『餌』の奮闘
遠かった山脈が、景色としての映像でなく、実体を伴った存在として近づいてくる。雪に覆われた岩肌は、登山者を拒絶する罠としては十分すぎるものだった。
ほぼ断崖絶壁といって良い岩肌を、高山特有の山羊のような生き物が、親子で移動していた。足は六本あり、左右三対ずつ。また、後頭部に伸びる一対の角と、額からも角が伸びている。いずれももし刺されば致命傷になるくらいの太さと長さだ。
そして、それを付け狙っていると思われる熊らしき存在。この存在も足が左右三対、六本あり、動かし方をみるに、真ん中の足は前足の機能を持つ様だ。実際、その山羊を追跡する際、何度か尾根で立ち上がる仕草を見せているのだが、山羊を目で捉えているというよりは、上昇気流に乗って流れてくる山羊の匂いから位置を特定し、攻撃対象を追跡しているらしかった。尾根に近いところをゆっくりと歩きながら、付かず離れずの位置関係を維持する熊らしき猛獣。
どこの高山にでもある、日常的に危険な自然。どちらも一歩間違えば崖から転落して命を失ってしまうだろう。だからこそ、山羊の親子も走って逃げられず、熊も軽々しく襲いかかることができない。お互いに何かを探るように、行動は慎重だ。
ファルガは、現在眼下の山肌で繰り広げられている、生と死の隣り合わせの追跡劇を目の当たりにして、今更ながらに大自然の厳しさを堪能していた。自分達が戦ってきた世界以外にも、生き残るための戦いがあるのだと。そして、それは激烈な環境で行われることも多々あるのだと。
そんなファルガを見て、赤い肌の巨人ゴンフォンが苦言を呈する。
「ファルガ殿……。
大自然を楽しむのも良いですが、そろそろこやつの巣に到着しますぞ。巣に到着した直後に一瞬ですが、ファルガ殿を掴む足が緩むはず。その瞬間こそが勝負ですぞ」
あまりに快適な空の旅だったため、ファルガ自身すっかり忘れていた。
自分は今、猛禽に捉えられており、餌として巣に運ばれている真っ最中であるということに。
猛禽に握られて捕縛されていると思うからストレスなのであり、締め具合のほど良いプロテクターに覆われて、安全に飛行していると思えば、こんなに楽な旅はないだろう。実際、ファルガはそれくらいにしか考えておらず、ゴンフォンに言葉を投げ掛けられるまでは、完全にノーストレスだった。
「忘れないでくださいね! 私たちはこの鳥の足を利用して移動していますけど、ファルガさんは足でガッチリと捕らえられています。動き出しのタイミングは我々よりかなり難しいですからね!」
おそらく、猛禽は巣に到達しても、取ってきた餌を離すことはしないだろう。だが、餌を食い千切り、雛に与えるために、一瞬とはいえ餌を持ち直すはずだ。その瞬間しか、ファルガが逃げ出す時はない、というのがエスタンシアの見解だった。
(それは確かにそうかもしれない……。意外と俺はピンチなのか?)
