カタラットの変遷
新章突入です。
カタラット国は、ラン=サイディール国の遙か東方に位置し、ティノーウ大陸の隣にある、世界最大の大陸ディカイドウ南部に存在する、人口一万五千ほどの国家である。
緯度的には、ラン=サイディールの植民地であるドレーノとほとんど変わらないが、リオ大陸から大海スロイを囲うようにして延びる半環パルス火山帯の一部を成すパルス連峰によって、水蒸気を多量に含んだ空気の流入がある程度阻まれるため、ドレーノのような蒸し暑さを感じる事はまれだ。
本来であれば、ドレーノ方面から流れ込む大気が、パルス山脈の向こう側で大雨を降らせた後、所謂『パルス降ろし』と呼ばれる乾燥した空気がパルス山脈を越えて吹き降ろす影響で、異常な乾燥帯となるべき土地なのだが、カタラットに面するイア海から吹き込む湿った空気とカタラット上空で混じりあった結果、結果的に湿度が高すぎず低すぎず、温暖で気温の上下もあまりない過ごしやすい気候となっている。常春、というよりは常初夏という表現が適切かもしれない。
準温暖湿潤と名付けられたこの地の気候は、温暖湿潤程の雨量はなく、熱帯の植物が繁茂するジャングルは小規模に形成されるだけに留まり、亜熱帯と呼ぶにはあまりに矮小な熱帯林群と、降雨量の少なさを指した学者の苦慮が感じられる。
熱帯林とは違う森林の割合が多いからこそ、矮小に感じられるジャングルではあるが、その広さはドレーノのそれを上回っている。単純にディカイドウ大陸を覆う森林の面積に対して熱帯林の割合が少ないだけで、ディカイドウ大陸の熱帯林の総面積は、恐らくリオ大陸の表面積を上回る。つまりは、この大陸は一つの気候で括ろうとするには些か広すぎるということだ。
熱帯とは違うその気候には、高温多湿に馴染んだ大型爬虫類や両生類などよりは、気温の上下の余りなく、乾燥などの環境にもある程度強い、ほ乳類や鳥類などの多様な生物が多く見られ、目撃情報だけで未だに捕獲されたことのない、巨獣と呼ばれる類の超大型の草食動物、そしてそれさえも捕食できるだけの能力を持つ肉食動物が生息するといわれている。
熱帯林のようなジャングルとは違い、さまざまな種類の植物が繁茂する巨大な樹海では、神話や伝説上の生物でさえ目撃されたという伝承が残されているが、それはすなわち、それだけ大樹海の総面積に対して、人類の及ぶ生活面積が非常に少ないということだ。同時に、そこまで大森林の開発や研究が進んでいないと言い換えることもできた。
そして、その動物も人間も過ごしやすい気候が、観光地としてカタラットを存続させ、形成過程は兎も角としても、国家の体を成せる程の潤沢な資金をこの地に招き入れているといえた。
カタラット国の首都はワーヘといい、イア海に面した巨大な入り江全体を指す。
明確なカタラット国の領土は、その入り江に形成されたワーヘの街並みと、他数か所点在すると言われる村だけだが、その領土の先に広がる大樹海も、他に所有権を主張しようとする国家もない以上は、カタラットの国土と言えるかもしれない。少なくとも、カタラットがそこに領土を主張しようとする際、阻害する存在は何もない。
今でこそ観光がこの国家の主な財源だが、かつては軍事国家だったころのラン=サイディール国をも退けた事でも知られている。
無論、退けたといっても、直接的な戦闘ではない。
今から二百数十年ほど前、ラン=サイディール国がティノーウ大陸での領土拡大を大筋で諦め、大海スロイの向こう側にいくつかの大陸を発見し、そこに新天地を見出そうとしていた頃、カタラット国も、所謂無国家時代を終え、リーダー・コジンマ=カタラットの下、いくつかの集落が合併し、国家と呼べる規模の組織へと成長していた。
コジンマは、武力による統合を望まず、話し合いと各集落の技術共有によるメリットを前面に押し出し、村々を纏めていった。また、コジンマは自ら王になることはせず、あくまで各集落の長的な役割だった人間を集め、会合を持った。
自分の属する集落のメリットだけを追求する長は排除し、利益共用の精神を重んじ、そこに同意した長を重用する手法で、争いごとが起きそうになった時も、各集落の力を削ぐことなく治め、結果的にカタラット国を、各村の体力を温存した状態での国家の成立に導くことができた。
