ラン=サイディール禍1
人々の動揺と恐怖。描けているでしょうか。
少女は、もうそろそろ終わってしまう夏休みを残念に思っていた。
来年からは、小等学校最高学年。平日は勿論の事、休日でも翌年に控えた中等学校への進学の為に学業三昧となる。
十年前までは、只の港町だったデイエン。その頃は、デイエン貴族と呼ばれる、国家から与えられた様々な権利を無条件に行使できる存在はおらず、多少の貧富の差はあっても、それを補って余りある人々の友愛が、それぞれの生活を助け、成り立たせていた。金がある者は金を出し、力がある者は力を出す。知恵のある者は知恵を出し、どれも持たぬ者は人々の先に立ってその労働力を提供した。
ところが、デイエンの属しているとされるラン=サイディール国の宰相が、この地に首都を移す『遷都』を行なうと決めてからというもの、デイエンは変わった。
道路や建造物が整備され、港もより大きく、美しくなった。かつての首都テキイセと異なり、薔薇の庭園で美しく囲まれた巨大な城を中心とした、放射状の幹線と何重にも巡らされた環状線を特徴とする近代的設計により、都市の人間は生活しやすくなり、外の都市からの移住者も増え、俄かに都市は首都として活性化が進んだ……かに見えた。
しかし、急激な変化についていけない者達も多く存在し、そういった者は落ちぶれていき、デイエンから去る事となった。また別の者は誰にも見つからない所でこっそりと命を絶った。貧富の差は、感情では埋まらない程に大きな物となり、貧困層は富裕層の半ば奴隷と化していく。それでも、元々デイエンに存在していた地域の地主はまだ好意的だった。デイエンの秩序を破壊、または改悪したのは、時の宰相ベニーバ=サイディールの息のかかった、ベニーバに好意的なテキイセ貴族だった。彼らはベニーバ達に敵対するテキイセ貴族達との差別化を図るため、自身を『デイエン貴族』と称した。
デイエンとテキイセ以外の、ラン=サイディールの大都市と呼ばれた地域に生活する人々は、デイエンの急激な発展を羨望の眼差しで見つめた。普通に生活をして行っても、徐々に財が増える。それは、国家の財力で行い始めた強力な貿易による、技術的、経済的な高度成長の結果だった。
しかし、その反面元々デイエンに生活していた人間たちは、この狂気とも呼べる経済活動に些か恐怖を持っていた。
確かに、貿易が活発になる事はいいことだ。しかし、この都市の貿易は、SMGという古代帝国の貿易警察組織の庇護のもと、成立している。それを無視して貿易を行なったとなると、SMGに目をつけられることは容易に予想できた。
だが、デイエンの先住民たちも所詮は人間だ。眼前に便利でかつ良い生活がぶら下がっている状態で、それを享受するなという方が難しい。
人々は、心のどこかでいつかこの夢物語のような良い生活が破綻を迎えるのではないか、と考えつつも、目の前の優雅な生活に酔い、いずれ来るはずの困難は見ぬふりをしていた。
少女が恐れる中等学校への受験体制も、ここ十年で成立した物だ。
中等学校の受験の失敗は、よりレベルの高い高等学校への進学を難しくする。そして、そのさらに上の学校は大等学校といい、ここの所属でその後の人生の可否が決まると言っても過言ではなかった。
学力を重視したベニーバの目的は、大等学校を卒業した秀才たちを自分の周囲に配置することで、更に己の支配盤石の体制を築くための大切な人材確保だった。その為、上部大等学校を卒業した者は勿論、その家族や親戚までを優遇した。
実際の人事の結果がどうだったかは、後世の歴史学者は何も語っていないが、財力ではなく学力という判断基準を設けたのは、古い貴族文化に風穴を開ける、文化開花の兆しであったのは間違いない。
頭では勉強しなければいけないと分かっている少女。だが、齢十一歳となれば、まだ遊びたい盛り。何とか深夜まで学習を続けるが、集中力も途切れる。
少女は、狭い勉強部屋の殆どを占める学習用のデスクに、無造作に山積みにされた問題集の上に蝋燭の燭台を置き、明かりとしていた。その火をそのままに、少女は気分転換の為に、窓の外を見つめた。
少女ははっと息を飲む。
毎夜、勉強に疲れた時には外の空気を吸い、窓辺から周囲の景色を眺める習慣があったが、深夜帯に見えるのは、晴れていれば美しい星空と、そこに浮かび上がるような薔薇城の影のみ。曇っていれば漆黒の大地に聳える薔薇城のみを望む感じだ。
