ラン=サイディール禍2
ラン=サイディールに屹立する巨大な建造物、デイエン城。通称薔薇城。
十年前に実施に移された遷都の象徴とも言うべき、当時の技術の粋を結集させて建造された城だ。
城の大部分を占める建材はレンガだが、このレンガもただ土を焼いたものではなく、石造りの城よりも巨大な物が作れるように特殊な薬剤を配合して作られたもので、強度は通常の石造りより数段増しているとされる。それでいて軽いため、何重に積み上げても下部に積まれた石に掛かる負担はそれほどなく、土台が非常に割れにくい。また、内装についてもベニーバの力の象徴として、ガラス細工や金細工など当時最高の技術でふんだんに用いられた。薔薇城に数本聳える塔に設置された鐘は、属国ドレーノから取れた純度の高い鉄鉱石を加工して作られたもので、柔らかい音が近隣の都市にまで鳴り響くとさえ言われた代物だ。
だが、この建造物は、攻められることを前提に造られていない、言わば魅せる為の城だった。優雅さを優先させた為、兵の配置などの指揮は大変に執りづらく、また、城内で戦闘が勃発した際の、国の要人が避難する通路や隠し部屋なども造られていない。だが、建造物としては当時の建造物としては規格外の巨大さであり、それ故、常に外界との空気循環は必要とされた。それもあって、薔薇城は、人の活動エリアとはまた別に、しっかりとした建造物内換気システムが設営されていた。
薔薇城の換気システムは自然現象の力を用いている。
例えば、塔を除く城の最上部では夏の雷雨の水を受け、その水が城内を流れ落ちる際に動力を発生させ、地下水を組み上げている。海に近い場所で組み上げた地下水は、多量の塩分を含んでおり、濾過に時間が掛かる事もあって、飲料水としては真に緊急時にしか用いられることはない。どちらかというと、その地下水は、城その物の動力として用いられる。また、塔に設置された無数のプロペラが常時吹く海風により回転、同じく地下水を組み上げる動力として機能している。水の純粋な重さを位置エネルギーとして使用しているということだ。
正規の入り口でない所から薔薇城に忍び込んだレーテだが、ちょうどその換気システム内に侵入した形になる。当然、その通路が換気システムのいわゆる空気の通り道であることを当のレーテは知るはずもない。ただ、恒常的に通路全体に響き渡るボーッという不気味な音が、この空間に対して得体の知れない不気味さを感じざるを得なかった。
明かりの全く届かぬ、何かの唸り声のような不愉快な音が鳴り止まぬ空間。手探りで周囲の様子を確認するレーテ。立ち上がることは難しく、四つん這いでの移動を余儀なくされた。暫くゆっくり移動すると、微かに明かりが漏れてくる場所がある。そこから外の様子を伺うと、何人もの兵士が忙しそうに走り回っているようだ。
必死の叫び声。他の兵士に対する怒号などが飛び交う。あまり品の良い環境ではなさそうだ。
暗闇の中で感じる孤独と、壁を隔てて感じる微かな狂気。通路内に入った少女は一瞬身震いをする。
だが、その感覚は、少女の幼少期の気持ちを徐々に思い出させ始めていた。好奇心旺盛で、危険を顧みずに純粋に小さな冒険を楽しんでいた頃の気持ち。
少女の父であるレベセスは、自身が兵部省長官であり、近衛隊長でもあったため、自身が武に偏りすぎていることを痛感していた。それ故、長女カナールには女性としての嗜みを授けることに躍起になった。無論、彼にその教養があるはずもなく、彼自身は家庭教師を雇う事で、十分な教養を与えたと思っていた。
だが、カナールの母でありレベセスの妻であった女性は、次女レーテを産んだ後突然体調を崩し、この世を去った。結果、カナールは母の愛を十分に受けることができず、知識としての女性の嗜みは身につけたにも拘らず、その真の意味を知らぬままだった。
そして、思春期の夏のある日、止める妹の手を振り払い、カナールは出て行った。
今、レーテの姉カナールがどこで生活しているかを知る人間はおらず、レベセスも彼女の生死の情報は持っていない。ただ漠然と、まだ生きているだろうかと思う反面、それを知る術は彼らにない。