併合に金と人員をかけた為政者は、大抵外からの侵略に耐える力なく占領を許すが、カタラット国がその体制を維持し続けたのは、偏にコジンマの時間をかけた懐柔的併合の結果だろう。
表立っては観光業をメインに置いた穏やかな国家運営。
しかし、いざとなれば潤沢な財力で兵器だろうと傭兵だろうと集められ、ともすれば巨大軍事国家以上の戦力を瞬間的に準備でき、かつ、敵対した国家がカタラットを占領したところで、占領するメリットがほぼ皆無。それに加えて自然の城塞があり、難攻という恐るべき特色を兼ね備えた不思議な国家。
絶妙のバランスで成り立っているこの国家を、歴史学者は『奇跡の国家』と呼んだ。
カタラットの観光名所は、枚挙に暇がない。
頻繁に湧き出る温泉による湯治から、古代……人が人として文明を築く遥か以前……より絶え間なく存在し続け、この世界の過去の生態系をすべて維持しているだろうといわれる『時の博物館』の名を冠する大樹海、そして、大樹海のロフトと言っても過大でない程の高原から直接海に落ちていく大瀑布。その河川の流れを利用した水車で挽いた蕎麦や、世界中の果実が揃っていると言われる大樹海の果実源と食糧源。
特に、滝に関しては毎年観光客が最も多い。いわゆる『カタラット大瀑布』。正式名称はシュト大瀑布。
対岸が見えぬほどに広く膨大な水量を誇る河川が、ラン=サイディール国の新しい象徴である薔薇城鐘楼堂の最突端よりも高低差のある高い崖から、その水を大海原に落とし込む様は、滝というよりは、水で形作られた、海面から屹立する広大な絶壁だ。そして、圧倒的な水量の為、表面こそ靄が覆うものの、無形の岩壁は確実に存在した。
数キロ離れた所からでも爆音を轟かせ、常にカタラット国の空気を振動させ続ける、大瀑布の途轍もないほどの水量は、シュト大瀑布に船が近づくことを許さない。
高原から落ち込んだ大量の水の流れは、一度海底にぶつかり、更に後から続いてくる水により押し飛ばされる。その動きが連続することで、対岸流がそこここで発生する。大瀑布に近づく船は全て、強力な対岸流によって滝の下に引き込まれ、そこに降り注ぐ膨大な水が鋼鉄の船を破壊し、海の中へと飲み込む。
実際に、何隻もの大型船が滝の藻屑と消えているという。今までシュト大瀑布に接近できたのは、当事国カタラットの大型木造戦艦から改造された、巨大木造遊覧船カタリティのみ。それでも、木の葉のように前後左右上下に揺すられたというから、乗組員の惨状は推して知るべし、だろう。対岸流に船体を立て、膨大な水量が引き起こす風を帆が捕まえ、対岸流以上の速度で滝から離脱することが可能な状態を作り出せるカタリティだからこそ可能な技だと言える。船体の大きさに対して、木造であるが故の軽量さと、風を孕む帆が巨大であったため、船体の動静は、船底の付く海面の動きより、帆の孕む風の影響を強く受けたため、結果的にシュト大瀑布に引き込まれないですんだ、ということなのだろう。
そして、観光名所は滝下だけではない。
滝に落ちる直前の広大な大河川に生きる生物たちも、かなり特殊な生態系を持つ。
特に、余りの長距離を流れてくるために、河川でありながら、河口付近は多少塩分濃度が高いというから、その広大さが解ろうというものだ。滝の上に汽水域が発生する水系は他に例を見ない。
対岸が水平線により望むことのできないこの大河川は、大瀑布から直近数十キロの区域では、最大の深度でも数メートルであり、水の流れも河口から数十キロの間は、人の目では殆ど観測できない状態だ。
そこに生息するクジラの一種は、通常のクジラと同じ容姿でありながら、一度海中生活に特化して進化したはずのヒレが再度進化し、ヒレと、再度進化した指とその先に生える爪とを使って、常に川底に体を引きずって水中を歩行する哺乳類として生活する。
それが、この国においてのクジラの最新の進化の姿となっている。
大海でも明らかに別種として分類されている何種類かのクジラが、同様にその姿をしており、閉鎖的……というにはあまりにも広大すぎるが……な環境で、生物が進化する過程を目の当たりにできるという点では、各国から生物学者が、観光客と同じくらいその大瀑布の生態に興味を持ち、訪れるのも頷ける話だ。
