表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
界遊記  作者: かえで
ドレーノ擾乱
58/252

黒い稲妻

タイトルで、スマップの『青い稲妻』が何度も頭で演奏されました(^^;

 ドレーノ国の首都ロニーコは、リオ大陸の中央に位置している。そして、特筆すべきはその領土がドレーノの砂漠部分と熱帯雨林部分の両方に掛かる立地条件だということだろう。同じ都市でありながら、ロニーコの北部と南部では明らかに気候が異なっている。

 そんな特殊な気候のロニーコは、他の地域とは異なる独自の文化を持つ。それは衣服に始まり、食料や酒、それらが元になる独自の慣用句、表現等多岐にわたる。

 その文化の中で、最も人目を引くのが建造物だ。

 ロニーコは、存在する殆どの建造物が『三色土器』にも用いられる特殊な土によって塗り固められているため、全体的に白い都市という印象を受ける。だが、その中でも異彩を放つのが、『ドレーノの恥部』と呼ばれた貴族階級サイディーランの住居だ。

 白一色の建物が乱立する中、赤や青、緑や黄色等色とりどりの外壁や屋根を設けたサイディーランの住居は、一見すると絢爛豪華だ。

 だが、外観にのみ検討がなされたその屋敷は、機能が気候にそぐっておらず、建物内の温度は、他の建造物に対して数度から十数度高めになる。サイディーラン達はそこで生活をするために涼を取る手段を講じる訳だが、それがまたサイディーランの家計を圧迫する。

 装飾品などに財を投じ、快適さを二の次にした彼らの根底にあるのは見栄だ。そして、そのツケをドレーノンに要求し、自分たちの満足感を得る為に彼等から搾取する。後に搾取する物もなくなり、最終的に没落していく貴族は、その悪癖から逃れられないのだ。

 それでも、かつては宗主国ラン=サイディールの使者として、ドレーノはサイディーランに対して最恵国待遇を余儀なくされていた。それ故、サイディーランは他人の金で生活をし、様々な贅沢をするという、一見すると不条理な状況が成り立っていた。

 だが、レベセスが総督として赴任し、体制を見直すことでサイディーランのドレーノンに対する搾取が出来なくなった。その見直しは、本来であればドレーノに対するラン=サイディールの地位の低下を意味していない。むしろ、ドレーノの財政上の崩壊を阻止するための策だった。だが、今までが異常だったが故に、地位の低下と感じざるを得ない状況になっているのは間違いない。

 テキイセからデイエンに遷都し、テキイセ貴族を排除するタイミングで、サイディーランの実質的な地位は落ちていく。ドレーノ国のサイディーランは、元々ラン=サイディール国のテキイセ貴族の親戚の様な存在だからだ。宗主国でテキイセ貴族が弾圧されれば、その末裔のサイディーランも似たような扱いになるのは仕方ないと言える。

 サイディーランをドレーノから引き離す。その方法として、レベセスはサイディーランという名の癌細胞を一か所に集め、『選抜』と称した強制隔離を行なった。自尊心を刺激されたサイディーラン達は、自ら豪奢な檻に身を投じる事になる。それが、呼称だけは『貴族地区』と呼ばれる居住地となった。

 ドレーノにおけるサイディーランは、貴族という地位こそ与えられていたが、実質はラン=サイディールでの居場所を失った移住者たちだ。実力に対して、不相応なほどに膨張した自尊心。『ドレーノンをサイディーランの居住地に入れない』と銘を打った選抜は、逆にサイディーランが居住地外に出て来られない状況を作り上げたのだが、肥大し腐敗した自尊心は、その事実を認められなかった。

 彼らは、自らの財を擲って、外界との敷居を作った。そして、檻の向こう側に色とりどりの屋根を持つ建造物が乱立させた。更に、サイディーランの一部の人間は、灼熱の日差しのせいでの高温を凌ぐ為に、敷地内にプールを作った。

