ドレーノ擾乱 第二章8 レーテの思い
ドレーノ国首都ロニーコにある、ラン=サイディール国からの派遣者、総督の住居にして活動拠点である総督府。
サイディーランの扇動した国民の反乱により、総督府が暴徒に襲われる危険を察知した総督レベセスは、総督府の人間を非難させた後、自ら投降した為、総督府は無人になっている。
だが、その地下には記録からも消された脱出経路と避難場所が存在する。
総督が別の場所に監禁された今まさにその時、総督レベセスを何とか助け出そうと画策する『総督派』が、そこを用いて反撃の為に牙を研いでいた。
その手助けになるだろうという触れ込みで、ヒータックがそこに連れてきたのは少年と少女。
傍目にはとてもではないが今後の総督府派の為に何かできる人材とは思えない。その場にいる大多数の人間がそう思ったはずだ。空間の奥から放たれる無数の痛い視線がそれを物語っている。
だが、そのような目で見られていても、ヒータックは意に介さぬ様子だった。そして、それがまた気味が悪いと言えば気味が悪かった。空間内にいる、外部からの来訪者を待ち受ける者達が委縮したのも理解できようというものだ。
だが、実はヒータックはファルガとレーテを、この人間たちの為に役立てようなどとは微塵も思っていない。ただ、ファルガとレーテをロニーコの外のジャングルの中に置き去りにするくらいなら、まだ人の住む地の方がよいだろうと考えただけだ。ヒータックがその場を離れる事により、熱帯雨林に潜むまだ見ぬ怪物に襲われでもしたら、それこそ後悔することになるだろう。
カンジュイームの尋ねに、ファルガは全く反応しない。レーテに手をひかれて、総督府の地下に来たものの、それが自分の意志であるようには全く見えない。それどころか、自分の意志で動いているようにも見えない。ともすれば、心ここにあらずと言った様子だ。
(この者、うつけか? ヒータックは何故この者を連れてきたのか?)
カンジュイームは、眼前の少年に対し、程無く興味を失う。
関心は隣の少女に移った。
もう一人の少女は、誰かによく似ていた。それは、ともすればカンジュイームにとても近しい人間。彼のその疑問は、少女自身の名乗りにより解決する。
「……なんと、それはまことか?」
丸眼鏡という仮面を被り、殆ど表情を窺い知る事の出来ない筈のカンジュイームがこれほどはっきりと驚きを見せるのはめったにある事ではない。実際、彼の元で働いている人間でさえ、そこまでの驚愕の表情を彼が浮かべた所を見た事のある者はいないという。
目から、耳から与えられた情報がパルスになり、カンジュイームの頭脳を駆け巡る。何かを感じたのは間違いなかった。だが、その瞬間のカンジュイームの考えを知る者はいない。
一瞬の空白の後、首を左右に振ると一度目を閉じ、眉間に皺を寄せたが、その後目を見開いたカンジュイームの所作。
その所作から、万が一レベセスを失う事になっても、この少女を擁立し、その名の元に再度集おうという計画を立てかけたのだと推測する後世の学者もいる。極論といえば極論なのだが、このカンジュイームの所作は、後世の学者たちの格好の議論のネタとなった。
だが、仮に実際そうだったとしても、賢者カンジュイームは、その計画を真っ向否定しただろう。彼の、彼の仲間たちの、そして、彼が愛するドレーノの人々の望みは、誰かを擁してのラン=サイディールからの独立ではない。
あくまで、今回の闘争は、サイディーラン主導の独立か、ドレーノ国全体の意見を反映された独立か、という事。
独立を目指すのは大前提。
サイディーランは、ドレーノ国をサイディーランが主権を持ち、その支配下の元ラン=サイディールから離脱しようとしている。
それに対し、カンジュイームの望む独立形態は、あくまでドレーノ国に住む者全てが主体となる社会。誰かが誰かに搾取される社会ではなく、互いが互いの為に作業をする社会。
人心を掌握するなら象徴としての人間は必要だ。だが、サイディーランもドレーノ国の国民。それを忘れてはならない。ドレーノンのサイディーランからの離脱が目的ではないのだ。結果、そうなってしまうだけで……。
第一位サイディーランを擁立するサイディーランに対し、ドレーノンが何者かを擁立するのは間違っている。カンジュイームは、そのように考え直したという事だろう。
