ドレーノ擾乱 第二章5 地上に降りた戦士たち
泥で作られたドレーノの人々の生活の礎は、遠巻きに見る限りでは、その形をほぼ残している。しかし、近くに寄ってみると、悪魔の放った爪痕は明らかだった。灼熱の爪を持つ悪魔の一撃は、いたるところを焦がし、鋭利に削り、壁には巨大な穴を穿っていた。
美しく白い直線のみで描かれていた筈の建造物の壁は黒い煤で汚れ、僅かに歪曲した壁面に穿たれた『窓』であった物は、おぼろげな漆黒の虚空となった。微かに黒い煙を吐き出しているのは、虚空が地獄への入り口だからか。高熱で窓が変形し、窓枠を固めていた凝固剤が溶け出した状態で再硬化したせいか、その不気味に垂れ延びる『白いつらら』が、より漆黒の虚空を牙剥く化け物の口に見せている。
そんな建造物が往来の左右に無数に連なっているはずなのだが、全体的に黒い煙で遠くまでは視界が得られない。また、空を見上げても、まるで青空にこびりついたように黒い煙が上空をうっすらと覆っていた。
ロニーコに所々に植えてある避暑としてのヤシの木も、熱風に焼かれ、葉は縮れるか黒く煤で覆われて、微かに乾いた音を立てて揺れている。その様は、さながら煙の向こうに佇む悪魔が、物陰からこちらを窺いながら含み笑いをしているかのようだ。
建造物の足元には黒い塊が幾つも横たわる。レーテとヒータックはわざわざ近づくことをしないが、この火災で逃げ遅れて命を落とした数多くのロニーコの住人であることは、その燃え残ったガルビアを見ても明らかだった。
白い壁を越えて初めてその光景を目の当たりにしたレーテは、即座に嘔吐し、その場で蹲ってしまった。
ラン=サイディールでの混乱の時は、少女は薔薇城にいたため、街中でどのような惨劇が繰り広げられていたかについて、ほぼ知らなかったのは事実だ。
だが、少女は一つの大きな試練を乗り越えたとの自負があった。同じ年齢の少女に比べ、大きな困難を生き抜いてきた。
はっきりとその自覚があるわけではないが、どこかで目の前の事態を、以前自分が生き抜いてきた、所謂『ラン=サイディール禍』よりは些細な事案だと軽んじていたのは事実だろう。それ故、少女は躊躇なくその地に足を踏み入れた。だが、人の死がそこら中にばら撒かれているこの場所は、やはり齢十二歳の少女には些か酷だったかもしれない。
幾多の戦場を潜り抜けたヒータックですら、眼前に広がる惨状を目の当たりにして、口元に蓄えていた笑みが消える。彼にしてみれば、レーテのような奢りは持ちようがない。どのような戦場であれ、人の生死があり、歪んだ欲望がそのまま発散される。それは規模の大小ではない。
それはわかっているはずだったが、それでもロニーコの惨状は彼の心を著しく萎えさせた。
様々な物が焦げる臭いがし、その中に人の肉の燃える臭いも混じっていたが、香ばしく食欲をそそられる自分に嫌悪しながらゆっくりと立ち上がるレーテ。何度か咳き込み、吐く物が無くなっても彼女の胸のムカつきは収まらない。
流石に吐き気などは覚えず、直立して周囲から目を離すことはないが、ヒータックにとっても居心地のいい場所ではない。
「レーテ、あまり無理しなくていいぞ。飛天龍で待てばいい。いずれにしても、お前の親父さんは見つけてやる」
ヒータックの言葉に、レーテは口元を抑えながら首を左右に振った。
「……大丈夫です。見つけるのならば自分の手で。せめて……」
そこまで苦しみながら言葉を紡いだレーテだったが、やがて再度口を噤み蹲った。
蹲るレーテを見下ろしていたヒータックだったが、彼等が乗り越えてきた塀とは逆の方角から、何者かが歩いてくることに気付いた。
その存在は、どうやらヒータック達の存在には気づいていない。その人影から体の大きい者ではない事はわかったが、手に棒状の物を持っている辺り、少なくとも普通の人間ではなさそうだ。どちらかというと、『歪んだ欲望』を持つ者である可能性が高い。
一瞬、隠れてやり過ごすことも考えたヒータックだったが、蹲るレーテを連れてどこかに隠れる事は、もはや距離的に不可能だった。
ヒータックはレーテを庇うように立つと、体を斜に構え、正面の者に相対した。
話が通じる相手とも思えない。手に持つその棒状の物が全てを語る。
