狂美1
苦しかったです。
勢いで書いていた十代の頃の内容が、今の自分に合わない。内容だけをなぞり、稚拙な表現を修正するだけのつもりが、無の状態から綴るより難しかったです。
一応形にはしましたが、若干修正をするかもしれません。
話は少し遡る。
レナ、ナイル、インジギルカの三人は、陽が傾き始める前、『鬼の巣』の入口前に集合することになっていた。
まだ、灼熱の太陽はその攻撃を弱める予定はだいぶ先だ。それが解っているせいか、セミたちも狂ったように鳴き続ける。
上空からの熱線は、広場に影を全く作らない。子供故か、極限の状態でも平気でその場に留まろうとする。子供は体力の摩耗の知覚が弱く、いつの間にか体力を失っているケースも多いが、余り集合時間には気を付けていなかったのかもしれない。どちらかというと、後に行われる予定のレナの誕生パーティーに遅れないように、との配慮なのだろう。
この三人は、それぞれが幼馴染みだった。今回の集合は三人だけだったが、幼なじみという括りでは、当然、その輪の中にはファルガも加わる。年齢もほぼ同じくらいだったせいか、幼少期からよく一緒に遊び、喧嘩し、泣き、笑ったものだった。
それは今も変わらない。
夏祭りや収穫祭など、村を挙げてのイベントは多いが、季節柄の様々な祭りの他に、季節に数回、村人十数人で商隊を編成し、デイエンまで出かけていく『お上り』という小旅行にも、欠かさず参加している。最初は観光旅行として。最近は貴重な若い労働力として。
この『お上り』という小旅行は、村人が順番に参加する決まりになっている。
収穫時期を迎えたラマ特産の野菜や果実を馬車数台に積載、数日かけて丘を下り、デイエンへと運ぶ。そして、デイエンの中心に聳え立つ薔薇城と通称される、巨大で優美な城へと続く幹線道路の一角を借り、仮設店舗を設営し、そこで売り捌くのだ。
ラマ特産の品物が売れた金で、村で必要な様々な道具や資材、ラマでは手に入らない食材等を買い付け、また数日かけて帰ってくるという、村を挙げての行商及び買い出し行為のことだ。
留守番の村人は、収穫したものを馬車に載せ、当番の村人に買ってきて欲しいものを注文し、村から送りだす。その後は、欲しい物を買ってきてもらうかわりに、留守の村人の家の管理をするのだ。村人の成果物を代表者が売りに行き、その売り上げを使って村に必要な物を入手してくる。現在のラマ村の在り方は、居住集落というよりはむしろ、一つの農業共同体としての性質を持っているのかもしれない。
このラマという村は、かなり特殊な環境下で成立した村だと言われている。
首都デイエンより北西部にある、ハタナハという丘の一部に、更に切り立った崖があり、その崖の上に集落が形成されている。その崖は、デイエン側から見ると、まるで鋭利な刃物で切り落された金属の切断面かと思うくらい幾何学的であり、文字通り人の手がかかっているのではないかとさえ言われる代物だ。
元々は、樵の一族の村として成立したとされるラマだったが、河川からは遠く離れているにも拘らず、土壌は非常に肥沃で、土地が枯れることなく農作物が安定的に収穫できたため、まだ巨大都市となる前のデイエンや近隣の農村からは、肥沃でありながら水害のない『農業の聖地』を求めて農民が流入し、現在の村が形成されていった。
後世では、ラマ村の第二期と呼ばれる時代。
当初は、第一期、つまり大昔からのラマ村の住人である樵たちと、第二期の住人、即ち農民たちとの間でトラブルはあったようだが、徐々に自然と住み分けがなされ、表面上は揉めずに生活が成り立つようになってきていた。
ラマ村の『平和の象徴』こそが、樵の娘のインジギルカとデイエン出身の農家の娘のレナ、村長の孫のナイル、そして、鍛冶屋の丁稚ファルガの子供集団だった。彼らが仲良く遊んでいることが、ラマ村の今後の平和を明示しており、大人たちもあまり意見せず見守っている状態が続いている。
濃い茶髪が綺麗に肩上で整えられた、少女レナの髪型は、いわば彼女のトレードマークだった。この年代の少女は、殆どが自分の髪を長くする。その長く伸ばした髪をリボンで纏めたり、三つ編みにしたりすることで、自分の個性を確立しようとするものだ。だが、彼女は常に髪を手入れし、美しく保つことでそれを表現した。いつもは綿で作られた地味な色のワンピースを身に着けるレナだったが、今日は自分の誕生会ということで、自分の一番好きな色である薄桃色を基調とした、裾に花柄があしらわれたワンピースを選択した。そのコントラストが、色白の彼女をより可憐に見せていた。
レナは一見すると、垢抜けない片田舎の娘という印象とは大分異なっているように見えるが、それは元々、彼女の一家がデイエンで生活していたからかもしれない。