ファルガはゴンフォンとエスタンシアの指摘に、思わず頭を搔こうとして、それが出来ないほどガッチリ拘束されていることを忘れていた。
実際に何度か動こうとして動けず、思ったより状況が深刻だったことに気付き、僅かに面食らったような表情を浮かべるファルガ。
「信じられない……」
心の底からリラックスしていたファルガに愕然とし、溜め息をつくエスタンシア。しかし、こんな調子のファルガが『見守りの神勇者』だったからこそ、彼女は生きてこられた。
ファルガはあの時以降も、特に何も言わない。だが彼は、自覚の有無はともかくとして、彼女のあの辛い瞬間を共に受け止め、彼女が乗り越えるための手伝いをしてきた。だからこそ、少女から絶大な信頼を勝ち得ている。
言葉だけではなく、態度だけでもなく、真に心から寄り添ったことで、ファルガは彼女の求める様々な悩みの答えを、示すわけでもなく教えるわけでもなく、共に考え悩みながら乗り越えてきたのだ。
エスタンシアは、アグリ界元の神勇者だ。そして、アグリ界元最強の農耕民族コバイン族の族長の娘だった。
本来、狩猟民族は獲物を求めて旅をするのに対して、農耕民族は農地を定め定住し、文明を作るというのが定説だ。
だが、コバイン族は定住しない農耕民族といわれ、彼らの領土である巨大な大陸内を、移動しながら開墾し、農作物を栽培・収穫していく。
彼らの類い希な身体能力と『氣』のコントロール能力ゆえ、コバイン族……資料によってはコバイン人とも書かれる……は、アグリ界元における農耕民族全ての、一人当たりの平均開墾面積のおよそ七千倍から一万倍といわれている。農工機械類を使った他の農耕民族と比較しての数値なので、いかにコバイン族の身体能力が高いかがわかるだろう。
種蒔きをしたら、その足で数万キロも移動しつつ、その時収穫できる農作物を収穫・輸送し、輸送先の近くの荒れ地を開墾しながら移動する。
開墾そのものは一瞬だ。
刃の先端部に『氣』を集めた状態で、コバイン族が全力で鍬を振り下ろすと、土壌に深々と刺さった鍬先から『氣』が水平に広がるように勢いよく放射される。
すると、視覚的には戦闘時の大技を彷彿とさせるような爆発が発生し、同時に、地雷の衝撃波が地中を進んでいくように、鍬を打ち込んだ部位から、地面が順番に盛り上がっていく。
その結果、固く踏み固められて瘦せこけてしまっている土壌に、空気と栄養分が混ぜ込まれ、適度に耕されたのと同様の肥沃な土地となる。そこに種を蒔いたり苗を植えることで、栄養価の高い農作物が育つようになる。
おそらく『氣』という生命エネルギーが、地中の有機物の活動を活発化させるのだろう。あるいは、地中に留まった生命エネルギーを直接苗に吸収させることで、その成長を促進させているのかもしれない。
広大な土地を移動しつつ開墾し、そこで栽培から収穫を行なっているという点でいえば、同じところを何年、あるいは何十年という長い期間を経て周回していることになり、広義的には広いエリアを拠点として定住しているといえるかもしれない。ただ、神ならばともかく、同じ現次の観測者が、コバイン族の活動エリア内の動きを全て追跡し続けるのは至難の技だろう。動きは騎馬民族のそれに近い。それゆえ、人間などの現次知的生命体がコバイン族を紹介する時には、『定住しない農耕民族』と称される。
コバイン族の悲劇は、全界元を通じて殆ど類を見ない、とある病に族長が感染してしまったことから始まる。
その病とは、心魂が変化してしまうというものだ。
あまりに症例が少ないため、まだ正式には名づけられていないが、妖魔反転という現象は全界元を通じて、ほんの数件確認されているので、神皇間では『妖魔反転症』と、そのままの表現で呼称されている。具体的には、『妖』の心魂から『魔』の心魂に遷移する事案と、その逆の両方が確認されている。
今回コバイン族が感染したのは、『妖』から『魔』へ心魂が遷移するという、第一パターンと呼ばれる妖魔反転だった。
厄介なのは、接触した人間が全員感染するわけではなく、感染しても発症しないケースもあるという。