戦闘に陥る直前、ヒータックは祖母譲りの眼力を相手に叩き込んだ。
ヒータックの予測に反し、その者は歩みを止めた。次の瞬間、明け方の海風がロニーコを吹き抜け、砂埃や黒い煙、靄を吹き飛ばした。
ヒータックは目を見張った。
彼の前には、聖剣を抜いた状態で茫然自失の体で立ち尽くすファルガがいた。
「ファルガ……、何があった? レーテの親父さんとは会えたのか?」
ヒータックの声が彼の耳に届いたからだろうか、呆けたような表情をしていたファルガの瞳に、徐々に光が戻る。と同時に、ファルガは嗚咽を漏らし始めた。
飛天龍のデッキ上で、ファルガは叫んだ。
「レーテに似ている人を探せばいい」
と。
そのままファルガは背面飛びの要領で、飛天龍のデッキから跳躍、降下していく。
上空から見たロニーコは、街の全てが火の海に包まれているように見えたが、落下していくと、燃えているのは建造物周辺だけであり、立ち上がる黒煙と火の粉の輝きのせいで町全体が業火に包まれているように見えているだけだった。それでも、周囲の高熱はファルガの視界を奪う。当たり前といえば当たり前だ。焚き火の煙の上で目を開けば、煙くて目を開けていられる人間などそうはいない。
ほんの少しだけコツを掴んできた、聖剣の力の引き出す方法を用い、超常の力を引き出す。少年の身体には薄い光の膜が出来上がり、その光の膜のお蔭で、煙さは勿論の事、熱さも殆ど感じなくなった。
大地に降り立ったファルガは、背から聖剣を引き抜くと、周囲の様子を窺った。
彼の周りの四方には、白い建造物が乱立している。この建造物はロニーコの民の住居なのだが、周囲の全ての建造物から、次々と人が出てきていた。
その人々は口々に呪いの言葉を吐き続けていた。その呪いの言葉には、総督レベセスやラン=サイディール国の名、そしてサイディーランという言葉がちらほらと聞き取れた。
入口から歩いて出てくる者、駆け出してくる者、窓から転落する者など、ファルガが大地に降り立った瞬間、上空では見えなかった苦しみ嘆く人々に、周囲を取り囲まれる形になった。
そんな中、同じ建物から出てきたであろう比較的元気のある人間が、とぼとぼと歩く老婆をいきなり斬りつけ、彼女の持つ袋を奪う。背後では、毛むくじゃらの野蛮な男が少女を追いかけ、殴りつけた後、覆い被さった。
嫌がる少女の叫び声が、ファルガを突き動かすが、その毛むくじゃらの男は、ファルガの想像していた以上の途轍もない力でファルガを殴りつけた。痛みは殆どなかったにも拘わらず、聖剣を発動させているはずのファルガの身体が吹っ飛んだ。何とか身を翻し、着地したファルガだったが、余りの出来事に茫然とする。
少年ファルガの周囲全体が、異常な雰囲気の空間と化していた。どこか皆目をぎらつかせ、怯える者達を襲う。そんな光景が、そこここで見られた。
余りにも強大な欲望に当てられ、茫然自失の体で立ち尽くすファルガ。だが、そんな彼の心を呼び戻す人間たちがいた。この街にも、デイエンの炎の中にいただろう心の持ち主が若干数存在したのだ。
彼等は、暴徒と化した者達から弱者を護るべく戦った。少女を襲う毛むくじゃらの男を撃退し、老人を殴り倒して袋を奪い取ろうとしていた男を取り押さえた。また、比較的元気な人間には、怪我をしている女子供のフォローに回るように指示を出す人間もいた。
だが、その一方で、欲望を発散させようとする輩も相当数にいて、ロニーコの民族服ガラビアに身を包んでいないファルガに対して、剣を奪おうと試みる者、単純に殺戮のターゲットの一人として攻撃を仕掛ける者が殺到した。
ファルガのいでだちがSMGの戦闘服であることを気づいた者はいないだろう。だが、ファルガがロニーコの住人でない事は、一目瞭然だった。
数日前にロニーコを混乱に落としいれた『彼の者』。ロニーコの住人からすれば、自分たちと違う者は、『彼の者』に違いなかった。
何人もの男たちがファルガに襲い掛かってくる。
やむなく、ファルガは剣を振るい、その者達を倒さざるを得なかった。
正当防衛。
人はそう言うかもしれない。
殺戮。
また別の人はそう言うかもしれない。