「……レーテ=アーグよ。貴女が我々に力を貸してくれるのは非常にありがたい。だが、我々は総督レベセスの国を作ろうとしているのではない。そこを取り違えないで欲しい。
我々は総督レベセスをただ助けたいだけなのだ。
助け出した後、もし彼がこの国の支配権を望むのならば、それはまた別の話。
私たちは、今までの彼のこの国に対する貢献を評価し、彼に対する恩返しの為にここに集い、彼を助け出そうとしている。ただ、それだけなのだ」
カンジュイームは、一気に言葉を吐きだしてから、思わずため息をつく。その溜息には、若干の後悔が入り混じる。
こんな、年端のいかぬ少女にそんな話をしても解る筈も無い。むしろ、少女に対して悪印象を与えただけかもしれない。だが、それでもいい。娘にどう思われようが、今は総督レベセスの救助が最優先だ。
少女レーテは、カンジュイームの大きくごつごつした両手を、その小さな両手で包み込む。
「私は、父を訪ねて来ただけです。しかし、父は捕らわれてしまっていた。その事自体も正直驚いています。
私は難しい政治の話は分からないし、わかりたくもありません。ただ、皆さんが父を愛してくれていて、助けたいという思いでいてくださるのがうれしいです。
私と一緒にここまで来てくれた彼等も、父に会いたがっています。
お役に立てるかはわかりませんが、出来る限りお手伝いさせてください」
ヒータックは口角を上げた。だが、我に返るように、足元にしゃがみ込み、ぶつぶつと呟き続ける少年ファルガに視線を移す。
この少年をどうすべきか。
以前のヒータックならば、簡単に捨て置いただろう。行動の枷になるのならば場合によっては排除したかもしれない。だが、今の彼にその選択肢はなかった。
少年の心が壊れてしまった理由に、ヒータックは心当たりがある。
だが、この状態から抜けるためには、自分で自分の気持ちに折り合いをつけるしかない。初めて人を殺めたことも、不特定多数から激しい悪意を向けられたことも、なんであれひとりの人間が意志を貫き通そうと行動していれば、いずれは経験することだ。それが間接的であれ、直接的であれ。
今のヒータックにとって、この弱ったファルガがウイークポイントであることを、彼自身認めざるをえなかった。そして、同時にそのような感情を持つ事に驚きにも似た違和感を覚えた。
元々はSMGさえ捨てようとした男。繋がりをすべて捨てようとした自分が、まさか一個人に対してそのような感情を持つとは。
そんな自身の動揺を隠すように、ヒータックは口を開く。
「我々がここを訪れた理由は、先程レーテが話をした通りだ。
ただ、我々がこの地を訪れたのは、『総督』を狙う別の存在がこの地を訪れ、彼から奪う物があるという情報を入手したからであり、その彼を狙う存在の行動が杞憂であれば何らいうことはない。そして、そのままこの地を立ち去るのも何ら問題はない。その存在からのアクションがなければ、干渉する気はなかったわけだ。
そして。
『総督』が囚われているという情報を得たのは、この地を訪れてからだ。
つまり、この国の中での対立構図を知ったのも、まさに今だということだ。まだ片側の立場の話しか聞いてはいないが、正直、今の時点では俺たちはどちらかに肩入れするつもりはない。
『総督』が幽閉されているという事実。そこだけを捉えるなら、我々は総督府派に加担して、総督レベセスを救い出すべきだとは考えている。
問題はその後だ。
カンジュイーム、貴方の言葉の理解が間違っていなければ、便宜上総督府派を冠してこそいるが、レベセス奪還後に、象徴としてなのか実際の為政者としてなのかはわからんが、総督を代表として擁立するつもりはないということでいいと思う。レベセスの意思にも依るが、彼が同意するなら、彼をそのままこの地から遠ざけることを視野に入れてもいる。
仮に、レベセス=アーグという男が、ここで総督府派としてサイディーランと事を構えることを選択するにせよ、王として君臨する事を望むにせよ、それは今回の救出とは全く別の話だ。
レーテがまたどう考えるかもわからんが、我々の現状の目的は、レベセスの安否の確認と、今後の彼の意志を確認することだけだ。極論を言えば、囚われているほうが彼にとって良い事であれば、そのまま捨て置く可能性もある。
