ドレーノ擾乱 第二章1 ハギーマの覚醒
彼の妻は言った。
ドレーノンを焚き付けろ、と。
流石のハギーマでも焚きつける理由はわかる。
ドレーノンの漠然とした不満の矛先を総督府に向かわせ、混乱を誘発する。その不満がどのような発現の仕方をするかは不明だが、ドレーノンの起こした何らかの反乱が、総督府ではなくサイディーラン達によって鎮圧、或いは沈静化されたという事実を作る必要があるということ。それにより、ドレーノを統治するのは総督府ではなくサイディーランの方がふさわしいという結論を、宗主国に導き出させることが狙いだった。そして貿易の上でラン=サイディールとドレーノとの関係を対等なものへと変更させた後、ゆくゆくはドレーノ国の自治権を伴った完全な独立を目指す。
問題は、それがハギーマ主導のサイディーランによるドレーノン鎮圧でないといけない、ということなのだ。少なくとも、ギラはそれを望み、意図しているとハギーマは理解していた。
あの時、彼の者が起こした混乱はすぐに解消した。だが、それは表面化した総督府とラン=サイディールに対する不満が、レベセスによって再度煙に巻かれたに過ぎない。
それを体感する才覚はないものの、ギラの計画には一定の理解を示すハギーマ。
しかしながら、具体的な方策として、何をしたらよいのか皆目見当もつかなかった。
わからないので教えてくれ、とギラに問い合わせたなら、恐らく壮絶な殴打と共に罵詈雑言を浴びせ掛けられるだろう。
これ以上ギラに無力のレッテルを張られたくない。そう考えたハギーマは、その日から図書館通いを始めた。
彼の幼少の頃に、自分が知りたいことは図書館の書物で調べるという方法を祖父に聞いた事を思い出したからだ。
それでも、以前の彼ならば、執事に命じて結果が出ればしたり顔、結果が出なければ執事をこれでもかと締め上げて終わって、自身で何かを成し遂げようとはしなかっただろうから、調べて実施に移そうと画策しようとするあたりは、人として大幅な進歩だ。周囲の人間による更生が望めなかった以上、ギラによる『ハギーマ調教』はギワヤ家にとっても好ましいことだと言えるかもしれない。
ギワヤの祖父は、父同様第一位サイディーランだった。厳密には、生まれ持っての一位ではなく、政敵を討つ事で一位に上り詰めた。
当時のサイディーランは、それぞれの貴族が力を持ち、お互いに反目し合っていた。元はテキイセ貴族だったのだが、テキイセでの権力争いに敗れ、ドレーノへと出奔した敗北者たちの集団。だが、その敗北者集団であったとしても時のラン=サイディール政権は邪険にはできない。それ故、敗北者たちにも名誉ある職を授けた。
そして、その元のテキイセ貴族に対する忖度が、自尊心を肥大させた
植民地ドレーノを国家として周囲の国々に認めさせる。ラン=サイディール国を超える国家を作り、いつか祖国で自分たちの境遇を笑う者たちを睥睨してやる。
それこそが出奔組の至上命題だった。
デイエンが首都になる前のテキイセは、それは豪奢な造りの街並みだった。町並みそのものが宮殿の一角。訪れた旅人が一様に口を揃える。だが、時代が経つにつれて、その景観は損なわれていく。製作には金をかけたが、その後の維持という意識が欠如していたからだ。そして、その町並みも、元はといえばテキイセの平民、とりわけ農民から搾取した税金で成り立っていたのだから、素晴らしい治世の結果、というわけではなさそうだ。
ラン=サイディール存続の為、時の王コモス=サイディールは資源をティノーウ大陸以外に求めた。その具体的な調査団が、現ギワヤ家を含めたサイディーランだった。調査団と言えば聞こえはいいが、政争に敗れたテキイセ貴族の流刑だった。そして、その流刑地こそが、ドレーノ。
辛酸を舐めたテキイセ貴族は、流刑地のドレーノを支配下に置く。そして、テキイセ貴族同士が序列を決める為の政争を始めた。
