#2
NYの西寄りの街並みの中に、クリスとセオドアはいた。殺すことと殺されることを決意した二人は、セオドアの住まいである、ぱっとしないマンションで朝を迎えていた。外壁は灰色でくすみ、色むらもある。ところどころから鉄筋コンクリートの一部分が見え隠れしていて、ヒゥとでも風が吹けばキシキシと音が鳴りそうな、一言でボロ建築だ。ただ建物のなかは思っているよりも清潔で、掃除の目が行き届いている。外よりもシミはなく、無骨な見た目でもない。整っていた。
どうやらせセオドアは大雑把な人間らしく、リビングまではまだ整頓されていて良かったものの、寝室は荒れに荒れ尽きていた。ベッドの脇は服で埋まり、テーブルには何かがこぼれたあともある。そのあとの近くにあるカップのふちにも、カップから何かこぼれたあとがこびり付いていて、中にはコーヒーが入っているが、いささか薄すぎるように見える。
クリスはセオドアに言われ、リビングのソファーベッドで寝た。とはいえ、いくら真夜中でも直前の惨劇のせいで眠りにつける訳もなく、闇の中、座ったまま、すすり泣きながら部屋の中を見渡した。マンションのロビーよりも汚いセオドアの部屋は、全体が灰色に染まっていて、やはりところどころにシミがあるが、それが現代を感じさせる。そしてどこからか古いコーヒーの匂いがしたが、辿ってみると、今座っているソファーからだった。ソファーにもとからある、黴のやはらかい匂いと混ざって趣を感じる。これもまた、皮肉だ。
クリスは未だに泣いていた。目と顔を赤く腫らして、不定期な呼吸のまま、泣きつかれることも感じていなかった。そのうち、カーテンの間から光が差し込んだ。月光がクリスに眠りを誘う。ただ、現在午前4:00、こんな時に寝ても大した睡眠を得ることもできず、逆に疲れとなってしまうので、寝ることはしなかった。ただ、眠いだけなので、窓を開け、外気を大きく吸った。
秋の朝、だからだろうか。それとも自分がいまひどく暗い感情でいるからか。空が俄然暗く見えた。見える訳のない星の光も、もはや朝となってわずかに薄まった都会の光も、街灯も、クリスの目にはなぜか全て均一に薄暗くなっているように外の景色が映っていた。
何回も、何回も、冷えた外気を体中に循環させた。
空気が肺に贈られるたびに、思い出していた。母親の優しさと、父親の誇りを。
クリスの父、バリー・キングは、中小企業で働く一介のシステムエンジニアに過ぎなかった。決して年収が多いというわけでもなく、しかし貧しいわけでもなく、クリスが年相応のかわいいわがままを口にしたとしても、節度を守って聞いてくれた。何よりも、クリスの母親、ジェイドの血を強く引き継いだクリスは10歳の時点でそれほど背は高くなく、バリーの197センチメートルある身長と大きな背中は、クリスにとって誇りであり、勇気でもあった。
母親のジェイドに至っては、毎朝同じ時間に起こしてくれたり、幼い頃の母の膝の上に座っていた優しいあの感覚を覚えている。クリスがぐずって学校に行きたがらなかった時には、バリーとジェイド二人でクリスの両手を握って、宥めてくれながらバスストップまで連れて行ってくれた。
全部、優しい思い出だらけだった。
借金もなかったはずだ。恨まれる理由がない。
なのに、殺された。
窓の外で顔を出して呼吸するたびに、胸の奥が熱くのどが冷たくなり、負の感情全てが形を変えて目からあふれた。雫はそのまま数回下の階へ落ち、小さく、爆ぜた。
じきに呼吸が苦しくなり、冷涼な秋のそよ風がクリスの肌に刺さるようになったので、少し落ち着いて、窓から乗り出していた上半身を引っ込め、内側に取っ手を引っ張って窓を閉めた。そしてまた、静かに泣いた。
