ガガロの訪問1
人々の表情に笑みが戻ってきた。
それは、ロニーコ成立後、二百年超という永い時間が経ってからだ。
活気を取り戻しつつあるロニーコの主要街道界隈の喧騒は、赤道直下特有の無風状態を原因とする蒸し暑さが人々の身体を熱しているにも拘わらず、留まる事を知らなかった。
人々は皆似たような恰好をしている。
麻や木綿で作られた白いターバンを頭に巻き、裾と袖部分が若干太めのワンピース、ガラビアを男女共に身に纏っているが、これは暑さ対策に他ならない。この地方特有の白い砂の道は熱を帯びるが、その熱で足を火傷しないように皆ヤシの葉を編み上げて作ったサンダルを履いており、砂が入らないように少し爪先部が上向きになっている。
そんな人々の足元には影が伸びるが、それも正午には完全に足元に入り、その姿を消す。赤道直下のこの地方では、陽の光が途絶えていない時でさえ影が完全になくなる時間帯が存在する。だが、やがて現れた影も今度は日の光が遮られ、再び姿を消すことになる。この地方特有の、時計代わりのスコールが降るからだ。
十五分ほど激しく降り、大地をこれでもかとばかりにひっぱたいた雨は、砂を固まらせ、新たな街道の地盤となる。その地盤を荷車や行きかう人々の歩みが更に踏み固め、徐々に街道はしっかりとしたそれとなっていくのだ。そして、スコールが止むと人々は一日の仕事を終え、帰路の途につく。
太陽が首都南にある岩柵に隠れてしまうと、ロニーコは周囲より早い日没を迎える。そして、細い竹で激しく打ったような痛みを与えるスコールも、人々の商売の気概を削ぐからだ。
人々が仕事を終え、帰る先は自宅だ。その自宅もドレーノ国の首都ロニーコの一角に集められた住宅密集地であり、そこに白い三階建ての直方体の住居が何棟も並ぶ。人々はそこに帰っていく。
建物の形が直方体で屋根の形が三角形の形状をしていないのは、毎日決まった時刻に降るスコールを濾過し、貯める設備が各建物の屋上にあるからだ。同時に、建造物が白塗りなのも、建物の中の温度を一定に保つ事を目的としている。窓が小さく、窓を軽く塞ぐように布が掛かっているのも同じ理由だ。
この白い壁や屋根は、この地方で取れる三種類の土を混ぜ合わせ、湿らせた状態で何層にも塗り重ねる事で出来上がっている。一度陽の光を浴びて乾燥すると、密度の高いガラスコーティングを施した状態になり、水を弾くようになる。日光に晒されると、表面の温度は非常に高くなるが、その熱を中にまで伝えないその性質は建物の保温にはうってつけとなる。その性質を利用し、建物の壁に牛馬の糞を塗り、乾燥させて燃料を早く大量に作り出す事にも使える。また、その土を使う事で器を効率的に作ることが出来、後のドレーノの文化として、この三色土器は名を馳せる事になる。そして、この三色土器の完成により、ドレーノ文化は今後発展していくのだが、それはまた別の話だ。
このように、好奇心旺盛だった一部のドレーノンの偶然の発見が、住民の生活に密着した財産になった一つの例が、そのまま街並みになっている。
そんな集団住居か碁盤目状に並んでいるのを街道から見るのはある意味壮観だ。
そして、その集団住宅とは別の一角に、これまた同じ材質で出来ている一軒家が何軒か並ぶ。これが、サイディーランと呼ばれる貴族階級の住居だ。どこかの王宮と勘違いしたような豪奢なバルコニーや、権力の象徴として植えられたヤシの木を模した彫刻は、ほんの少し前までは畏怖の対象だったが、現在では維持費がかかるだけのお荷物の設備であり、嘲笑の具現物だった。文字通り、レベセスが総督として赴任して数年、彼等の権威は失墜し、貴族という呼称は有名無実の存在となっていた。