少年は、生まれて初めて不特定多数の人間から強烈な殺意を当てられた。そして、実際にその命を狙われた。
少年の旅立った動機は、怒り。その怒りが発散されることなく、普遍的なものにその性質を変え、邪気を孕むことで殺意に変わる。だが、その殺意は非常に抽象的なものだった。対象は確かに存在する。だが、その対象の像がかなり曖昧だった。それ故、少年はどこか冷静で、どこか冷めた様子で周囲を見ていた。
殺意を持つことで、腹は括れる。行動自体に思い切りは出る。だが、その殺意の対象は曖昧だ。どこかで腹を括っているように見えて、甘えがある。
だが、真に不特定多数の人間からの強烈な殺意に晒され、実際に不特定多数の人間が己を殺しに来る。殺意そのものの種類が全く別物だ。
そしてそれは、少年ファルガにとって初めての経験だった。いや、人によっては一生に一度も経験しないかもしれない。むしろ、しない方が良いのかもしれない。
その殺意を伴う攻撃に、彼は反撃せざるを得なかった。
そして。
彼は生まれて初めて人を殺めた。
夢中だった。殺されないために。生き残るために。
身体能力の問題ではない。一般の非戦闘員が、聖剣を発動させた聖勇者をどうにかできるはずもない。それは周囲の人間は勿論の事、ファルガ当人にもよくわかっていた事だった。
人が命を賭けて行動に出る時には、小手先の技術はそこまで強力なアドバンテージにはなりえない。技術は戦闘に勝利するための物。しかし、戦闘の勝利はあくまで生き残ってこその物。戦闘の勝利を度外視し、とにかく相手の命を奪う事、憎悪の対象に一矢報いることを最優先し、自身の帰還を望まぬ者達は、生き残ろうとする者とは大きな隔たりを持つ。
殺さんとする者は、自分の傷より相手へ与えるダメージへと思考がシフトする。そして、相手が生き残れないだけのダメージを与える事を最優先に考えて行動する。もしそれが不可能だとしても、自分へのダメージを顧みず、一撃を与えようとする。対象を殺さんとする同志と共に。
ファルガは抗った。彼にも目的がある。
だが、自身がファルガにとってのジョーの様な立場になっていたことは、彼にとって衝撃以外の何者でもなかった。
もはや、レーテの父を探すことなど頭の片隅にもなくなっていた。
次々と襲い来る、ファルガを標的にした、余りにも稚拙な暗殺者たち。
少年は、最初の一人を貫くのには躊躇した。貫いた直後は動揺した。後悔した。
だが、後は同じだった。
彼に向かって来る人間の悪意を感じると同時に、剣を振るい、蹴り飛ばし、殴りつけた。
何人も、何人も、何人も……。
やがて、太陽の光が燃えカスとなったロニーコに射し込んできた時、立ち尽くすファルガと、その周りに出来上がった動かない人間の山、そして、それらを遠巻きに恐れ戦いた眼差しで見つめるガルビアを身に付けた老若男女。
ファルガにはもはや何も考えることが出来なかった。
人々の視線にすら気づかず、茫然自失の体でゆっくりと歩きだすファルガ。
遠巻きの人だかりも、少年の歩き始めた方向の先でぱっくりと割れた。
ファルガは、もはや剣を鞘に納める事さえ忘れていた。
そのままどれくらいの時間を歩き続けただろうか。
突然、彼の名が呼ばれ、暫く自制心を保つために外部からの情報をシャットアウトしていたファルガが、突然闇の開けたように感じたのは、決して偶然ではないだろう。
彼の眼前には、ほんの少し前まで見慣れていた顔が並ぶ。
格好はファルガが見知ったものとは違う。それ故、彼は目の前にいる二人の人影が夢の産物だとしか思えなかったのだ。
少女が口を開く。美しいこの少女が身につけている衣服は、まるで大きな白い布を体に巻きつけているような印象を受けた。質素なドレス、と言っても良いような代物だ。
「ファルガ……。無事で良かった」
少女は安堵の表情を見せた。
「だいぶやられたようだが、怪我はないようだな。一度退くぞ」
少女の背後の長身の男は、さして心配する素振りも見せずに、周囲の様子を伺うと、身を翻して走り出した。
少女は立ち尽くすファルガの手を取ると、青年の後を付いて走り出した。
夢見心地であったファルガは、先行する青年とファルガの手を取って走る少女を見て、なんとなく似合ってない服装だな、と感じたのだった。
