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界遊記  作者: かえで
ラン=サイディール禍
41/252

鐘楼堂での戦い

 王族の居住地としてよりも、デイエンの力の象徴として築城が開始されて以後、鐘楼堂へと上がった人間は数少ないとされる。特に、城が完成し、象徴としての鐘が鐘楼堂に設置された際も、その全貌を知る人間は殆どいなかった。

 立ち入ることが出来るのは、ごく一部の王族のみ。

 歴代の近衛隊長が、鐘楼堂への立ち入りを許可されたという資料はないが、レーテ=アーグの父レベセス=アーグもこの場所には立ち入ったことはないというから、真の意味で貴族も立ち入りは許されなかったという事なのだろう。文字通り、ここに立ち入る事が出来たのは、サイディールの血族のみという事なのか。

 デイエンの住民たちは、遠く聞こえる荘厳かつ澄んだ音色を耳にし、まだ見ぬ美しい鐘の形状や色などを噂し合った。刻を告げる鐘の音と、特別なイベント等で鳴らされる鐘の音が異なるのもまた、住民たちの想像を掻き立てた。時報としての鐘の音は、遠くまで響くように重低音の音色であり、イベントなどの開始を告げるそれは、高音を基調とした和音で聞こえてくるのは、どのような機構になっているのか。望遠鏡で遠くから望んだ際に得られる情報は、鐘楼堂には一基の黄金の鐘がぶら下げられているだけだった。だが、一つの鐘がそんな複数の音色を奏でるなど考えにくい。そんな状況が、更に人々の妄想を呼んだ。

 その鐘楼堂に、今まさに数人のサイディール家ではない人間が立ち入っている。

 父ですら立ち入りを許されなかったかもしれぬ場所にいる、少女レーテ=アーグ。彼女を守る為に塔を駆け上った少年ファルガ=ノン。そして、最もこの場に似つかわしくない、古代帝国の貿易部門を前身に持つ組織、超商工団体SMGの頭領の孫、ヒータック=トオーリ。

 彼らは逃走の末、この地を踏むことになったが、先程までの命を懸けた戦闘を潜り抜けてきた為、必死だった。当然、周囲の景色や建造物の装飾など見ている暇など全くなかった。

 だが、鐘楼堂へ続く螺旋階段が壊されたことにより、追手の可能性が無くなった。それは同時に、鐘楼堂から脱出が出来なくなったことも意味するが、妙に三人の心は鎮まっていた。鎮まっていたというより、ついに手詰まりになったことを認識させられたと表現すべきだろうか。

 今更言葉など出ない。ただ、今ここにいることを五感の全てで感じることができた。

 彼らの目に映る、鮮やかな血潮にも似た朱色は、人の血であり人の生活を焼き尽くす紅蓮の炎。

 彼らの耳に届く、地鳴りのような轟音は、住人たちが作り上げてきた様々な物が燃え落ちる音。業火が巻き起こす暴風の音。それは地獄の炎で焼かれる人々の阿鼻叫喚。

 彼らの鼻を擽る、火の匂い。何かが燃える際の懐かしい浄化の匂いと、全てを失ってしまう不安も同時に煽る焦げ臭さは、過去に戻ることのできない、失われた『刻』。

 彼等の肌を引っ掻く熱風は、全てを無に帰す破壊と消滅の欠片。焼け爛れた城壁には、人々の苦しみの爪痕が残る。

 口の中に溜まる血の味。息苦しさに口から大きく息をしようとして、更なる血の焼ける臭いと肉の焦げる臭い肺に飛び込み、更なる息苦しさを呼ぶ。同時に場違いな空腹感を与えるが、その空腹感を認める事は、人として大事な物を失ってしまうのではないかという漠然とした思いからか、どうしても理性が許さない。

 かつて薔薇城を中心に、放射状に広がる街道と同心円状に広がる環状線で仕切られた街並みは、彼等の瞳に途轍もなく美しく映った。だが、それは生活の明かり……命の営みだった。