学者たちが落とす金もカタラットの国庫に入るという点でも、カタラット国の経済に貢献している。カタラット大瀑布とディカイドウ大河川が、世界中に広がる様々な近似種のありとあらゆる生命体の定向進化の様子を一堂に並び立てるという意味では、科学者にとっては、カタラット国は巨大な実験室だ。
同時に、研究に好意的な国家が、カタラットに対して投資をする、という面でも、この国家は不思議なバランスで成り立っているといえる。
その一方で、この不思議なバランスで成り立っている国家を運営するカタラット一族を、かつて世界に覇権を確立した古代帝国の一族の末裔であるという見方をする学派も、ごく少数ながら存在する。
前者を圧倒的な国家の資源を源とし、後者を圧倒的な軍事力と科学技術を源とし、各国から支持なり畏怖なりを取り付けたわけだが、その絶妙のバランス感覚こそが、古代帝国人の末裔である証明ではないかと主張している。
しかし、その考え方は荒唐無稽の類であり、ほとんどの科学者には容れられていないのが現状だ。その意見の内訳をみると、殆どの人間は一笑に付す、というよりは、もしそれが意図されたものであったとしても、それを受け入れたくはない、という暗黙の了解、所謂禁忌的な考えが根本にあるようだ。
潜在的な国力を持つのは、ラン=サイディールでも、ノヨコ=サイでもなく、カタラット国かもしれない。
圧倒的な潜在能力を誇るカタラット国の首都ワーヘは、かつてはパルス山脈の麓にあった。
その方が、カタラットの住人にとっては都合がよかった。
カタラットの豊富な自然の恩恵にあやかることができ、衣食住に困らなかったからだ。しかし、ある時を機に、カタラットは首都を移転させる。それは、ラン=サイディール国の遷都とは真逆の理由だった。
時代は約三百年前。
古代帝国崩壊後に、国家が存在しなかった時期を正式な歴史として認める史学者の学派『非連続派』の学説では、その時期を無国家時代と呼ぶが、その直後に当たる集落の形成時の出来事だ。
その時期は、ディカイドウ大陸とは異なる場所で、ラン=サイディールとノヨコ=サイが山脈を挟んで二百年超になる長期間の小競り合いを続けた時期でもある。その小競り合いは、『テキイセの乱』と呼ばれる、ラン=サイディール国の内乱の時期まで続く。
ノヨコ=サイとラン=サイディールは、同大陸にある互い領土に対する侵攻に限界を感じ、山脈を越えて攻め込むことを続けながらも、海を挟んだ別の大陸に進出することを検討し始めた時期だった。
ドレーノを併合したのと同時期、カタラット国は遷都をし、首都を湾岸に構えた。
ディカイドウ大陸は、当然ではあるが、すべてカタラット国の領土ではない。
他の国が、人間の間での所有権がはっきりしていない空白地帯に何とかして勢力を伸ばし、そこを領土としようとした時期があった。
その目論見は、大樹海の広大さに悉く阻まれることになるのだが。
カタラットは、自国の国力をわきまえており、ディカイドウ大陸全体を管理することができないと考えていたため、ディカイドウ大陸へのラン=サイディール国や、その他の国家の進出の可能性はわかっていたが、その行為そのものについては、そこまで否定的ではなかった。カタラットは、他国家がワーヘを脅かしさえしなければよいと考えていたからだ。
ラン=サイディール国は、カタラット国からの抵抗を受けたわけではない。
だが、このディカイドウ大陸には、ゼア山脈という広大な山脈が存在し、そこが天然の城塞と化していた。ゼア山脈を超えて侵攻を試みていたラン=サイディールは何度となく山脈越えを失敗する。
また、山脈でないところでも、下手な海峡よりはずっと距離のある大河川ディカイドウがラン=サイディールの侵攻を阻む。ドレーノにたどり着く航海技術を持つラン=サイディールも、ただの河川を越えることはできなかったのだ。
カタラット国がラン=サイディールの侵攻の可能性を考えなければならなかったのは、海からだけだった。
しかし既に、山脈越えの侵攻、大河川越えの侵攻に失敗していたラン=サイディールは、残りの侵攻地点である海からの侵攻路を進軍させる国力は、すでに持ち合わせていなかった。
