#1
胡蝶の夢という話がある。ある男が胡蝶になり空を舞う夢を見た。その夢から目覚めた男は、「実は胡蝶の自分が現実で、人間の姿が夢なのではないか。」と自らに問いかける物語だ。
この物語の主人公である少年も、これから出くわす数奇な事件にきっと、夢であるだろうと思うはずだ。目的の物が手に入らなかったとき、ツリーの下で涙を流す子供のように、夢であることを望むだろう。しかし少年は、いつも現実にいる。少年の「夢」はいつも少年に触れている。少年にとって夢だと思いたい現実はNYの郊外、深い夜から始まる。
かの大都市ニューヨークも、夜の路地裏ともなるとそれなりの静寂を纏っている。若者たちは街灯とビルディングの間をふらふらと、水に浮かび波にさらわれるアヒルのおもちゃのようにふらふらと歩いている。 悪と正義、闇と光。自らが太陽であるかのように振舞う政治家たちはようやく、ネオンのようなピンクの光で照らされているドアから満足そうに顔を赤くして出てきた。その様子を、自分は暗黒そのものであるといわんばかりに、ジャーナリストが重々しい銃のようなカメラで捉える。
別の場所では見様見真似で悪を演じようと試みる幼子たちが、正真正銘本物の悪に裁きを受けている。
どこからだろうか。豪快なパンクバンドの独特な感性から生み出したエレキギターのわずかに擦れた音が8ビートにのってうっすらと聞こえてくる。そんないつもの夜の、わずかマンションの一室。
NY郊外、午前二時十一分。
日本でいえば、霊が現れる時間に、当たり前のようだが、郊外のマンションの部屋のベッドで少年は眠りについていた。その時の部屋の中は一際静かで、まだ十二にも満たない少年、クリス・キングは普段よりも深く眠りについていた。クリスが知る由もないことだが、この日の夜空はすっかり晴れていて、その時季節は秋で、秋らしい澄広がった空が天上を冴えさせた。新月だったこともあり、星も(都市の光を無視すれば)よく見えた。
そんな秋の深夜に、鋭く、そして乾いている音が古ぼけて元のレンガの色に灰色が重なったような年老いたマンションの一部屋を埋め尽くした。決して轟音ではないが、その音で目覚めたクリスにとって、印象深い大きな音として刻まれている。この後クリスに降りかかる出来事も含めて。
音はリビングルームから聞こえた。破裂したその音はかつてないまでに高鳴りする響きを延々と伸ばし続けている。ほとんど覚醒していない身体を強引にベッドから降ろし、用を足すついでにリビングに向かった。やはり秋、それも中盤に差し掛かると家の中だろうと寒い。体を縮ませながら、トイレが近くなるのに若干焦って向かった。
用を足した後、クリスはなぜか悪寒を感じ取っていた。限りなく、ひどく、嫌な予感がした。それが何を意味するかも分からぬまま、クリスはゆっくりと、足の裏で床をたたいていた。
音がでないように、ひっそりと取っ手を握り、部品同士の擦れや軋みを感じ取れるまでにゆっくりとひねった。いつも頭があるところより少し低い位置から、クリスはゆっくりと顔を出した。
わずかに闇に慣れた目で最初に確認したリビングの風景は両親が寝ている姿であった
「こんなに寒いのに、なんでこんなところで」と、親孝行な少年は自分の両親のため、やや薄い毛布を持ってきた。ソファーで横たわる母に、そのソファーの足元で眠る父に毛布を広げた。
もし、その時に母の体が、具体的には頭が動いていなければ。クリスの目が闇に慣れていなければ。だとしてもこの短時間の間に気づくことになっただろう。少年の思い出として。最悪な。
母の額に小さな穴が開いていた。直径が1センチもないような小さな穴だったが、何か禍々しい、おぞましいものをクリスは感じていた。
その穿たれた穴からは紅の小川が細々と流れていた。紅い川は緩やかに鼻の横、唇の端を通り、やがて顎の先から一滴ずつカーペットを濡らした。
それ以外、クリスの母の顔には傷がなかった。そしてとても安らかな、寝ているような、穏やかな表情で、目を閉じ、そこにいた。
横たわっていた。