十年前の遷都時の様々な喧騒を嫌ったレナの一家は、デイエンから離れることを決意したのだという。一家は移住先をラマ村と決めたが、その理由は、レナの父の一族が、ラマ出身だったことによる。その為、戻る際も溶け込むことが容易だったようだ。
レナの家族は、デイエン時代に農作物の輸出関係の仕事で、ある程度財を成していたため、それを処分して移り住んできた現在でも、村一番の金持ちだった。しかし、彼女はそのような環境で育ったにも拘わらず、それを驕ったり自慢したりする素振りを見せること無く村人と接したので、容姿に違わぬ天使のような人となりの少女、として村中の人間に愛されていた。
角刈りの少年ナイルは、現村長の孫で、ファルガとは対称的な、目立つハンサムである。服や髪型などをきちんと準備をして町に出たならば、間違いなくアイドルとして持て囃されるような整った顔つきをしている。手足も長く、締まった体突きをしているため、好き嫌いの好みはあるにしろ、誰もが美形と認める容姿の少年だった。
年下のファルガと共に悪戯はするが、その悪戯の類はといえば、人の心や一生に大きな傷を残すような重篤なものではなく、悪戯しても笑って済ませられる程度のもので、むしろ困っている村人を助けたり子供達の相談に乗ったりと、大人にも子供にも信頼されており、文字どおりガキ大将といった感じだ。
インジギルカという少女は、決して目鼻立ちが整っていないわけではないのだが、共に行動するレナに比べ、あまり洗練されていない印象を受ける。
しかし、彼女の生まれも育ちもこの村であり、その両親もこの村から出た事がない事を考慮に入れると、外界の様々な文化に触れていない彼女に、それを望むのは酷か。
インジギルカの家族は、『お上り』は毎回固辞していて、参加経験があるのはインジギルカだけだ。樵の父が愛想ないせいで、デイエンでの出店販売に彼女の一家は著しく不適格とされたが、彼女の天性の磊落ぶりは一家の持つイメージを覆い隠してなお余りある。彼女の言葉や行動で元気づけられた人々も多いのも頷けるところだ。
その中には当然、ファルガやレナ、ナイルも含まれる。少し南国の血が混じっているのではないかと思わせる浅黒い肌に、腰まで伸ばした漆黒の髪を持つ、瞳の美しい少女だ。
先に到着していたインジギルカとナイルは、少し遅れてきたレナを別に咎める様子もなく迎える。
「お待たせ。それで、ナイルが私に見せたいものって?」
だが、レナのその問いに、ナイルは一瞬詰まる。勿論、レナにも見て貰いたい。だが、どちらかというと、今回欠席のファルガにも見て貰いたかった。
レナとインジギルカと、本当はファルガも混ぜて四人で遺跡を探検したかったナイル。探検会をやりたいと言い出したのはナイルだ。だが、日時を設定したのはインジギルカだった。疑似探検会の日時に関して、明確な意図のなかったナイルは、インジギルカの設定した日付を何となく了承したが、後にファルガが仕事で来られないことを知ると、非常にがっかりしたものだった。
元々、ナイルが遺跡に興味を持ったのは、今は亡き稀代の考古学者であったファルガの父の著書を読んだからだった。
彼は、ファルガの父の著書を冒険譚として読んだ。ある意味それは正しいのだが、その著書に沸き立つ血を抑えられず、『鬼の巣』で擬似探検を何度も試みては、かつての食人鬼の住まいだった場所を訪れたことを、大人に激しく叱責されるのを繰り返していた。
所詮『ごっこ』だ。探検の成果物などあるわけもない。調査ともいえぬような代物。
大人にはそれを指摘される。それはナイル自身もわかっている。まだ、そんな大それた冒険をできる年齢ではない事も百も承知だ。
しかし、今回はいつもの探検とは違う。自分でも予期していなかった成果物もある。
それを皆で共有したかった彼としては、自分に多大な影響を与えた考古学者の息子のファルガが、今回の探検会に参加できないのが残念極まりなかった。
もっとも、共に喜びを分かち合いたかった相手の一人であるファルガの、考古学に対する興味がどの程度のものなのかは、ナイルにも知る由はなかったが。
ファルガ不参加がわかってから、探検会をしばらく悩んだナイルだったが、ファルガ抜きで『鬼の巣』内の発見を見せることを決めた。ナイル以外のラマ村の人間には、初のお披露目となる。ファルガはまた別の機会にすればいい。また新しい発見をした時に、今回の発見を織り交ぜてもいい。そう結論した。今回の発見を、とにかく誰かに知ってもらいたい。考古学者としての第一歩を歩み出したと自覚したナイルは、探検会の実施を決めた。
「『鬼の巣』の中で面白い物を見つけた。それをみんなに見せたいんだ」
ゆっくりと顔を上げながら、小さく、しかし強く言葉を発するナイル。
「何かしら。楽しみだなー」
レナは嬉しそうな表情を隠さなかったが、ふといつもいるメンバーが一人足りない事に気付く。
この疑似探検会はファルガ抜きで実施に移されようとしている。