だが、今日はその薔薇城の見え方が違った。
漆黒の闇の中にあるはずの薔薇城が足元から照らされている。少女は一瞬、光に浮かび上がる城の影を美しいと思った後、一体何が起きたのだろうかと我に返った。
少女はしばらく城を眺めていたが、まさか城が燃えているという風には中々思い至らなかったようだ。
やがて、静かだった外が徐々に騒がしくなる。そこで初めて少女も異常を感じ取った。
デイエンが首都となり、一見治安はよくなった。その理由の一つは、主要街道に設置されたガス灯だ。しかし、そのガス灯の維持はなかなか大変だと聞いている。毎日没前に全てのガス灯に給油する仕事が発生するが、それは全て人の手で行われる。
だが、この時間のガス灯は燃料を全て使い切り、街中を漆黒の闇へと落とし込んでいた。だからこそ、城の浮かび上がる様がはっきり見えたのだ。そして、遠巻きに聞こえる破裂音。それと地の底から響くような唸り声。声自体は大きくないが、何かおどろおどろしいものとして少女の耳に届いた。
深夜帯、皆寝静まっていると思っていたが、徐々に往来で人の話し声が聞こえ始めた。
その人の声は、内容こそ聞き取れないが、決していい内容のものとは思えなかった。
ひそひそ話からざわめきへ。しかし、そこでも内容ははっきりしない。
少女が窓から顔を出すと、往来にポツリポツリと人が出始めていた。それぞれが知り合いのようで、顔を見合わせながら、不安そうに浮き上がる薔薇城を見つめていた。
ドーン、と爆発音が響いた。人々は思わず会話をやめ、爆発音の方を見やる。
爆発音と同時に、火柱が上がる。この火柱が、誰ともなく発せられた一言により、恐怖の対象と変わる。
「城が燃えている!」
先程までは、浮き上がるように見えた城が、内城壁と外城壁の間にある居住区域で、はっきりと炎に包まれていることを悟った住民は、わかりやすくなった恐怖の対象に恐れ慄き始めた。
「SMGの襲撃だ!」
誰かが叫ぶ。当然、確信を持って叫んでいるはずもない。
「ついにSMGの怒りに触れたのだ!」
先ほどの何者かの絶叫に呼応するように、人々が不安に思いながらも口にすることのできなかった言葉を吐き出す。
「なぜ王はここに来たんだ? ここに来なければ平和なままだったのに!」
遷都に疑問を持ち続けていた平民たちの一部が、その疑問を口にし、目の前の恐怖を他者のせいにし始めた。
「SMGは、デイエンを占領するつもりだ!」
「殺されるぞ!」
「武器はどこだ?」
「抵抗などできるものか!」
「逃げろ!」
「いや、降伏しかない!」
「王の首を差し出せ!」
「王の首ではダメだ! 金を出すしかない!」
統制の取れなくなった集団の特徴だろうか。誰かが叫んだ内容に対し、誰かが呼応して叫ぶ。不思議なもので、一人一人別のことを考えているにも関わらず、不特定多数の人間の集団が、いろんな人間の言葉によって、徐々に集団が一つの擬似生物として思考をしているような形になり、徐々に暴徒と化していく。
「両替商だ! そこなら金がある!」
「いや、戦え! 武器なら武器を扱っている場所があるだろう!」
「邪魔をするな! 我々がSMGに勝てるわけがないだろう!」
「誰がデイエンを守るんだ? 王ではない! 我々だ!」
不特定多数の住民たちが、二つの思考回路に分かれていき、徐々に小競り合いを始めた。
その場に居合わせた者のうち、この混乱に乗じて、自分が借金している額を両替商から入手してしまえば、自分の借金を帳消しにできる、と思う人間が出てくる。また、この混乱に乗じて、自分が欲しい物を購入するための原資稼ぎとして両替商を襲う者が出てくる。また、この混乱に乗じて、欲しい物を直接奪おうと決める者もいる。
出来心。欲望。葛藤。恐怖。絶望。
いくつもの負の感情が渦を巻き、齢十歳の新首都はとてつもない火災と、それに勝るとも劣らない欲望の業火に包まれた。
少女は、眼前で行われる不特定のやり取りを目の当たりにし、人の心の暴走というものを客観的に初めて目撃する。だが、その流動的な感情を、彼女はまだ恐怖として感じるにはまだ幼すぎた。
少女の両親も、外の様子に違和感を覚え、少女を保護すべく二階に上がってきていた。
