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界遊記  作者: かえで
ドレーノ擾乱
75/252

新たな形

「一度、総督府に戻ろう」

 際限のない灼熱の太陽下での沈黙を嫌がったレベセスは、自ら沈黙を破る。そしてそのまま、両足を失ったハギーマを背負い、立ち上がった。宿敵とも言えるレベセスの所作に対しても、もはやハギーマは何の抵抗もしなかった。

 巨人の出現により、全ての人間が逃走したと思われた総督府前の広場だったが、瓦礫に隠れるように何人かの人間が残っていた。その人間たちが、全てが終わったことを悟り、レベセスの元に駆け寄ってくる。

 偉丈夫宰相カンジュイーム。総督府の侍女ゼリュイア。レーテとファルガはレベセスの横で立ち尽くす。カンジュイームの私兵たちは、カンジュイームの元に集い、傅いた。

 一度はカンジュイームの指示で、瓦礫の撤去と逃げ遅れて死に至った人たちの遺体を片づけようとした私兵たちだったが、レベセスの言葉に彼らは動きを止めた。そして、カンジュイームの指示を待つ。

「同志たちを弔いたいのはわかる。だが、これから強い日差しに晒されると、君たちもただでは済むまい。一度各々の住居に戻り、この灼熱の日差しに対応する準備をしてほしい。私にとって、死者より生者の方が大切だ。そして、残念ながら命を落とした同志たちも、君たちの追従を望んではいないだろう」

 レベセスの言葉の後に、総督の意志を重んじるようにとの言葉がカンジュイームから漏れ、私兵たちは一度姿を消す。そして、残された者達はとぼとぼと総督府へと向かい始めた。総督の指示は、今回の擾乱を生き延びた者たち全てに向けられたものだったが、それは同時に、生きとし生ける全ての者に対して、自分の出来ることを自ら進んで行うように告げたメッセージだった。


 ドレーノンたちは、ドレーノンの仲間の遺体を集め、荼毘に付した。また、サイディーランは、所謂遺体の処理を今まで全てドレーノンにさせていた経緯もあり、最初は命令口調で遺体の処理を命じたが、ドレーノンは最初こそ慣習から思わず従いそうになったものの、結果的に誰もサイディーランの命令には従わなかった。

 命令無視をしたドレーノンに対して、そのサイディーランは家にあった剣を抜き放ち、表立って命令を拒絶したドレーノンを惨殺しようとした。当時の慣習として、ドレーノンがサイディーランの命令に従わないことは即ち死罪、『切捨御免』をサイディーランがドレーノンに施す事を許されていたからだ。

 だが、今回ばかりは勝手が違った。

 数人のサイディーランに対し、何十人ものドレーノンが相対する。星の寿命から考えるとまるで薄弱な生物としての数の論理が、数百年の歴史を誇る地位や名誉を圧倒した。サイディーランの権威が地に堕ちた瞬間だった。

 今までにない反応のドレーノンに対して、戸惑いの色を隠せないサイディーラン。だが、今まではサイディーランからすれば至極当然の反応だった。サイディーランの言葉は上の声。抗うことは許されなかった。

 だが今回の擾乱で、サイディーランは彼らを守ってきたドレーノンより、上位であることの根拠を証明できなかった。この擾乱を収めたのがサイディーランなら、その可能性もあったのだろうが。

 ドレーノンに取り囲まれたサイディーランたちは、今までに感じたことのない恐怖に無言で震え、同時に覚えたことのない屈辱に震えるしかなかった。

 だが、ドレーノンたちはそれ以上手を出すことはなかった。

 一人の若いサイディーランの一言で、ドレーノンはサイディーランの遺体を、ドレーノンの遺体とともに荼毘に付すことを承諾したからだ。

「我々の同志も、貴方たちの同志と共に扱ってもらえないだろうか」

 これは、命令ではなく懇願だった。

 年をとったサイディーランの目の色が変わり、射貫くような視線を若いサイディーランに送る。だが、何も言い出すことができなかった。膨張した選民意識と、種としての本能が争い、種としての本能が勝利した瞬間だった。