いつもいる筈のファルガがいない事に違和感を覚え、レナはそれをインジギルカに尋ねるが、インジギルカは目を閉じ、さも残念そうに首を横に振った。
「彼は仕事。レナのパーティーに出るために、早めに仕事を終わらせたいから、今日は朝からズエブさんの所で頑張っているらしいわ」
前述の通り、今回の疑似探検会の大筋を企画したのは、ナイルではなくインジギルカだ。
ナイルが『鬼の巣』で発見をしたことをインジギルカに嬉しそうに話した時、インジギルカは、予てから考えていた事が実現できるチャンスだと思った。
それは、ナイルとレナのカップリング。
彼女にとって、ナイルとレナは理想のカップルだった。何とかそれを自分が助けて成就させたいと思っていた。
憧れ。
平たく言うとそうかもしれない。完全に自分の好みであるナイルが、気持ちを寄せる少女レナ。レナも、今の年齢のインジギルカにとって、理想の少女だった。その二人が相思相愛ならば、いう事はない。
ちょうど、小説の中の自分の好きなキャラクター同士が恋に落ちる展開を望む熱烈な愛読者の心境といえばいいだろうか。あくまで第三者を装い、自分の欲を満たす。
インジギルカは、ナイルとファルガの二人の気持ちがレナに向いていることに気づいていた。だが、ナイルは自身では動こうとせず、レナも待っているだけでは、レナもナイルも幸せになる事はできない、と。
勝手といえば勝手である。
三者が三者とも、それぞれに好意を持っている。ならば、自分が好ましいカップルを誕生させるのが、自分にとって一番良いのではないか、と独善的にそう思った。
そして、その結論に行きついた時、彼女は隠そうとしても隠し切れないナイルのレナに対する感情を歯がゆく感じた。
好きなら好きといえばいいではないか。その後のことは後で考えればいい。ただそれだけの事なのに。
好きなキャラクター同士の恋愛を描く同人行為。それを、彼女は脳内で演出し、実際にそうなればいいな、と今回の案を企画する。
ナイル自身が相手に気持ちを伝えられる状況が作り出せないなら、こちらで作り出すまで。インジギルカ自身、ファルガの事も好いていたが、それはあくまで友人として。それ以上の感情はない。ファルガが自分の方に振り向く事は微塵も望んでいなかった。彼女は、友人という名の理想のキャラクターを使って、自分の望む恋愛劇を演出したかったのだ。監督はインジギルカ。
無論、そう考えると非常に狡猾に感じられるが、恋愛やその他の人の気持ちの深さを知らぬ少女特有の、一種残酷ともいえる感情と考えると、インジギルカの気持ちも理解できなくはない。そして、それを自身の希望と考えず、二人の希望であるはずだ、と本心から捉えている辺り、大人の視点とは言えないだろう。
では当のレナはどうだったのか。
レナは、ナイルもファルガも、純粋に恋愛対象として見ている節はあった。
しかし、どちらからも明確な感情の提示があるわけではない。それでいて自身がアクションを起こすことも、彼女の性格上難しかったのか、今まで特段何かしているわけではない。正直、ファルガとナイルに対して、自分の気持ちの甲乙はつけがたいと感じているようだった。
だが、自分で何かアクションを起こす前に、自分の心を決めねばならなかった。好意を示して彼女に靡いた方に愛を注ぐ。そんな器用な真似は、彼女にはできなかった。
それ故、今回の自分の誕生会への招待を、自分の口から二人に告げたことは、彼女にとっては大きな挑戦であったと言えるかもしれない。自ら動くことで、自分の本当の気持ちを知るという試み。だが、例年と変わらない筈の誕生会に、もう一つ意味を付加した事を知る人間はレナとレナの母位だ。
思春期にそろそろ踏み込もうという子供たち。彼等は、追いつかぬ自分の感情と周囲の状況に戸惑いながらも、何とか一歩一歩手探りで前に進もうとしていた。
(すまないな、ファルガ。本当はお前も連れて行きたかったのだけれど……)
持ってきた火打石で、燭台の蝋燭に火を点したナイルは、レナたちと共に『鬼の口』の中にゆっくりと歩みを進め、不気味に蠢く洞窟の壁や天井を眺めながら、罪悪感に苛まれていた。
ファルガの不参加がわかっているのにも関わらず、この日に探検会を決行することに対して、だ。
ナイル自身は、今回の探検会を通じて、自分がここまで考古学に興味を持てたのは、ファルガの父親のおかげだ、とファルガに伝えるつもりでいた。それを伝えることで何かが変わるとは思っていなかったが、改めて弟分ともいうべきファルガに、感謝の意を示したかった。
同時に、自分が覚えた考古学に対しての感動をファルガとも共有したかった。そして、それができるいい機会と思っていた。
それだけに、今回の探検会のファルガ不参加は、ナイルの喜びに水を差すものとなってしまっていた。