不運なことに、少女はこの日の前日、少女自身興味を持てない男子学生に愛の告白をされたが、固辞していた。
原因の一つは、彼女自身、まだ恋愛をする気になれなかったこと。もう一つは、残念ながら、その男は彼女の好みではなかったこと。どちらかというと、彼女はその男に対して恐怖感しか持っていなかった。意思の疎通のできない、不思議な男というイメージが付き纏っていたからだ。
その男は、実年齢は彼女の数歳上なだけであったが、そののっぺりとした風貌は、彼を実年齢より十数歳は上に見せていた。実際に肌の張りなどを見てみれば若かったはずなのだが、それを感じさせない胡散臭い雰囲気が漂っていた。ともすればこの男の目的は、少女に対する愛の提供よりは、少女という存在に対する肉欲の発散。そこまで言及しても差し支えないほどに、この男の印象は胡散臭かった。
その男は、前日彼女に愛を拒絶されてから、ずっと悶々としていた。何故、これほど愛する自分を、彼女は受け入れてくれないのか。一日ずっと自問自答していた。結果、彼は自分に都合の良い結論を導き出す。
それが、『少女は自分の愛を受け入れてはいるが、対外的に恥ずかしいからこそ、自分に対して素っ気無く振舞う』というものだった。
普通に考えれば、愛の告白に対して、拒絶の意を示せば、まさにその通りの内容であり、そこに異常な程の駆け引きを求める物である筈がない。
だが、どちらかというと少年と言っても過言で無い年齢のこの男は、拒絶の意思を受けてなお暴走した思考のもと、彼女の家に訪問した。
奇しくも、薔薇城炎上後、徐々に住民たちの思考形態がおかしくなっていくそのタイミングだった。
男は、少女の家の扉を叩いた。深夜遅くに、だ。
だが、当然応答はない。彼女の両親は三階にある彼女の部屋に行き、彼女の心理的なフォローを行っていたからだ。
そこで、男は訪問を諦めれば良かったに違いなかった。だが、その男の良心は、いや、良心ですら、彼女の事を心配して、という体の良い言い訳のもと、自分の都合良いように解釈した。
少女はこの火災やら住民の動きに怯えて、自分の助けを待っている。この男は残念ながら、そのような思考にしか行き着かなかった。
男は、少女の自宅の扉の前で、彼女に対する愛を叫んでいるつもりであろう、理解不能な言語だか雄叫びだか、皆目検討のつかぬ内容を延々と吐き出しながら、持っていた斧で扉を切りつけ始めた。
いくら城塞都市のデイエンであっても、民家の入口の扉の一つ一つにまで万全な防御を施しているわけもない。ましてや、城が燃やされている状態で、そんな一民家の危機に対応している余裕があるわけもなかった。
男は数擊斧で扉に対して切りかかると、扉は二つに割れ、入口の奥に倒れこんでいった。
男は斧を足で割れた扉から引き剥がし、待っている筈のない、しかし彼の中では笑顔で受け止めてくれる少女の元へと急いだ。
三階へと到達した男は、先程と同じように斧で扉を割りに掛かる。大木を切り倒すのに充分なまさかりだ。その男は数擊で扉をぶち破る。
少女に対する異常なまでの執着の件を聞かされていた少女の母親は、男と少女の間に割って入るが、まさかりの一撃で母親は頭を割られ、絶命した。
そのまま、少女の前に立った男はそのまま自身の一物を隆起させ、少女に覆いかぶさった。男は激しく抵抗する少女に、最初は優しい声をかけていた。
「大丈夫だよ、俺が君を守るから」
だが、度重なる少女の抵抗に男はついに怒り、少女の顔面を何十発も殴り続ける。
「俺が守ってやるって言ってるんだ。大人しく言う事を聞けよ」
少女はこの男に見覚えがあった。自分に言い寄ってきたこの男を、自分は丁寧に固辞したはずだ。だが、この男はわかっていなかった。最悪の感情を胸に、深夜帯彼女の家に侵入してきた。そして、この男は何故か彼女の母親をまさかりの一撃で死に追いやった。そして、今まさにその瞬間、この男は少女を彼の正義の元、犯そうとしている。
少女は全力で抵抗した。母親を目の前で殺され、さらに自分の貞操の危機であれば尚更の事だ。少女は押し開かれようとする自身の最も大切な部分を、太ももの力と両手とで抱えて凌ごうとした。
だが、この男の言うところの愛の力により、彼女の抵抗は物の見事に打ち砕かれる。
ミシャッ……!