廊下の方から、フローリングを素足でたたく音が聞こえてきた。クリスはただ、その音を聞くばかりで振り返って音源を探そうとはしなかった。ドアノブを捻り、金属と木材が擦れてきしむ音がした。足音がまた近くなると、それはキッチンの方へと向かい、次は戸棚を開ける音がした。
クリスはゆっくりと、右回りに振り向いた。腫れた瞼の奥に在る眼に映ったのは、長身の壮年、セオドアである。ほんの数時間前、二発の轟音で自分から全てを奪った男。上り始めた朝日に照らされている男は、自らの手で殺さなければならない相手。
しかし今は、何もすることが出来ない。
クリスは自分の非力さを、数時間にかけて嘆いていたことに気付いた。
セオドアは右手にカップを持っていた。中身はおおよそ冷めて濁った珈琲で、それを飲み干しながら、キッチンまでやってきていた。
比較的綺麗な調理台の上に、もともと真白であったはずの黄色のマグカップを置くと、台の下の戸棚から、もともと真白であったはずの、底とその周りの側面が黒いポットを取り出した。
それを右手に持ったまま、重そうな足取りと気怠そうな顔で、調理台の右に在る小さな流しに向かうと、そこで水をポット半分まで汲んだ。それを持った、徐々に覚醒しつつあるセオドアは、今度は調理台の左に在るガスコンロで湯を沸かし始めた。
その様子を、振り向いても横目で見ていたクリスは、外され、治された肩が痛み出したのを感じていた。だんだんと痛みは強くなり、顔にも感情が出るようになったので、痛みを和らげようと体を捻った。その方向が悪かったのか、痛みは一瞬極度に激しくなり、思わず顔を顰めながら「いっ」と声を洩らした。セオドアは、それを聞き逃しはしなかった。
「痛むか。」
「あんたがやったんだろう。」
「・・・すまなかった。そうでもしないと、君は私を殺せなくなるから。」
「なんで、そんなに、僕に殺されたいのさ。」
「それは、言えない。残念だが。」
クリスは呆れたように怒りを露わにした。セオドアは言葉を濁すように少し笑いながら、
「今日はその肩を治しに行く。」
「それって、つまり病院に行くってこと?」さっきまで殺しを営んでいた人間が、そんな公共の施設にでも行くというのか、と込めながら皮肉ったらしく睨んだ。
「ああ、もちろん私のような輩が幾人か集まる所だがね。」
「それって。」よほど環境が悪く、穴が開いてたり血や膿がこびりついたりするんじゃないか。
「安心しろ。ここから近くの新聞社の地下に在る、信用出来る所だ。」
「でも。」とんでもない額の請求が。
「友人が経営していてな。」
下手したらそこらの病院よりも信頼できる、非の打ち所が無いように聞こえた。
「なんだ、病院が怖いのか。」
「ち、ちげえよ、そんなことじゃなくて。」クリスははっきりと怒りを顔に出していたが、セオドアはその様子を見て、自分から振ったにもかかわらず一番笑っていた。
丁度その頃に火に掛けた湯が沸いた。そして二人はすっかり目が覚め、クリスは自分の身体が冷えていることに気付き、ソファーの上に無造作に置いた毛布を身体に巻くように掛けた。
「コーヒーは。飲めるか?」ふいにセオドアが訊いてきた。
「え。いいや。」
「そうか。」
セオドアが顔を顰めた。クリスには見えなかったが、それでも笑われている気がして腹が立った。
「じゃあ、牛乳は。」
「飲めるよ。」少し声が粗ぶった。
「怒っているのか?」図星である。それがまたクリスを腹立たせた。勿論、セオドアは笑った。声を潜めて。
「待ってろ。」そうセオドアは後ろの少年に言うと、上の戸棚から缶を一つ取り出した。カチャカチャと蓋を回して、黒い粉をマグカップの中に目分量で放り込む。右奥にある冷蔵庫から牛乳のボトルを取り出し、小さな鍋の半分まで入れた。火を中火でかけ、沸騰しないよう、セ氏60度程度になるよう温めた。