蝙蝠の住む洞窟ならば、異常なくらいのアンモニア臭と糞の発する独特の熱で異常に蒸し暑くなっているものだが、この洞窟は非常に涼しかった。
むしろ、肌寒いと言ってもよかった。
氷穴や風穴でないため、人が凍死するまで気温が下がる事はなかったが、一日中陽の射さない洞窟内の空気は、真夏とは思えないほどにひんやりとしていた。
冷たい空気の充満する洞窟内を、足元を照らしながら、ゆっくりと歩みを進めるナイルと少女二人。
どれくらい歩いただろうか。距離をそれほど歩いたとは感じられなかったが、如何せん蝋燭の明かりのみでの移動だ。時間はかなり費やしたに違いない。
突然、ナイルはくるりと方向を変えた。
後に続く少女二人は、思わず立ち止まる。
ナイルは、一度蝋燭の炎を自分の顔の前に持ってきた。二人の少女の不安げな表情が揺れる炎に照らし出される。少女たちの瞳の中で揺れる蝋燭の炎が、不思議とナイルの心を落ち着かせた。
対照的に、二人の少女の顔には少し不安の色が浮かぶ。
ナイルは二人の少女に、安心するように頷いてみせると、彼から見て右手にある壁面に蝋燭を近づけた。すると、先程までゴツゴツとせり出していた岩と岩の間に奥へと続く通路が浮かび上がった。
少女たちの眼差しが、不安から驚きに変わる。
まさに天然の隠し通路だ。
『鬼の巣』入口から入ってくる光の影響もほぼ微か。冒険者を生業とする者の持つ強力な照明も、より濃く壁や天井の陰影を映すだけの存在となり、通路発見にとっては困難の度合いを増しているだけに過ぎなかった。
それが長い時を経て、『考古学者の卵』ナイルの持つ蝋燭の光によって姿を現した。
ナイルに連れられて、何度も洞窟内を探検したレナとインジギルカだったが、まさか入口に程近い場所に、こんな通路があった事に、心の底から驚いたようだった。
「この先だよ」
ナイルはそう二人に声をかけると、新しい通路の奥に向かって歩き出す。大人なら体を横にしながら滑り込ませるように進まなければならない通路も、子供たちにとっては、少し狭い通路に過ぎない。二人も無言で、未来の考古学者の後に続いた。
しばらく進むと、突然空間が開ける。
少女二人は、歓喜とも驚愕とも取れる小さな叫び声をあげた。
彼らがたどり着いた空間は、新首都デイエンで都市内循環の移動手段として走る大型の馬車を八、九機は並べて停めても十分な高さと幅、奥行きを持っていた。だが、その空間に取り立てて目を引く遺跡のような物があるわけでもなければ、今まで未発見の生物がいるわけでもない。
普通の空間。
だが、子供達からすれば、それは大きな発見だった。
彼らの遊び場『鬼の巣』の中に見つけた、全く新しい世界の広がり。
「……入口からすぐの所に、こんな空間があるなんて」
思わず呟くレナ。
インジギルカも、ナイルから話こそ聞いていたが、自分の想像を遥かに超える広さの空間を目の当たりにし、気分が高揚しているようだった。
「すごいだろ。俺も、何回もこの洞窟には出入りしているけれど、全く気付かなかったんだよ」
今回の『鬼の巣』で言えば、今回ナイルが新しく発見した横穴は、入口からの光と蝋燭光とによって、非常に見えづらくなる。更に、岩の形状も人の目からその横穴をちょうど上手く隠すようになっていたこと、そして、その横穴が酷く狭かったことが、彼らの発見を遅らせたのだろう。
こういう物を目の当たりにしてしまうと、自分たちの身近なところにも、まだ未発見の遺跡や生物が沢山いるのではないか。
そんなことを、少し興奮気味にナイルはふたりの少女に伝えた。
一頻り言葉を紡いだあと、ナイルは改めて空間を見回す。
と、前回発見時には無かったものに気づく。
空間の奥の壁際に、何か袋らしきものが置いてあり、その袋の口から、何本かの棒状の物が見える。ほかにも袋状の塊が数個、置かれている。
その袋が、蝋燭のみの明かりで不気味な質感と共に浮かび上がる。
「妙だな。この前に来た時には、あんな物はなかったが……」
思わず不安そうな表情を浮かべ、ナイルの方を見るレナとインジギルカ。
ナイルの服の裾を無意識のうちに握り締めているインジギルカは、思わず息を飲んだ。
「ねえ……。あの袋、動かなかった?」
インジギルカの言葉に、思わず体を固くするレナ。ナイルは、予期せぬ出来事に、少女二人を守るための戦闘態勢に入る。
インジギルカが動いたという、袋に向かってゆっくりと歩みを進めるナイルと少女二人。最初見た限りでは、ひどく小さい袋のように思えたが、歩みを進めるに従って、意外に大きな袋であることに気づく。それは、同時にこの空間が酷く広大であることを示している。
袋に近づいたレナとインジギルカは、思わず息を飲んだ。ナイルは思わず敵の襲来に備えて、拳を握り締めた。無論、次に袋が動いたならば一撃を躊躇なく加えるためだ。だが、その拳は振り下ろされることはなかった。
