ドレーノ擾乱 第二章7 築かれていく土台
ハギーマ=キワヤ。
ほんの少し前までは、無能貴族の代名詞。
しかし、今は『第一位』サイディーランとして、ドレーノの独立と、サイディーラン復権の旗印を掲げ、活動を始めている。
『帰ってきた第一位』。
かつての名家は、歴代随一の愚息により、白痴の一族としてのレッテルを貼られた。しかし、その張本人が覚醒し、敏腕を振るい始めた。
元来の凶暴性に加え、知能を高めたこの男は、今までのサイディーランが不可侵領域として想像すらしなかった、ラン=サイディールからの独立を志した。それは、二百年来のドレーノ国民……サイディーランも、ドレーノンも越えた一括りの国民として……の悲願でもあった。しかし、誰も畏れ多く、触れる事の出来ぬ話題でもあった。
彼が望むのは、妻であるギラ=ドリマの帰還。
彼女が彼の元を去った理由はわからない。いや、彼自身は去ったとも思っていないだろう。ただ、一時席を外しているだけ。そのうち戻ってくる。その確信は揺るがない。
だからこそ、一刻も早くラン=サイディールからの独立を確立しなければならない。
戻ってきた彼女が、最も過ごしやすい環境を確保する為に。
それ故、名も知らぬ『彼の者』が起こした光の恐怖を、ドレーノの人々が呼び覚ます為に再度大火を呼び戻した。元々ドレーノン自体も辛うじて不満が噴出しない程度のストレスのバランスを崩すために、敢えて不幸な少女を更に不幸にして晒した。そして、それをラン=サイディール属の者が起こした事とし、圧倒的多数のドレーノンの怒りの矛先を、ラン=サイディール国、とりわけ総督府に向けた。
非道といえば確かに非道だ。汚い手口に違いない。だが、占領という数百年前に行なわれた、民族の尊厳を無視した統合行為に比べれば、如何ほどのものだろうか。
だが、彼からすれば、それは大事の前の小事だった。少女の命と尊厳など、サイディーラン全体の尊厳からすれば、蚊蜻蛉の如き存在。今、サイディーランのリーダー、ハギーマ=キワヤにとっては、数ある趣味の内の一つに過ぎなかった。
かつては愛妻ギラと共に体を預けた、巨大なクッションのようにも見える白いソファに、たった一人で腰掛けるハギーマの表情は、決して晴れない。だが、目標ははっきりしている。そして、その目標の設定の仕方が余り猶予のある物ではない以上、事を急ぐ必要に迫られている。
ハギーマは、彼の執事であるツーシッヂを呼び寄せた。
ハギーマの部屋の入り口には、室内を見せない為の暖簾が足元まで垂れており、その先には重石がついているため、風が吹いても捲りあがることなく、暖簾の前に跪くツーシッヂにも、中の様子は窺い知る事はできない。
かつての無能貴族『堕ちた第一位』であった頃は、中に複数の女性を抱き込み、快楽に溺れながら現実逃避をしていた事もあったハギーマ。特殊な編み方をしている暖簾は、ハギーマ室内から入口で傅くツーシッヂからは中を窺い知ることはできないが、ハギーマ側からは良く見えた。それ故、視姦される快感を得る為にその暖簾を使った事もある。
不思議な事に、ハギーマから見てもツーシッヂからは何か滾る力の様なものを感じた。ツーシッヂにはその意識は微塵もないにせよ、その滾る力はといえば、かつては没落の一途を辿っていたギワヤ家が再び活力を取り戻し、活動を開始したことに呼応しての物なのかもしれない。
「ツーシッヂよ、レベセスを捕えたのは計画通りだ。この『地に堕ちた総督』を使って、ラン=サイディールに対し交渉を持ちかけるのはいいだろう。身柄を引き渡す代わりに、独立を容認させるのがよいのか、首を晒し、敵対を謳って独立を宣言するのがよいのか? はたまた、ドレーノンに襲われた総督を保護したことにしてラン=サイディールに恩を売るか?」