「……我々は構わない。サイディーランといえど、同じ国の人間だった。弔うことはしてやりたい。だが、サイディーランはそれで良いのか?」

 サイディーランの周りを取り囲むドレーノンの中の一人の男が口を開く。

 ドレーノンの集団を睨みつける老齢のサイディーランたち。だが、その感情を言葉にすることはできない。唯一口を開いたのは、先程同志の遺体を荼毘に付す依頼をした青年サイディーランだった。

「……正直、わからない。

 総督レベセスの政策の結果、我々サイディーランとドレーノンに、何か差があることが見いだせないことはわかっている。それはここにいる……いや、この地にいる全てのサイディーランが理解しているところだ。総督レベセスのイベントのせいで、これ以上ないほどに能力差のないことを見せつけられた現実がある。

 だが、今まで長い間培われてきた価値観が、それを即座には許さない。ドレーノンに対する嫌悪ではなく、サイディーランに対する罪悪感が付きまとうのだ。

 ……今となってはそれも微々たる問題のように思わなければならないのだろうという事も薄々察してはいる。だが、幼少期からの価値観を全て否定するのも、また時間が掛かり、労力も必要だ。その努力について、納得せずとも理解しようとして貰えればありがたい」 

 ドレーノンの若者は、一歩前に進み出ると頬を緩めた。

「サイディーランに威張られる筋合いはない。だが、憎み合う必要も俺はないと考えている。

 禍根は深い。

 だが、その禍根に負われて生きるのが良いのか、それとも捨てる努力をする方が良いのか、それすらも今すぐには結論は出ないだろう。

 全ての禍根を捨てることも憎しみを払拭することもすぐにはできない。

 ただ、サイディーランである貴方が我々に依頼をした。それに対して、俺たちは断る事は人としてできない……。少なくとも、断るべきではないという事は理解できる」

 ドレーノン達の、サイディーランたちに対する視線の厳しさは変わらない。だが、サイディーランの若い力と、ドレーノンの若い力が共に一つの事を成そうとしている事を否定しようとする勢力は、現時点ではドレーノンからもサイディーランからも出現する兆しはなかった。

 ドレーノンとサイディーラン、それぞれの若者たちの手で、荼毘に付す櫓は組まれていった。そして、そこに火は放たれる。

 その炎は、因縁と怨念を焼き払い、浄化する為の炎となる。

 若人たちには何となくそれが感じられた。だが、老人たちは、それを得も言われぬ表情で見つめることしかできなかった。




 総督府の客間に集まったのは七人。

 ドレーノ国総督レベセス=アーグ。レベセスの右腕にして実質上の執行人カンジュイーム。幼いながらも慧眼を持つレベセスの世話人、ゼリュイア。今回の騒動の火消し役として奔走した聖勇者ファルガ=ノンとレーテ=アーグ。第一位サイディーラン、ギワヤ家の家督相続人ハギーマ=ギワヤ。そして、ドレーノンの傍聴人にして、偽の総督を演じさせられた青年、ニセモ。

 ニセモは、当初この集団に参加する事すら嫌がった。

 何しろ、己の命を引き換えに、全てを受け入れようとした結果、更なる命の危険に晒されたからだ。全ての物に対して疑心暗鬼になっている。信じられる筈も無い。こんな集団とは一秒たりとも一緒に居たくなかった。だが、その半面、彼にはどこかでそのままこの件から離れる事に躊躇していた。それ故、誰も拘束しなかったにも拘らず、自ら総督府に足を踏み入れた。

 ハギーマは、応接に準備された分厚い座布団の上に腰を掛けた。椅子の上では失った足の付け根と臀部に力が掛かりすぎてしまい、長時間座っていられないからだ。傷は既に古いものになっている。だが、古い傷だからこそまた独特の苦しみがある。