袋の中から聞こえるうめき声に気づいたからだ。
「……な、何?」
インジギルカは心底怯え切った声で、誰に問いかけるわけでもなく、袋の中の呻き声の正体の答えを求める。
ナイルはその問に答えず、急な攻撃に備えてゆっくりと近づきながら、幾つかの袋の正体を確かめる。
袋から生えている棒は、どうやら剣の柄や手槍の石突のようだった。
そして、呻き声の聞こえた袋はひとつ。だが、似たような袋は、合計三つ転がっていた。よく見ると、その袋は必死に動きを抑えようとしているが、微弱に震えているように見える。何とか動かずにやり過ごしたいのだが、恐怖の余り動いてしまう。そんな印象だ。それ故、インジギルカの声がした瞬間、直ぐに動きを止めた。だが、こちらが息を殺していると、リラックスして動き出すように見える。
しばらく観察していたナイルだったが、意を決し一番手前にある麻袋の紐を解き、袋の中身をだそうとした。
蛇だったらどうしよう。毒虫だったらどうしよう。
そんな恐怖心を持つレナたちは、思わず袋から距離を取る。
ナイルは、麻紐で封印されていた袋の底側を持ち上げ、中身が流れ出るようにした。だが、思いのほか袋の中身は重く、攻撃の姿勢をとりながら袋を持ち上げるというわけには行かなかったので、結果腰を入れて袋の端を持ち上げることになる。
どさりという重い音がし、袋から出てきたのは、足首と手首を背中で固定され、猿轡を噛まされ、目隠しをされた少女だった。
一瞬息を飲んだナイルだったが、まさかと思い、残りの麻袋の紐を解く。すると、中には彼等よりもずっと幼い少年や少女が猿轡を噛まされ、手足を拘束された状態で納められていた。
最初に救出された少女は、辛うじて意識があったが、インジギルカに抱き起されたところで、意識を失った。他の二人は既に意識がなく、辛うじて息をしているのだけが確認できた。
「一体何が……?」
ある可能性に思い当たったナイルは、すっと立ち上がると強い視線で、彼らが入ってきた細い通路の出口を睨みつける。
神隠し。
彼は、自分の祖母から聞いた昔話を思い出していた。
この『鬼の巣』という場所は、とてつもなく禍々しく、一人では絶対に立ち入ってはいけないと、耳に胼胝ができるほど言われてきたものだった。だが、その当時のナイルはその話を昔話、あるいは作り話として、生返事をするだけで信じてなどいなかった。
まさか、過去に村人を恐怖のどん底に叩き落した人攫いがまだこの地に……?
そんな馬鹿な、と頭によぎる途方もない考えを払拭すべく頭を振るナイル。
彼の聞いた話は、彼の祖父が子供の時に噂で聞いた程度の物で、子供からすれば大昔のことだ。
だが、目の前にいる子供たちは、どう見ても攫われてきたようにしか見えない。
眼前にいる見たことのない子供たちは、何故麻袋に入って自ら封をしたのか。いや、そもそも袋の中に入った自分の袋の口を封出来る者などいる筈もない。
とすれば、彼らを麻袋に押し込めた張本人がいることになる。
しかも、この子たちの顔に見覚えはない。ラマ村の子ではないのだろう。そうなると、何処からか連れ去ってきて、ここに監禁していたとしか思えない。
一体誰が、何のために……!?
様々な情報のかけらが、音を立てて繋がっていくが、その先にあるものは、少なくとも彼らの希望的な未来の像ではない。むしろ、想像することによって現実化しそうな怖さをナイルは感じていた。
レナも、インジギルカも同様に無言で少年少女の拘束を解いていく。だが、その表情は、時間が経てばたつほど深刻なものになっている。そしてそれは、必然的に彼らの身を寄せ合う事になる。
誰も言葉にはしない。だが、その険悪な空気は着実にこの空間を満たしつつあった。
「……レナ、インジギルカ、この子達を背負えるか? 俺はこの男の子を連れ出す」
ナイルは囁くように、だが、強い言葉で女性二人に指示を出した。
いつもならおどけるインジギルカも、非常に硬い表情で頷いた。
少女二人は意識を取り戻したが、消耗しきっている。自分の力では立ち上がることはできても、歩くことはできなさそうだ。
手足を拘束した子供たちが、自らの意思で麻袋に入り、口を麻紐で閉じることができない以上、誰かが彼らをここに閉じ込めた。何かしらの理由のため。
では、その理由は何なのか。
『人身売買』。
ナイルの頭に過ぎった言葉だ。もし、ここを捕まえてきた子供たちを一度保管する倉庫して考えているとすれば、この子達を拐かしてきた存在は、近いうちにまた戻ってくるはずだ。
少人数かもしれないし、大人数かもしれない。
敵は全く知れないのだ。一刻も早くここを出なければならない。そして、村の大人たちに伝えなければならない。
だが、大人を呼びに行く役をナイルがしてしまうと、レナとインジギルカをここに残すことになる。かといって、どちらかを呼びに行かせると、その途中で、子供たちを拐かしてきた何者かと鉢合わせる可能性がある。