その反省からレーテの幼少期の養育に関して、レベセスが全て付き添った。母を知らぬレーテではあったが、侍女やその家庭教師から立ち振る舞いを授かった。というより、姉が施されている作法などを見て覚えたという感じだ。だが、父レベセスは、自分が出来る事を全てレーテに示した。獲物の狩り方から剣術、格闘術、勉学に至るまで。結果、レーテは男の子のように育った。
女性としてスカートを履くようになったのも実はつい最近だ。今は亡き乳母ツテーダ=ルサーに、そろそろスカートを履くように諭されて、やっと履いたとされる。それまでは、男の子が履くようなスパッツを身に付け、山を駆け回り、谷を上り、川で泳ぎ、魚を釣ってはそれを捌いて食べた。
そんなレーテを見て、レベセスは嬉しく思う半面、彼女が少年であれば、とどれ程思った事だろう。だが、それが彼の口から語られることは生涯なかったとされる。レベセスは彼なりにレーテの人権を守ろうとしたのだろう。
換気システム内の不気味な音は、彼女の肝を冷やしたが、一瞬きつく閉じられた瞼が開かれた時には、かつての聖勇者レベセス=アーグすら唖然とさせた、暴れん坊少女レーテの面持ちになっていた。
心の奥底では怖いと感じているのだが、その恐怖感で足が竦むというよりは、胸が高鳴る。一時は収まっていた感情に戸惑いながらも、光のないこの通路をゆっくりと進み始める。迫りくる危機を打破することを快楽として覚えてしまった、武系一族の悲しき差がかも知れない。
ゴーッという音に交じって、破裂音がする。その合間に、怒号や悲鳴が聞こえる事もある。明らかに、城内は異常事態に陥っている。
今まずやるべきことは、城内の現状把握。そのためにはソヴァかマーシアンに会い、現在薔薇城内で一体何が起きているのかを聞かなければならない。その上で、ファルガを解放して貰いたい。
少なくとも、彼は単に聖剣を持っているというだけで、ラン=サイディールとSMGとの間の争いごとについて、彼が関わる必要はない。
彼は、ジョーという存在を追いかけてきたという。だが、レーテを守る為、彼は三人の黒マントと戦い、その後デイエンまで彼女を送り届けてくれた。その為に相当時間を浪費している。
正直、自分と同世代の少年が、ほかの特定の人間に対して激しい殺意を覚える状況というのは中々理解しがたい。レーテ自身も、黒マントの男達に愛するツテーダ夫妻を殺害されている。許せるかといえば許せない。だが、それでも黒マントを討つという選択は中々持ち得なかった。眼前にその者が現れて、ツテーダ夫妻を嘲笑えばまた話は違うかもしれないのだろうが。
それ故、その存在を探す旅に協力すべきかどうかの判断は難しい。仇討といえば聞こえはいいが、殺人幇助だ。だが、その旅を説得して止めさせるのと、城でただ悪戯に時間を費やすのとは別問題だ。
そして、後見人であるソヴァすら城から戻ってこないとなれば、何かトラブルに巻き込まれたと考えて間違いない。
実際には、ファルガはレーテに何も告げぬまま、ジョーを追跡する旅に戻ったという可能性もなくはない。むしろ、そこまでレーテと関わらず、ファルガが単身旅に出る可能性は多分にある。だが、不思議とレーテはそう考えなかった。恐らく、あの剣が理由で、拘束されているに違いない。その確信があった。
そして、実際に城を訪れてわかった非常事態。ファルガが本人の意図せぬところで足止めをされ、その足止めをしている当人すら先の見通しの立たない状態に陥っているのだということがひしひしと感じられた。
目が慣れてきた。完全な闇というわけでもないらしい。少女は、助けを求めているだろう少年を目指し、動き始めた。
少女レーテが動き始めた頃、彼女が探している人間の片割れであり、ラン=サイディール国軍近衛隊副隊長でもあるソヴァ=メナクォは、本来近衛隊の仕事であるはずの、城を脅かす存在を排除する業務には従事していなかった。
彼もまた『勅命』を受けた者の一人だった。
本当は気乗りなどしない。