支配階級サイディーランは、総督レベセスの事を目の敵にしており、いつか失策を足掛かりにして失脚させようと目論んでいる。だが、彼等が送り込んだ実際の刺客は悉く排除され、未だにレベセスは采配を振るう。それがサイディーラン達には面白くない。
だが、レベセスの失政はそれほど多くない。マイナス要素として目立っているのは『比較イベント』だが、これも一部のドレーノンやサイディーランからは猛反発を受けたが、結果ドレーノンの地位を向上させたという実績は遺しており、ドレーノンそのものも、やり方は兎も角、生活水準を向上させたのはレベセスだという意識はあるため、レベセスの事を認めてはいた。
それ故、完全にレベセスを目の敵にしている輩も、実際にレベセスに手を出すことは憚られており、現状均衡がとれていると言ってよかった。
黒いマントに身を包んだ男は、純白の街並みを遠くに見ながら、大地に降り立った。
真夏の北海を思い起こさせる深い蒼の髪がフードの間から覗く。そしてその奥には赤く輝く双眸。
ガイガロスの戦士、ガガロだ。
ロニーコの町外れは、もはや砂漠だ。正面に見える街並みから目を外すと、見渡す限りの砂と岩山だ。とてもではないが人が住めるところではないように見える。岩砂漠だ。
そして、街並みの向こうには鬱蒼と茂るジャングルが。
冷静に考えると不思議な光景だ。砂漠とジャングルとが併存している。
「まずはレベセスを探すか」
男は一人呟くと、もう一度フードを目深に被りなおし、町に向かって歩みを進め始めた。
彼の緋の瞳は、恐怖の象徴だった。
伝説にある魔族の証。人の姿をしながら緋の目を持つ彼の姿は、伝説を知る者ならば恐怖に震えあがるだろう。その伝説もあまり聞こえなくなり、知る者も減ってきた筈だが、わざわざトラブルの種を見せる事もあるまい。
ガイガロス人の伝説は、世界各地に存在する。そのどれもが神懸った能力を物語っているものだった。海を干上がらせ、空を焦がし、大地を割った。その伝説のうちの幾つかは、後ほど検証すればどう見ても自然現象だとしか思えない代物なのだが、その自然現象もガイガロス人の仕業に違いないと、昔の人間は信じて疑わなかった。
その恐怖の伝説を甦らせるキーワードこそが、蒼い髪、青白い肌、そして緋の瞳、縦に割れた瞳孔だった。そして、人間と容姿が酷似しているとされるガイガロス人を見分ける為の方法が『目』だった。
『緋』は、情熱の色に喩えられるが、事ガイガロス人に関しては、マイナスの要素が非常に強い。吸血鬼の瞳の色。燃え盛る焔。傷口から滲み出す血とその直前の切り口。怒りと恐怖と暴力。同じ緋でありながら、何故ここまで負の要素が取り沙汰されるのか。
ガイガロス人の彼は幼少期から、人間達から隠れるように生活してきたが、彼自身その理由を直接見知っている訳ではないが、彼の両親や祖父母、一族の長から過去の話を一部聞き、知っている。そして、彼がかつて心酔した王からも。
現時点でいらぬトラブルを起こすことはない。彼はその正体を隠しつつ、ロニーコの地に足を踏み入れた。
遠巻きには街と砂漠との境界線などないように見えていたが、いざ街の入口まで来てみると、しっかりとした境界が存在した。
境界といっても、城塞のように他者の侵入を防ぐ為の代物ではなく、背丈のそれほど高くない木がびっしりと植えられていた。
ガガロの背には岩砂漠が広がる。永い時間をかけて砂と化した岩石の粉末が砂嵐と共に街に流入する事を防ぐ目的で植えられた防砂林。それがそのまま街の境界になっているのだ。だが思いの他それらの木の背が低いのは、まだ植林してから時間が経っていないということだ。それでも防砂林の足元に張り巡らされた白く背の低い壁の麓には、防砂林が文字通り防いだと思われる砂の盛り上がりが、壁と同じようにロニーコの街を取り囲んでいる。そして、その壁が一部アーチ状に造られており、そこが町への入り口となっていた。特に衛兵を置いている訳ではないが、敵の襲撃時はゲートを閉ざすのだろうか。