ハギーマは、以前には持ちえなかったギラリとした輝きを蓄えた双眸を、暖簾越しに執事ツーシッヂに向けた。誰しもが嫌がる視線。見られているだけで背筋が凍るような、身の毛もよだつ冷たい感覚。
だが、その視線を弾き返すわけでもなく、流れに逆らわずに受け流したツーシッヂは、一言呟いた。その老齢の身体からは想像できない程に野太い声で、しかし物静かに。
「閣下。
裁判をなさるべきです。そこで、国としてレベセス総督を有罪とし、公式に幽閉、監禁する。ドレーノ内で総督……ラン=サイディールの使者を有罪にする事で、国家独立の交換条件にするにしても、処刑して首を晒すにしても、効果が倍増すると存じます。
その方法は閣下がお決めになるべきと存じます。
ドレーノ国民のラン=サイディール使者に対する下克上ではなく、過去三百年の国家間の力関係を背景に、独裁を行ってきたラン=サイディールの総督が犯した数々の犯罪を、国家として力をつけたドレーノ国が、自国の法に基づき断罪する。
それにより、その処分についても箔がつきます。ドレーノ国が、新たな価値観を持って、他国にその存在を知らしめることができます。
属国が無政府状態になるのではなく、宗主国の支配よりも自国の統治力が優れている事を知らしめ、周囲の国家に納得させるのです」
傍に抱きしめるべき愛妻はいない。だが、それでも帰ってきたギラをより良い状態で抱擁できるよう、彼は準備をすべきと決めた。
ハギーマは指示を出す。
この国の法律家に、総督レベセスの罪を列挙させよ。内容は問わない。その上で、精査して最も重罪を課せ、と。
ラン=サイディールの属国として成立したドレーノ国には法律も憲法も存在しない。そもそも法典が存在しないのだ。サイディーランが同じサイディーランやドレーノンを裁いたのは、あくまでラン=サイディール国の法典を元にして、だった。
ドレーノ国において、過去にラン=サイディールから様々な物資を、部族が収受した時には、部族ごとのルールしかなく、そもそもドレーノ国という国家が存在していなかった。そこを取りまとめて一つの大きな民族団体である『国』として成立させたのは、ラン=サイディールから堕ちてきた元のテキイセ貴族だ。まだ、没落テキイセ貴族であった頃の貴族階級達は、その法典に馴染みがあったので、その運用に何の躊躇もなかった。そして、その状態が恒常的に続いていた。
だが、今回ドレーノという国家がラン=サイディールの属国という立場を返上するなら、独占できる国家暴力と共に、それらの力を一元的に運用するルール作りが必要となる。そして、作られたそのルールは、誰に対しても一元的に機能されなければならない。例えハギーマに対してさえも。
「その法を作っている時間はあるか? レベセスを捉えてから幽閉しつづけるのに、あまり時間はかけられないだろう」
ハギーマの問いに対し、ツーシッヂは余り大きな反応を示さない。
「いわゆる法典というものは、それほど各国毎に異なるものではありません。取り急ぎ、ラン=サイディールのモノを流用し、主権を閣下に設定するように書き直せばよろしいのではないでしょうか。そして、それを議会で承認、成立させる」
ハギーマの首肯をその作業の執行の支持と解釈したツーシッヂは、彼の後ろに控えている若い女性に顎で合図を送る。女性は頷くと、そのまま奥へと消えていった。
「いつできる?」
「明後日には。その後に総督を裁く公開裁判の日程を公示すればよろしい」
「法典の調整を急げ。そして、議会の準備も、だ」
「仰せの通りです。あのデイエンの肉達磨でさえ、己に権力を集中させるのに、議会の承認が必要でした。有形無実化した『それ』でも、対外的には十分機能します。
まずは閣下が、反乱の意思のないサイディーランを十数名でも議員に立候補させ、ドレーノン達によって当選させた形を作ります。当然、選挙などは行いませんが。