 それぞれが、テーブルを囲むように腰を掛けた。

 ゼリュイアは習慣的にこの場にいる六人と自身用の茶を準備し、テーブルに並べる。

 ゼリュイアが席に戻ってから、暫くの間沈黙が流れた。誰しもが話したいことはあったが、誰しもが口火を切ることが出来なかった。

「あの黒い稲妻に打たれたツーシッヂは、何故消滅したのだろうか……」

 疑問を発したのはハギーマだった。喉に何かが引っかかったような話し方。総督府に集まった人間では、一番言葉を口にしづらい立場だったが、口を開かざるを得なかった。沈黙を守ることが苦痛だった。そして、今の自分を受け入れるためには、何かを話しているしかなかった。

 どこかで、ツーシッヂに従いきれなかった自身を悔いていた。

 最初から、ハギーマはツーシッヂに対しては我儘放題、迷惑のかけ通しだった。

 幼少期の悪戯のもみ消しから始まり、嬲るような女遊びと、奪われた男を弄び嘲笑する加虐的遊戯。そして、その男女の抹殺など、彼自身は手を汚さずに行なってきた。政治的な事は全く行わない。ただただ、生まれ落ちた環境だけが彼を優遇し、努力など皆目必要ない状態で、一体彼の何が虐げられただろうか。

 裁判という手法を考えたのも、段取りをしたのもツーシッヂだった。だが、その段取りすら、自身が破壊してしまった。

 あの巨人を解放しなければ、事態はツーシッヂを追い詰めなかったかもしれない。確かにサイディーランは敗北し、サイディーランそのものの権威は地に堕ちたかもしれない。だが、それでもギワヤ家を愛してくれたツーシッヂは、晩節を汚さずにいられたかもしれなかった。

 ツーシッヂのギワヤ家に対する忠心は本物だった。それがハギーマという個人に対して向けられていた物かは、今となってはわからないが。

 誰に向けられたともわからぬ言葉に応えたのはレベセスだった。

「持たなかったのだ。彼自身の年齢的な体力のせいもあっただろうし、そもそも『黒い稲妻』の力が強すぎたのかもしれない」

 黒い稲妻の事を聞いたのは、ファルガもレーテも初めてだった。

「黒い稲妻?」

 レーテの言葉に、レベセスは応じるでもなく何となく呟き始める。

「私が総督としてドレーノに赴任する前。いや、記録ではもっと前からあったとされる。有史以前からあったとさえ言われている不思議な現象だ。

 突然常人を発狂させ、同時に悪魔の如き力を手に入れさせる、魔性の稲妻。

 それは、雲一つない晴天の日ですら、関係なしに降る欲望の稲光。

 黒い閃光と共に人を打ち、打たれた者は、未来永劫超人として世界に君臨し、ある日突然、胡散霧消する。

 黒い稲妻を招く物は邪心の塊だとも伝えられるが、その詳細は明らかではない。ただ、少なくとも望まれている稲妻ではない。伝承にある禁忌の出来事、といった印象だ」

 レベセスの言葉を聞き、皆は口を噤んでしまった。

「お父さん、それは自然現象なの?」

 レーテの問いに、レベセスは断言できなかった。

「何とも言えん。

 ただ、その現象は日常生活であると断言できるほどには頻繁には落ちてこないし、私自身、黒い稲妻については、今回のツーシッヂ殿の事案しか見たことがない。

 ただ、恣意的にあれだけ個人の力を変える性能があるなら、もうそれは間違いなく人為的、あるいはそれを超越した存在の所業だろうという気はする。それが何者なのかはわからんが」

「総督、それは、ドレーノが何か特別な存在に狙われているということでしょうか? それであれば、もはや我々には打つ手がない。

 私としては、一刻も早く政権を立て直し、ドレーノの活動を再開させねばならぬと考えております。刻一刻と、人々は疲弊し、貧困は増していくばかりです。

 次にいつ起こるかわからぬ、黒い稲妻の存在に怯え、何もしない政権では意味がない。今後のドレーノ国の為政についてご決断頂きたい」

 偉丈夫宰相カンジュイームは、苛立ちを隠さずに、レベセスに決断を迫る。

 どうやら、カンジュイームのその物言いに、レベセスも何か感じるところがあったようだ。すぐに口を開かず、カンジュイームの丸メガネの奥の瞳から何かを探り出そうとでも言うように、ジッと見つめ視線を外さなかった。