 だが、異常なほどに強い日差しは、プールの水を蒸発させる。サイディーランがプールに入りたい時には、既に水がない事も多い。逆にプールに水を入れ始め、涼を取れるほどに水が貯まる頃の時間帯にはスコールが激しく水面を打ち付ける為、大事に貯めた筈のプールの水が溢れだし、敷地内が洪水のようになることも良くあった。また、水は井戸を持つドレーノンから購入する形になるが、以前のような搾取階級にはないため、そこでまた私財を投じる。食料を揃えるよりも、衣服を揃え、飲料水よりもプールの水を求める。

 結果、現在のサイディーラン達は、衣服や住居だけは絢爛な、酷く顔色が悪く痩せこけた者が多くなってしまっていた。

 彼らは、まさに滅びゆく人々だった。

 つい十数年前まで、ドレーノは地獄だった。飢えで死に、暴行で殺され、熱中症で死んだ。それがドレーノン。どういう死に方ができるか。それが幸せの判断基準。

 だが、今は徐々に変わりつつある。紆余曲折後、徐々にではあるが、体感できるほどにドレーノンを取り巻く環境はよくなってきている。

 勿論、まだ不安は拭えない。いつあの恐怖に襲われるのかわからないから。

 だが総督レベセスが来て、ほんの少しだけ、希望が持てた。

 今回の『彼の者』の出来事も、動揺するドレーノンにとっては『彼の者』のいう、総督の契約不履行があったかどうかについては、そこまで大きな問題ではなかった。ただ、またあの地獄が始まる可能性があるのかどうか。判断基準はそこだけだった。

 先日の民衆の混乱に応じて、レベセスを亡き者にし、主権を取り戻そうとしたサイディーラン達。だが、発生した混乱も数瞬でレベセスに収められてしまう。

 千載一遇のチャンスを逃した。もう、レベセスを排除しての貴族生活の復活は、自分たちの力では無理かもしれない。

 サイディーランがそう思うのも無理はなかった。徐々に無くなりつつある自身の権力、財力、決定力。もはや別の呼称すら欲しかった。後は、惨めな予後だけは送りたくない。

 それでも、この後に及んで『選抜』によって隔離されたサイディーラン達は、己の趨勢を楽天的な方向に進むと考えていた。どこかで彼ら自身の地位を認め、重用してくれる圧倒的存在が現れてくれるのではないか。そんな夢物語を追い求め、夢想する日々が続く。何とかして自分たちが力をつけ、政権を取り戻すという方向に考えるのではなく……。

 しかし、その中でも例外はいた。


 その例外は、『選抜』と称した強制収容の時、すんなりと移住に応じ、準備された屋敷に入った。殆どのサイディーランはその屋敷を好まず、一度取り壊してまた新しい屋敷を建築したが、その例外は、与えられた屋敷に住んだ。

 幾ら総督レベセスであっても、過去の歴史勢力をないがしろにすることはできない。

 サイディーランも、没落貴族とはいえラン=サイディール国出身の貴族なのだ。その彼らの地位は、元々はラン=サイディール国由来の物。今でこそ時代に合わぬ肥大した自尊心の塊となった彼等であるが、その血筋は王族によって認められたもの。それを邪険にして改革を進める事は流石に憚られた。現在はドレーノ国の癌にしてラン=サイディール国のお荷物に成り下がった彼等も、先祖は少なくともラン=サイディール国に貢献した一族であり、それは評価されてしかるべきだ。

 彼の中での妥協策として、サイディーランの代わりの居住地を準備したのだが、それをサイディーラン達が気に入らないのも織り込み済みだった。それ故、建て直しや改築は当然認めた。その狙いは、さらに私財を投じさせ、彼等の力を削ぐ為。そして、ドレーノンから搾取した様々な財を、労働者の報酬としてドレーノンに還元させる為。

 『例外』は、従順にレベセスの準備した『貴族地区』に入った。だが、貴族地区内の屋敷の位置にはひどくこだわったようだ。一見すると、どれもが同じ条件で準備された屋敷。だが、彼らが選んだのは、貴族地区内の最も西。隣は背の低い城壁を隔てて熱帯雨林が広がる。そして、反対側の屋敷群は、他のサイディーランが入居し、建て直した。建造しなおした屋敷は更に背が高くなり、日陰を提供する。また、西隣は熱帯雨林であり、建造物が立ち並ぶロニーコ内でも一番気温が低く保たれていた。