 今、彼等の目に映るデイエンの光は、人々が今まさにその光の中で焼け死に、他者を殺し、欲望のままに動き続ける感情の発露の結果なのだ。そこには無残に踏み躙られた無数の命がある。貴族だからではなく、平民だからではなく。人間として生きる以上誰しも必ず持つであろう闇の部分。その闇の部分が、一気に形を成し噴出した事案こそ、今眼前に広がる悲劇。『禍』と後世の学者が評したのはその側面があったからかもしれない。

 元々ファルガは、ここ数日に起きている異変を察知し、全てを見渡せる高所であるこの場所に、周囲の状況を見る為に訪れた。レーテは、城に行ったまま帰らぬファルガを迎えに来た。そういう意味では、二人は既にこの地にいる時点で目的を達している。それ故、その先どうするかという考えがあるわけではない。単純に鐘楼堂を訪れる事が彼らの最大の目的になっていたからだ。

 だが、彼等が鐘楼堂から見た城下町は、想像を絶する状態になっていた。彼らはそれを目の当たりにして、立ち尽くすだけ。そんな彼等二人に、デイエンに巣食う混乱を収束させる手段など持ち合わせているはずもない。


 鐘楼堂の広さは、階下の塔の床部に比べると大分手狭さを感じたものだが、それでも、建造物の内部としては十分に広かった。円形の床に、十六カ所の足を持つドーム状の屋根が掛けられ、その最も高い所から、黄金の釣鐘がぶら下がっていた。

 思っていたより鐘はずっと大きい。その鐘を床に置いたとしても、ファルガの身長の四倍から五倍はあるだろう。それが天井から吊るされ、ファルガの手の届かない所にぶら下がっている現状では、非常に圧迫感を感じる。

 そして、転落防止の為だろうか。少年たちの腰の高さ程度の柵が、ドームの足を結ぶように設置されていた。

 鐘についての知識など全くないファルガではあったが、その鐘に違和感を覚えた。鐘を叩いて音を出すのはわかる。だが、その為の叩く物が二つあるのだ。

 一つは、撞木と呼ばれる突き棒。そして、鐘の内側には金属製であろう『舌』がぶら下がっている。この二つの叩く物がそれぞれ違う音を奏でているのだろうという想像はついた。だが、それだけではない。

 ファルガはひたすら目を擦る。

「どうしたの?」

 ファルガの異変に気付き、ファルガの見ている方角と、ファルガとをしきりに見比べるレーテ。

「いや、あの金色の鐘の周りに無色透明な薄い膜が張っているように見えるんだけど、目が疲れているのかな……」

 そういわれてレーテも金の鐘を凝視する。すると、ほぼ透明で姿が見えないものの、金色の鐘の周りに、何かあるようにも見える。

「お前らも気づいたか。どうも、金色の鐘は真の鐘楼堂の鐘ではないらしい。その周りの半透明の何か。それこそが鐘楼堂の鐘の正体だ。限りなく純度の高いエネルギー体が鐘の形状をしているようだ。誰がこんなものを作ったのか、どうやって作ったのか、全く不明なのだが。これも、ラン=サイディールが独自に見つけた古代帝国の技術だという事なのか」

 そう言って、ヒータックは懐から出した投擲用の石つぶでを、黄金の鐘に投げつけた。黄金の鐘は、美しい音を立てるが、鐘楼堂の鐘の音とは似ても似つかない。この金属の塊の発する音が、魂を揺さぶられるようなあの荘厳な音になるとは到底思えなかった。

「それをこの突き棒で半透明の鐘ごと突くと、不思議と『あの』鐘の音になるのさ」

 突き棒からつり下げられたロープを力いっぱい引き、そのまま鐘を打ち付けるヒータック。早朝でありながら火の海と化しているデイエンの街並みが、一瞬その音に救われたように感じたのは、ファルガやレーテだけではあるまい。

 デイエンには、ファルガの知り合いは殆どいない。

 だが、レーテにしてみれば、ここは彼女の街だ。彼女はここで育ってきた。友達も知り合いも学校も住居もある。その町が燃えているのを目の当たりにするのは、少女には辛すぎる。だが、その辛さも、ほんの少しだけ鐘の音で和らいだ気がした。