「……いいのか? 私が決断するということは、ドレーノ国民がラン=サイディール国の影響力から脱却することを放棄するという意思表示だ。今の私は、ドレーノ総督の地位に居るが、形骸化しているとはいえ、ラン=サイディールの人間だ」

 カンジュイームはそれを聞き、押し黙る。

 それを横で聞いていたハギーマ=ギワヤも、眉間に皺を寄せたままだ。

 ドレーノ国は、国家が作った法規により、不当な支配を行なおうとする宗主国ラン=サイディール国の総督に対して弾劾裁判を実施しようとした。そして、その弾劾裁判は、証人を立ててなされたものだった。

 総督は、それに対抗する為、証人が偽者であることを証明し、この弾劾裁判の無効を宣言した。この事実は、少なくともサイディーランによる今までの変革に対する行為の実績と、その有用性、意義の無効化を謳おうとしたものでもある。

 ハギーマの意図した、偽の証人を立てた弾劾裁判は、ラン=サイディール人であるレベセスによって、逆にドレーノ国の内政の脆弱さを露呈してしまったことになる。サイディーランの独裁を防いだという意味では、レベセスによる弾劾裁判の中止はプラスに機能している。だが、それは同時に、サイディーランを含むドレーノ国民の自立を結果的に阻止することになってしまった。

 それを機に、ラン=サイディール側が、ドレーノ国民に対して、とりわけサイディーランに対して監視の強化を図ってもおかしくはなかった。反逆罪を盾に、サイディーランという地位の廃止、財産と権利の剥奪までを行なってもよかったはずなのだ。

 だが、それ以上の行動をレベセスは取らなかった。

 その意味の成す所。

 レベセスの無言のメッセージ。

 ドレーノ独自の法規を打ち立て、独立宣言を採択する為の手法として、弾劾裁判を行なったという所までは、何ら手順が間違っている訳ではない。過去の総督は、確かに非道の限りを尽くしていた。それは紛れもない事実。そこだけを問題視し、弾劾裁判を開廷していれば、如何に現総督とはいえ、弾劾裁判の無効を謳う事は出来なかった筈。

 総督が無効化を謳ったのは、証人がレベセスの偽者であった、という事だけ。そして、偽者の証人を立てたが故に導き出された内容だけが無効であると言いかえる事も出来た。ということは、裁判そのものの正当性はあったのだという事だ。

 総督の否定した部分について、裁判の全ての内容ではなく、原告の偽の証人を立てた事のみであると理解し、更に裁判を進行すれば、やはりラン=サイディール側の敗訴は導き出せたかもしれない。

 総督敗訴となれば、実権はドレーノ国に譲渡される。

 ドレーノ独立国家の誕生だ。後の舵取りを決めるのは、その後の話。

 当然、ラン=サイディール国はドレーノの独立など認めないだろうが、そこはサイディーランとドレーノンが協力して独立を維持すればよい話だ。少なくとも、国際法なるものがまだ暗黙の了解でしかないこの時代では、他国と同じような基準で立法司法行政が機能さえすれば、そこに国家が成立したと宣言してもよかった。

 ドレーノを実質支配していたサイディーラン。圧倒的な人員を誇り、実質の労働力や兵力として機能するドレーノン。そして、どちらかに所属するが崇高な思想をまた別に持つ総督派。現状ではこの三つの勢力が為政に乗り出すことが予想される。後は、ドレーノの人間が自分たちの思うように、納得する方法と結論で国家を運営していけばよい。