間違いなく、クリスの母は、死んでいた。
丁寧にこと切れていた。
母の死はクリスをひどく焦らせた。
クリスは、涙すら流せぬほどに動揺しながら床に寝ている父の肩をゆすった。父の名前を叫びながら。しかし当然のように父は目を開けず、うめき声を出さず、吐息すら漏らさず、それらで自らの絶命を告げた。
ようやく、と言っていいのだろうか。クリスは泣いた。自分にとって一番身近で、大切で、愛していた両親をたった一晩で失った。それが何よりも、今まで得た悲しみを全て合わせたとしても深い悲しみがクリスを冒した。
ふいにクリスは気配を感じた。激情に襲われていたクリスにはいっさい気付かなかったその気配はたった今クリスの方へ歩き出した。
あいつが父さんと母さんを殺した。
その激情は復讐へと昇華し、そしてクリスを動かした。
気配の正体は、180ほどある男であった。右手には、夜の闇で見えにくいが、カーキ色の大きな拳銃を握っていた。闇に同化している暗いコートやブーツをつけており、気配はついさっき人を殺したとは思えないほど、ひどく穏やかだった。
ただ、今のクリスにはそんなことなど起動することすら不可能なコンピューターと同等にどうでもよかった。クリスにとって必要な、大切な情報。それはこの男がついさっき両親を殺したということ。それだけで十分なのである。
復讐へと性質を変えた感情はクリスに力と、勇気を与えた。
だがその二つをまとめて「狂気」と呼んでも差し支えないだろう。それほどにまで、まだ幼い少年はミケランジェロが彫刻を創り上げるかの如く、激情に呑み込まれていた。
クリスは男の真正面に向かって突っ込んだ。恐れなど何もなかった。男の手に大きな銃が備わっていることも目で見て確認し、男がいかに大きく、それ故の覇気を纏っていることも自分自身の体で感じていた。しかし、クリスは男の右手にある拳銃を目掛け、男に向かって、大股で寄って行った。
対する大男は、戸惑いはしていたもののコンマ単位の時間の中で冷静さを戻し、目の前の少年に向かって銃を奪われる演技をした。
クリスは、それが演技だということを知らず、男から銃を奪った。
その銃はクリスの目の前にいる男が握っていたとしても大きく見え、小さな少年の掌には到底収まることはなく、そして、両手で持っていたとしてもそれはひどく重かった。
案の定、クリスは銃を手に入れた瞬間に襲い掛かる重量に耐え切れず、バランスを崩し、転んだ。
その時に左脚の脛をソファーの脚にぶつけ、切れたが、「狂気」のままに、僅かに血の流れる足で体を起こし、両手と体を使い銃を構えた。クリスにとってあまりに重すぎるその銃を構えた腕は、筋肉は、痺れ始めている。だがそんなこと(自分の体であるのに)クリスは知らない。
銃口は明らかに男を捉えていた。男自身も自分に殺意が向けられていることを銃を奪われた時点で察している。だがうろたえはしなかった。古く廃れた、ほんの数時間前まで一般家庭の幸せな営みの舞台であった少し広いマンションの一室で男は、銃口を向けられながらも落ち着きのある雰囲気を少年に見せ、しかし表情は、特に視線は真剣さながらに鋭く、銃と少年を見ていた。
引き金に人差し指をかけた。拳銃そのものも重いうえ、トリガーもかなり堅かった。クリスは狙いを定めた。この武器がどんな名前か知らず、撃ちだされる弾丸
の名前も知らず、ただ復讐を果たすため、男を射抜くための凶弾を放つために狙いを男の心臓に定め、そして体中に力を込めた。指の先、筋肉、一本一本の筋、節、全てに、体に残っているエネルギーを全てつぎ込んだ。
体に力を溜めているな、と、男は目で見て感じた。少年の筋肉の動き方が変化し、力んでいる。男は「直に、10秒以内に弾丸が発射される」ことも感じた。その銃には消音器消音器がついてはいるが、それでも発砲時の音は大きい。部屋にひどく響いて、残響も長くなるほどの音だ。それが少年にどれほど影響するか。何よりも、撃つことができるかを、男は心配していた。
