1.人生最後の日
「合理主義」とは、自身の感覚や過去の経験からではなく理性や論理的思考に基づいて物事を判断することである。
だが生憎なことに、その「合理的主義」という自身の性格が仇となって、現在、俺ー桐山コユキは生死の淵に立たされていた。
時は数時間前に遡る。
今日も俺はいつもと変わらない朝を迎えていた。
朝目が覚めると、まずは洗面台へと向かい、顔を洗う。それが終わると、次は朝食だ。
俺は台所へと足を運ぶと、すぐに朝食の準備に取り掛かった。
今日の朝食の内容は、食パン・サラダ・コーヒー牛乳という毎朝の決まりきった俺の定番メニューだ。それを口に運びながらスマホの画面を見ては、最近の日本の景気を確認するのが毎日の俺の日課であった。
その後、朝食をあっという間に食べ終えると、台所に自分が食べた分の食器を持っていく。そして台所の蛇口を捻ると、水が勢いよく流れ出した。
現在の季節が冬だということも相まって、水が俺の感覚神経を刺激してくる。蛇口から流れ出る水は、冷たいという感覚よりもむしろ痛みの方が勝っていた。俺は歯をグッと食い縛ってその痛みに耐えながらもゆっくりと食器を水で濯いでゆく。
「自分で食べた分の食器は自分で洗いなさい」ーそれが幼い頃からの母の教えでもあった。
その後、痛みと格闘しながらどうにか洗い物を終えたら、そのままの足で自室へと戻る。そして学校の制服であるブレザーへと着替え終えると、寝癖がないかを鏡で入念にチェックした。
ここまでの一連の流れが、俺が学校へと登校するまでのルーティーンとでも言うべきものであった。
玄関を出ると、外には雪がポツポツと降り始めていた。
「あっ・・・。そういえば、今日は雪が降るかもしれないってニュースに載ってたっけ・・・」
今朝の天気予報の内容を頭に思い出しながら空から降り注ぐ真っ白い雪へと無意識に手を伸ばす。
それが俺にとっての今年初雪であった。
家の近くの最寄り駅までは徒歩で向かう。
俺が通っている高校は県内でも指折りの進学校であり、最寄り駅から五駅跨いだ先にあった。
電車にゆらゆらと揺られること一時間、ようやく学校から程近い場所にある最寄り駅へと到着した。
駅から学校のある場所までは大体徒歩で約二十分程度の距離にある。駅から学校付近に停まるバスも定期的に出てはいるものの、俺がそれを利用することはなかった。バス代もバカにはならないし、歩いて行ける距離にあるのならば、歩くべきである。
それが俺のポリシーだった。
こうして駅から学校までの道をただひたすらに歩いていく。
その道中、俺と全く同じ学生服を着た連中の姿が真横を通過するバスの中にちらほらと見受けられたが、俺には気にする様子がまるでない。
バス通学がうらやましいなどとはこれっぽっちも思わなかったのだ。
超が付くほどの合理的主義の思考を持つ俺にしてみれば、疲弊はするもののお金は一円も発生しない徒歩移動と、月に換算するとバカにならないぐらいの運賃が発生するバス移動とを天秤にかけると、答えは比較するまでもなく明らかだった。
自身の選択が間違いではなかったと頭の中で勝手に結論付けた俺は、普段よりも歩く速度が二倍程速くなっていることを自覚してはいなかった。
学校へと着くと、俺はいつものように勉強へと勤しんだ。
自身の描く理想を実現するためには、勉強することが不可欠だからである。
「勉強など大人になれば必要のないことだ。だから別にしなくても何も問題はない」などというふざけた事を言う輩もいるが、俺にしてみれば、それは勘違いも甚だしかった。
勉強とは何も社会人として必要だからするものではなく、大学に合格するために勉強するわけでもない。勉強とは、いわば社会人として社会に出て行くための最低限のモラルみたいなものだと捉えていた。
社会とは皆が思っているほど慈愛に満ちた世界ではない。人間の私利私欲がこれでもかというほど渦巻いている汚い世界である。
社会人ともなれば、当然理不尽な目にも遭うし、甘い誘惑や抗うことの敵わない絶対悪なども存在する。しかし、それらに打ち勝つことが出来る強靭な精神力の持ち主こそが、立派な社会人だと俺は思っていた。
勉強とはそのための学問なのだ。