今、総督派が何を意図しているかはわからんが、レベセスを奪還後、宗主国の増援を期待しての籠城を画策しているのならば、その作戦は不幸を生むだけだ。
ラン=サイディール国首都デイエンは崩壊した。国家としての機能を停止している。宰相のベニーバ=サイディールもその息子のリャニップ=サイディールも統治を放棄した。
……そういう状態だ」
カンジュイームは、表情を変えず、なんと、と呟く。
だが、応える彼の反応の様子からは、少女の正体が総督の娘であることより重要であるようには感じていないようにも見える。
「何が原因で……?」
カンジュイームは、ドレーノで生まれ育ったサイディーランだ。
だが、サイディーラン主導の搾取政治には以前から疑問を持っていた。そして、レベセス就任と共に、既得権をどんどん失っていくサイディーランを見ても、違和感はそれほど覚えなかった。
なるべくしてなった。
結局、今までの長い間、無茶苦茶な統治をしていたサイディーランを犠牲にし、痛みを伴って国家の平常の姿に戻ろうとしているのだ、と考えていた。
それを踏まえた上で、ともすれば、サイディーラン政権崩壊後は、ラン=サイディールの様な貿易国家を目指し、上納金を払うという宗主国と属国の関係ではなく、対等な国交が可能な政権を目指すことをレベセスに話すつもりでいた。
ラン=サイディールの人間であるレベセスは、その立場上表立ってドレーノの独立のバックアップを申し出ることこそできないが、ドレーノの民が自身の力で生き抜こうという意志を持ったことを心の底から喜んでくれるに違いない。
レベセスは、彼の視界に入る人間は、全て幸せになってほしいと心から望んでくれるような人間だった。サイディーランに対してさえ、その気持ちを持っていただろう。
だからこそ、サイディーランからの急激な権力奪取に奔走したものの、彼等を完全に排除する流れにしなかったのは、レベセスがこの政権移動の引き金でありながら、どこかでサイディーランの幸せを望む、『逃げ道を残す』市政を行なっていたのかもしれない。
「強いて言うなら、既得権の暴走、とでもいっておこうか。
かつてうまく行った方法が今も、そして未来もうまく行くとは限らない。そして、それに気付かず同じようにしていると、人心は離れていく」
ヒータックはもう一度ファルガを見た。
少年ファルガは、何かを呟きながらたまに双眸を強く閉じる。苦しげに呻くこともあった。少なくとも、話しかけようとする人間の方をちらりとも見る事はしなかった。
ヒータックは、カンジュイームから目を逸らし、半分以上正気を保っていないように見えるファルガに視線を投げかけた。
ファルガ自身は、あの日以来起こっていることはすべて把握していた。
彼の視点ではなく、俯瞰的に。本を読んだときに思い浮かべる情景のような、限りなく抽象的な映像として。
無論、音も彼の耳には届いていた。ただ、それに限りなく興味が持てなかった。興味を持てない、というより、興味を持つことに対して恐怖が先行する、といったほうが良いだろうか。
現在起こっていること。
それを認識しようとすると、かつて彼の心を圧倒した映像が眼前に広がり、周囲を見回すことの邪魔をする。まるで見ようとする存在の前に立ち塞がるように。
耳から入ってくる音も、それを必死になって聞き取ろうとすると、かつて彼の耳を捕らえて離さなかった音が、邪魔をするように響き渡る。
思考の邪魔をしているのだが、当のファルガにはそう感じられた。
燃え盛るドレーノの街並み。武器を持ってファルガに斬りかかってくる何十人もの人々。ファルガに斬り倒され、大地に転がる腐乱した死体の数々。生々しい映像と音響、そして感触とが、彼の中で何度も何度も繰り返された。
ファルガはその幻影に苦しみながらも、眼前で繰り返される悲劇の映像が徐々に程度を増していることに気付いていた。そして、冷静に分析もしていた。この幻影を見続ける事で、徐々に段階が増していき、いつか取り返しのつかない程に心が壊されるだろうことを。
何とか払拭せねばならない。この、彼の知覚を阻害する幻影たちを。
だが、どうやって?