ゲートの向こうに広がる街並みは、活気に満ち溢れていた。
今まで世界の裏で生き続けてきたガガロからすると、この街の賑わいは場違い感を覚えざるを得ない。
ゲートを潜り、街道筋を歩くガガロの目の前を、忙しなく行き交う人々。
両肩に籠を掛けた少年は、一抱えはありそうな魚数尾を籠に入れ、器用にバランスを取って軽やかにかけぬけていく。果実を山積みにしたリアカーを路肩に止め、通り掛かりの人たちに陽気に声を掛けてどんどん売り込んでいく、前掛けをした恰幅の良い中年の男性。ジャングルで咲く美しい花を切り花にして、腕に掛けた籠に入れて売る少女。一抱えもあるような弦楽器を軽やかに奏でる青年と、その音に合わせ情熱的に踊る踊り子。手にした無数の球を自在に操る、年齢性別不詳の道化は、集まった見物客から大いに喝采を浴びている。
まるで祭りだとでも言わんばかりの盛況。
男は皆口髭を蓄え、女は黒曜石のような美しい眼差し。ドレーノの人々は、かくも魅惑的な人間ばかりなのか。
そんな人々を見ていると、ガガロは己が薄汚れた存在に見えて仕方なかった。だが、そうもいっていられない。
白い衣装に身を包む人々の間を縫うように黒マントの男は歩みを進める。
途中、花売りの少女は何人も見かけたが、彼女らは場違いなガガロを見ると、声を掛けないように気づかない振りをするか、距離を取り街道の反対側に移動していく。
今更驚くまでもない。ガガロは自嘲の笑みを浮かべた。ガイガロス人は魔族。人々はそう見ている。往来を行き交う人間がガガロをガイガロスと気づくことはないだろう。だが、彼の風体はやはりこの国の中では常軌を逸していたのだろう。
(ガイガロス人を毛嫌いする人間の存在する世界を守る意味などあるだろうか?)
その表情は鬼の様に険しい表情になっていたにちがいない。だが、ガガロはフードを目深に被る事で、自分の感情を周囲の人間に伝えまいとした。黒マントだから目立つのだというなら、白の民族衣装を購入して着替えさえすれば、この感情は無くなるとでもいうのか? 今その瞬間の好奇の目から逃れる事はできるだろうが、それは己の汚れを覚悟しての行動を否定することになる。
卑屈かもしれない。だが、そうすることでしか、過去の自分を受け入れる術がガガロにはなかった。歩みを進めれば進めるほど、何かどす黒い物が彼の中に蓄積されていくのがわかる。
彼が歩みを進めると、人垣は勝手に割れる。
そんな中、割れた人垣に取り残された少女がいた。どうにも鈍くさいとしか表現できぬ少女。その少女も、籠を腕にかけ、切り花を売っていた。
ガガロは、何となくその少女に声を掛ける。
「すまないが、この国の総督がどこにいるのか知っていれば教えてくれないか?」
何ともセンスのない質問だと自分でも思う。だが、ドレーノの地を知らぬガガロからすれば、この都市の名前がロニーコと命名されている事も解らない。ただ、彼はレベセスに会って聖剣を入手することだけを目的としていたからだ。彼からすれば、人の作った都市はまたいずれ消える。物理的になくなるのか、それとも別の国家や都市に上書きされるのか。それはその後の歴史に因るだろうが、人よりも長い時間を過ごす彼からすれば、同じ場所がいちいち名前が変わること自体が不思議な事だった。
少女は、眼前の恐ろしい男が突然何を言い出したのか、瞬間的に理解できずにいた。いや、言っている意味は理解できる。だが、何故それを言い出したのか意図がわからなかった。
