反レベセス勢力の鼓動
ギラの変化から数日。
あの時のギラの行動が嘘のように、しかし、彼の元に戻ってきてくれたという意味では夢のように感じられる日々を過ごすハギーマ。
彼が妾として屋敷に招いたはずの少女を、正妻として迎えると告げたのは、ギラが彼の元に戻ってきた二日後。
周囲のサイディーランは驚いた。まさか、父親の財産を食いつぶすことのみに才能を発揮していた、この放蕩息子が正妻を娶ろうとするとは。
貴族、すなわちサイディーランが正妻を娶るということは、正式に跡取りを欲するという意思表示であり、正式な嫡子をドレーノンと間に儲けるという事は、ドレーノンの血を貴族に引き上げる行為だ。
当然正式な場に少女ギラ=ドリマを連れていくだけではなく、サイディーランとしての振る舞いもギラには求められることになる。それをハギーマがギラに授けることができるのか。
だが、その問題も実は些細なことかもしれない。実際にはサイディーランとドレーノンとの婚姻が、ハギーマ一人の問題では終わらないだろうからだ。
ハギーマとギラの婚姻は、最終的にはサイディーランとドレーノンの血統の融合を意味する。つまりは、宗主国であるラン=サイディール国出身者とドレーノ国出身者とを対等に扱う事をサイディーラン側が認めたと解釈されるということ。
それは今までのサイディーランでも古今例がない事案だ。当然反発も多かろう。それは、奴隷階級が自分たち貴族と同じ立場に上がってくることを認める行為だからだ。サイディーランという不可侵領域を侵す行為に他ならないのだ。
それ故、今までのサイディーランは、ドレーノンに溺れる事があったとしても、それはあくまで妾として囲い、正妻として受け入れる事はなかった。記録にはないものの、そう画策した者も歴史上いたかもしれない。しかし、それは他のサイディーランに阻止されたと考えるのが妥当だ。
今回のようなケースが成立した場合、サイディーランがドレーノンに堕ちる事はあったかもしれない。だが、それも歴史上のサイディーランとドレーノンとの関係を考えると、サイディーランの全てを捨ててドレーノンになるという事は考えにくい。
今回、ハギーマの言動はノーマークだった。
下手をすると存在すら忘れ去られていたかもしれない。『取るに足らぬ男』と貴族からも蔑まれ、良きにつけ悪しきにつけ何もできない男と看做されているギワヤの愚息。たまに奇をてらう行動をとったとしても、その影響力もなかったはずだった。
嫡男でありながら今まで何も貴族としての職務……ラン=サイディール国との橋渡し的な役割……をしてこなかったハギーマが、唯の道路脇で働くドレーノンを正妻にしたということは、少なくとも損得勘定ではあるまい。それは即ち純愛なのだろうか。
だが、そのような純愛がドレーノンとの間に存在したとしても、今までのハギーマの素行から考えた場合、突然開眼し、第一位サイディーランとしてサイディーランを取りまとめていく事は勿論の事、貴族として本来の責務に従事することもおぼつかないだろう。となると、そもそも婚姻行為自体がただサイディーランの地位を、ギワヤ家の地位を下げるだけの無駄なものではないか、と周囲のサイディーラン達も考えざるを得ない。それほどにサイディーランの間ではハギーマの評価は低かった。
ハギーマの亡き父は、サイディーランの中でも最上位の貴族と呼ばれていた。それ故、様々なサイディーランやドレーノンが忖度した。それは、嫡男であるハギーマに対しても同様だった。
その忖度こそが、何もできないハギーマを肥大した自尊心の塊として育てていく。
婚礼の儀を行なおうとする前日に、何人かのサイディーランが彼の屋敷に説得に向かった。少なくとも、ハギーマ一人の問題ではないのだと諭す為に。
それでも、ハギーマは決行した。