その、選ばれた議員たちによって議会を開会、閣下への権力集中を決議させさえすれば、あとは閣下の方策を議会で承認させるだけで話を進めることが可能になるかと。
……あくまで順番としては、ラン=サイディール国が設定している貴族階級サイディーラン達、特にドレーノンから選ばれた議員達は、第一位サイディーランである閣下の統治の方が、宗主国の統治より優れており、ドレーノ国にとって良い事であるという事実を認定している事を前面に押し出します。
同時に、宗主国の主権執行代務者である歴代の総督の罪状と現総督レベセスの罪状をラン=サイディールの法典に基づき指摘します。
その後、ラン=サイディールの法典を参考にして、新しく制定された法典を議会で承認、その法典内で謳われる主権の執行者を閣下と設定します。
その法典に基づき、罪人である総督を裁き、判決を与え、その判決をラン=サイディールに告知、総督の身柄の送致と共に独立を、あの肉塊宰相に認定させる。
これが、今回の流れとなります」
ゆっくりと頷いたハギーマは、暖簾を隔てたツーシッヂに向かって、邪悪な笑みを浮かべたのだった。
「……俺はこの国の王になる……!」
ツーシッヂはこの場を辞すると、彼が長い時間をかけて集めてきた情報と人脈とを使うために動き始めた。己の為に。
いつの時代にも、どの場所にも、与えられた環境に甘んじ、全てにおいて疑問に思わない者がいる。また、常に自分の置かれた環境に疑問を持ち続け、常に上を目指そうという野心を持ち続ける者がいる。そして、全ての者達が虐げられることを異常なほどに嫌悪し、他の者も満ち足りた生活を送るべきだと主張する者もいる。
どの存在が崇高でどの存在が唾棄すべきものなのか、それを一概に決める指標はない。そして、その境界線も明確ではない。時代によってその力関係が異なるだけだ。
今ここにいる数人の若者も、多分に漏れない存在だった。
彼等の住む都市、ロニーコ。この国の首都にして歓楽街の最高峰。その一角に店を構える酒場に、彼等はいた。
さらに良い暮らしは望んでいるが、その良い暮らしの実現の為の行動には及び腰で、一向に努力しようという気配はない。常に世の中について斜に構え管を巻くものの、具体的な方策を示そうとはせず、ただなんとなく過ごしている。活動家は彼らを笑う。
だが、彼らが認めた存在が出現すれば、彼らは一気に言動が加速する。彼らは力の漲る腕となり疾風のように駆ける足となる。彼らに頭脳さえ与えれば。心酔した者からの支持ならば、死すら厭わぬ自爆兵にもなることができる。その頭脳が正しければ、彼らは神の使いである天使となり、その頭脳が邪であれば、彼らは悪魔となる。若さとは、そういうものだ。
今はまだ、彼らはどの勢力にも属していない。そして、最も勢力のあるドレーノン達は皆その状態だ。
現状には納得していないものの、どう振舞っていいかわからない力を持て余した者たちを取り込んだ勢力が、ロニーコを、そしてドレーノを席巻することになるだろう。
彼らは、酒場で奇妙な情報を耳にした。
それは、ラン=サイディール国から派遣された総督が失脚したというものだった。
退任したのではなく失脚。
別の総督が来ての交代ではなく、失脚。それは、ラン=サイディールの権威が失墜したことを意味する。宗主国の意志ではなく、別の力が働いての失脚。これは異常事態だ。
一時期、総督の退任が続いた事があった。現総督……失脚したのならば前総督だが……の前三代くらいの総督は、就任後早い者では数週間、長くとも数か月のサイクルで替わった。それでも、後任は決まっており、即座に就任のセレモニーが行われたりもした。
交代の早さの異常さはあったものの、確実に総督の交代劇がきちんとなされていたのが、今までの常だった。
だが、今回の退任に関しては、大火災の暴動の直後だという。しかも、退任の前触れもなく、突然。現在は空席だという噂も飛び交っている。現状は、まだレベセスは総督だが、発言権をなくしている。そういう状態だろうか。