トリガーにかけている人差し指に力を込めた。そしてゆっくりと引いた。狙いがずれないように、ゆっくりと引いた。金属というかなんというか、トリガーと本体が擦れ軋む音が、人差し指から感覚としてクリスに伝わる。そのわずかな感触を覚えたときには既に火薬は爆発し、弾丸が射出されていた。
途端、クリスを大きな揺れが襲った。揺れは震えとなり、クリスの指の筋肉一筋一筋を震わし、肩関節に衝撃を伝えた。ひどく震えた肩は徐々に歪み、捻り曲がり、やがてずれた。外れた。
激痛が、クリスを蝕んだ。嫌な音がクリスの肩関節を中心に体中に響いた。
ただ、この痛みにクリスが気付いたのは発砲してから一秒後のことだった。
狂気を纏い放たれた弾丸はまっすぐに男の頭へ向かっていた。だが、弾丸が放たれたときにはその場所は、既に「男の頭があった場所」となり、弾は空を切り、そのまま本棚と壁にぶつかり、その中で止まった。男は発砲の時点で体を僅かにずらし、弾を避けていた。少年に悲哀の目を向けながら。
ただ痛みに耐えようとする少年は、涙や涎で顔を汚し、床の上で苦しみ悶えていた。もはや意味を持つどころか音にもならぬ叫びをあげ、生き足掻いている。幼い少年にはとても耐え難い苦しみが、それは肉体的にも精神的にもつらい苦しみが、少年に、一度に襲い掛かってきた。それが、クリスの叫びを音のないものにし、この深い夜を一生涯忘れることのない思い出にした。しかし苦しみは一生消えることはない。絶対に。
男は、少年が落とした銃を素早く拾い上げ、安全装置 をかけた。そして少年に近づき、文字通り肩に手をかけた。右手で少年の腕をぶれないように強く握り、左腕で肩の動きを封じた。そして少年の口に強引にタオルを咥えさせると、男は、右手を大きく動かし、少年のずれた肩関節を無理やり動かした。やや不鮮明でいて不快な音が鳴り、少年が叫び悶えた。タオルのおかげで叫びながら舌を噛むことを防ぐことができたのは、言うまでもない事実だ。数十秒もすると、少年の呼吸も元の形に収まり始め、顔は赤くしていたが涙は止まっていた。さっきまで張り裂けんばかりに泣き叫んでいた少年は、一転、穏やかな、落ち着いた呼吸を取り戻していた。ただ、その顔は男に憎しみのすべてをぶつけようとする復讐のそれであった。
少年の痛みが和らいでいることを、憎悪の形相を浮かべる少年から確認した男は、先ほど自分でセーフティをかけた大きな拳銃のバレルを持ちながら、その銃を少年に差し出すようにし、言った。
「『デザート・イーグル』。世界最強の拳銃故に、その反動は訓練された女子供でなければ、肩を壊す。」
「・・・母さんと、父さんを、・・・かえせ。」
「じゃあ、この銃で俺を殺してみろ。」
少年は奮い立ち、また銃を撃つために立ち上がろうとした。しかし、肩に何度も走る激痛が、その動きを止め、終いには少年の動きそのものを止めさせた。
「ぅ・・・っ。」
「わかったか? 訓練して、俺を殺すんだ。そのために、だ。つまり、
私についてこい。」
何を言っているのか、クリスには理解できなかった。この、自分の親を殺した男が、自分に殺されたがっている、など、到底理解できない。
「何言ってんだよ・・・!」
「何って、私を殺すためにいろいろ教えるって言っているんだ。」
「それが、意味わからないんだよ!」
「なら、また肩を壊して銃を撃つか?」
「・・・・・・。」
「私が君に殺し方を教え、君が私を殺すのさ。」
この時から、少年は決意した。必ず、この男を「自分の手」で殺す、と。そのためだけにこの男についていく、と、少年は選んだ。その道が少年に何を与えるかも知らずに、少年はこの道が「復讐の道」であると信じて、真っ直ぐに進もうと、決意した。
目の前の少年が、自分の差し出した銃を手に取った。気のせいだろうか、目の色も変わったように思う。男、セオドアは満足だった。自分の持つ傷に触れてしまったこの少年が、どうなるのか。だが、今この「姿」をしていれば、大丈夫だろう。この深い傷を継いだとしても。
「お前、名前は?」
「クリス、クリス・キング」
「そうか、私は、セオドアだ。
よろしくな。」