披露宴には、本来はドレーノのサイディーランだけではなく、本国から貴族を呼ぶのも習わしであった。だが、ハギーマはそれすらも無視。ギラとの婚姻を反対されると思ったからだ。これにより、ハギーマは宗主国ラン=サイディール国に反乱の意思ありと理解される事になる。
それでも、ハギーマは決行した。
ラン=サイディール国内でも、ドレーノ国内でも、彼の味方が誰もいなくなる可能性は否定できなかった。どちらかというと、ラン=サイディールとの関係を考えると周囲は全て敵になる可能性の方が遥かに高かった。
それでも、ハギーマは決行した……。
果たして、ハギーマはこの結果を予測していたのだろうか。
答えは恐らく否、だ。
だが、内々に行なったはずの婚礼の儀が、レベセスの祝辞を呼びよせることになった。
それは、まだ正妻となる前のギラが、昇竜二法の一つ『作付均等法』の内容を率先して実行に移す前向きな活動をしたこと。これを評価し、総督府との良い関係を保ちたいというカンジュイームの思惑がいい方に機能した結果だった。
カンジュイームの思惑と、ハギーマの行動が連携したとはとても思えないが、ハギーマ、というよりはギラの地位が相対的に上がっていたため、結果的にラン=サイディールの窓口と言える総督府は、ギラのサイディーラン化を歓迎した。
テラスにてデッキチェアに横たわるギラは、一生懸命少女を楽しませようとする夫ハギーマの話に、頷くように優雅にグラスの中のカクテルを少しずつ口に運ぶ。
日が暮れて、太陽光に変わり、満天の星空が微かに地上を照らす。いつものように激しいスコールの後は、周囲の気温も下がり、過ごしやすい時間が早朝まで続く。
正直、ギラは彼の話をほとんど聴いていなかった。
ハギーマの話は特段面白くない。波の音にしても耳障りな騒音ではあったが、かといってそれほど気になるわけでもなかった。少女はカクテルの滑らかな舌触りを楽しみつつ、グラスの色を通して見える、熱帯雨林とその向こうに広がる南国の遠浅の海に、思いを馳せているようだった。
と、突然、少女の目の前に一本の稲妻が落ちる。
轟音はない。光もない。ただ単純に、視界に黒いノイズが走ったように、ハギーマには見えた。
そして、何度か目をこすり、凝らす視線の先に黒い人影を見つける。その人影は、文字通り影法師。漆黒の衣装を着ている訳でもなければ、体が黒いわけでもない。単純に闇が人の形を描き出しているように見えた。先ほどまで彼の目に映っていた満天の星空と遠浅の海が、黒い人型にくりぬかれたからこそ気づいたのだろう。
ギラはデッキチェアから身を起こすと、テラスの隅に立て膝をつきかしこまる影法師の傍に歩み寄る。そのまま、特に言葉を発するでもなく、人間でいえば額の位置に掌を乗せた。
暫くそのままの姿勢でいたギラは、やがて表情を曇らせる。
「……レベセスは暴動を抑えたか。だが、これは好機だな」
話すのをやめて、おそるおそるギラと影法師のやり取りを見ていたハギーマだったが、現状を全く理解していないに違いない。
そもそも、影法師は何も喋らない。ギラがどうやって影法師と対話をしているのかも不明だ。ただ、ギラは何か情報を得ているようだった。
ギラは中空を睨み、ニヤリと笑う。その表情はまさに悪魔のそれだった。浅黒い肌に美しい黒瞳を持つ少女の口元には、欲望に汚された笑みが蓄えられた。初々しいはずの少女の眉間には、これ以上ないほどに深い皺が刻まれる。
「……他のサイディーランを焚き付けろ。情報の精度は問わない。どうせサイディーラン共にとっては情報の真偽などさしたる問題ではない。レベセスを糾弾する内容であれば構わん。流言を飛ばせ。できればドレーノンを巻き込んだものを」
突然の言葉に、即座に反応できぬハギーマ。だが、ここにはギラとハギーマ以外の人間はいない。黒い人影はギラが手を離したとたんに溶けるように消えた。