 また、『例外』は、総督レベセスの制定した『昇竜二法』の一つ、作付均等法の施行バックアップに資金提供をしている。『例外』はドレーノとラン=サイディールの双方の農作物を育てる為の技術の確立に一役買っていたのだ。

 レベセスに協力をしているようで、それでいて自身に与えられた環境の中ではベストの物を選ぶしたたかな感性を持つそのサイディーランの名を、ギラ=ドリマといった。

 このギラという女性は、元はドレーノンであったという。だが、彼女を見初めたサイディーラン・ハギーマ=キワヤという男により、妾にされ、準サイディーランとしての生活が始まった。ギラは、南国特有の褐色の肌に、吊り目ながら大きく美しい黒瞳を持ち、一種挑発的な魅力を兼ね備えた女性であった。何人かのサイディーランから寵愛の申し出があったが、彼女が受けたのは、幾多存在するサイディーランの中で、最も品性に欠けた男だった。

 彼女は、ハギーマからの寵愛という名の束縛を受けたが、その当時、それをどう思っていたかという記録はない。だが、進んでハギーマの寵愛を受けに行った理由は、幾つか考えられた。

 一つは、ハギーマがレベセスから一番無害そうなサイディーランだと思われていた事。そして、もう一つは、彼女自身が御すことが可能だという見通しが立てられたこと。

 他のサイディーランからも無能な石潰しと陰口を叩かれたこの男が、結果的に最後までサイディーランとして振る舞えたのは、このギラという女性の力に他ならない。

 彼女は、ハギーマの領地の農民たちに、格安の値で農具と種を分け与えた。

 当時、作付均等法により育てる植物が定められていたにも拘らず、その植物を育てようというサイディーランは数少なかった。その理由は単純に総督レベセスに対する反発からなのだが、彼女はそのサイディーラン達の流れを逆手に取り、レベセスと交渉した。

 それが、作付均等法を遵守する代わりに、その植物の種とほかの植物の種を格安で総督府より買いつける、という物だった。

 作付均等法を立案するにあたって、様々な植物の知識を総督府に授けたのは、ドレーノンだ。だが、それはあくまで彼らが知る経験則を無秩序に総督府に申し立てただけだ。それを系統立てたのは、事務次官カンジュイームに他ならない。そして、具体的にそれを周知する方法は、どうしても文書にならざるを得ない。あくまでその理論を文書で見せられるだけであり、それが実際に功を奏するかどうかは未知数だった。

 それをサイディーランであるギラが実践することにより、その有用性を他のサイディーランに周知することを条件に、安く種子と農具を仕入れた。そして、その農具と種子とを、領土内のドレーノンに、相場よりは遥かに安く、しかし借り受けた値段よりは高く設定し、貸し出した。

 最初は、安価に種子と農具を貸し出すギラに対し、懐疑的なドレーノン。無理もない。今まで、サイディーランは様々な面でドレーノンを虐げてきた。その彼らが、突然相場より安く物を提供すると言い出したのだ。何か裏があると考えるのが自然だ。

 だが、その開墾作業そのものを、ギラも手伝った。

 今までふんぞり返る事でしか存在感を示せなかったサイディーランが、自分たちと同じことを率先して行い始めている。

 それが、彼等ドレーノンの冷め切った心を徐々に解きほぐしていく。

 『働くサイディーラン』ギラ=ドリマ。

 彼女の名は瞬く間にロニーコ中に知れ渡る事になった。そして、その内情を知るに従い、ギラが元はドレーノンであった事も周知の事実となる。

 反応は二分。

 片やドレーノンなのにサイディーランに肩入れする裏切り者と感じる者。そして、元がドレーノンであったからこそ、ドレーノンの気持ちがわかる、ドレーノンに近しい存在のサイディーランとして親近感を持つ者。

 二分された評価は兎も角、ギラは、ハギーマという男の印象を、レベセスを初めとする総督府の人間に対してよいものとすることに成功していた。少なくとも、総督府の改革に二の足を踏む他のサイディーランよりも……。

 そして、ギラの夫ハギーマ=キワヤ。

 この男は、典型的なサイディーランだった。良くも悪くも凡俗な貴族だったわけだ。

 父親ほど頭が切れる訳もなく、母親ほど美麗な容姿もしていない。ただ生まれがそうだったから貴族をしているような輩だった。だが、唯一その貴族としての自尊心だけは限りなく肥大化させていた。