 デイエンを遠くに臨む水平線から、ゆっくりと陽が昇ってくる。それまではわずかに空が赤く焦げていただけだったが、赤い命の星がその姿を見せたことで、その光以上に人々の心に何かが射し込んだのは事実だろう。少なくとも少年ファルガには、差し込む陽の光が、ここまで乱れてしまった事態の収拾を図ってくれる存在のように思えて仕方がなかった。

 ヒータックは、塔の下部に向かって何かを合図した。すると、ややあって、ゆっくりと浮遊してくる円盤がいる。塔の近くにいた数基の円盤は、どうやらヒータックの指揮下に入っているようにも見える。

「ヒータックさん!」

 円盤に乗る男が呼びかけた。

「やはりお前らだったか。バカが……! 俺一人で免状を取ってくるといっただろうが!」

 円盤・飛天龍の三機のローターの甲高い回転音にかき消されぬ様、叫ぶヒータック。その後に、その口元が五文字の言葉を紡いだが、その声は誰の耳にも届かなかった。

「キニゲ! 他のメンバーは皆退避したのか?」

「全員飛天龍に戻っています!」

「よし、キニゲ機以外は離脱。キニゲ機への搭乗の援護を。キニゲ機は鐘楼堂に機体を横付けしてくれ!」

 鐘楼堂から少し離れたところに浮遊していた一機の飛天龍は、ゆっくりとその円盤状の体を塔に近づけようとする。だが、ある一定以上近づけることができない。ヒータックが跳躍して飛び移れる程まで近づこうとすると、突然飛天龍の機体が大きく傾ぐのだ。建物のすぐ傍だと、上空を流れる気流が乱れ、飛天龍の取り扱いが格段に難しくなる。ましてや、薔薇城の四方はすべて火の海。異常な程の上昇気流が最も高いこの塔の周囲に渦巻いている。

「ヒータックさん、無理です! 塔に近づくと乱気流で墜落します!」

 思わず舌打ちするヒータック。やはり、キニゲではその操縦は無理か。やはり自分が飛び移って操縦桿を握るしかない。

「おい、お前らはどうするつもりだ? 俺たちはこのままこの地を去る。お前らはここに残るか、それとも一緒に来るか。選べ!」

 ヒータックは振り返ると、周囲の轟音に負けぬ大きな声でファルガとレーテに告げる。

 ヒータックの言葉は、レーテにとって衝撃だった。

 ファルガは元々デイエンの人間ではない。全く馴染みのない場所ではないが、この場所から去ることは元々の目的に反しない。だが、レーテはこの街で育っている。その街がこれほどの惨事になっている状態で、この街を捨てて去ることなど考えもしなかった。かといって、この街に残って何かができるかというと、それはまた別問題なのだが。

 レベセスの残した屋敷はどうなっているのか。主が不在の屋敷を守る侍女たちは無事なのか。小等学校の仲間は? 近所の住民たちは?

 そんな事を考え出すと、この地の惨状を目の当たりにしながら、それに対して何もせず去るかという問いに、即答など出来るはずもない。

 故郷。

 そんないい響きの物ではない。姉はこの都市で堕ちていった。いや、この都市だからこそ堕ちていったのかもしれない。実際には、レーテ自身はこの都市での生活が息苦しく、ハタナハでの生活で息抜きをしている状態だった。

 だが、紛れもなくこの地は彼女にとって、生活の一部だった。

 それを見捨てるのか? 切り捨てるのか? 齢十一歳の少女に、その判断を迫るのは酷だろう。

 レーテの背後で、ファルガが呻いた。

「レーテ、この場所に居てもどうにもならない。この塔から降りることはできないし、もし降りることができても、俺たちはもうこの街では犯罪者なんだよ……」

 そう言ってすぐに、ファルガは少女たちに背を向けた。

 なぜファルガが背を向けたのか、瞬間的にわからなかったレーテ。だが、少年の強い眼差しの先を追うと、そこには一人の男が立っていた。


 薔薇城の周囲に広がる灼熱の円環。その特殊な領域が巻き起こす突風は、特殊な塔の形状で大分緩和されている。それでも、この国土を焦土と化そうという灼熱の突風の力は、鐘楼堂の中を縦横無尽に駆け抜ける。全てを焼き尽くし、吹き飛ばすかのように。