妖魔反転は、心魂の概念がまだ伝わっていない文明においては、統合失調症と表現されるような症状だ。しかし、妖魔反転症と統合失調症の差は、現時点では明確に線引きができているわけではないので、症状を観察している限りでは、所見によっては同じ疾病とみなされる場合もある。
神皇は、その病について観察を続けるが、まだ具体的な症例数があまりに少ないために、有効な対応策を見いだせていないのが現状だ。
また、ドイムではかつてグアリザムという妖神が、妖魔反転という技術でドイム界元の魔神皇になろうとし、さらにその後は、『魔』の性質を多分に持つ『超妖魔』に昇華した事例がある。
こうなると、果たして病なのか、技術なのか、厳密には判断がつかない。いずれにせよ、心魂そのものの特性が見えてくれば、何かしらの処置も施せるようになり、悲劇は格段に減るはずだ。
アグリ界元での戦闘において、エスタンシアは『魔』となったコバイン族の人間の暴動を阻止することができなかった。
アグリ界元の魔神皇フーツーを疑似仮想空間に閉じ込めても、『妖魔反転』した父たちはもはや『妖』へと戻ることはなかった。それどころか、『魔』になった者たちは、エスタンシアが愛した者達を、衝動に任せて手にかけようとさえした。
そのため、エスタンシアの想いを汲んだファルガは、族長をはじめとする『魔』に飲まれた者たちに、やむなくとどめを刺すことになった。
それは、エスタンシアが『精霊神大戦争』に突入する直前のことであり、父をはじめとする一族の暴動を、彼女が止められる状態ではなかった。
それでも、いざ≪索≫のゲートに飛び込む直前、父が討たれたことを知った彼女は激しく動揺した。
理屈ではわかっている。
だが、何か打つ手があったのではないか。自分ならば、父たちを止められたのではないか。
彼女は何度も自分に問いかけながら、アグリ界元の神皇メジギダの作った疑似仮想空間に飛び込んでいくこととなった。
『精霊神大戦争』後、ファルガは黙って彼女の平手打ちを受け、彼女が悲しみのあまり自我を失った瞬間も彼女を包み込むことで守り、そして、彼女が自ら立ち上がるための杖となった。
本来、神勇者であるファルガとギューは、『精霊神大戦争』が始まった時点でその界元を立ち去ってもよかったのだが、彼は敢えて待つことを選び、彼女の気持ちの整理がつくのを見守ったのだった。
別れの時、エスタンシアは改めて彼に謝罪する。だが、彼は無言でエスタンシアの肩に手を置き微笑むと、神皇メジギダの準備した≪洞≫の術のゲートを潜り、超界元の城へと戻っていった。
その後、アグリ界元の神勇者エスタンシアは、『精霊神大戦争』に勝利した神勇者として、超界元ユークリッドの神皇エリクシールに『見守りの神勇者』として呼ばれ、何度もその任を果たした。
恩人でありながらも父の仇でもあるファルガとも何度かペアを組み、『見守り』を完遂させている。
「≪索≫の術が使えないからよくはわからないけど、あの窪みに雛っぽいのが見えるよな?」
猛禽に捕まったままのファルガが、進行方向にある岸壁の窪み部分に、何かうごめくピンク色の物体を認め、エスタンシアとゴンフォンに同意を求めた。
「あそこが巣なのね」
雛たちが飛んでくる親の姿を認めて、我先にと大声で餌をねだり始めた。親の顔がすっぽり入ってしまうくらいに大きな口を開け、必死になって餌を要求する姿はほのぼのとする。
だが、冷静に考えると、ファルガ達を一飲みにできそうな猛禽の頭部ですら、飲み込んでしまうのではないかというくらいに大きく開けるということは、その雛も、雛の開けた口の大きさも、とてつもなく大きいことになる。
「あらー……。こりゃ、俺は一口サイズかもしれないな」
ファルガが思わず失笑しながら呻いたが、実際に拘束をされているわけではないエスタンシアとゴンフォンは、危機の回避が思ったより容易には進まないのではないかと思い始めたようだ。
獲物が大きければ、足で掴んで巣に連れてきた後、足で押さえなおして、ついばみながらその部分を雛にやるという形も想像できる。
だが、猛禽が昆虫の幼虫を捕まえた時には、特に食い千切ることをせずに、顔ごと雛の口の中に頭部を突っ込み、餌を置いてくるのだ。
完全に想定外だった。