その方法をファルガが知る由もない。
不定期に、何度も同じ情景が再生される。だが、その情景は徐々にその程度を増していく。そうなのだ。ファルガが斬った人間は、先程まで生きていた。その人間が斬られた瞬間に腐乱死体になる筈がない。命を失った次の瞬間に、いきなり腐乱する筈も無いのだ。ファルガが振るった武器が『腐敗の剣』でもない限りは。
ファルガが斬り倒した時の断末魔の叫びも、再生されるたびに、より数が増し、ファルガの心を削るようなより苦しみが増したような酷い物に変わっていく。
いつしか、ファルガの周りには起き上がった無数の腐乱死体が、常時断末魔を合唱する不思議な状況が出来上がっていた。
恐らく、ファルガは渾身の力を込めて絶叫をしたはずだ。
いよいよ狂気がその醜い姿を晒し、汚らわしくくねる様に諸手を挙げながら彼の元を訪れ、その穢れた両腕で呪われた抱擁を与えようとした、まさにその瞬間だった。
断末魔の声の一部が、突然変わる。
もちろん断末魔の合唱は続いている。だが、その一部が、明らかにファルガに向けられたセリフとして、向けられたのだ。
「あ、このガキは俺を剣でぶっ叩いた奴だな。剣で殴られるなんぞ初めてだ」
ファルガの中で続く断末魔の様子が異なった様相を呈してきた。
「痛かったんだぞ、この野郎!」
「だけど、そのおかげで、俺たちは煙を吸わないで済んだんだけどな」
様々な腐乱死体が口々にファルガに話しかける。
「……ひょっとしてこのガキは、俺たちが煙を吸わないようにわざわざ気絶させたんじゃないのか?」
「まさか、そんな筈はない。そんな器用な真似をこんな年端もいかない子供ができるはずもないだろう」
「剣の刃部で全く傷つけずに気を失わせることなど出来る物か」
腐乱死体が発する言葉が、今までの断末魔と異なり、言語としてファルガの耳に届けば届くほど、彼の周りを取り囲んでいた腐乱死体の数が徐々に減っていく。文字通り、腐乱死体の集合体が胡散霧消していくのだ。残された腐乱死体たちも徐々に人間の顔を取り戻していくように感じられた。
特定の人間が、ファルガに声を掛けると、震えて悲鳴を上げていたファルガが落ち着くことに気付いたヒータック。
だが、その法則がわからない。
声を掛けたのは男達ばかりだったが、ファルガが反応を示したのは、声を掛けた男たちだけではなかった。少し距離を置いてファルガの様子を見ている女性や赤子の笑い声。
明らかに、光を失っていたファルガの瞳に力が宿っていくのが見て取れた。だが、その力もファルガを立ち上がらせるほどの力はない。
ヒータックもレーテも、ファルガの回復の兆しを見た。
だが、その法則がわからない。
ファルガが反応を示した刺激を与え続ければ、やがてファルガはこちらの世界に帰ってくるに違いなかった。だが、その刺激が何なのかがわからないのだ。
レーテは、先程ファルガに声を掛けた者達の元に近づいていく。
「すみません、教えてください。皆さんは、ファルガの……彼の事を知っているのですか?」
部外者であるはずの男が突然連れてきた、気の触れた少年と、どこかで見た事のある面影を持つ少女。その少女に突然話を聞かれ、人々は戸惑った。
声を掛けられた男たちは、目を白黒しながらも、少女の問いに答えていく。
「……知っている、というか、俺たちは突然目の前に現れたこいつに斬られたんだよ。
あの大火災の真っ最中だ。どこからか降って沸いたあいつが、俺たちには恐ろしかった。
あんたは知らんだろう。あの大火災の日の朝にあった出来事を」
レーテはヒータックに目配せするが、ヒータックもその『出来事』というのは知らないらしい。レーテは更にその話の続きを促した。
「大火災のあった日の早朝、ロニーコの町外れで光の柱が立ち上がったんだ。特に何かがあったわけじゃない。だけどな、ある一カ所だけ、その柱が立ち上がった場所の建物が歪んでいたんだ。
形が変わっていたんだよ。その壁とか柱が溶けていたんだ。何があったかはわからないが、あの光の柱は、ロニーコの街に何かをしていった筈なんだ」
別の男が、神経質そうに騒ぎ立てる。
「あの後、総督レベセスは、同じ現象を再現してみせた。あの人は言っていた。『この力は、人間ならば誰でも持ちうるものだ』と」。
少女と呼ぶには少し年齢を経た女性が、今度はその男の横に立つ。
「『恐るるに足りない。あとはそれ用の鍛錬を積めば良いだけ。ただ、得手不得手はある。そして、この力も万能ではない。こんな力より、大地からの糧を集められる力、大海からの恵みを集められる力の方が、よほど人を救うことができるだろう』。総督はそうおっしゃっていた」
先程まで、総督府の地下室に篭っていた澱んだ空気。だが、実はこれは澱んだ空気というより、思いのほかこの地に人間がいた気配だった。皆、気配を殺して隠れていた。力を蓄えつつ。
だが、ファルガという少年がヒータックに連れられてこの地を訪れた時、この空間の空気が変わった。