現時点で一番良いのは、一見時間がかかるように思えるが、三人で三人の子供たちを助けつつ、鬼の巣から脱出する。仮に、拐かした存在と鉢合わせたとしても、ナイルならある程度戦える。
実際、ラマ村でもナイルと戦って勝てる大人はそうはいないだろう。
考古学を学ぶ際、肉体的な強さも、精神的な強さと同じぐらい必要とすると学んだナイルは、父に格闘技を学んでいた。
ナイルの父はといえば、遷都前のテキイセに道場を持っていたこともあり、ラン=サイディールでもかなり著名な武道家だ。
だが、遷都時にテキイセの道場を畳み、ラマに戻ることにした。村長であるナイルの祖父の面倒を見るためだ。だが、それだけでは食べていくことは当然できず、近々デイエンに場所を借りてそこで道場を開こうと画策していた。
今は、弟子はナイルだけだ。だが、その腕は確かだとナイルの父も語る。
その、一番戦えるナイルが、時間を稼いでいるうちに子供たちを逃がす。
ナイル自身、試合でない所での戦闘は、まだ数える程度しかないが、レナやインジギルカを危険に晒すわけにはいかない。
ナイルは、気を失っている少年を背負うと、レナとインジギルカに声を掛ける。
「急ぐ必要はないが、ゆっくりしている暇はなさそうだ。日が傾いてくると、ここを根城にしている奴らが戻ってくるだろう。そうなれば危険度は格段に増す。なんとか、村に日があるうちに戻ろう」
ゆっくりと歩きだしたナイルだったが、数歩もいかない所で、思わず立ち尽くした。
誰も知るはずのない、この隠し部屋から出る為の通路に、人影が一つ、立ち塞がったからだ。男の顔はよくは見えない。だが、なんとなく男だということはわかった。そして、その人影は、男性とも女性とも取れない、中性的な顔立ちに対し、春先の咲き乱れる花畑を見るような、新緑の季節の森林を見るような、美しさを彷彿とさせた。
とっさに、ナイルは後に続く四人の少女たちを庇う。
だが、彼は酷く安堵した。……安堵してはいけないはずの状況下で。
髪を肩まで伸ばした男性の少し驚いた表情、そして、その後に口元に浮かぶ笑みを見て、自身もひどく安堵し、その安堵した自分の反応に驚く。
(何かおかしい!)
安堵し、そのまま座り込んでしまいそうになる自分の体に鞭を打ち、何とか立ち続けるナイルは、背後の少女たちを見て驚いた。彼女たちは座り込み、何の疑いもなく、ナイルの眼前の男に対して心を許してしまっているのだ。
「立て! レナ! インジー!」
自分自身が座り込みそうになってしまうのを必死に堪えながら、ナイルは叫んだ。
「おや、こんにちは。私が留守をしている間に、お客様がお見えになっているとは」
この男は、ナイルが数日前に発見した隠し通路の奥の空洞の事を、さも自分の住居のように表現する。だが、その言葉には微塵も違和感を覚えなかった。
男は右手にランプを持ち、左手には肩で担ぐように麻袋を持っていたが、その袋は、何か生き物が入っているように動き回っていた。
「だいぶお待たせしてしまったようですね。いま、お茶を煎れますので、少しお待ちいただけますか」
(まずい、まずい……!)
気だけが焦るナイル。
状況は限りなく異常だ。
だが、ナイルの心はその異常を完全に受け入れ、思考を停止しようとしている。
そして、先ほどまで生きた人間の入った麻袋を目の当たりにし、恐怖と戸惑いを覚えていたはずのレナとインジギルカがなぜ、ここまでリラックスし、見ず知らずの眼前の男の言葉に安堵感を覚えてしまっているのか。
眼前の男の背負っている麻袋の中身は、まず間違いなく幼い子供のはず。どう見ても、この男が拐かした張本人に間違いない。
この男の口からこぼれ落ちる低音の心地の良い声は、紡ぐ言葉が真実であるように錯覚してしまう。
その強制的で病的な押し付けがましい安堵感に敵対するように、ナイルは叫んだ。
「これ以上近寄るな!」
「いやいや、お待たせしてしまって、こんな時間になってしまいました。皆さんお昼は召し上がりましたか? お腹も空いたことでしょう。私が皆さんに素晴らしい御馳走をご用意致しますよ。遠慮などなさらず」
洞窟内で料理? この、何もない空間でご馳走?
素で聞いたなら意味も分からず、まずは誰しも首をかしげるだろう。少し知識のあるものなら、今自分が持ってきている麻袋の中身の動物を捌いて……と思うだろう。
だが、男の担ぐ麻袋が、幼児あるいは年端のいかぬ少年少女であるとどうしても思えてしまう。なぜなら、今ナイルが保護した少年少女も、ほんの少し前までは、眼前の男が担ぐ麻袋の中の何者かと同じように監禁されていたのだ。
「要らないから、早くどこかにいけ!」
心が感じようとする安堵感と、理性が鳴らす警鐘。その二つの刺激に、ナイルは戸惑った。
幻惑されている?