だが、夢の様な殺戮者としての自分が存在する世界から、徐々に現実世界に戻って来始めた少年にとって、現実は非情だった。
明るくなってくるに従って、身に纏っていた黒装束に、赤黒い染みがついている事がわかる。手にしている剣も、その美しい刀身が血と脂で鈍い輝きを纏っている。そして、何より生臭い。自身は傷ついていないからこそ、返り血だからこそ、その臭さが際立った。
自分は人殺し。
人殺し。
殺戮者。
少女に手を牽かれて走り続ける少年は、いつしか慟哭していた。
「どうだ、奴は収まったか?」
高温多湿なドレーノ国の気候であるにも拘らず、少年ファルガは脂汗を浮かべ、呻きながら激しく震えていたが、突然静かになったのに気づいたヒータックは、飛天龍のキャビン上にいるレーテに声をかけた。
「収まった、というよりは、疲れ切って眠ってしまった感じね」
ヒータックはそれに答えず、溜息をつくと自身の前にある焚き火に薪をくべた。
ロニーコの街から一旦退却したヒータック達は、飛天龍の元に戻った。
そこで一晩過ごすべく、ヒータックは早々に水と食料を確保した。幸か不幸か、飛天龍の着陸した場所から徒歩数十メートルの所に小さな小川が存在した。
また、熱帯雨林という事もあり、飛天龍の周囲には、果実をたくさんつける木が生い茂っており、容易に糖分や栄養素を得ることが出来た。特に、狩猟をすることなく貴重な蛋白源の得られる豆類の木を発見できたことは幸運だった。
一度はルイテウへの撤退を考えたヒータックだったが、このジャングルでの物品の調達が可能であることを認識し、この場でもう一度パーティの体制を立て直す事を決定した。
この地を訪れた最大の理由は、レベセスとの対話。
だが、それは既に現在では実現不可能になっていた。
今では、レベセスの生死すら判明していない。それどころか、燃え盛るロニーコの街並みと何百人規模の死者を出している大火災を目の前にして、調査の継続が可能かどうかの判断が必要だった。
その結果、継続は可能。
飛天龍を隠すこのジャングルの中の広場を拠点にして、ロニーコへの調査に出る。ただし、ロニーコの調査をするのに体勢を立て直す必要がある。
そう結論した。
しかし、その戦力の根幹ともなる聖剣の勇者ファルガの脱落は余りに痛い打撃だった。
ファルガが戦線復帰できるかどうかは、半々。
肉体的には何ら問題はない。むしろ、聖剣の力を引き出し続けたことにより、生命力そのものは向上している。だが、問題は心だ。
己を貶め続けている今、少年ファルガの心は完全に止まってしまっている。現在は眠りについているが、目が覚めた時に、どのように思考するのか。そのまま一気に自分を傷つけたりしないだろうか。
目を覚ました途端、先程までの心の停滞が嘘のように快活に動きだせば、何の問題もない。だが、そううまく行く筈も無い。
全ては、ファルガが目覚めた時に決まる。
「……今晩、もう一度ロニーコに行く。一日経てば、状況の整理もできるだろう」
ヒータックは立ち上がるとレーテに告げた。
状況は刻一刻と変化している。
いくら主戦力のファルガが使えないといっても、その情報を仕入れておくことは、これからどのようなアクションを取るにせよ必要なことだった。
今回のこの火災が住民の過失による火災でないのは、燃え方で明らかだった。特殊なコーティングをしている土ベースの建造物がほとんどを占めるロニーコの町並みで、あれほどの火が走るのは、人為的な火災であることを示唆している。
SMGの特派員は、ロニーコにも送り込まれているが、その定期報告が滞っていた。考えられるのは特派員が逃亡したか、死亡したか。仮に逃亡したとしてもこの地で隠遁生活を送ることは不可能だし、なによりロニーコは、ラン=サイディールなどの強力な他の国家に比べそれほど情勢が緊迫しておらず、SMGを敵に回し命の危険を冒して逃亡するメリットがあるとは考えにくい。となると、今回の大火災の原因とSMG特派員の失踪が無関係であると考える事に無理がある。
ヒータックは、レーテの父にしてドレーノ国総督のレベセス=アーグの捜索よりは、特派員の捜索をメインに据えてのロニーコ調査を行おうとしていた。