総督府は常に総督の言葉を発信している。総督府管轄の掲示板に、書面として。だが、具体的な施策や直近であった出来事に対する意見や感想、対応策などのものではなく、非常に抽象的で、どうとでも読み取れる内容ばかりだった。注意を払っていない人間にすれば気にならぬ内容ではあるが、常に総督の日々の発信を気にしている人間からすれば、異常事態が起きていると察するのは容易だ。
今までとは何かが違う。どこかが違う。
政局に疎い人間も、この異常に関しては敏感に感じ取っていた。病に伏せっているとの噂も流れたが、その直前にかの者の閃光事件を、圧倒的なプロモーションで収めているレベセスが、病持ちだったとは少し考えづらい。
グループのリーダーと思しき、小太りの男が囁くように仲間たちに言う。この小太りの男は、顎鬚を切り揃えて貫録を持たせようとしているが、どうにも表情には幼さが残る。恐らく外のグループのメンバーも、子供から大人への過渡期の者達かもしれない。
「おい、どう思うよ。何かおかしいと思わねえか?」
「おかしいも何も、ここ数か月はずっとおかしいぜ。度重なる総督の交代から、閃光事件、大火災、そしてレベセス総督の失踪だろ?」
細面の男は果実酒を含みながらしたり顔で呻くが、その応答の中身はといえば、事実の復唱のみで、彼の解釈は全く入っていない。他のメンバーも同じように訝しがるものの、それ以上の言葉は出てこない。
「噂だと、ドレーノ国がラン=サイディール国に対して、何かしらの交渉をするらしいですよ」
メンバーの中では一際幼く、精悍というよりはどちらかというと可愛らしい面持ちの少年が、よそから仕入れてきたと思われる情報を披露するも、このグループのリーダー的な男は反応をあまり示さない。興味がないわけではないのだろうが、この期に及んで及び腰らしい。取り巻き連中もリーダー的な男に迎合する感じだ。
「……もうちょっと具体的な情報を仕入れてきますよ」
そう告げると、自分の会計分だけテーブルに置き、身を翻した少年。
テーブルに残された者達はちらりとその少年の方に目を配っただけで、再びテーブルに目を伏して未来を憂うような仕草を見せた。
(情報は仕入れたとしても、あいつらに渡しても意味はないな。もっとこの情報を高く買ってくれる人の所に行こう)
少年には、来たる変革の時に対して何も対策を練ろうとしないグループからの離脱を決意した。
あいつらには情報は流さない。この情報だって、自身が身を削って得た物だ。それを買う買わない以前に、反応すら示さないとは。
少年は、酒場から表に出た。と、そこで数人の男に取り囲まれた。
只事ではないと瞬時に察する少年。だが、助けを求める事はしない。助けを求めても誰も動きはしないのは目に見えている。かといって、彼は武には疎かった。少女のような華奢な体では、奇襲の様な喧嘩はできても、大の大人数人に囲まれての大立ち回りなど出来る筈も無い。こういう時は逃げるに限る。
だが、男たちは既に少年の退路を断っていた。
「な……、何か御用ですか?」
ひ弱な丁稚奉公の小僧の演技が、こういう時には一番役に立つ。深夜の外出ではよく使う手だ。勤勉な丁稚奉公の小僧を演じる事で、女に可愛がられ、情報を得る事もある。無論、彼を慈しむのは女性ばかりではない。そんな自分を穢れていると思った事はない。いや、ない事は嘘になるのだろうが、もはやそんなことを気にしていては、ドレーノンで生まれ育った彼には生きていく術がない。
だが、男たちには彼の策は通じなかった。
その代わりに、彼を取り囲むリーダー格と思われる男が、ゆっくりと口を開く。
男の口から言葉が漏れ、その意味を解するまでのほんの数瞬の間、少年は生きた心地がしなかった。彼が幼少期から培ってきた、様々な大人を煙に巻き手玉に取る方法が全て通用しなかったからだ。
