カクの懸念
4 カクの懸念
「カク様は、難しいことをお考えですね」
そう言って笑ったのは、エモという娘である。エンスクに設けた別宅で、カクの世話をしてくれている。
「ほう、そうかな」 と、普段は厳しい顔をしているカクも、気の抜けた顔を晒している。心を許しているというより、この能天気な娘の前で気難しい顔をしてみせても、あまり効果が無いと承知しているからだ。この娘は、こちらがどんな顔をしていても、にこにこと接してくる。
「聞かせてください。私、良い考えを思い付くかも」
「それは、楽しみだ」 とカクは微笑んだ。怒りはしない。それも、本当のことでもあるからだ。
エモは不思議な思考回路を持っているようで、時に、はっとさせられることを言う。小難しい諸条件を無視して、ぐっと核心に迫る発想をすることがある。
意外な才もあるものだと感心しているが、かといって、活用しようとは思わない。彼女はこのままで良い、とカクは決めている。小難しい話ばかり聞かせ、人のこずるさばかりに向き合わせることを、カクは望まなかった。
エモは政策の話をしてくれても良いと言うし、我慢強く耳を傾けて、時に意外な考え方を示してくれるだろう。緩やかな性格のようでいて、守ると決めたら遣り通す頑固さもある。
カクが願えば、分かったと微笑み、努力してくれるだろう。それが彼女の何かを削っていても、隠し通す心の強さもある。
カクはそうした健気さを愛し、彼女と会うことを楽しみにしている。気を許し、何の気なしに、抱えている難題を口にする事もある。一生懸命に考えている振りを見るのが好きで、わざと話題を振ったこともある。
唇を尖らせ、どこか一点を見つめる。あっ、と素頓狂な声を上げることもある。その素朴な反応を見るのが、カクは好きだった。
癖毛の残る頭を撫でつつ、カクは天井を見つめた。
「あ。言っちゃあいけない事は、言いませんよ。私、すぐ忘れることができるんです。本当ですよ、本当に消しちゃえるんです」
「ほぅ。本当かどうか、ここを開いて、確かめてみようか」
そういって、カクは頭を軽く叩いた。勿論冗談である。
「もう。開けても、もう無くなっているんですってば」 と、エモは膨れっ面をする。ぐるぐると、その場で回転して、不満を示してくる。
エモに大事な話をしていると誰かに知られれば、それを聞き出そうとして危害を加えようとする者が出るだろう。忘れてくれといえば、口を噤み、律儀に忘れた振りをしてくれる。暴力で口を開こうとされても、貝のように閉ざしたまま、健気に最後まで我慢するだろう。
そんな悲劇が起きないためにも、カクは彼女を重用していると勘違いされないよう、気を使っている。問題を口にするとしても、具体的な事例は省き、だいたい、で伝える。
「そうだな。みんな、お前のように、賢ければ良いのにな」
笑って言ったカクに、エモは頬を膨らませて応える。
「そういうのに拘るのって、男の人の悪い癖、だと思います」
「ほう」 と、カクは眼を見開く。「引き摺っている周りが、愚かだというのか」
「そうですよー。私が思うに、大事なのは、前よりも、これから、です。でも、これから、は誰にも分かりません。すごく良くなることもあるし、予想どおりのこともある。思いのほか、駄目なことも、ね」
「だから、見守れと?」
「どんな損を嫌うのか、それは、知りませんよ。私は、いっぱい考えるのは、苦手ですからね。でもね―――」
エモは言って、カクの胸に頬を乗せた。僅かに重いが、それが心地良い圧力となっている。
「―――ここ、温かいな、好きだな、って思うの。そのカクさまのここが、何か気になる、って言っている。だったら、もう良いじゃないですか。全部忘れて、拘りを捨てて、これからは全力で手を貸してあげれば」
「これから、か」
「そう。カクさまが真剣になれば、それはもう、怖いものです。その険しい顔で迫れば、どんな相手も、ピーンと背が伸びますよ。そうしたら、お、思っていたより背が高いな、って、思えるようになる。それでは、いけませんか」
「……なるほど、だからお前は、こんな私を好きでいてくれるのか」
「んんー? それは、別ですよ」
「別? どこが?」
「ふふ、私はね、最初っから、見抜いていましたよ。ここが、案外あったかい、って」
エモはそう言って、ぐりぐりと指先でカクの胸に円を描いた。
「見抜かれていたか。参ったな」
「だから、無理して見捨てなくって、良いですって」
「誰の事かな?」
「さぁ、誰でしょう。私のことだったら、良いな」
カクは腕を廻し、エモを引き寄せて、ぐっと力を入れた。
*
「カク様。西風が吹くのは、もう間近です」
そう進言してきたのは、リェン・太という若者である。人の良さそうな微笑を常に軽く浮かべて、善人そうな印象を与えるが、これで中々の曲者だ。