そのため、実際には侵攻はしてこなかったのだが、海からの侵攻を予期していたカタラットは、巨大木造軍艦カタリティを造成し、当時のラン=サイディールの船に積んでいた砲の倍以上の射程距離を持つ砲を搭載し、待機していた。
現在、軍艦カタリティは世界最大の遊覧船としてワーヘの近海をクルージングする。
それもカタラットにとってはかなりの収入となる。
結果的に、カタラットは己の懐を傷めず、自国の環境を整えることで、ある意味デイエンに遷都したラン=サイディール国以上の成功を収めることになっている。
今でこそ謎に包まれているが、当時、遷都を行ったラン=サイディール国宰相ベニーバが、ラン=サイディール国三百年の歴史において、何故人民すら戸惑うような急激な遷都と軍事国家から貿易国家への移行を果たそうとしたのか、その表立った理由こそが、カタラット国首都の遷都だったと思われている。この成功が、国家そのものの成功の根本の理由であるように考えたのだろうとされる。
実際のところは、貿易を盛んにすることで、世界中に拡散した聖剣が、自分の手元に全て飛び込んでくることを、ベニーバ自身は狙っていたのだが、その成功の可能性は、大海原で海に放した金魚を釣る位には可能性の低いことである以上、それを公言しなかったのはベニーバのせめてもの誠意とでもいえるのだろうか。そうでないと、この遷都で不幸になり、死んでいったテキイセ貴族は浮かばれないだろう。そして、それは誰も知らない真実でもある。
軍艦カタリティは、カタラット国の少年少女の憧れの的だった。
木造でありながら、圧倒的な巨大さを誇る。
そして、木造であるが故の優雅な曲線を主体に設計されたカタリティは、作られてから二百年という長い月日が経っているとは到底思えない程に手入れが行き届いていた。
もし、動力部が別途存在していたのならば、恐らく二百年という数字は不可能だったに違いない。しかし、当時の船は帆船であり、帆の角度によっていかようにでも走りようがある。そうなると、動力を持たぬ船は、メンテナンスさえしておけば、何百年でも使うことはできた。無論、竜骨がやられてしまうと、さすがにどうにもならなかっただろうが。
だが、築造された背景が、カタラット国の列強に対する対抗手段であったことを考えると、高齢な船舶であるカタリティは、表立った戦争のない現在という時節柄、どちらかというと穏やかな最期を迎えられるはずだった。そして、そのためのセレモニーを形ばかりの海軍であり、実質はカタリティの運行会社の業務をこなしているマリーンの人間たちも、カタリティの引退と、それに代わる軍艦兼客船の建造を企画し始めている所だった。
そんな中、カタラット国の産業の一つでもある、古代帝国の遺跡からの出土品の中に、恐るべきものが発見された。
『大陸砲』。
かつて天空に存在し、地上を睥睨しながら栄華を誇った古代帝国の、いくつかの技術のうちの一つ。
古代帝国の浮遊大陸底部に無数設置され、反旗を翻した地上の国家を軒並み焼き払ったという砲。もともとは大陸砲という名ではなかったが、明らかに大陸から発射され、地上の人民を支配するために準備された、いくつかの兵器の総称を大陸砲と呼んだ。国家によっては、古代帝国の浮遊大陸から発進した飛天龍……古代帝国での呼称は不明……も、十分に大陸砲であった可能性はある。
町全体を焼き払えるものから、大陸を焼失させる威力を持つもの、そして、ピンポイントで個人を攻撃できる性質のものまで多種多様のものが存在したようだ。
今回出土した『大陸砲』がどのタイプのものであったかはわかっていない。わかっていないというよりは調べようがないというのが本当のところだが、実際のところは、それが大陸砲であるという確証もあるわけではない。
にも拘らず、大陸砲が出土した、という情報がなぜか全世界を駆け巡った。
カタラットは、新たな財源を求め、出土した大陸砲の試射を産業として取り扱うことにした。カタラット国の最大の港にカタリティを停泊させ、そこで出土した大陸砲を試射しようという計画が持ち上がったのだ。
その計画は、カタラット国王ビリンノ=カタラットではなく、宰相であるゴウ=ツクリーバによって企画された。
……平和であったはずのカタラット国に、暗雲が垂れ込め始めた。
そして、その暗雲は、一人のカタラット民によって、雷雲と化す。