「君を、君の情報を買いたい。詳しい話は別の場所でしたいのだが、どうだね?」
少年は思わず首肯した。それは、情報を買ってくれる客に出会ったからでも、自分に仇成す相手でない事に感づいたからでもない。ただ、その言葉を発した男を切り抜ける方法がそれ以外思い浮かばなかったからだ。
少年が連れて行かれたのは、総督府の建物の地下だった。地下といっても、入口自体は総督府の建物にはなく、そこからだいぶ離れた所に建てられた幾つかの物置小屋があり、その内の一つの床に穿たれた地下通路への隠された入口があり、そこから地下を潜り、建物の地下フロアに入り込むことができる。
これは、総督レベセスも知らぬ秘密の地下道だった。
まだ、ドレーノ国の総督が、総督の地位を得る前の時代、ドレーノを取りまとめようとしたサイディーランがこの建造物を造ったが、その時に同時に造った通路で、緊急時の逃走経路として意図されたものだったが、それを歴代の総督府勤めの職員たちは何となく知っていた。
正式に書類としては残っていないが、古い職員から口伝としてその隠し通路と隠し部屋の存在をなんとなく聞かされていたのだ。逆に本来その通路を使う可能性があった歴代の総督は愚か、現総督であるレベセスも知らなかったというから、如何にマイナーな総督府の機能だったという事か。何度かの模様替えで、総督府の建造物の地上部と地下部は隔絶されたが、総督府地下部と物置小屋との連絡通路は、周囲の人間が忘れ去っていたために逆に残された機能だった。
今回、総督府の事務次官カンジュイームは、女給ゼリュイアを含めた十数人をそこに避難させた。と同時に、総督府の逃走経路として作られたのであれば、総督の個室からそう遠くない場所にその逃走経路を作っているはずだという推理の下、調査した結果、地下室と総督府が、かつては繋がっていただろう痕跡を発見、そこから総督府へと戻る方法も入手していた。
現在は不在の総督府。だが、サイディーランたちに対抗する力は、総督府に集めなければならない。カンジュイームのその想いは変わらない。
地下道をずっと這うように進んできた少年が、明るく広い空間に出てすぐ、あっと息を飲んだ。天井はそれほど高くないが、思った以上にただ広い空間に、男女無数の人間が座腰掛けていた。椅子に腰掛ける者、床に腰掛ける者、壁に寄り掛かる者。何人もの人間がいたが、その中でとりわけ強い眼光を持つ者が三人いた。数多くの燭台の光が、中心にいる三人に集中しているようにさえ感じられた。
その三人とは、偉丈夫事務次官カンジュイームと、民族衣装ガラビアを身に纏った異人。そして、一人の美しい幼女だった。
少年が一番驚いたのは、三人の眼光の強い『男』として捉えていたはずが、一人はなんとまだ十代にも満たぬ少女だったことだ。
カンジュイームは、少年に椅子を勧める。
状況は、少年にとって良いほうに進んでいるはずだったが、あまりの緊迫した雰囲気に、少年も戸惑いを隠さない。
「……ゼリュイア、乾燥果汁を差し上げてください」
鋭い視線の少女は、すっと席を立つと奥の樽に木製のジョッキを当て、ジュースを注ぐ。それを少年に手渡した。
「ホウヤくん、だね。君の噂はかねがね聞いているよ」
ホウヤと呼ばれた少年の背筋に嫌な汗が浮かぶ。カンジュイームの言う、この『噂』というのは、彼が今まで行なってきた犯罪行為に類似する行為全般を指しているように思えたからだ。勿論、この場でその話を持ち出さないだろうことは分かっているが、いくら極所で生きてきたとはいえ、齢十数年。人生のほぼ全ての時間を情報屋家業に費やしてきたとはいえ、年齢から来る経験差は歴然としている。あくまで、ホウヤが対抗できるのは普通に年齢を重ねてきた人間。ホウヤと同じかそれ以上の極限の環境で、彼以上に長く生きてきた人間には、追いつけるはずもない。