立派な社会人として社会に出ていくためには、高等学校までの勉強如きで根負けするようではどの道社会に出たところで、その者の程度は知れているだろう。
それが俺の持論だった。
こうした理由から、今日もコユキは熱心に机に向かって勉学に励んでいた。
その後、学校の授業が一通り終わると、皆が一斉に部活へと向かう中、俺は一人でさっさと帰り支度を始めていた。
部活には入っていない。高校の三年間は勉学に励むと決めていたからである。
だからといって、俺は決して運動が苦手だというわけではない・・・本当に・・・。
人間誰にでも得意不得意がある。そう自分に言い聞かせながら帰り支度を終えると、そのまま学校を後にした。
だが、この時はまだ知る由もなかったのである。
まさかこの後にあのような悲劇に見舞われることになろうとは・・・。
それは帰り道での出来事であった。
この日は普段とは違う道を通って駅へと向かっていたのだ。
というのも、この時期はちょうど来週末に開催される地域のお祭りがあるために皆が忙しなくその準備に追われているのだ。それ故にいつも通っている道は多くの人だかりでごった返していることが予想された。
その事を事前に把握していた俺は、今日からその道を避けて帰ることに決めていたのである。
その道すがらの出来事だった。
突然俺の目の前に小さな女の子が飛び出してきたのだ。
どうやらその少女は道路を挟んだ向かい側の公園で遊んでいたらしく、ボールが道路上に転々と転がっていた。しかもちょうどこの場所は見晴らしの悪い交差点に差し掛かっており、その上交通量も激しい場所だ。
ここは過去にも人身事故が多発している超危険地帯であった。
その時、悪い予感が頭の中を過った。
「───!?」
どうやら俺の嫌な予感が的中したみたいだ。
ボールを取りに来た少女の真横から自動車が猛スピードで突っ込んでくるのが目に入った。
この瞬間、誰もが真っ先にこの少女を助けに行くものだと思われたが、俺はその場から動こうとはせず、ただ黙って車の行方を見守っていた。
今俺が動いた所で、この少女が助かる保証はない。もしかしたら二人とも事故に巻き込まれて命を落とすかもしれないのだ。それならば、わざわざ命を捨てに行くようなマネをしなくてもよいだろう。
人間は死んでしまっては意味がない。
どれだけ過去に頑張ろうが、努力しようが、勇猛果敢に人助けをしようが、死んでしまっては全てが無意味となるのだ。
心の中で少女に黙祷を捧げる。
彼女の来世が輝かしいものであらんことを願って。
そして再び目を開けて・・・俺は絶句した。
なんと少女へと向かっていたはずの自動車が何故か進路を変更して、俺の方へと向かってきていたのだ。
これが因果応報ってやつか・・・。
もし俺があの時少女を助けに向かっていたら、どちらも無傷で無事に済んだということだ。それに自動車の運転手も自責の念に駆られることもなくなり、まさに三者三様のハッピーな展開で終えることができたはずだった。
自分の性格が「合理主義」じゃなければ・・・。
その時、初めて自身の性格を後悔した瞬間だった。
「合理主義」という性格が仇となって、今まさに俺の命の灯火が消えかけようとしていた。
自らに命の危機が迫ると、視界に映る全てのモノがスローモーションに見えてしまうという現象をよく聞くが、俺にとっては今がまさにその時である。
自動車がゆっくりと自身に迫りくる中、過去の出来事が色々と脳裏にフラッシュバックしてきた。
───これが走馬灯ってやつか・・・。
そして次の瞬間、俺は真正面から自動車と衝突した。幸い痛みを感じなかったのがせめてもの救いとでも言うべきか。
俺はこれまでも色々と我慢して努力し続けてきたのに、人生の最期がまさかこのような形で終わりを迎えることになろうとは・・・。
もし神という存在がいるのならば、もう一度俺に人生をやり直すチャンスを授けてほしいものだ。
しかし、生憎俺は無神論者である。
死とは、皆平等に訪れるモノであり、そこに差別はない。命ある限り、死とは決して避けては通れないモノなのだ。それが今日偶然にも俺に降りかかっただけというだけの至極簡単な話だった。
こうして俺の人生に幕が下ろされたのであった。