ギワヤ家は、ハギーマの三代前の当主が確立させた。サイディールの血は決して濃い一族ではなかったが、遠戚に才能の隔世遺伝が発現することはよくあることだ。ハギーマの祖父は、始祖ラン=サイディールの才能を冥界より取り付けたと評されるほどの人物だったが、如何せん、時代の趨勢は決まってしまっていた。彼は早々に新天地での体制を固め、ラン=サイディール国に追いつき追い越すことを目標に尽力した。
浮き沈みはあったものの、祖父の代で、サイディーラン第一位が確定した。そして、今に至る。ハギーマの父は、祖父の慧眼を色濃く継ぎ、国とは名ばかり、原住民の集落で構成される、『現在の混沌』ドレーノ国に秩序をもたらしていった。だが、後世の人間から見て『残念な名宰相』と言われるように、その秩序とは、相当にサイディーランよりの政策であり、ドレーノンにとってはまさに暗黒の時代と呼ばれるような超差別社会だった。
放蕩の限りを尽くしたハギーマだったが、図書館で本を開いた彼は、その世界に一気に埋没する。そして、彼は今までの放蕩が嘘であるかのように、図書館で本を読み漁った。
事の発端は、ギラに何としても必要だと思われたかったから。所謂純愛という物かもしれない。だが、ある時から、知的好奇心がギラへの愛情を上回った。
元々、先祖はサイディーラン第一位に上り詰めた。その頭脳が、今この瞬間に、ハギーマの中で覚醒した。
三日、ハギーマは屋敷を空にした。今まではギラが屋敷を空にし、ハギーマがギラの所在を案じるのが常だったが、今回は完全に逆だった。
「どこに行っていた? 手は講じたのか?」
バルコニーでギラの問いに、無言で口角を上げるハギーマ。
たった三日で、彼の中で何が変わったのだろうか。
何が変わった。それを明確に言葉で表現できる人間は恐らくいないだろう。だが、変わった。
ハギーマは、ツーシッヂを呼び、貴族区の人間全員に召集を掛けた。
ツーシッヂは、ギワヤ家がサイディーラン第一位になった頃からの執事で非常に老齢な人物だ。縮みきったその背は、老人の悲哀を感じさせるが、その鋭い眼光は、時としてハギーマの祖父すら固唾を呑むこともあったという。それ故、ハギーマも幼少の頃から知っている。それは同時にハギーマの堕落していく過程も知っていることになる。また、その知識には定評があり、どのサイディーランも自分の執事として迎えたがっていた。
招集に応じたサイディーランは半数ほど。それ以外のサイディーランは、自分の予定を優先し、ハギーマの招集を黙殺した。
ハギーマは私兵を用い、招集を無視したサイディーランを処分した。その疾さは、とても軍を率いた経験のない者とは思えぬほどの物だった。戦場経験のなさが、逆に暗黙の戦争ルールを無視した無慈悲な懲罰として機能したようだ。他のサイディーラン達は、突然獰猛になったハギーマに恐怖した。そして、同時にサイディーラン内でのハギーマの評価は上昇し始めた。
『帰ってきた第一位』。
これが、隠語的に使われたハギーマの称号だ。
ハギーマに類まれな才能があったのか、はたまた他のサイディーランの牙が抜け落ちて久しいのか。いずれにせよ、ハギーマの変化は目を見張るものがあった。
その一方で、彼を焚きつけた張本人である褐色の美少女ギラ=ドリマは、それ以後ハギーマの前に姿を現していない。ハギーマ自身が自らの屋敷を離れていた事もあったが、その間も今までは屋敷に滞在していたギラ。総督府の面々は、今までのギラの働き具合を知っているからこそ、ギラが堕落したのではと危惧し、体調を壊したのではないかと心配した。
だが、いずれにせよギラ自身はこの地に姿を現すことは二度となかった。
ギラを失ったハギーマは、いつか彼の元に戻ってくるだろうと信じ、それまでにサイディーランの世を作っておくことを心に決めた。
南国の熱い夜、人々の、とりわけドレーノンの中で燻っていた不安と不満の炎が、ある男の策により一気に噴出する。