「君には、我々の同志になってもらいたい」
突然の誘い。
縁の丸いレンズの小さな眼鏡の奥に妖しく光る双眸は、ホウヤに心の奥底の感情を読ませない。懇願なのか、依頼なのか、命令なのか、その言葉尻からは伺い知ることができない。受諾をして良いのか、拒絶をすべきなのかもわからない。
最初が肝心。
カンジュイームの人心掌握術だ。有能な人材であればあるほど、初見で肝を冷やさせる。そうすることによって、あわよくばカンジュイームにとって変わろうとする、あるいは、カンジュイームを利用しようとする出来心を粉砕する効果を狙っている。出来心ではなく、本心からその地位を狙っている相手ならば、何をやっても抑えられるものではない。それならば、最初からそう考えて行動するだけの話だ。
目の前の少年は、完全に心を折られている。彼の目にはそう見えた。
だが、真にホウヤの心を折ったのは、賢者カンジュイームの心が読み取れぬ視線でも、ヒータックの射抜く鷹の目でもなく、ホウヤよりも随分年下であろう少女の瞳に宿る、悲壮感の中にも何かに抗い、生き抜こうとする生命の輝きだった。
時は少し戻る。
SMG最強の隠密にして、頭領の孫であるヒータックが、目深にターバンを被る七人の男たちと共に、総督府の地下に移動したのは、ロニーコの歴史に残るドレーノン居住区の大火災と同じ日だった。ただ、大火災はその日の早朝だったが、総督府の地下に移動したのは夜遅くになってからだ。
男たちは、最初はヒータックを軽んじていた感もある。だが、自分たちよりも容易に自分たちと同じ速度で走るこの男を見て、対抗心が沸き上がったのだろうか。
七人の男たちは、途中から本気でヒータックを撒くつもりで走ったが、ヒータックは息一つ切らさずについてきた。彼らはヒータックの実力をそこでも目の当たりにすることになる。
だが、総督府の地下で待ち構えていた、丸眼鏡の偉丈夫と、その脇に腰掛ける少女に対しては、ヒータックも緊張を解くことができなかった。それほどに、彼らの醸し出す雰囲気は切実で、ピンと張り詰めたものだったからだ。それこそ、ほんの少し前に、彼らが誇っているであろう斥候達を圧倒した事など、無かったことになってしまっていた。
「ロニーコへの潜入はお見事でした。ラン=サイディールの方ではないとお見受けしますが……」
「聞いてどうするつもりだ?」
丸眼鏡の男は、口角を上げた。
「聞いてから考えますよ」
百戦錬磨のヒータックが恐怖を覚えた。この恐怖は、強者への恐れではなく、正体不明の存在に対する恐怖だ。兎に角、相手の心が読めないのだ。
何を考えているかわからない相手に対しては、後の先は打てない。であれば、先手を打たねばならない。だが、その先手をどう打っていいのか、ヒータックにもわかりかねた。何しろ、戦いを挑むわけではないからだ。むしろ、倒してしまえるならそのほうが楽だったろう。隠密による戦闘は、危険因子を排除すること。それこそが彼らにとってストレスフリーな状態だからだ。だが、その状態を回避できない以上、不安材料は常に彼の元に残り続ける。
「……では、こちらから質問をさせてもらおう。この集団は、サイディーランともドレーノンとも異なるようだが……。まず、この国で直近に何が起きた?」
愚直ともいえる質問だった。だが、何処まで隠していいのか、いや、隠すべきなのかもわからない。
「先程の答えを暗に示して頂いたわけですね。
いいでしょう。私もお答えします。貴方様の予測の通りでもあり、そうでないとも言えます。我々は総督府の人間です。そして、サイディーラン主導での独立を是とせぬ集団です」
ヒータックは、ちらりと動きを見せた少女の表情を窺う。
少女は、決して心理戦を行なおうとしているのではない。今彼女を突き動かしているのは、愛にも似た激情だ。そのエネルギーは甚大だが、脆い。微妙なバランスで成り立っているが、少女の精神状態で一気に弾ける危険性が感じられた。