 それ故、ロニーコ内で自身が管理を任されていた地区の全てを、自身の所有物だと認識していたとしてもそれほど驚くことではないのかもしれない。

 彼が、少女であったギラを見初めたのは、街道を駕籠で移動している時だった。何人かの少女とともに働く彼女を、最初は飼育するだけのつもりでいた。

 だが、他の少女が目を逸らす中、ギラだけは駕籠の中のハギーマの目を射抜く眼差しを送ってきた。威嚇でもなく、物乞いでもなくただ純然とそこにある物体を見つめるように。

 感情を込めずに己を見つめる視線にひどく興味を持ったハギーマ。今まで感じていたのは、怖れの視線か恐れの視線。それを畏れと自身は思っていたかもしれない。

 だが、その視線はそのどれも感じさせなった。

 ハギーマはその場で少女を抑え、屋敷に連れて帰ろうとする。

「現在、仕事をしております。この仕事を終えましたら参ります」

 ハギーマは怒らなかった。怒れなかった。

 本来であれば、相手がどのようなことをしていたとしても、領主の命に即座に従わなければならない。それをしなければその場で切り捨てられても文句は言えないはずだった。

 彼は、ギラの申し出を受け、屋敷で待つ旨を告げ、そこから立ち去った。

 既にハギーマはギラの虜になっていたのかもしれない。

 ハギーマは、ギラが屋敷を訪れた時、いきなり抱こうとしたのだが、拒絶されたことに憤慨する。

 だが、その憤慨も彼女にとっては何の意味もなかった。彼女はあっという間にハギーマを制圧する。格闘技経験がギラにあったわけではない。自称高等貴族のサイディーラン・ハギーマが余りに弱すぎたのだ。

 幼少期から武術の鍛錬を行なっても、相方には不自然なほどの負けを周囲が強要した。学問でも同じ。彼の周りで彼を越える点数を取る者はいなかった。全滅に近い答案であっても、その結果を見た瞬間、皆ひたすらに間違えた。

 忖度に忖度を重ねる環境で育った彼に、努力は不要という認識を払拭しろというほうがおかしい。文字通り、バカ息子の出来上がりだ。

 ハギーマは、生まれて初めて生命の危機を感じた。元々色事の際は、ハギーマは周囲に人を置くのを好まなかったため、皆フロアの外に追い出していたのも、ギラには好都合だった。

 ギラは、ハギーマを制圧し、二度と彼女に逆らわない事を約束させた。

 ギラの深く底のない黒瞳は、ハギーマにかつてない恐怖を与えた。無論、ギラは別の方法でも脅したに違いなかった。

 自分の暗殺を部下に命じた瞬間、とにかくハギーマを殺す、と。自分は結果的に死んでも必ずハギーマだけは殺す。自分の友人や家族に対しても手を出そうものなら殺す。例え化けて出ても殺す。そこまでの内容を告げたつもりだった。

 だが実際、ハギーマは完全にギラの黒瞳の虜になっていた。

 制圧されたハギーマは、ただただ首肯する。どちらが主かわからない程に。


 ハギーマを完全に掌握したギラは、ハギーマの……というより、領土の民より搾取し続けたサイディーラン・ハギーマの金を使い、彼女自身の財力を蓄え始めた。最初は、ハギーマの資産を最初に運用したが、その後には、借りたハギーマの金はハギーマに戻し、自身があげた利益を純粋に運用し始めた。

 その運用方法とは、金貸しだった。

 高利貸しをはじめたギラにとって、貯める事、増やすことを考えないサイディーラン達がもっぱらの客となった。刹那の快楽を求め、金を借りる。そして、その金を返すために、必死にかき集める。

 搾取をするだけのサイディーランと違い、ギラは安定して利益を生んでくれる客として、返せる額の利子率を設定する。最初は返済を無視しようとするサイディーランに対しては、軒並みその負債額を奪う。ありとあらゆる手段を使って。