彼らにすれば、命の恩人が変わり果てた姿で現れたのだ。流石に動揺は隠せない。
その変化を、ヒータックもレーテも敏感に感じ取っていた。
そして、その変化が、ファルガにも影響を及ぼしている。
ここで話す人たちの声が、明らかにファルガの心に届いているのだ。
「今、サイディーランの奴らがなにかしようとしている。俺たちを蔑ろにして。多分……いや、絶対この大火はサイディーランの誰かが起こしたんだ。
……あの子……カシャが酷い殺され方をしたのだって、総督府の人間のように見せかけたけれど、本当はサイディーランにやられたに違いないんだ!」
激っていく空間。だが、そこに水を差したのは、ヒータックをこの地に招き入れ、歓迎した賢者カンジュイームだった。
「彼は……。心を壊したのか。あの火災で。だが、彼は何人もの人々を救った。
恐らく彼は、火災の炎と熱とで混乱して襲いかかってきたここにいる者たちを斬ったのだろう。罪悪感とともに」
カンジュイームは、その引き締まった体を窮屈そうに曲げながら、ファルガの前に近づき、しゃがみこんだ。そして、両手で少年の顔を掴み、その目を覗き込む。
「……君が殺してしまったと感じている者たちは、無事に生きているよ。君のおかげで」
ファルガの震えが止まった。
「そうだぞ、この野郎! 俺は、お前にぶっ叩かれて気絶したけど、そのおかげで生き残れたんだ!」
「私も!」
「俺もだ!」
囁くように小さい声ながら、ファルガの元に殺到して声をかける何人もの人間。次々とファルガに感謝の言葉を告げる人たちの、鬼気迫るものを感じ、言葉を失うレーテ。
この少年は、飛天龍から飛び降りたあと、一体何をしていたのだろう。
あの時、日の出の光とともに、砂埃にまみれて歩いてきたファルガは抜け殻にしか見えなかった。糸に釣られて歩くマリオネット。その瞳には光を失い、ただ呆然と前に進み続けていた。たまたまヒータックやレーテがいるところに戻ってきたものの、違う方向に歩いていた可能性もあった。そうなれば、もう二度と会うことはできなかったかもしれない。
だが、何故かレーテは嬉しかった。
徐々に回復していくファルガのこともそうだが、この少年が、何故かこのドレーノの地の人々に感謝されている事に。
と同時に、レーテは自分の力不足を感じた。
飛天龍のキャビン部分で、ファルガを看病していたものの、それは名ばかり。具体的なことは何一つできなかった。ヒータックが熱帯雨林の中にポッカリと開けた空き地に飛天龍を置いたおかげで、食料や水には困らなかった。また、深夜の猛獣たちが徘徊する時間帯でも、飛天龍の巨大な金属の機体が退けていた。だが、そこにはレーテはいなくても良かった。実際ファルガに食事も取らせることはできなかった。ただ、時折奇声を発するファルガを抱きしめる事しかできなかった。だが、それでも彼の呻きと震えは止められなかった。
それを、この偉丈夫宰相カンジュイームは、たった一言でファルガの苦しみを和らげている。ファルガと初めて出会ったはずのこの男が。
ファルガと共にいた時間の長さではない。彼の持つ含蓄、経験こそがファルガを和らげている。自分にはそれがない。
嫉妬とも怒りとも違う、今まで覚えたことのない感情が、レーテの胸を満たした。
無意識に強く握られるレーテの両拳。それは、彼女の初めての挫折だった。
初めてというのは語弊があるかもしれない。真剣に学業に向き合ったのに答案用紙の点数が思いのほか伸びなかったこともある。不器用ではない自負はあるが、どうしても縫い付ける事の出来なかった縫物の類もあった。この時は、悔しい思いをした。その時の彼女の全力だったにも拘らず、その挑戦は及ばず失敗に終わる。
だが、そんなものと、今の感情を比較することはできない。しようとする事さえおこがましい。
そんな、レーテの狂おしくも激しい気持ち。
自分は何もできない。できていない。やり方もわからない。だが、やらなければいけない。やれなければここに居られない。居る事が許されない。
悔しさの余り、肩を震わせるレーテ。
それをヒータックは見逃さなかった。
思わずニヤリと笑う。
この少女も一皮剥けるだろう。その時、この少女もどれだけ伸びるのか。楽しみな逸材達だ。何しろ、聖剣の勇者、聖勇者レベセス=アーグの娘なのだ。元々の才能はあるはずだ。後は、自身を鍛錬する必要に気づくことが出来るかどうか、なのだ。
そして、今回この少女は機会を得た。
何の手段を以て上を目指す?
父を師と仰ぎ、鍛錬をするのか。それとも、今は先を走っているファルガの背を見て独学を行なうのか。はたまた、全く別の方法なのか。
それすらもわからない。
レーテは、その後その日は一言も言葉を発することはなかった。瞳に光を取り戻したものの、立ち上がる事の出来ぬファルガと同じように。
そろそろバトルシーンを考えないと……。