「レベセス総督に何かあったという事だな。少なくとも、総督府の人間が地下に潜り、戦力増強を画策するという事は……。本国待ちか? 打開の手立ては」
ドレーノの総督がドレーノの住民たちの反乱を受け、戦力的に御しえないと予想した総督府の人間が、本国からの増援を待って一気に打って出る算段をしている、というのが現状。ヒータックはそう予想した。
だが、実際はもう少し複雑だった。
「……私は化かし合いが苦手です。
現状をお話しすると、人口の大半を占めるドレーノンを押さえつけていたサイディーランのごく一部が、独立による権益を求め、従順なドレーノンを従え、総督を抑えています。しかし、捕らわれているのではなく総督自らが人身御供となってサイディーラン達を抑えているとも言えます。そして、サイディーランがそれで動きを止めているのは、ドレーノンもサイディーランもラン=サイディールからの独立を望み始めた、という事です。
サイディーランは、ドレーノ国は抑えました。しかし、そのまま外敵を退けようとすると、どうしてもドレーノンのマンパワーを使用せざるを得ない。今までの様なサイディーランのドレーノンに対する搾取ありきの政策では、ドレーノンを抑えきれないのです。
サイディーランが多少なりとも変わらなければ、ドレーノンを掌握してのラン=サイディールからの独立は有り得ない。それを少なくともサイディーランの一部は勘付いています。そして、それをサイディーランに周知し、徐々にそれも浸透しつつあります。
その為、ドレーノンに人気のあるレベセス総督を抑え、ドレーノンに対するプロパガンダとして用いようとしている、というのが現状です。余程今回の首謀者が愚か者でない限りは、今もまだ総督は無事の筈です。手札を傷つけては何の意味もない」
偉丈夫宰相と呼ばれた男は、大きな体を縮めるようにガガロの表情を窺う。
一見すると腹を割って話しているように見える話しぶりだが、ヒータックにはカンジュイームの話の内容が百パーセント正しいとは感じられなかった。だが、嘘を言っている訳でもなさそうだ。
「我々は、総督を助けたいのです」
いずれにせよ、ドレーノ国の今後より、レーテの父の安否を確保することの方が、彼にとっては重要な事だった。レーテの父の情報を得る為に、今ここにいる人間をうまく利用する。だが、それには、彼等に仲間だと思わせなければならない。実際、目的はレベセスの奪還だとするならば、間違いなく一致している。
「わかった。協力しよう。こちらには、後二人仲間がいる。彼らをここに連れてくる。移動には一日かからない。少し時間をくれるか?」
「……構いません。但し、この場所が奴らに知れたなら、一網打尽にされてしまう可能性があります。貴方が連れてくるという仲間のフォローという意味で、一人人間をつけます。有効にお使いください」
ヒータックはさもありがたそうに頭を垂れたが、もし彼の行動を妨げるような人間を見張りとしてつけたのなら、事故に見せて排除することも検討していた。
「……来客のようです。望まれた来客か、望まれざる来客か、見極める席に同席をお願いしたい」
ヒータックにとって、余りに強力な豆鉄砲だった。いわば踏み絵に近い。といっても、踏む絵も彼にすれば大したことはないのだが。
それでも、ドレーノ国におけるレベセス擁護側のトップであるカンジュイームというこの男。その力量を見極めるうえではいいタイミングかも知れない。
「いいだろう。同席させてもらう。そちらも俺という人間を見極めたいだろう」
ヒータックのその言葉に、カンジュイームは答えない。丸眼鏡の奥が怪しく光り、口角がほんの少しだけ上がったように、SMGの次期頭領の目には映った。
ちょっと自分の予想とは違う方向に展開が進んできました。ドキドキします。プロットガン無視(笑)