出来たホットミルクをもう一つのカップの八分目まで入れる。黒い粉の入ったカップにだいぶ昔に沸いたお湯を適当に流し込むと、まだ冷めていないお湯が粉を溶かし、湯気にその芳香を漂わせる。右手にそれを持ち、左手にはホットミルクのマグカップをかかえてクリスの所へ向かった。
「気をつけろ。」と言いながら、クリスに左手のカップを渡した。少年は素直に受け取り、やたらとフウフウ息を吹いた。
その様子を見ながら、セオドアはコーヒーを啜ったが、自分は猫舌であることを忘れていた。
身体が温まったのをクリスは感じていた。それなりに一日の活力を得れた気がした。まだ5時になるかならないかの時刻だが、今日に限っては、クリスにとって関係ない。一時間前からずっと居た泣きっ面を流そうと、洗面台を探し始める。リビングを出てすぐ左の物置の手前にバスルームが在る。リビングやセオドアの部屋を見た後ではかなりきれいに見える。壁もちゃんと白いが、所々に水垢のシミがついていたが、気になるようなものでもない。シャワーもついでにと服を脱いだ。蛇口を捻ったばかりのシャワーは冷水で心臓に悪い気がするので、少し離れたところから腕を伸ばして、捻った。若干肩が軋むように痛んだ。
出てくる水が温まってくると、瞬く間に浴室は白くなり、空気の肌触りも水分で潤沢になった。頭から温水を被る。そして顏にシャワーをひとしきり当て、両方の掌で擦った。シャワーをもう少し近くから浴びたくなり、左腕を上に伸ばした。シャワーノズルはクリスが思っていたよりも高い位置に在り、少々小柄な身体中産毛程度しか生えていないクリスの体格がそれに追い討ちを掛けた。
踵を浮かしてようやく届き、転んで怪我をするんじゃないかと内心びくびくしながら体を温め、シャワーをもとの位置に戻すときには身体を思い切り伸ばし、最後は投げるようにしてフック状のものに引っ掛けた。
浴室のカーテンを開けて、ひとまず近くに在ったタオルで身体を拭いた。頭を念入りに擦り、胴や四肢も丁寧に乾かした。が、重要なある事を、クリスはここでようやく思い出した。
服が無い。さらに言えば下着も無い。
クリスは焦った。ひとまず手に持ったタオルを腰に巻き、陰部が見えないようにした。そのままリビング戻り、いけ好かないがセオドアに助けを求めるしかない。内心恥ずかしさと怒りで混乱しながら潔くリビングに向かった。
「あの・・・。」
セオドアに尋ねようとしたその瞬間に、ソファーの上の自分の服が目にくっきりと入った。去年買った青のTシャツも黒いセーターもジーンズも、ジャージにチノパン、柄が恥ずかしくて無地ばかりだった下着も、かつて家に在った自分の物がほとんど目の前に在る。
「どうした。」既に紳士服に着替え終わっていたセオドアが訊いてきた。尋ねる内容が変わった。
「この服、僕の、だよね?」
「家に在ったやつだが。」
「いつの間に。」
君が失望して座り込んでいる間に、とは死んでも口にしないように。
「さあ。」
納得はあまりついていなかったが、それでも服が在る事は嬉しかったので、黒のボクサーブリーフを素早く穿き、紺のチノパン、正面に絵の入った長袖のTシャツを着た。出かけるときには灰色のパーカーを羽織るつもりだ。
「準備できたか?」
家じゅうの電気を消して、戸締りを確認しながらセオドアが訊いてきた。
現在5時半。早すぎるのではないか、とクリスが訊く前には既に。
「あそこの医者は基本的にもう起きてるか、寝ていないからな。受付も基本居る。」
また顔色を読まれた。そうクリスは腹立った。
「朝飯、食いたいもん有ったら言えよ。」
「え・・・、うん。」
全てのチェック事項を確認し終え、クリスは履き慣れたスニーカーの踵を見て、セオドアは革靴を履きなおし、玄関の戸を開けた。