 それを繰り返すうちに、サイディーラン達はギラに服従するようになった。金を貸してくれる人間がいなくなれば、彼等のプライドが維持できない状態に簡単に落ち込んでいくからだ。返せなければ、彼女は借りた人間の所有していた物を差し押さえ、売却することで金に換えた。何故か、ドレーノンであった筈の少女は、凄腕の金貸しとなっていた。

 彼女自身資産を所有するようになると、ギラはその資産を使い、先に示したドレーノンへの種と道具の貸し出しをはじめていく。自らも汗を掻くことで、ドレーノンからの不信感を払拭できた。作付均等法を文面では理解できないドレーノンにも、自ら体を動かし方法を伝授したからだ。

 こうして、ドレーノン達には『作付均等法』によって謳われた種と道具を、サイディーラン達には彼らの豪遊の為の金を、彼女がコントロールできる範囲で貸与することにより、ギラは徐々にドレーノ内で勢力を強めていく。

 今は、総督レベセスとの関係も良好だ。

 だが、いつかドレーノはラン=サイディールからも独立し、一つの国家として存続していかなければならない。いつかはドレーノをラン=サイディールと同等の国家に。サイディーランもドレーノンも、今はドレーノの人間だ。サイディーランとドレーノンが手を組み、世界に対して様々な物を発信していけるような、そんな未来を漠然と描いていた。

 対等な立場となる為の話し相手を、何とかレベセスとしたかったギラ。

 ラン=サイディールの他の者が交渉の窓口に立った場合、まずゼロから関係を構築していかなければならない。その点、今のレベセス総督が、今後の外交の窓口となってくれれば、話も通りやすいからだ。

 ギラは、たまに自分の行動に驚く。

 只の少女として過ごしていたほんの数か月前には、これほど大それた目標など持ちはしなかった。今も、その目標が余りに奇抜過ぎて、他の人間に語れる様な内容ではない。

 だが、稀代の名宰相と呼ばれるベニーバ=サイディールがほんの十年で遷都を完了させたように、本当に人々を思いやる純粋な思いがあれば、実現が出来るのではないか。ドレーノを再び世界の舞台へと押し上げる事が。

 少女は戸惑いながらも、その類まれな判断力と決定力とで、私財を貯め、力をつけていった。


 そんな少女、ギラ=ドリマがある時を境に突然畑に姿を見せなくなった。ドレーノンに対する技術の伝授がまだ途中なのに、だ。

 そして、もう一つの仕事である、サイディーランへの金貸しの仕事も、滞り始めた。

 期限を一日でも過ぎれば凄まじい勢いで取り立て、返済すれば突然悪魔の顔から天使の顔に戻る。また、金を貸すときも天使の笑顔だった。

 サイディーランは、彼女の笑顔見たさに金を借りた。そして、悪魔の顔から天使の顔へと戻るそのギャップを愉しむために、必死に返済する。最初は金策に走るが、そのうち金策がままならなくなり、徐々に軽微ではあるが労働を始める。

 それは、三百年のサイディーランの歴史から考えるとありえない状態だった。そして、それが大いなる覚悟のもとになされず、ただただ、ギラの笑顔を見ようという願いのためになされたのも、特徴的だと言えるだろう。そして、ギラは金策して返済された金よりも、労働をして得た金を喜んだ。

 それも、サイディーランの心を徐々に動かし始めていたのだろうか。

 だが。

 金を借りに行っても返しに行っても、ギラは不在にしていた。

 以前は不在にしていたとしても、翌日必ず金を借りたいサイディーランの家へと訪れていたにも拘わらず、だ。

 常人の働きぶりではない事は、ドレーノンもサイディーランも解っていた。何故そこまで必死に働くのか理解に苦しみながらも、人一倍頑張っている少女ギラ=ドリマをどこかでサイディーランもドレーノンも応援していたのかもしれない。