 夏の北国の海の様な深い蒼の髪を持つ剣士。纏うマントは大きく風を孕み、異常に彼の姿を大きく見せる。彼から漏れ出る、強烈な気迫がそう見せるのか。

「その瞳、お前にもガイガロスの血が入っているのか?」

 俯いていた男が、少し顔を上げた。朝日の強い光線にも全く負けない緋の輝きを持つ双眸がファルガを射抜く。

「……ガイガロス人? 俺が?」

 ファルガは背から剣を抜くと、ガガロの前に構えた。

 ガイガロス人は魔族。そんな話を聞いた事がある。

 彼は、自身がガイガロス人だという話は聞いた事がなかったが、もしそうだとしてもこの現状は何も変わっていない。ガガロを退けるしか、自分たちの生き抜く術はないのだ。この国の首都を捨てて、この場から離脱する前に。

 そのファルガの闘争心に、思わずガガロの口元が緩む。

 ガイガロスとの呼称に、驚いたり嫌悪感を示したりといったマイナスの反応をまるで示さぬ少年ファルガ。

 その反応は、今、人間と呼ばれる者達にすれば、異常なものなのかもしれない。だが、ガイガロスであろうとまた違う存在であろうと、彼にとっては恐怖や侮蔑、差別の対象にはならない。少年の父がかつてそうだったように、この少年も、自身を受け入れてくれるかも知れぬ。そんな淡い希望を一瞬でも持たせてくれるこの少年を、憎むことは難しい。

 だが。

 今は、聖剣を手に入れるのが最優先だ。

 主フィアマーグはこの少年に聖剣を預けろといった。だが、少女には何も指示が出ていない。この少女がレベセスの娘なら、かつてレベセスが所持していた聖剣『光龍剣』の所在を知っているかもしれぬ。

 少なくとも、この城の宝物庫という宝物庫は全て探した。結果、この城の中には聖剣同士の共鳴も無ければ、聖剣を持つ剣士もいない。となれば、この城ではないどこかに隠しているということだ。

 聞き出すしかない。例え、旧友の娘であったとしても。どんな手を使っても。

 自分たちには、時間がないのだ。

「レーテ、といったな。お前の父には世話になった。だが、だからといって見逃すことはできない。お前がここから無事に去るには、俺にお前の父が持っていた聖剣の隠し場所を告げなければならない」

 そういうと、ゆっくりと歩みを進めるガガロ。彼の身体を縁取るように青白い光が包み込み、やがて湯気のように立ち上がり始めた。

 ファルガは聖剣を構え直す。だが、それでも恐怖は拭えない。

 先程、彼の全力の斬撃を全く意に介さなかった戦士ガガロが、自分だけでなく後ろに控えるレーテを狙い、明らかに殺しに来ている。

 だが、逃げる訳にもいかない。そもそも、この状況下で逃げようとするなら、塔から飛び降りるしかない。幾ら聖剣の力を発動させたファルガでも、この高所から墜落すれば死は免れないだろう。

 やるしかないのか。

 ファルガは恐怖を振り払うように、腹から雄叫びを上げた。

 生まれて初めて人に剣を向けた、ジョーとの戦いとは全く違う心理状態。怒りなどとうに消し飛んだ。

 それでも、戦わねばならない。恐怖に負けそうになる自分を、どうやっても勝てぬ戦いに身を投じなければならない自分を、鼓舞するにはそうするしかなかった。

 聖剣が、ファルガの両手から力を吸い取り始めた。

 一瞬手の力が抜ける感覚を覚えるファルガ。だが、その柄の握りが緩まる前に、吸い取られた力が何倍にもなって逆流してきた。背後でレーテが息を飲むのがわかる。それは、恐ろしいほどの迫力で歩み寄るガガロに対する恐怖からなのか、それとも自身に迸る力に対する驚きなのか。