自身が素質を見出し、たった一週間という短い期間であったが、彼の持てる技術を全て伝えた少年。使いこなせるようになったかはわからない。また、どの状況で使っていいかの判断はまだ難しいだろう。だが少なくとも、少年は剣士になった。その剣士を、これから育てたいと彼は感じていた。どのように育っていくのか見守っていきたいとも思っていた。
その少年を、上からの指示とはいえ監禁せざるを得なかったこと。
確かに、彼は法を犯した。
謁見の間で抜剣することは禁忌だ。
謁見の間で抜剣を許されるのは、ごく一部の近衛兵のみ。しかも、殺傷ではなく制圧の為だけに剣の使用が許される。討伐の為の抜剣は許されていない。
この少年のとった行動は、決して間違いではない。
天井裏に隠れた曲者を、その恐るべき洞察力で看破し、急襲してきた侵入者の初撃を防いだ。確かに、近衛隊としての身のこなしという意味では落第点だ。何度も侵入者の攻撃線上に守護すべき対象を置いてしまい、近衛の仕事を満たしていないという事になる。
だが、そもそもこの少年は近衛隊ではない。一介の戦士というにもまだ稚拙だが、彼なりにソヴァと、同じ空間にいたベニーバ=サイディール、リャニップ=サイディールを守る為に剣を抜いた。そして、逃走を図った侵入者の行動を先読みし、逃走を阻止、捕縛に一役買う事になる。これも、討伐ではなく制圧だといえるだろう。
だが、その行動がベニーバにとっていい口実を与えてしまう。そして、それがソヴァの今回の勅命行動のきっかけにもなっている。
ベニーバは、ファルガの持つ聖剣を自らの掌中に収めたいと思っているに違いなかった。例え、自分が使用者足りえずとも、他者の手に置く事をせず、自分の手元に置く事が出来れば、途端にベニーバにとっての聖剣の脅威は収まるだろう。
欲望の肉塊、稀代の為政者ベニーバ=サイディールにとっては、今この瞬間に、聖剣を二本手に入れる皮算用が成り立った。
ファルガの持つ聖剣『勇者の剣』は、ファルガの手元から離され、ベニーバの手に落ちた。そして、この城にあるとされるもう一本の聖剣『光龍の剣』をエサに寄ってきた黒マントの男の持つ『死神の剣』も掌中に収めることが出来れば、一気に三本聖剣が揃う。
あと何本の聖剣があるか、このベニーバには知る由もないが、少なくとも手元に三本あれば、聖剣を通じて入手できるとされる巨大な力を、他の者が手に入れる可能性をなくすことができるのは間違いない。
そして、青い髪の男が言っていた内容が事実ならば、聖剣は残り一本。彼の求める、世界を脅かす圧倒的な力を、あと剣一本で手に入れることができる。
俄かに現実味を帯び始めた四本の聖剣の入手。
伝説に手が届こうとしている。名君の仮面を被った謀君ベニーバがその好機を逃す筈もない。
そんな、ベニーバのどす黒い部分を垣間見たからこそ、彼の命じる『黒いマントの男の処分』を行うことに、ひどく抵抗を覚えるのだった。
だが、彼は近衛隊副隊長。近衛隊長のレベセスがいないこの現場において、最高責任者は彼になる。
そして、近衛隊の存在意義は、為政者を守ること。例え、その考えが悪であるとわかっていたとしても。王を、為政者を守らねばならない。
四人の『勅命』を実行に移すための戦士たちとともに行動するソヴァ。
今回の標的は、青い髪の青年を殺し、剣を奪う事。
やむを得ぬ殺害。
そう割り切っているはずだった。そして、彼の配下の戦士たちもそう思っているはずだった。国家の栄華こそ近衛の喜び。その為なら死をも厭わない。だが、近衛の人間ですら、ベニーバ=王=国家の構図を素直に喜べない。それが真相だ。
幾つか並ぶドアの向こう側に人の気配がする。間違いなく、蒼い髪の男の滞在している部屋だ。だが、少なくとも扉の傍やベッドの中にいる様子はない。窓側の方に立ち、何かの様子を伺っているようだ。流石といえば流石だ。だが、まさかこの混乱で己が命を狙われているとは思ってもいないはず。
……そのはずだった。だが、そう断言できない何かが、あの男から感じられる。