 突然に人々の前から姿を消したギラ。

 人々は、急性疾患に倒れたことを疑った。或いは、何者かに襲われたのか。いずれにせよ、何かのトラブルに襲われ、現場に出てこられなくなったのではないか。

 少女に脅され、褒められ、貶され、癒された者達が、皆少女の帰りを待った。

 そして、ある時を境に、少女ギラ=ドリマはある所で目撃されるようになった。

 それは、ハギーマの屋敷のテラスだった。

 ギラは夫ハギーマと共に、カクテルを飲んでいた。そして、たまに狂ったように大笑いをしていた。

 民衆は不思議に思った。

 なぜ、ギラがそんな行動を取っているのか。それは、動機は不順だが少しだけ金のために働こうとするサイディーランや、労働に明け暮れた同志の為に頑張ろうとするドレーノンが、完全に肩透かしを食らってしまった状態だった。


 数多くのドレーノンやサイディーランを無視した形で、突然己の快楽に走り始めた、少女ギラ=ドリマ。

 一体何があったのかは不明だといわれる。だが、ハギーマだけはその変化の様を目の当たりにしていた。

 いつもぐうたらで何一つ生産性のない夫に、何度かの生産性の向上についてのレクチャーを施している最中、稲妻が美しい少女ギラを直撃するのを。

 青天の霹靂とは、まさにこの状態を指すのだろうか。

 その稲妻は、雷鳴も雨雲も伴わず、突然に少女を直撃したことだった。

 悲鳴も轟音もない。

 ただ、少女は一瞬動きを止めた。

 そして、その状態から解放された直後の第一声は、夫ハギーマすら愕然とさせた。

「……嬰児を三人連れて来い。それと旨い酒、高揚感を倍増させる薬だ。おまえのツテを使って今すぐ集めろ」

 余りの内容に目を見張るハギーマ。だが、その表情を拒否ととったのだろうか。凄まじい威力の裏拳がハギーマの鼻下に炸裂する。ハギーマは生まれて初めて激しく殴られた。かつてギラに制圧された時ですら、殴られていないのに。そして、その威力は通常は格闘技経験者すら受けないような凄まじいものだった。

 テラスのフェンスまで弾き飛ばされたハギーマ。鼻血が止まらない。鼻骨がおそらく折れているだろう。脳漿を貫くあまりの衝撃に、直ぐに立ち上がることができない。だが、彼の受けた衝撃は、裏拳を受けた脳へのダメージだけではないだろう。

 南国の少女から魔界の女王へと変貌した少女は、事も無げに呟く。

「……遅い」

 その言葉を最後に、少女は突然テラスのフェンスの上に立ち上がった。そして、およそ人間の身体能力ではありえない程の跳躍を行ない、森の中へ消えていった。

 突然の出来事に声を発することは愚か、指先一つ動かせぬ脱力感がハギーマを襲う。同時に、股間がジワリと熱くなり、そして急激に冷たくなっていく。冷たく湿ったこの罪悪感を伴う心地の悪い感覚は、幼少期に感じたあの感覚と似ていた。

 彼は、侍女に知られぬよう、己の着替えを取りに立ち上がった。

 着替えが済んだハギーマは、執事を呼んだ。

「お……おい、うまい酒を準備しろ。それと、興奮する薬だ。あと、嬰児……」

 執事は、思わず目を見開いた。

「……い、今なんと?」

 流石に、貴族であるハギーマであっても、嬰児三体を準備など出来ない。それは執事も同じこと。基本的にどのような力を持っていても、嬰児三体を準備するなど、人外の言動だ。貴族の命令、王の命令であったとしても、土着の神への信仰心の強いドレーノが神に背くような行動をとる事は難しい。興奮する薬……すなわち麻薬や覚醒剤は、まあ、手に入れられない事はない。もっとも、購入金額は途轍もない額になるだろうが。

「いや、まずはうまい酒を頼む。ギラが喜ぶようなものを」

 暫く、目を白黒させる執事。今まで一度もギラは酒を飲んだことがなかったからだ。だが、主の命では仕方ない。

 執事は一礼するとその場を辞した。

 やがて、超人の如き身のこなしで熱帯雨林から戻ったギラの口元には赤い液体が滴っていた。

 教養の低いハギーマではあったが、少女の口元から零れているものが、血液であることは直ぐ分かった。何しろ、自分の鼻から止まる事のない鮮血が溢れているのだから。

 少女の出血ではなさそうだ。少女はあの瞬間に、何かを狩りに行き、食してきたという事なのか。

 ハギーマは恐怖に震えながら、もう一度股間を濡らした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