猛禽のサイズは想像以上に大きく、捕まえたファルガは雛の全てを十分に満足させる餌ではなく、単なる芋虫程度の量しかないということなのだ。いわば軽食にすぎないといったところか。
いよいよ、大きく広げ滑空していた猛禽が、両翼を縦に立て始めた。そうすることで、飛行速度が減速し、巣に衝突することなく、ふわりと巣の中に降り立つことができる。
だが、このままだと、ファルガは到着早々すぐに嘴でつままれ、雛の口の中だ。巣に到着するということは、ファルガにとってはまさに、死へのカウントダウンが始まったことを意味する。
巣の内部の異変に気付いたのは、親鳥である猛禽とファルガ達では、ほぼ同じタイミングだった。
親鳥が帰巣し、雛に餌を与える光景。
これは書物や写真でも、映像でも紹介されているものだ。
それは、雛が口を大きく広げて大声で呼びかける、親に自分の元気さを強調する行為。ここで自身の存在を主張し負けると、親鳥から餌を貰えなくなり、著しく雛は衰弱していく。
……それでも違和感が拭えないファルガ。
見ていて直ぐにおかしいとは分からなかった。
だが、いわれて見れば確かにおかしい。そもそも、親鳥が巣に入る前に雛が鳴き叫んでいるのがおかしい。
通常、猛禽類に限らず、鳥というものは、卵から孵化して雛となったとき、親が巣を離れて狩りをしている時には、雛は外敵から身を守るために、巣の端の方に固まって待ち、すぐ側を敵が通ろうとしても、微動だしないのだ。それはまさに、風景に同化しているようにさえ見えるほどの擬態だ。種類によっては、雛の羽毛は鳥の糞のような柄をしていることさえある。
それくらい親のいない巣は危険であり、抵抗する術を持たない雛は、ただただ敵がやり過ごしてくれるのを、息を殺して待っている。
だが、眼前の猛禽の巣の雛たちは、目の前に餌が準備されているがごとくに大騒ぎしていた。それは、理由を知っているならなおさら、一種狂気の沙汰にさえ思える。自ら目立つ行為をとるなどとは。
むしろこの状況は、雛のかくれんぼが失敗に終わり、迫る敵に対して激しく威嚇していると考えるのが正しい。
エスタンシア達が異常に勘づいたのとほぼ同タイミングで、翼を上手く使い減速していた猛禽は、加速体制に入った。
それにより今度は足に乗っているだけのゴンフォンとエスタンシアが振り落とされる可能性が出てきた。
ファルガも、この猛禽が攻撃を仕掛けた際には、放り出される可能性が高くなった。彼自身はそれに対する準備だけは出来ないが、気持ちの上でそのタイミングを待つことになる。
「蛇よ! 蛇が巣の雛を襲おうとしているのね!」
猛禽の足に腰かけていたエスタンシアは、よじ登るように立ち上がる。
「こいつはあの蛇に体当たりを仕掛けるはずです。そのタイミングが一番岩肌に近づきます。その機を逃さずに岩肌に飛びうつってください!」
ゴンフォンも猛禽の足の上に立ち、飛びうつるタイミングを待った。
そんなゴンフォンたちの目に飛び込んできたのは、巣に巻き付くようにして雛を狙う大蛇だった。
「……大きい! こんな奴がこの岩肌をはって移動することが出来るのか……!」
ゴンフォンの驚きも無理はなかった。
巣で暴れ狂う雛の大きくピンク色の嘴が、目一杯開かれている。無力な雛の、数少ない抵抗方法だ。だが、鞭のようにしなる舌をちらつかせる蛇が、それに怯むとは到底思えない。
そして、驚きなのはその蛇の大きさ。猛禽の頭部ごと餌を貰えるように開かれた雛の嘴が、蛇の頭部の半分程度。
ということは、蛇の頭部だけで、猛禽の頭部のおよそ二倍近くあるということになる。頭部がその大きさならば、長さは推して知れるだろう。体長は、優に三十メートルは越えるはずだ。
一度上昇した猛禽は、その翼をすぼめて急降下する。岩肌の窪みに作られた巣に、巻き付くように陣取る蛇と隅の方に固まってけたたましく鳴き続ける雛との間に割って入るつもりのようだった。
蛇はゆっくり大きく口を開け、暴れまわる一羽の雛を咥え込む。口に咥えられた雛は、『泣き』叫ぶのに加え、まだ育っていない小さな羽をバタつかせるが、蛇は咥え直すように一度口を離し、違う角度から雛を咥え直す。下顎が二つに割れ、それぞれが独立して蠢くことで、雛は鳴きながら蛇の口の中へと飲み込まれていった。