 ファルガの身体を光の膜が包んだ。

 ガガロの口角が一瞬上がる。その瞬間をファルガは攻撃開始の合図とした。

 剣と剣が激しくぶつかる。ただそれだけの筈なのに、二人の男が剣を振るった瞬間、外から吹き荒ぶ風が止み、鐘楼堂の中心から爆風が弾けた。

 だが、斬撃の威力の差は火を見るより明らかだった。

 歩みを止めぬガガロに対し、ファルガはといえば、ガガロの前進を全く止めることが出来ず、床に弾き飛ばされた。同じように剣を打ち合っただけなのに、だ。

 空中で体勢を立て直し、床を蹴ると横薙ぎの斬撃をガガロの胴に叩き込もうとするファルガ。だが、それは躱され、宙を泳ぐ格好になったファルガの鳩尾にガガロの膝蹴りが食い込む。そして、その上から今度はガガロの持つ剣の柄の一撃が襲う。激しく腹と背を打ったファルガは床に落ちるが、一瞬の停止の後、横に回転しながらガガロとの距離を取る。

「もうやめて! 私は剣の事なんて知らない! そもそも聖剣の所有者がお父さんなんて聞いた事もないの!」

 絶叫にも似たレーテの言葉は、ファルガの耳にもガガロの耳にも全く届いていないようだ。

 ゆっくり歩みを進めるガガロに攻撃を仕掛けては弾き返され、地に落ち、中空に釣り下げられた鐘に叩き付けられる。だが、その都度立ち上がり、剣を構えるファルガ。

「ならば、お前の父に聞くまでだ。この城にないなら、お前の父が持っているとしか考えられんからな」

 何度となく床に転がったファルガが、また何度となくゆっくりと立ち上がる。口元からは鮮血が滴る。意識が朦朧としているのか、一瞬ふらついた少年は、自分に喝を入れるように空に向かって咆哮した。そして、再度ガガロに強い視線を向けた。

「な、なんだよ……。あるかないかわからない物の為に、デイエンをこんなにしたのかよ……」

 口元の鮮血を拭いながら、ファルガは呻いた。

 どんなに激しく攻撃を仕掛けても全く止まる事のなかった蒼い髪の戦士の歩みが、極限状態で零した少年の呻きで止まった。

 塔の内部での戦闘から現在に至るまで、ガガロはファルガに対して、殺意のある攻撃を一度も仕掛けてはいない。もし、ガガロに殺意があれば、既にファルガは亡き者にされているだろう。殺さなければよいだけで、負けてやる必要もなければ、互角に戦ってやる必要も微塵もないのだ。

 その手加減をしていたガガロが、初めて見せた苛立ち。

 フィアマーグに殺すなと言われた少年。かつて超える事の出来なかった旧友の息子。いわば、彼が全てにおいて大目に見てやっている未熟な少年。

 その少年が、勘違いからガガロに対して呟いた言葉。それは酷くガガロの心を抉った。

 デイエンで発生した、後世に『ラン=サイディール禍』として語り継がれる未曽有の大混乱。デイエンで生活をする全ての住人達が、きっかけはともあれ己の鬱積されたありとあらゆる欲望を破壊衝動と共に、さながら首都を焼き尽くす業火に準えて発散させた悲劇。出来事としては一つだが、その最中に起きた様々な悲劇の数は、数百とも数千とも言われる。

 実際にこの場にいるガガロですら、取り巻く状況の異常さには動揺を隠せない。だが、それでもデイエンの事態の収拾よりは、己が主と定めたフィアマーグの意志を尊重しなければならない。事態を収拾できない自身の力不足を嘆きながらも、今なすべきことを優先させていた。

 そのガガロの行動が、結果的に少年の目にはこの大混乱を巻き起こした張本人のそれであるように映ったのだろう。

 この事件は、自分が原因ではない!