 レベセスは言葉を締め、言外にそう告げると、席を立ち、応接室から出ていく。ゼリュイアは、残された面々を気にしながら、出て行ったレベセスに随行した。

 残されたのは、ラン=サイディールの少年少女二人と、総督派のトップ、サイディーランのトップ、そして、総督の身代わりとなった青年だった。


 長い沈黙が落ちた。

 この総督府の客間に集まった者たちは、本当は今後のドレーノをどうしていきたいかの話をしたかったはずだ。

 負傷したとはいえ、サイディーランの第一位が列席する。彼の意思はサイディーランの意志として機能するだろう。

 ドレーノンは、明確なリーダーを立ててはいない。誰かがリーダーとなってまとめようという風潮もない。だが、ドレーノンとして誰かが列席しなければならない。

 その役割は必然的にニセモの役割になってしまった。本人が望んだわけでもなく、ドレーノンが望んだわけでもなく、ただそこにいたからというだけの理由で。

 それであっても、彼が適任なのかもしれない。ある夜に突然自由を奪われ、命の危機に晒されたのも何かの縁だ。今後のドレーノンについて考えるには、ドレーノンの立場の人間からすると、彼以上の適任はいない。サイディーラン統治下の最も過酷な状況に置かれ、生き延びたドレーノンの立場としては。意見をしたがらないドレーノンの気持ちを代弁するには、これ以上ない経験者だと言えた。

 そして、所属はドレーノンとサイディーランの混成ではあるが、第三の勢力として存在する総督派。彼らは、レベセスという存在を……レベセスに代表される歴代の総督たちを、表裏共に利用してきた。ドレーノ国のためと言えば聞こえはいいが、言ってしまえばドレーノン、サイディーランの為というよりは、文字通り総督派のためだったといっていい。そして、名実ともにその勢力のトップが、カンジュイームだった。

 カンジュイームは、レベセスに今後の対応に対する判断を迫った。だが、今度ばかりはレベセスに判断を拒絶された。それは、『いい加減に総督派も表舞台にでろ。いつまでも反対勢力の地位に居座ることに固執せず、自分たちの明確な展望を持ってそれに対して活動をせよ』というレベセスのメッセージだった。

 そして、今この場で、三者が顔を突き合わせた。間を取り持つ存在はいない。実質的なドレーノの方向性を決める代表者会談だと言って良かった。

 誰も口を開けない。

 口を開けば、止まらなくなる。

 主張が出れば反対意見が出て、対立構図が生まれる。対立は憎しみを生み、その憎しみが頂点に達した時、決別が生まれ、闘争となる。

 その第一歩を自ら進んで歩みだそうという人間などいるはずもなかった。

 それでも、ドレーノの独立に向けた歩みは始まっている。もう、元には戻れない。賽は投げられたのだ。

 どの派閥とも利権の絡んでいない少年ファルガと少女レーテがそこに残されたのは、ある意味不幸だという以外にない。だが、支配される者と支配する者の関係は容易に入れ替わることもあるということを、少年と少女が知る良い機会になった。そして、この史実に残らない歴史的な会談の貴重な第三者となった。


「総督は立ち合わなくて宜しいのですか?」

 レベセスとゼリュイアは、黄金の黄昏の中にいた。

 総督府の二階バルコニーは、遠くに沈む太陽の光を受け、輝く。

 豪奢だが古い造りの、大理石を加工して作られたであろう石のフェンスは、経過年数だけ考えれば苔むしていてもおかしくないのだが、このドレーノの気候が、苔の繁茂を抑えていた。だが、その気候は風化を伴う諸刃の剣。手摺の端々が風化して崩れ落ちる直前まで侵食されていることを、総督や侍女を含むすべての人間も知る由もない。この後、総督を失ったドレーノの為政者が、現総督府……将来の王宮から転落して大怪我を負う事故が起きるのだが、それはまた別の話だ。

 レベセスはちらりと背後に控えるゼリュイアに視線を向けるが、そのまま視線を固定することなく、遠くの大海スロイに目を向けた。

 スロイからの温かい海風が、定期的にやさしくレベセスの頬を優しく撫ぜ、ゼリュイアの髪を梳いた。

「……総督は、ドレーノの独立を手助けするおつもりなのですね。

 確かに、あの状態でレベセス様に今後の方針を委ねたのでは、それ即ちドレーノは独立の意思なしと周囲に喧伝するようなものです。今後のドレーノが独立を考えるなら、あの三つの派閥の中から誰か国を牽引する役割を担う人間が出てこないといけません。