常軌を逸した安堵感に対し、異常を感じること。それに対して、死んで詫びなければと思うほどに罪悪感を覚えることが余りに不自然で、ナイルはそう結論した。
ナイルは思わず、自分の頬を握りこぶしで激しく打った。
激しく脳が揺らされ、一瞬気を失いそうになるが、それを踏み留まり、痛みを怒りに変換し、眼前の男と対峙した。
「悪いが……!」
これ以上話していると、己の持つ危機感すら鈍ると直感したナイルは、もはや問答無用とばかりに攻撃を仕掛けた。
ナイルは男を直視せずに、意識を取り戻しつつある男児を左小脇に抱えると、左足を軸にして回転するように右脚を男の顎に向けて打ち出した。膝がまず腰の回転で鋭く打ち出され、そこから少し遅れて膝が延ばされ、鞭のようにしなった右脚は、吸い込まれるように男の顎を直撃する……はずだった。
男はほんの少しの間合いでナイルの蹴りを見切り、上体を少し反らすようにして躱す。
「中々良い蹴りをお持ちですね……」
この不気味な男は、にっこりと微笑んだ。
(まずい、こいつは俺よりも強いのか……!)
一瞬の手合わせで、ナイルはこの男が自分よりも強いと知る。達人は達人を知るというが、まさにその状態だ。
自分より強い敵を相手にし、相手はその身一つであるのに対し、自分は背後に守るべき存在を二人抱え、脱出口は前に聳える屈強な『壁』の向こう側のみ。一瞬で手詰まりになった。だが、その手詰まりをどうしても危機感として捉えられない。
男は一歩彼らの元に歩み寄る。
拳法家の少年は、同じ距離を取ろうと一歩後ろに下がるが、そこで立ち尽くすインジギルカとレナと接触する。
そこではっと我に返ったナイルは、小脇に抱えた少年を降ろす。
「……お前は男の子だよな。なら、このお姉ちゃんたちを守ることが出来るよな?」
ナイルは正面の男に目を合わせずに、少年の勇気を召喚しようと言葉を掛ける。
弱々しく頷く少年。だが、その眼は男に幻惑されつつあるのか、忘我の表情は崩れない。
「よし、じゃあ俺が声を掛けたらお姉ちゃんたちと共に、あの男の後ろにある穴から外に出るんだ。明かりはないかも知れんが、それほどの距離じゃない。いいな!」
戦いたくない相手と戦う戦士のような気持になりつつあるナイルだったが、気合を入れてネコだましを打つ。それは、レナとインジギルカの方に向かって放たれた、激しい音の衝撃だ。
己のネコだましで一瞬我に返ったナイルは、己の持つ蝋燭を、目の前の男に投げつける同時に、少女たちに絶叫する。
「走れっ! 振り返るな! 鬼の巣の外まで一気に行け!」
照明が、男の手にあるランプのみになった。ナイルはそれにめがけ、今度は右足を軸に体を捻り、左足の蹴りを繰り出す。その蹴りを受けようとすれば、必然的に回り込んでいるレナとインジギルカ、そして二人の少女と少年に対し、背を向けることになり、彼らの逃走経路が出来上がるはずだ。
だが、この男はナイルの蹴りを、ナイルの意図したのとは逆の方向に躱した。そして、そのまま走り抜けようとする子供たちの前に立ち塞がる形になった。
「おや、お帰りですか? 申し訳ないのですが、貴方たちの連れている子たちはおいていっていただけますか? 彼らは私の仲間です。私は貴重な仲間を失うわけにはいきません」
男の声は、相変わらず柔らかく、異常な癒しを与えるものだった。だが、その声がほんの少しだけ怒りを帯びたものになる。
「あんたは、仲間を麻袋に入れて、荷物のように扱うのかよ……!」
左足の旋風は空を切ったが、その足をさらに軸にし、今度は右足の踵を男の顎めがけて放つナイル。その蹴りも躱した男に、更に左足のつま先を喉元に刺さるように繰り出す。
次の蹴りは、流石のこの男にも少し厄介だったようだ。左足のつま先を思わず右の掌でがっちりと掴んだこの男に対して、ナイルは更に掴まれた足を軸に側頭部を蹴り抜きにいった。
流石にそれ以上好きにはさせまいと、ナイルの蹴りが側頭部に到達する前に、ナイルを投げ捨てる。
ナイルの攻撃が、一瞬男に隙を作る。
レナとインジギルカは、少女二人を連れ、少年に連れられて、細い通路に飛び込むことに成功した。
「早く、大人たちを呼んできてくれ!」
ナイルは放り出された際も受け身を取り、素早く立ち上がる。
男は無言で、逃げ出した少女たちを追いかけようとしたが、通路から一人の少年が姿を現す。
「大丈夫か、ナイル!」
彼の幼馴染の突然の出現が、どう変わるのか。
少なくとも、レナとインジギルカが洞窟から逃げ出し、大人を呼びに行くまでの時間稼ぎとはなるだろう。だが、ナイルより遥かに強いこの男を、ファルガが抑えられるとはとても思えない。恐らくこのままこの男がファルガと対峙したら、ファルガは一瞬で倒されるだろう。ならば、その選択肢を与える前に……!