 その真実を、声を大にして言いたかったガガロ。ファルガだからこそ、かつて超えられなかった憧れの男の息子だからこそ、どうしても伝えたかった。

 だが、それすらも今のガガロにとっては優先順位の低い事。なすべきことは別の事。

 深呼吸をするガガロ。一度双眸を閉じ、再び見開いた時には、僅かにあった己の純粋な意思を掻き消し、滅私の表情に戻った。

 聖剣がこの地にないのであれば、長居は無用。レベセスの所在はわかっている。ラン=サイディール国の属国であるドレーノだ。彼はドレーノ国の総督として赴任しているはずからだ。そこに行けば彼がいる。

 蒼い髪の戦士は、フードを目深に被る。右手に軽く構えていた剣を降ろし、鞘にしまおうとする。

 その瞬間と、ファルガの攻撃のタイミングが重なった。

(一度くらい、剣を落とされる敗北を味わってみるのもまた一興か)

 少年が攻撃に転じる瞬間に気付いたガガロは、降ろした剣を再び持ち上げ、今度は『勇者の剣』がファルガの手元に残らぬ程度の力で弾こうとした。

 光に包まれた刃が、ガガロの胴を狙う。

 ガガロはその場で立ち止まったまま、剣だけをコントロールし、斬撃を受け止め、そのまま剣を絡めとるつもりだった。『勇者の剣』を床にころがし、今のファルガとガガロとの力の差を明確にした上で、命だけは助けてやっている、という状況を作ろうとしていた。

 本当は言葉で彼の呟きを否定したかった。彼の父の事も話したかった。だが、それをしている時間はない。むしろ、自身の事を彼に知られない方が色々都合がよいのもわかっていた。

 実戦で稽古をつける事が、せめてもの彼にできる事。そう割り切って攻撃を仕掛けた。この地に目的の剣がない事がわかってからも。

 だが、ここにきて、ファルガの身体を包む光の強さが徐々に強まっていることを、またしてもガガロは見落としていた。

 強くなったファルガの身体を包む光の輝きは、そのままゆっくりと光の湯気を纏い始めたのだ。


 先程まで全く追いつけなかったガガロが、急に動きの速度を落とした。

 ファルガにはそう感じられた。

(この期に及んで何をするつもりだ? わざわざ隙を作って……)

 だが、ガガロの表情は、明らかに驚愕に満ちていた。ファルガに対して手を抜いた結果ではなさそうだ。

 無理もない。

 先程まで欠伸が出る程の速度しかなかった斬撃が、彼を捕えようとするその瞬間、突然加速したのだから。

「何っ!?」

 思わず斬撃を受けに回った死神の剣は澄んだ音を立てて弾き飛ばされ、上空で鋭く回転した後、ガガロの背後の床にその刃を突き立てた。剣を弾かれたその瞬間、ガガロは背後に飛び、ファルガの斬撃は空を切る。

 ファルガはそのままバランスを崩し、床に転がった。斬撃の突然の加速に、体がついていかなかったのだ。だが、まだ戦闘は終わっていないのだからと、すぐに剣を持ち、立ち上がる。

 ガガロは、飛ばされた己の剣と、微かに痺れの残る右の掌、そして、たった一回とはいえ自分から剣を奪った少年を見た。

 ややあって、蒼い髪の戦士は剣を鞘に納めると、身を翻し塔から飛び降りた。

 三人は驚愕した。

 ただの一撃で一瞬ファルガが優位になったかもしれないが、それだけで逃走を試みるとは。あるいは、これから訪れるかも知れない劣勢を予期して自害したというのか。

 だが、よく考えてみれば、あの男は空中浮遊が出来る。塔から飛び降りても死にはしないだろう。

 蒼い髪の剣士が現れてから、ほんの僅かな時間しか経っていない筈だったが、疲労困憊だったファルガは、そのまま剣を取り落とし、一瞬気を失った。


 倒れ込もうとするファルガを抱きかかえたのは、先程までファルガの背後にいたレーテだった。

「大丈夫? あいつはこの場から立ち去ったわ」

 ファルガは朦朧とする意識の中、半眼でレーテを見たが、レーテの言葉を理解したのか、一度深く頷いた。そして、一回目をきつく閉じると、自らの力で立ち上がった。そして、一度取り落とした剣を拾い、背に戻した。