彼女の大腿骨と骨盤を繋ぐ股関節が砕けた。
少女は耐え切れないほどの激痛に、目を見開き絶叫した。絶叫したところで痛みは和らぐことはない。少女はそのまま気を失いかけたが、次の激痛と、引き続き彼女を襲い続ける激痛にまた正気に戻され、その都度痛みを感じては気を失いかけることを繰り返した。
既に部屋の中は血の海だった。
男が乱入してからほんの数秒の出来事。
少女の父は、自身の娘を犯し続ける、見たこともない不気味な笑みを浮かべた男の首を、この男が持ってきたまさかりで跳ね飛ばした。
だが、そこでこの父はバランスを崩し、少女が外の様子を伺うために開けていた窓から転落、持っていたまさかりで頚動脈を傷つけた。父親はそのまま数歩歩きながら、凄まじい勢いの紅の噴水となり、そのまま息絶えた。
また、別の場所では、老人夫婦の経営する両替商の建物が、幾人もの暴徒によって木造のシャッターを破られようとしていた。
「破れ! 壊せ! 奪い取れ!」
十数人と集まった暴徒の一部は、比較的冷静だったと断言していい。だが、火事場泥棒というのは言い得て妙だろう。ほんのわずかに残った理性は、隣の我を忘れた男の奪い取る金塊よりは若干少なめな取り分で我慢した。我慢したというより、自分の欲望のままに動くことに躊躇のあったその男は、隣の男よりも取り分が少ない事で、隣の男よりは自分の罪状はまだ軽い、と考えた。
金塊は男が奪う。
宝石類は女が奪う。
自国の民が、自国の財産を奪う。邪魔する者の命を寄って集って奪う。誰が奪ったかはわからない。だが、誰もが自分の行っている悪事ではなく、隣の人間の悪事だと考え、自分はその影響を受けているだけだとしか思っていない。悪事が行われる場にいるが、そこには参加していないとでも言うように、平然と人の持つ財産のお零れを集った。
これほど見苦しい展開があっただろうか。
しかも、この行動の殆どは、元テキイセ貴族であった『デイエン貴族』という名の大層な輩だ。
元々いたデイエンの住民たちは、他者の困難を助け、己の困難を仲間と共に打開していた。
だが、住民たちはデイエン貴族を助けようとせず、また、デイエン貴族は元々の住民を毛嫌いしていた。その対立構図がこの混乱の中ではっきりした。
冷静に考えれば、現状の真の敵はSMGであり、SMGを追い払えばこの混乱も沈静化する筈だった。実際、そう振る舞おうとした人間も何人かいた。
だが、殆どの人間は、どさくさに紛れて悪事を働いた。そこには、SMGに抵抗することなど叶わぬという、大前提があったのかもしれない。
元々働こうとしていた悪事。あるいは、元々やってみたかった悪事。誰しもが持つ人間の闇の部分。普段は理性という名の光で照らされ、その思いをおくびに出すことすらも許されなかった悪事。
それが、飛天龍から投下された爆弾が弾ける宜しく、人の欲望が弾けた。
飛天龍からこぼれ落ちた一筋の光が、デイエンを貫く時、人々は野獣と化し、破壊と略奪の限りを尽くした。
貴族の特権を妬む平民。平民の分際で多大な財を持つ存在を妬む貴族。
今まで水面下にあった対立構図がはっきりとし、暴徒と化した人間は、貴族の屋敷を急襲する。その一方で、治安維持に当たろうとした近衛兵団も、見かけは機能しているように見えたが、中を構成するのはやはり人。その人が、欲望や妬みを持たぬはずがない。目の前の者たちが欲望のままに動くのを目の当たりにして、義憤からそういった野獣共を排除しようとする兵士たちの勢いも徐々に衰えていき、いつしか公私入り乱れた虐殺と破壊、略奪が夜通し行われることになった。
これが、後世に伝わる、『ラン=サイディール禍』と呼ばれる深夜の悪夢である。
人は、ちょっとした想いで鬼にも悪魔にもなれる。
時の詩人がこの悲劇を目の当たりにし、呟いた言葉だ。




