序章
序章
苦しそうな、叫びが聞こえた。
それが、自分が発しているものだと気付くまでに時間が掛かった。
横たわっているが、身動きできない。何も見えないが、暗闇を凝視している内に、次第に物の輪郭がはっきりとしてきた。見慣れた天井が浮かび上がってくる。
自分の体全体が、過剰に力を入れ過ぎて固まっている。僅かに息を吸って、意識して押し出すと共に、力を抜いていった。
口の中が乾いている。唇を閉じて、舌を使って湿らしていく。
頬に、ひんやりとした感触がある。指で触れると、微かな湿り気があった。寝ながら涙を流していたらしい。
夢―――。
心の中で呟いて、自分が悪夢を見ていたことを思い出した。恐ろしさのあまり、自分であげた絶叫で目が覚めたのだ。
その夢では、風もなく、まったくの静寂だった。その中を、意思を持っているかのように炎は近づいてきた。
そっと包み込むように炎が体に取り付き、そして全身を覆ってく。暴れて振り払おうとするが、ぴたりと張り付いて離れない。痛みや違和感はないが、それが返って、恐ろしかった。
身に絡み付いていた蛇のような炎が、鎌首をもたげるように、目の前に立ち上ってきた。
どこか楽しげに、ゆらゆらと身を燻らせ、そして、形を為しはじめた。すぐに、こいつが何を形作ろうとしているか、分かってきた。
人だ。炎でできた、人の姿だ。
ぼんやりとだが、人の顔が再現された。よく知っている、あの男の顔がそこにあった。さすがに細部までは再現できないようだが、これで十分わかった。
「――――」
名を呼んだつもりだが、何の音も聞こえない。
手で掴もうとするが、するりとすり抜けてしまう。問いかけ、罵倒したが、何の応答もない。
不思議そうに首をかし傾げる仕草をした後、炎はくるりと振り向いた。その視線の先には、故郷の景色がある。
「―――――」
懸命に叫んだつもりだが、何も生じなかった。
あっという間に炎は広がり、すべてを飲み干していった。
どこまでも続く草原は黒く縮れて見る影もなく、透き通っていた湖水は濁り|澱み、鳥獣は苦悶の鳴き声を上げて地面に転がった。このままでは、国土すべてが焼け野原となってしまう。
「――――」
泣き叫び、懇願するが、何の音もしない。
膝を突き、腕を伸ばす。骨ばかりになり、ぽろぽろと崩れ落ちていく。
「――――」
男の姿をした炎は、遠ざかっていく。足取りは軽く、小躍りでもしているようだ。
「――――」
すべてを振り絞って最後に男の名を叫んだ所で、目が覚めた。
夢を見ていただけと気付いても、しばらく男は動かなかった。
ゆっくりと身を起し、目の前を睨みつける。そこには何もないが、そこに憎むべき相手がいるように、男は険しい眼を向け続けた。
「―――――と、いうのか」
擦れた声が、やけに心細く聞こえる。
ぎゅっと、力を込めて瞼を閉じた。そのまま眉間に皺を寄せ、脳裏からあの顔を締め出そうとする。だが、目の奥にでも焼きついてしまったのか、どうしても消えない。
「そんなことは、絶対に、許されない」 と言って、眼を開けた。
「どんな手を使ってでも、お前を――――」
闇夜のなかにあって、その双眸には業火が燈っているようであった。