ハギーマの返事が遅れ、ギラの鉄拳が飛ぶ。
ハギーマは折れた鼻骨が治らぬうちに、強烈な一撃を貰い、完全に鼻が潰れた。ギラが黒い稲妻に打たれて数日のうちに、ハギーマの顔は原形を留めないほどに変形した。
鼻腔から滴り落ちる鮮血を抑えながら、ハギーマは呻いた。その呻きは、恐らくギラからの命令に対する承諾の意味だったに違いない。だが、もしそこに別の人間がいたとしても、その反応を言語として理解できる者はいなかっただろう。
ハギーマはギラに流言を飛ばせと命じられたその日から、考えに考え抜いた。
恐らく、この世に生を受けてから、最も思考したかもしれぬ。
頭から湯気が立ち上ってもおかしくないほど頭脳を酷使し、首が歪んだのではないかと思われるほどに首を傾けて思案した。
万全と思われたサイディーランの数百年に及ぶ治世が、高々一人の総督によって崩されたという事実。今までの総督が無能だったのか。現総督のレベセス=アーグという男が異常なまでに有能だったのか。
否。
かの総督が特筆するほど有能だとは思わない。しかし、歴代の総督が並び立たぬほど無能だとも思えない。ドレーノに赴任する歴代の総督は、誰しもが宗主国ラン=サイディールにてそれなりの実績を上げてきた人物ばかりだ。そして、過去のドレーノの歴史に精通し、現在のドレーノのあるべき姿を模索し、実践するためにラン=サイディールから派遣されてきた者ばかり、のはずだ。
だが、その者たちは、ドレーノを変えることはできなかった。サイディーランの権利は、かつてラン=サイディール王が認めたものだが、ドレーノにてそれは異常に特権的なものになっており、宗主国であるラン=サイディール国でも問題視されつつあった。だからこそ、サイディーランの勢いを少しでも抑えることのできる総督が送り込まれてきていたはずだった。
だが、サイディーラン達は、その総督たちを陰に陽に撃退した。
過去と同様、サイディーランの主権を守る為には、レベセス総督の勢いを落とす必要があった。
きっかけこそギラの変化だったが、一度は失われつつあったサイディーランの権勢を取り戻したいという気持ちはハギーマにもあった。そして、その手法がある程度示されれば、俄然気炎も上がろうというものだ。
ハギーマは、失意のうちにあるサイディーランに呼びかけを始めた。
そこには、ギラの助言があった。
ギラは言う。
「レベセス総督の失脚は、過程に過ぎない。解るか、我が愛する夫よ。
サイディーランという呼称が、実は我々にとって酷く屈辱的であるという事が。
サイディーランという言葉は、ドレーノ国の貴族階級という言葉を意味するが、同時に、ドレーノが常にラン=サイディール国の属国である事を強く物語っている。だが、ラン=サイディールのテキイセ貴族共は、ラン=サイディールを没落させた。そして、旧首都テキイセを放棄し、デイエンという矮小な港町を首都とせざるを得なくなった。
そして、そのデイエンは、テキイセ以上の巨大都市として成立しつつある。
時代は変わる。
現に、国王代行としてベニーバ=サイディールは遷都を完了させた。
貿易に移行しつつあるラン=サイディールの属国である事を続けている意味はない。ここで、ラン=サイディールと対等になるべきではないのか? 経済大国が属国を持つことはおかしいことだ。そして、その属国の地位に甘んじる事もおかしいのではないか?
軍事力では勝負にならないが、資源を元にしての交渉ならばできるだろう。
まずは、交渉の土壌を作る為に、ドレーノン共に総督府を襲わせろ。そして、それをハギーマ、貴方が鎮めるのだ。そして、サイディーランの頂点となれ。
サイディーランの長となる者は、ドレーノの王だ。ドレーノの王として、ラン=サイディールから独立を勝ち取れ。
大ラン=サイディール国と対等になるのだ!」