ロニーコの住人であれば、総督府を知らぬ者はいない。最近活発になってきた観光客が総督府を知らない可能性はあるだろうが、少なくとも自分には尋ねないだろう。それを、なぜわざわざ花売りの自分に尋ねるのか。
少女はまじまじと眼前の背の高い男を見つめた。見れば見る程恐ろしい。容姿より、雰囲気がまず恐ろしい。表情の窺えぬ黒マントの男が、自分の目線より高い位置から言葉を掛けてくることそのものが、彼女にとっては恐怖だった。
だが、同時に哀愁を感じる。少女との共通点。それは、疎外感だった。彼も、様々な人間から疎まれてきたのだろうか。蔑まれてきたのだろうか。そこに、奇妙な親近感を覚えた少女。不思議なもので、そう感じた瞬間、眼前の男の恐ろしかった要素が全て可哀想なものに思えてきた。
「……この街が初めてなんですね。ご一緒します」
少女はそういうと、ガガロを先導して歩き始めた。
ガガロは突然の少女の行動に少し戸惑いを見せたが、少女についていく事にした。
少女がガガロを連れてきた場所は、他の白い建物群に比べ、僅かながら手入れがされている建物の前だった。サイディーランの住居の様に、通常の建造物に比べると大きめだが、サイディーランの住居と決定的に違うのは、手入れが行き届いている事だった。建造物そのものは壁で囲われることなく、全てが道に面していた。屋敷の正面玄関に面する道が一番広く、そこがロニーコの街道であることがうかがえる。その街道に面した玄関の観音開きの扉にはシルバーの獅子を模したノッカーが設置されている。
花売りの少女は、ここが総督府であることを告げると、足早に立ち去ろうとする。
だが、ガガロはその少女を呼び止めた。
「貴重な商売の時間を妨害してしまった。お詫びと言ってはなんだが、その花を買い取らせてくれないか?」
少女は目を白黒させる。所詮花売りの売る花だ。それでも、籠一杯に入っている花は何十輪にもなる。それを買い取ろうとすると結構な値段の筈だ。
だが、ガガロはマントの下から布袋を取り出す。そして、その布袋をそのまま少女に手渡した。
まだ、少女は今起きていることが現実のものとしては捕えられずにいた。無理もない。先程まで自分が恐れていた青白い肌の男が、突然自分の持っている花を買い取ると言ってきたのだ。
「それで足りるか?」
少女はガガロと手渡された布袋を見比べながら、狼狽していた。やがて布袋の口を開けて中を確認した少女は、余りの金額に目を白黒させる。
動揺する少女の持つ籠から一輪の花を抜き出したガガロは、少女の髪にスッと活けた。
少女の顔がみるみる赤くなっていく。少女はしどろもどろになる。
「か、からかわないでください……」
やっと吐き出す、拒絶に近い言葉。
だが、ガガロはそれをものともせず少女に告げた。
「この花たちは、私がすべて買い取ったのだ。その花をどうしようが関係なかろう。そして、この花は私の君に対する感謝の気持ちだ」
そういって、ガガロはニヤリと笑った。だが、うまく笑えたかどうかは、彼自身自信がない。
(俺にできるのはこれくらいだからな)
笑みが自嘲に変わらぬうちに笑みを消し去ったつもりのガガロ。だが、少女にはそうは見えなかったようだ。
「……剣士様。差し支えなければお名前を教えてください。こんな私に怒りも悲しみもなくお声をおかけ頂いた事が、一生の宝物になりますから」
「君は、いちいち花を買ってくれた客の名前を覚えておくのか?」
そこではたと口を噤む少女。確かに自分がお客である男に名を聞いたのは初めてだった。
「今度会う事があれば、教えよう。今はまだ君にとっては不要だと思える」
そう答えたシェラガは、そのまま少女を置いたままゆっくりと総督府の玄関に歩みを進め、観音開きに据え付けられた獅子型のノッカーを打ち付けた。