リェンはラヌ・峰と同じくカクの教えを受けた者であるが、カクはずっと年下のリェンの方に大きな期待を置いている。失敗した事を認められず受け入れないラヌ・峰とは違い、リェンは柔軟に対応する。そもそも二人の見ている世界の広さが異なっている。一つ一つの成否は問わず、最終的に目指す地点に辿り着けるように、要所要所を押さえることができる才がリェンにはある。
それほど見込んでいるリェンに対し、遠方に赴いて見守るように命じるかどうか決めかねている。対象となるのは、綜の少年オウ・青である。青は綜の名門・妓氏に属し、現綜真の家系である。
また、オウ・青の手首には余人にはない特徴がある。骨が盛り上がり、輪をつけているように見えるのである。
昂の地には、いつか人を統べる者、太真が現れるという伝承がある。その真の中の真・太真には、徴として体のどこかに輪が刻まれているという。あの手首の輪は、もしかすると、その証ではないか。
オウ・青がどういう行く末をたどるか分からないが、言い伝えのように、いつか大きく化けたら厄介だとカクは気にしていた。
そこで、オウ・青を奪還しようとしている動きがあった。
「やはり、やる気なのか―――」
リェンが注いだボウキ(酒)を見つめながら、カクは嘆息交じりに言った。
「統国は万人の願いであるが、陽真のように、手の届かぬ場所にあってこそ、適度に有難いものだ。願う心が強すぎるというのは因りものだな」
夜だというのに河原には華やかさがある。梄というこの国独自の樹木が花を咲かせ、燃え上がっているかのように紅い花弁が月光に輝いている。
力強さを感じる梄の花を見つめ、カクは物憂げである。こういう時、リェンは無言でいる。不用意な言動をせず、じっと情勢を読み、適切な手を出せる男なのだ。
できることならば、リェンを手元から放したくはないが、彼以外に任せられる者がいない。それほど、今度の綜真をはじめ、綜という国の行く末にカクは懸念を抱いていた。
綜の動向は瑗の未来に大きく関わってくる。かの地の中枢にいて、動きを牽制する者が必要だとカクは思っていた。
そこで、オウ・青をわざと返し、そして、こちらの手の者を助力にかこつけて送り込もうとカクは決めた。
心配であるというならば、そしてその動きを事前に摑んでいるというならば、潰してしまえば良い。普通ならそう考えて、そう進言する。
リェンほど聡い者ならば、少なくともクスル・青の野望は察しており、問題となりうるものは先に潰しておきたいと思うだろう。それなのに、リェンはカクの思惑を読もうとするように、無言でいる。
風がそよぎ、梄の小さな花弁を散らす。花びらは火花のように宙に舞い、そして、力なく落ちていく。
―――やはり、惜しい。手放さず、右腕とするべきか。そういう迷いがあるものの、だからこそ、最も不穏に思える種を任せるのだとカクは決めた。
「おぬしは、それで良いか」 と、カクは腹に力をいれて低い声で問う。
おそらくは、一生を定める選択である。まず瑗に戻れないし、それどころか、不穏な輩と見なされ、処分される可能性は高い。それほどの任務を強いるのに、その相手が凡俗の相手であれば、カクはさほど躊躇しない。このように、確認の言葉を口にせずにいられないほど、カクはリェンの才を買っていた、ということである。
「カク様らしくない」 と、リェンは微笑んで答えた。
「任せた、の一言で十分です。それ以外の言葉は私を信じられないと言っているようなものです。私がカク様の意を汲み取れず、やり遂げられないと思っているのですか? そんなことはないでしょう?」
カクはボウキの器を飲み干し、リェンと向き合う。その細い肩を摑んで、じっと眼を見つめた。
「頼んだぞ」と、カクは言った。
「カク様の疑念、期待、私への思い。いま、伝わりました」 と、リェンは満足そうな笑みを浮かべた。頬が微かに赤みを帯びたのは、まだ彼が成人して間もないからであろうか。
「私は、私の戦場で、最後まで闘います」
「うむ」
頷いたカクは、手を離し、行け、と命じた。
この後、カクの懸念通り、綜は大きな動きを見せた。
まず、瑗にいたクスルの息子オウの奪還を謀って来た。丞和三年の夏のことである。
綜に脱出する直前で、カク達は彼らを待ち伏せしていたのだが、そこでカクは自身の予感に間違いは無いと確信した。死地にあっても、オウ・青の心は折れなかったのだ。この期に及んでもなお、誰も成し遂げない事をするのだと宣言した。さらに、奪還部隊の生き残りであるサイト・成までも底力を見せた。
セドウから手を出すなと言われ、同時に彼らを見ておくようにと命じられたショウも、オウ・青には多大な興味を持っているようである。
オウ・青の奪還を手助けしたリェンは、綜帰還後にオウの信頼を得た。このあと、虎狼と化し増長の傾向を見せる綜国の中枢にあって、陰ながらその動きを調整するようにという任を、リェンはほぼ完遂することになる。
綜真となったクスル・青は、統国軍を起した。かろうじて保っていた均衡は、彼により壊されたのだ。
こうして、河津、綜、瑗と、大国がぶつかる大戦が、タレイル河畔にて行なわれようとしていた―――。