 ファルガは何となく気づいていた。

 ファルガがバランスを崩したのは、瞬間的に突然聖剣の使用レベルが上がったのだということに。だが、それは一瞬の出来事で、レベルが元に戻った時、使用レベルが上がったスピードで剣が振り抜かれていたため、バランスを崩したのだということに。

 今回、聖剣の発動レベルが上がったのだと体感できた自分。現在の第一段階のその先が見えたファルガは、その状態を自分のものにするため、鍛錬をしようと心を決めたのだった。

 レーテに示された、ガガロが去った方向。そちらから視線を離せずに立ち尽くすファルガ。

 彼にはガガロの心中を慮ることはできても、真相にたどり着くことはできない。ただ一つだけ言えることは、次に相まみえるときには、負けない力を身につけておくこと。それこそが、自身を守り、仲間を守ることになる。

「行こう、レーテ。ここにいても何も変わらない」

 その時、背後に大量の男たちが立った。

 塔の螺旋階段は破壊されたが、兵士たちの何人かがロープを使い、残った階段部と鐘楼堂を結び、追跡する兵士たちが通れる縄梯子を拵え、塔の外から鐘楼堂に登ってきたのだ。そして、破壊された螺旋階段の代わりになる縄梯子を設置し、鐘楼堂に到達した。

「ファルガ! レーテを早く飛天龍に乗せろ!」

 ファルガはレーテの手を取ると、飛天龍の傍まで走り寄る。ヒータックはいつの間にか飛天龍に乗り移り、操縦桿を握っていた。先程まで操縦桿を握っていたキニゲと呼ばれた男が、飛天龍の側面にある取手を右腕で掴み、左手を目いっぱい伸ばしてきた。

 吹き荒ぶ熱風に後ろ手に縛った髪を弄ばれながらも、必死に髪をまとめ、少女は男に手を伸ばす。

 レーテが移乗した瞬間、兵士たちが斬りかかってきた。

 ファルガは聖剣を再び抜くと、何人かの剣を素早く捌く。先程までのガガロの斬撃に比べれば、疲労困憊のファルガであっても只の兵士の剣は遅かった。

 何人かの兵士は、ファルガを無視し、レーテに斬りかかったが、機転を利かせたヒータックが飛天龍を塔から離したため、その兵士たちはそのまま手すりでバランスを崩し、塔の下へと落下していった。

 兵士たちの剣を躱しながら、撞木の綱を掴んで、兵士たち相手に一騎当千の立ち回りを演じるファルガ。彼は意図的に鐘を鳴らした。荘厳な音が周囲を包む。兵士たちはあまりの音の大きさに耳を塞ぎながらも、一瞬心を奪われた。

 ファルガはその隙を縫って、鐘楼堂の淵に駆け寄る。

 飛天龍は、兵士の急襲を回避するために、少し離れたところで滞留している。

「ファルガ、跳べるか!?」

 少年は、剣を背に収めると、聖剣の第一段階を発動させる。ガガロとの戦闘のわずかな時間で、剣を背に収めた状態でも聖剣の力を引き出すコツを覚えたらしかった。

 そのまま、少年は仲間の待つ円盤へと飛び移った。

 だが、その瞬間に突風が襲い、飛天龍は風に煽られ、円盤の距離が思いのほか遠ざかった。

 墜ちる!

 誰しもが息を呑み、そう思った。

 だが、次の瞬間、少年の体を縁取る輝きが増し、体から光の糸が無数に立ち上った瞬間、少年の跳躍は軌道を変えた。バックスピンを与えられたボールのように、ファルガの軌道は延びた。そして少年は、少女と仲間の待つ円盤に無事到達した。

次の次で、ラン=サイディール禍の章は終了の予定です。

結局、国家の混乱に対して何もできなかった少年と少女。

禍に対して全く影響を与えている訳ではないのでしょうが、超人的な力を手に入れた筈の少年と、それを目の当たりにした少女とが、己の身を護る事しかできなかったこと。

一応、大分後に、彼等はデイエンに戻ってくる予定です。

その時、彼等は一体何ができるようになっているのか。

ざっくりとしたイメージしかありませんが、それを考えながら、また次の話を考えていこうと思っています。

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