息を飲むエスタンシア。やはり少女が嬉々として観察するようなシーンではない。
二羽目を咥え込もうとする直前、猛禽が鋭く短い声で威嚇しながら、高速で接近し、大蛇の顔に組み付く。
猛禽と蛇が衝突し、重々しい衝撃音が響き渡る直前、ゴンフォンとエスタンシアは、猛禽の足から離脱した。
巣の中を転げる二人は、そのまま猛禽のものと思われる巨大な羽毛に突っ込み、事なきを得た。親鳥が自ら、雛たちのベッドにするために準備した羽毛の固まりに、神勇者二人は救われることになる。
体勢を立て直したゴンフォンとエスタンシア。しかし、周囲をみてもファルガの姿はない。
キョロキョロと周囲を探すも、雛の周囲にはいないようだ。
悲鳴にならない悲鳴が、激しくぶつかり合う猛禽と大蛇の間から微かに聞こえてくる。
どうやら、帰巣と同時に格闘を始めた猛禽と大蛇の格闘の中心地点に、ファルガはまだいるらしい。
大蛇はその長い身体を使って、猛禽の親鳥に巻き付き、絞め殺そうと試みる。
片や猛禽は、その巨大な翼や三本ある足を使い、大蛇に打撃を加える。狙っているのは、四つある大蛇の目だろう。この目を潰せば、取り敢えずは雛を守ることが出来るはずだ。
また、上手く大蛇の身体をつかむことが出来れば、そのまま巣から離脱し、大蛇を巣から引き剥がすことができる。そうなれば、巣の中の雛の安全が保たれる。残り二羽となってしまった雛たちを何とか親鳥は守りたかった。
格闘の最中、ファルガが放り出されてきた。ゴンフォンはそれにいち早く気付き、ファルガの落下地点に素早く入り、青年を上手く受け止めたのだった。
格闘に熱中するあまり、掴んでいた餌を手放したのだろう。猛禽は、もはや餌であるファルガの存在になど目もくれなかった。
親鳥と蛇の格闘に振り回され、目が回っていたファルガは、半分気を失っていて、受け身がとれそうもなかった。
運良く巣の内側の方に投げ捨てられたので、ゴンフォンに受け止めて貰えたが、逆方面に放り出されていたら、今頃どうなっていただろうか。
意識が朦朧としている状態で、恐らく数千メートルはあるだろう山腹から転がり落ちて、生きているという保証はどこにもない。また仮に意識がはっきりしていても、現状のファルガは『氣』が使えない状態。『氣功術』は愚か、身体強化すら使えない状態では、崖下まで無傷でたどり着けるとも思えない。
気を失いかけたファルガが、巣の中に放り出されたのは、まさに不幸中の幸いといわざるを得なかった。
二体の巨大な生物は、隅の方にいる雛二羽と、餌候補であった三人の神勇者にはお構いなしに取っ組み合いを続けていた。
これほどの巨体を持つ生物でも、驚くほど機敏に動けるのだ。そして、その巨体ゆえ、ひどく重々しい衝撃音が常時響き渡る。
その音も、この戦闘を圧倒的な迫力に見せていた。
『氣功術』が使えれば、何てことのない相手であろう二頭の巨獣も、非力な状態のゴンフォンたちにとっては、脅威でしかない。
猛禽の三本目の足が、大蛇の首の少し後ろ部分をガッチリと捕まえた。この位置を掴まれると、身体を捻っても蛇の牙は固定部には届かない。
巣の中で暴れ狂っていた大蛇の尾に近い部分が、苦し紛れに巣の壁に叩きつけられる。のたうつという表現では収まりきらない程の迫力だ。だが、それでも猛禽の巣は崩れない。それだけの強度を持った部分ということか。
猛禽は一声鋭く鳴くと、崩れ落ちるように後方の巣の外に落ち込んでいく。力尽きたのではなく、ガッチリ掴んだ蛇の身体ごと自ら外に落ちることで、大蛇を巣の外に投げ捨てたのだ。
しかし、雛にとってはそれが仇となる。巣の外に投げ出される際の蛇の尾が、一羽の雛の頭部に命中したのだ。
雛は今まで聞いたことのないほどの苦し気な声で鳴くと、それ以降は沈黙し、痙攣し始めた。二人の神勇者たちの目には、明らかに蛇の尾の一撃が致命傷になってしまっているように映る。
息を飲むエスタンシア。いくら自分達が餌にされそうになっているとはいえ、そして、いくら自分達より遥かに大きいとはいえ、やはり子が死にかけているのを見て、心が乱れない筈はなかった。
ちょうどその時、大蛇を崖下に投げ捨てた猛禽の親鳥が戻ってきた。