深夜帯に突然発生した異変。その異変に紛れたもう一つの異変に気づいているのか。はたまた気づいていないのか。
男たちは、ゆっくりと抜刀する。
男たちの持つ剣が、冷たい輝きを放った。
次の瞬間、施錠されているドアの鍵が音もなく外され、数人の男たちがなだれ込んだ。
いない。
確かに気配があった。ベッドに横になっている気配ではなく、窓辺から外の様子を伺っているだろう気配。その気配は、扉の外から急襲する近衛隊の隠した殺意に気づいた様子はなかった。
先陣を切って部屋に飛び込んだソヴァは、その掲げた刃の振り下ろし先を見つけられず、一瞬躊躇した。
窓の外が一瞬、昼間のごとくに輝く。同時に響く轟音。そして、その音にもかき消されぬ程の人間の悲鳴。悲鳴は二回だった。そして、悲鳴だけは背後から彼の耳に飛び込む。
剣を構えて振り返るソヴァ。二名の倒れた近衛兵の後ろに、蒼い髪の戦士が立っていた。剣は抜き放っているが、廊下からの明かりが部屋全体を照らすことはなく、前髪の影になるその男の表情は伺い知れない。
ソヴァと残り二名の近衛兵が改めて剣を構える。
蒼い髪の戦士、ガガロはゆっくりと口を開く。その口調には殺気は全く感じられない。だが、眼前の二名の同志は、間違いなくこの男に倒されたのだ。屈強な近衛兵二人を一瞬にして斬殺しながら、全く感情を出すことのないこの男に、ソヴァは今まで感じたことのない恐怖を持ち始めていた。
「貴国の戦士は、客人に刃を向けるのか? ましてや、対話を求めてきた者に対して」
ガガロはゆっくりと双眸を開く。真紅の瞳が、再び起きる窓外からの閃光に照らされ、怪しく輝いた。
ソヴァの前に立つ二人の近衛兵の反応は真逆だった。一人はガガロの恐ろしさに逃亡を図り、もう一人は怪しいガガロに斬りかかった。ただ策もなく反射的に。
蒼い髪が一瞬乱れ、手にする剣が瞬く。
その剣の動きは、斬りかかってきた剣を弾き飛ばし、その動きのまま逃亡を試みた近衛兵を切り下げた。背から血を噴き出し崩れ落ちる近衛兵。その切り口は何重かに編み上げ、斬撃も受け止めそうな近衛兵用鎖帷子をも鋭利に切り裂いていた。
そのままガガロは踊るように一歩深く踏み出し、斬りかかってきた近衛兵の喉笛を切り裂き、ソヴァに迫る。ガガロの斬り裂いた部分は首。人間の後頸部の皮一枚残して切断した。切断面からは血が噴き出し、起きた体からは想像できない程に首が後ろに落ち込んでいった。そして、それに遅れて直立していた体もゆっくりと後ろに倒れていく。
斬撃の余りの速さに息を飲むソヴァ。もはや人間業ではない。
「レベセスの教えを受けている者にしては脆弱な」
ガガロの言葉が終わるか否かのうち、ソヴァの視界に禍々しい黒い刀身が煌く。不思議と痛みはなかった。ただ、心地よい気だるさが彼を包み、彼は倒れる。感じたのは一瞬の眉間の痛みだった。
『死神の剣』。聖剣でありながら悍ましい名を持つ剣。
元々死神の剣と呼ばれていたわけではない。それは、他の三本の聖剣、『勇者の剣』『光龍の剣』『刃殺し』も同じことだ。
聖剣は気の遠くなるほどに長い間、所有者を変え、伝承されてきた。時代によっては、大量殺戮者に所持された事もあっただろう。人ならざる者が所有していたという記録もある。だが、何故か後世の人間が名づけた通りの使い方をされてきたようだ。そこには、それぞれの刀身の輝きの持つイメージもあるだろう。
『勇者は剣としての王道の輝きを持ち、光龍は大空を翔る稲妻の如く可憐な弧を描く。殺戮は生き物だけに限らずもたらされ、死神は文字通り死へと誘う』。
そう語り継がれる死神の剣の一撃は、限りなく優しいものかもしれない。斬られた者は痛みや苦しみを感じることなく、微睡むように絶命するというのだから。
ソヴァは、残された兵士達や初めて認めた弟子のファルガを思いながら、微睡んでいった。そして二度と目覚めることはなかった。その微睡の術中にはまったのだろうか。
ガガロは剣を鞘に納めると、ゆっくりと廊下に歩みを進め始めた。この地にあるとされる、残りの二本の聖剣を求めて。




