色も口を出す。
「結構楽しかったんやけど、いなくなっちゃったのはしょうがないやんね」
まるで情のない会話に俺は唇を噛む。つい腰のサーベルを引き抜こうとしたが、まだバックパックの隣に置いといたままで、強く握った手はただの握りこぶしになった。募った苛立ちを捨てるようにその手を荒っぽく振って指を開く。
「俺たちはもう行く。お前たちと会うこともないだろうな」
妖精たちにそう言って、とっととこの場を去ろうと足を動かす。自分の荷物の前までたどり着こうとした時、ふいに白い妖精が呟いた。
「別れる前に一つだけ教えておくわ。イデアの笑顔。とても澄んだ顔をした、人間らしい顔で笑ったのは、あなたたちが来てから初めて見たわ」
予想だにしてなかった言葉に、俺は一瞬その言葉を疑った。だが、妖精が冗談を言えるわけもなく、ましてや人間にそんな気を遣える生物でもないことを俺は知っている。
「じゃあね人間さん。また会ったら、楽しいことしましょ」
白い妖精がそれだけ言い残すと、四匹の妖精は木々の中へと消えていった。イデアの墓の前で俺たちだけが取り残される。ふと、セレナは鼻をすすって俺に聞いた。
「ハヤマさん。イデアちゃんは、私たちと会えて嬉しかったでしょうか?」
「……もう知りようがないのに、俺に聞いてどうする?」
「そう、ですよね……」
俺の答えにセレナはもう何も言わなくなった。セレナも重たい足を引きずるようにしてバックパックの前につき、その手を伸ばそうとする。
「でも……」
ボソッと呟き、セレナが顔を向けてくる。
「イデアが笑ってくれたら、俺は嬉しかった」
静かにそう言って、俺は荷物掴んで背中に背負った。サーベルも手に取って腰にベルトでつけ、悲しそうに呆然としているセレナを残すように、先に墓場を後にする。
いくらここで待っていても、もう少女の笑顔は見られない。そう実感するしかないほど、そこは静かで嫌だった。
林から出てしばらく待っていると、セレナがやっと平原まで出てきた。しっかり荷物も背負って、旅支度は済んでいる様子に、俺は何も言わずに歩き出そうとする。その瞬間、林の中から猫の鳴き声が甲高く響いた。
セレナと一緒に顔が向いてしまう。メスのような声質はすぐに茶トラの猫のホットだと気づく。遠吠えをしているかのように長く、とても悲しそうな鳴き声。まるで誰かを必死に呼んでいるかのように、ホットは何度も何度も鳴き続けていく。
「……行こう。戻っても、意味はない」
「……はい。行きましょう」
悲痛な鳴き声を耳にしながら、俺たちは平原の道へ戻っていく。墓場の周りがどんな光景になっているのか、思わず想像してしまいそうになるのを、俺は必死に振り払う。これ以上の虚無感は、もう感じたくないから。手の中にいた少女を失った瞬間を、思い出したくないから……。
だけど、彼女のことは絶対に忘れない。
「セレナ。俺、絶対に忘れない。イデアがこの世界にいたこと、俺は絶対に忘れない」
絶対に忘れない。イデアの存在を、絶対に消したりなんかしない。
「私も忘れませんよ。一日だけでも、イデアちゃんとは楽しい時間を過ごしましたから。……だから、私も絶対に忘れません」
親に存在を失われた彼女に、俺の中からも存在を消してしまうことは絶対に、……そんな残酷なことは絶対にしない。
俺は絶対に、忘れてはならないんだ。
十三章 この目で、二人と同じ世界を
―完―
「戻ってきましたね、ラディンガル」
城門をくぐった瞬間、セレナがそう言ってきた。赤く華やかな街並みと、道の先が見えないほどの人々の光景を目にして、俺も久方ぶりに帰ってきたという実感が湧く。
「早速、ゆっくりできる宿でも探そうか」
そう言って俺はセレナと一緒に街中へと歩いていく。
「あれから一年も経ってますよ」とセレナ。一年経っても街の様子に変わりはない。建物は相変わらず綺麗だし、鳥肌が立つくらい人混みができている。崩壊した部分の修復もまだ途中のようで、この街は本当に大した変化がなかった。
その中で、俺はある男が横を通り過ぎた時、思わず足を止めてパッと振り返った。紫色のスポーツ刈りで、肩幅が大きい中年の男性。顔ははっきり見えなかったが、確実にあの気配を感じた。
「――ハヤマさん? 早く宿を見つけましょうよ」
「……ああ、分かってる」
――甘い茶葉を抜いた、鉄の匂いを確かに。