巨体に似合わず、ふわりと着地する親鳥。だが、眼前の一羽の雛の昏睡状態を見て何となく事態を悟ったのか。
動かなくなった雛鳥を、眠っていると勘違いしたかのように優しく嘴でつついては動くことを促した。それでも、ぐったりとした雛はちからなく転がるだけだった。
「やっぱり、見過ごせないよな……。例え俺たちを餌にしようとした奴でもさ」
ゴンフォンが庇うように立て膝をつき、その後ろでファルガの頭を支えるようにしゃがんでいたエスタンシア。
その足元で、言葉を発したのは、今まで気を失っていたはずのファルガだった。
青年はゆっくり起き上がると、ふらつくのをこらえながら、ゆっくりと瀕死の雛の方に近づき始めた。
一羽の雛は、ファルガの接近に怯え、巨体をバタつかせながら親鳥の後ろの方に隠れる。
親鳥は、この餌風情が何をするのか、とばかりに、ファルガを嘴でついばもうとする。だが、ファルガは向かって左手にいる猛禽に対して、左手を突きだし、待てと意思表示をした。
「ファルガ殿……、一体何を!?」
思わずゴンフォンが叫ぶが、エスタンシアは、ファルガが何をしようとしているのか、何となく察したようだった。
「この界元で≪回癒≫を使うのは危険よ!」
エスタンシアは、ファルガの意図を明確にした上での注意喚起だった。だが、ファルガには何か考えがあるのだろうと思い、それ以上は口にしなかった。
何より驚きなのは、ファルガの突き出した左手の意図を、猛禽が察したことだった。最初は素直に従ったという感じではなかった。だが、啄もうとする猛禽が、はたと動きを止めた。そして、ゆっくりと後方に退いたのだ。それはちょうど、不本意ながらも誰かに諭された。そんな印象の挙動だった。
「済まないが、ちょっと子供に触らせて貰うよ……。かざすよりは、接触しての≪回癒≫の方が効果はありそうだ」
ファルガは親鳥にそう告げると、ぐったりとした雛に近づき、雛を観察した。
まだ胸の上下はある。だが、それは徐々に弱々しくなっている。あまり猶予はなさそうだ。
ファルガは、先程大蛇が暴れた際に尾が打ち付けたと思われる、雛鳥の首部分に両手を押し当て、『氣』を集中した。
≪回癒≫の術は、傷を治す術ではない。新陳代謝を促進するためのエネルギーを補充するための術だ。だが、過剰な生命エネルギーを投与して、新陳代謝を促進するがゆえに、回復しているように見えるのが実際のところだ。
はたして、氣功術で雛が回復するかどうかの確証はファルガにはなかった。だが、それでもやらずにはいられなかった。
ファルガは丹田で『氣』を増幅すると、強めた『氣』の指向性をコントロールし、雛鳥の身体の奥へと染み込むように方向付けをする。
ファルガは一瞬めまいを覚えた。やはり、身体の外に漏れ出る『氣』を感知して、正体不明の『それ』はファルガの『氣』の吸収を始めたのだ。それでも、『氣』を剥き出しにして空を飛ぼうとしたギューよりは、吸引速度は遅いと思えた。ファルガの読み通り、接触の方が『氣』を奪われずに済むということか。
「今更やめられるかよ……!」
ファルガは、外に漏れ出ようとする『氣』をできるだけ内側に向け、時間をかけて雛鳥の体力回復を試みた。
意図を汲んだエスタンシアも立ち上がり、ファルガの術の参戦に行く。
少女もまた青年と同じように、両手の掌底を雛鳥の患部とおぼしき所に押し当て、雛鳥に生命エネルギーを送り込む。
アグリ界元の神勇者、取り分けコバイン族の長の娘の『氣』の保有量は、やはり伊達ではなかった。
早々にばたりと倒れ込むファルガを横目に、強力な生命維持活動をもたらすエネルギーを、少女は供給し続けた。
ファルガが意識を取り戻した時、一体どれくらいの時間が経ってしまっていただろうか。
「お目覚めですな。相変わらず無茶をしなさる」
起き抜けでまだしゃっきりとしない寝覚め、といった感じのファルガだったが、目に入ってきた光景で、現在の自分の置かれた状況を思い出す。
「雛は?」
食いつくようにゴンフォンに尋ねるファルガ。だが、ゴンフォンの答えを待つまでもなく、雛とじゃれるエスタンシアの姿を見て、ファルガはほっと胸を撫で下ろす。
「……良かったよ。このままあの雛にまで死なれたら、寝覚めも悪いぜ」