 レベセス様はそのきっかけを与えました。

 果たして、サイディーランが台頭するのか、ドレーノンなのか、はたまた総督派なのか、今後のそれぞれの組織の長の動き次第」

 ゼリュイアの言葉にレベセスは反応を示さなかった。

「……レベセス様は、サイディーランによる治世は悪手だとお考えだったのですね。

 その為、何とかドレーノンに支配層を人間の排出を望みましたが、現時点ではそれは難しい。そこで、総督派のカンジュイーム様を頂点に新しい組織を作ろうとなさいました。

 ですが、レベセス様の意図に反し、カンジュイーム様はまだ為政者として行動される覚悟がお出来になっていなかった。

 それ故、レベセス様は、未だにレベセス様に頼ろうとなさるカンジュイーム様を突き放す為に、強めの言葉を口になさり、今ここにいらっしゃる。

 いよいよドレーノの独立の時に、ご自身がその場にいられない苦しさ、お察しいたします。ただ、レベセス様はどの派閥が政権を握ろうと、ドレーノを見守り続けて頂きたい。それが私の願いです」

 一瞬の間の後、レベセスは驚愕の表情を隠さず、背後のゼリュイアを見た。

 背後にいた筈の、黒曜石の様な瞳を持つ美しい少女は、いつの間にかレベセスの隣にいた。そして、少女もバルコニーの柵に体を預けるように、大海スロイを見つめていた。

 裁判が中座し、各派閥の会合で沈黙が落ち続け、レベセスが総督府二階のバルコニーに移動したときは、まだドレーノを灼熱の光線で焼き尽くしていた太陽。人間が作り出す事など到底不可能な巨大な火の玉は、まだ海の上にその体を残していた。だが、少女ゼリュイアがレベセスの心の中を洗いざらい代わりに吐き出した頃には、その太陽もその姿を隠し、空は菫色の染め物のように大地を覆い尽くす。

「……いつも君には驚かされるが、今回ばかりは脱帽だ。まさか、勘付いているとは思わなかったよ」

 本当の適任者は、あの三人ではなく、彼の眼前にいる黒瞳の美しい少女ゼリュイアだ、と言おうとして、彼はその言葉を飲み込んだ。

 ゼリュイアは彼の愛娘レーテと同年齢か、それより少し年下だったはずだ。レベセスは、その彼女が、ここまで事態の趨勢を見極めている事に、嬉しさと羨ましさと、ほんの微かの恐怖の感情を覚えるのだった。

「私には為政者の素養はない。この二年の総督として仕事をしてみてよくわかった。おそらく、ハギーマ、カンジュイームの方が為政者としては優れているのだろう。民の為なのか、自身の為なのかはともかくとして、周囲を動かす力は私よりは遥かに上だ。

 私がしたかったのは、ドレーノという地域を、本来の持ち主達に返す事だった。その持ち主たちがどうしていくかは決めればいい。一人の超人が圧倒的な力で支配するのか、それとも皆で意見を出し合って運営していくのか。

 その集団の単位が国だったというだけで、これが村であろうと町であろうと、私は同じことを望んだだろう。

 ただ、ドレーノ国という一つの国において、かつてラン=サイディールという国の影響で保証された権限が、もはや影響が無くなっているのにも拘らず、それに縛られている状態では、いずれはサイディーランもドレーノンも不幸になる。そう思っただけなんだよ」

 そう呟いた後、レベセスはもう一度沖の方に視線を移した。

 ゆっくりと空が闇に染められていく。

 自分は、己の娘よりも幼い少女に、一体何を吐露しているのか。

 ゼリュイアは誰かに似ていると、赴任当初に思ったことがある。その当時は誰だかわからなかった。だが、現在バルコニーの柵に寄りかかり、髪を掻き上げる仕草をする少女は、若かりし頃の彼の妻にそっくりだった。そっくりなのは容姿ではなく、醸し出す雰囲気。

 それに気づいたレベセスは、ゼリュイアに気づかれないように口角を上げた。

(なるほど、俺はゼリュイアという少女を通して、あいつに語りかけていたのか)

 口角を上げた事を少女に気付かれないようにしていたレベセスではあったが、いつの間にか自身の瞳から涙が零れ落ちている事に、彼自身も気づいていなかった。

ゼリュイアはレーテの母親に似てたのか。雰囲気……。

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