ナイルは咄嗟に、男に対して足払いを仕掛けた。
何の変哲もない足払いだったが、眼前に出現した少年ファルガを一撃のもとに倒し、逃げ出した少女たちを追跡しようとしていた男の軸足を払う事に成功する。
男は大きくバランスを崩し、倒れ込んだが、その際ファルガの服の裾を引っ張ったため、ファルガはちょうどこの男の上を飛び越えるように、通路から広い空間に投げ飛ばされる格好になる。
ナイルはこれ以上男に少女たちを追跡させないため、男と通路の間に割って入った。ちょうど、ナイルと男、そしてファルガが一列に並ぶ格好になった。
形としては挟み撃ちだが、果たして、どの程度ナイルとファルガにとって有利な状態になるかは想像がつかない。ましてや、ファルガは戦力にはなりえないだろう。
少年ファルガは、ナイルの道場に体験で加入したことがある。その際のナイルの父の評価は最低であった。
身体能力が低いわけではない。武道に対する理解もある。それにも拘らず、彼には闘争心がないのだ。目の前の敵を倒さなければいけない状況なのだが、その状況を理解し受け入れつつも攻撃ができない。
よく言えば優しいのだろうが、悪く言えば戦うべき時に戦うことのできない者、ということになる。まだ、デイエンにある小等学校の最高学年の児童と同じ年齢の少年ファルガに、それを求めるのは酷なのかもしれないが、今この状況下で子供だという事実は、この男のアドバンテージになりこそすれ、ナイルやファルガにとっては、相手が油断してくれるかも知れないという程度の話でしかない。やるしかない状況だ。
対するこの男は、挟まれている敵二人に対して、優位性を感じていることもなければ、油断をしている様子もない。挟んでいる二人のうち、ナイルよりはファルガの方が御し易いと踏んだか、攻撃対象をファルガに向けたようだ。構えはそのままに、足首をくるりと回すことでファルガを捉えようとする。
ナイルはぞっとした。
次の一歩で、己に背を向ける美しい男が、ファルガの喉笛を手刀で抉り取るイメージが鮮明に脳裏によぎったからだ。
だが、そこでナイルは一つの異常に気づく。いや、異常でなく、本来はこちらが本当なのかも知れない。それは、ファルガにあった。
ファルガは、純粋にこの美しい刺客に恐怖を感じているようだった。
それは正しい。
本来、この男の行動や今までの発言を耳にした者は、恐怖と違和感を覚えるべきなのだ。ましてや、己よりはるかに強い存在が、自分を打ち倒しに来ているのであれば、恐怖を感じるのは当たり前のことだ。
しかし、レナもインジギルカは勿論のこと、ナイルですら恐怖を感じることなく、この男の発言や行動をすべて受け入れ、安堵してしまっていた。
この恐ろしい状況下で、恐怖を恐怖と捉えることのできない異常な事態に対し、ファルガは全く干渉を受けていないようだった。
この男自身、自分の特殊な能力に勘付いているのだろうか。
ファルガの顔に張り付いた恐怖の表情が、逆にこの男には初めての経験のようだった。その恐怖を感じている表情が、今まで彼と対峙した人間の浮かべたことのないものである以上、この男自身ファルガの浮かべている表情の意味が分からず、不気味さを感じたようだ。
鋭い一歩で、ファルガとの距離を詰めた男は、ナイルが感じたイメージの通り、右手の手刀で喉笛をえぐろうとする。
だが、恐怖を感じ距離をとりたいファルガからすれば、この男の一歩の踏み込みより早く、更に背後に下がることになる。もっとも回避の後、次の攻撃に備えるような洗練された動きからは程遠いものだったが。
男は手刀を躱されたことに驚くとともに、相当な不快感を覚えたようで、連続して少年ファルガに攻撃を仕掛ける。ファルガは転がり、後ろに跳躍し、這いずり回りながら逃げ惑った。だが、ついに追い詰められ、逃げ道がなくなった。
ゆっくりと壁に沿って立ち上がったファルガは、足元に転がる麻袋の中に、何本かの棒を見つけた。逃げることは不可能。ならば反撃して道を切り開くしかない。その棒の一本を手にし、構えるファルガ。といっても、剣術の経験は格闘技の経験以上にない。不格好に棒を突き出すだけになった。
突き出した棒が、剣だと気づいたファルガは、どの程度の威嚇になるかはわからないものの、剣を鞘から抜き放ち、改めて構え直した。
錆び付いた剣。柄の部分には埃が溜まり、装飾品もほぼない、安っぽく見える剣。
だが、その行動がこの男の表情を一変させる。
笑みを浮かべながら構えられた手刀が、ゆっくりと降ろされた。
「……貴方になぜその剣が抜けるのですか?」
男は、初めてその口元から笑みを消した。