ファルガは、自分の体調を確認しながら、ゆっくりと立ち上がった。
ギューの失敗を目の当たりにしているファルガ。その為≪回癒≫での『氣』の使い方については十分に注意していたはずだった。それでも昏倒してしまったことには、些か不満は残るものの、当初の目的は達せられた。
「……しかし凄いな、エスタンシアは。俺が術を仕掛けてから、彼女が参加してくるまでに、そんなに時間は経っていなかったはず。俺はこの様なのに、あの子はあんなに元気とは」
「それは仕方ないでしょう。彼女の『氣』の総量は、我々よりも遥かに多いのです。
≪回癒≫の術に彼女が参加した時、某は、お二人の回復のために『氣』を温存する選択を取りました。
ですが、彼女は結果的に少し息を切らしただけでしたから」
ファルガは一瞬難しそうな表情を浮かべた。
ドイム界元では、『氣』の含有量、戦闘能力に於いて、名実ともに一位だという自覚はあった。
ところが、別界元の神勇者カインシーザとの二度目の邂逅時は、彼の追跡していた敵に不意打ちとはいえ、一撃で倒される有り様だ。更に、ディグダインとの邂逅時では、機鎧の操縦に於いて『真』のコントロールでギューには圧倒的な力の差を見せつけられた。さらに、ユークリッドでは『氣』の保有量でもエスタンシアに負けている。
「一番に拘るつもりはなかったけど、凄い奴ばっかり目の当たりにすると、自信なくすよな……」
ファルガは力無く微笑んだ。
そんなファルガをゴンフォンは称える。
「……ですが、あの雛を助けられたのは、ファルガ殿がいたからですぞ。某もエスタンシア殿も、あの親鳥の雛を助けようという選択肢はなかったのです。
あの大蛇と親鳥の戦いに乗じて、この地を去るつもりでおりましたから。
ですが、ファルガ殿の行動で、ひとつの命が救えたのは間違いないのです」
「……そういうものなのかなあ」
立ち上がろうとするファルガの前に、ゆっくりと歩み寄る巨大な影。
一瞬身構えるファルガ。
だが、ファルガを見下ろすその鋭い眼差しは、ほんの僅かではあるが何かを伝えようとしているようだった。
猛禽の母。
歴戦の勇士である彼女の顔には、真っ赤な鮮血がまるで戦化粧のようにこびりついている。嘴だけではなく、頬の羽根にまでべっとりと。
彼女の口元からぼとりと何か落ちた。
それは、鮮血滴る肉だった。おそらく、先ほどの大蛇を狩り切ったのだろう。そして、雛を蘇らせた感謝を、彼女なりに表現してくれているように見えた。
とはいえ、蛇の生肉だ。すぐに食指が伸びるはずもない。
じっと見つめる猛禽の母。
彼女に礼を言うと、ゴンフォンは素早く腰から短剣を出し、肉を小分けに切り分け、同時に巣内に落ちていた、三十センチほどの鋭い棒を何本か見つけ、そこに突き刺す。そのまま巣の端に行き、火を起こす。
不思議と、猛禽の母は火を怖がらないようだった。
ゴンフォンは、それほど焚火が大きくならないように注意しつつ、その周囲で蛇の肉を焼き始めた。
やがて、大蛇の肉は良い香りを伴って煙が上がり始める。
ゴンフォンは手早くそれをファルガとエスタンシアに取り分け、火の始末を行なった。
「いただきましょう」
ゴンフォンは彼らにそう声をかけ、その後猛禽の母に礼を言うと、むしゃむしゃと頬張り始めた。ファルガとエスタンシアもそれに続く。
ファルガは焼いた肉を雛たちにも食べさせようとしたが、彼らは頑なについばもうとしなかった。焼き肉を猛禽の一族が好まないのか、それとも、この肉は彼女がファルガたちに譲った肉だからなのかはわからない。
だが、ファルガにはなんとなく、譲った肉を、再度形を変えて分け与えてもらうという習慣がないのだろうな、と思えたのだった。
ゴンフォンは、残った肉を残り火で燻製にすると、彼の持っていた小さなカバンに詰めた。非常食としても使えるだろうと思ってのことだが、それがまた人の命を救うことになるのは、また別の機会となる。
ファルガたちは、少し尾根伝いに歩くことにした。その方が、視界が効くからだ。標高は恐ろしく高いはずだったが、体感では二千メートル程度の景色だった。そして気温も。
三人の神勇者は、巣を後にする。
二羽の雛と、猛禽の母は無言で、彼らが去るのを見守るのだった。
 




