鋼鉄の空間にて
ヒータックがいよいよ旅立ちます。
重く硬い物を引きずるような音が、四方を鉄板に覆われた空間に響き渡る。その音が一瞬遠ざかると、空間の空気がふわりと動いた。何かが帯電したような音が天井のあちこちで発生し、空気の流れと音でしか判別できなかった四角い空間に、寒々しい明かりが灯る。水銀灯のような光が冷たく感じるのは、その青白い光の為だけではあるまい。上下左右全てが鉄板で覆われたこの空間に、丼を伏せたような形状の物体が無数に並ぶ。
短く刈り込んだ髪は、風の影響は微塵も受けないが、彼の衣服は大きく風を孕む。ヒータックの身に纏うSMGの戦闘服は、闇に紛れる為、漆黒が基調の装束だが、俊敏さを失わぬため、膝あてや肩当て、肘当てといった最低限の防具のみが施されており、腰には彼の使い慣れた短剣のみ。長剣や槍を彼は持たない。
間合い重視の武器は、一見して戦闘向きのように思えるが、実は狭路や閉所での戦闘では一番向いているのは短剣だ。本来敵を倒すための動作という点では、狭路や閉所であれば、長剣や槍は行動の幅が奪われ、相手を倒すのに有効な威力が得られない。船上あるいは船内、あるいは洞窟などの閉所や狭路では、刺突や斬撃の有効間合が短ければ、その分有利な戦い方が出来るわけだ。
実際、SMGの戦闘員は、敵船上で戦う事が多かった。狭い船上で戦う際、長い獲物では、味方を傷つけかねなかった。また、振り回した刃が船体に刺さってしまい、その効を失うどころか、自らの命を危機に晒しかねない。その為短剣を多用した経緯を持つが、それは未だに受け継がれている。そして、SMGの戦闘文化には盾という物が存在しない。短剣の二刀流で戦うか、利き手に短剣を持ち、左手は手甲あるいは手甲に準じた効果を持つ形状の打撃用の武器、所謂旋棍を盾替わりにする。無論、剣や槍、弓などの訓練も行うが、彼らが最も得意とするのは短剣をメインとした戦闘である。
そして、船に乗り移る為に用いられたのが飛天龍だ。
飛天龍は、古代帝国の遺跡から発見された技術の一つだ。かつて大陸を浮遊させたとされる古代帝国は、当然人を飛行させる技術を持っていた。その飛行を具現化させたのが、まさにヒータックの眼前に何機も鎮座する、伏せた丼状の物体だ。
飛天龍の裏側には、三基の回転翼が搭載されている。この回転翼がそれぞれ逆回転するため、飛天龍そのものが回転することを防いでいる。また、この回転翼部分が前後左右に傾くため、前進や後退は勿論の事、右旋回、左旋回、垂直の昇降も可能となっている。
だが、実際に飛天龍をコントロールするのは『丼の底』と言われる、手すりで周囲を囲まれたキャビン部分の床から生えた二本の操縦桿だけではない。飛天龍の操縦は、操縦桿を握るパイロットのほか、バランサーと呼ばれる存在を右後方と左後方、ちょうど回転翼上に配置することで、パイロットの操舵を助け三人で行なった。凄腕のパイロットとバランサー二人が乗り込んだ飛天龍は、通常ではありえない動きをしたとさえ言われる。
そんな、兵器としては夢のような飛天龍。だが、SMGにて出番を待つ飛天龍も、実はわかっていない事も多い。今でこそ、回転翼を回す為の内燃機関を搭載し、液体燃料を使っているが、古代帝国時代の燃料は未だに不明だ。文献によると、移動エネルギーの供給は、回転翼ですらなかったとも書かれているが、では回転翼の代わりが一体何だったのか、についての言及はなく、何か不思議な力でこの金属の塊を浮遊させていた事が薄々わかる程度に過ぎない。
現在でこそ、回転翼を限界まで前方に傾け、回転数も上げる事でこの地上で最も帆船の倍の速度で飛行することは可能だが、かつての飛天龍が一体どの程度の速度で飛行できたか、という事についての資料はなく、謎に包まれている。だが、少なくとも『飛天龍に狙われた船は間違いなく撃沈させられた』と言われている事を考えると、当時の移動手段としては最速だったのだろう。
その技術を、SMGは最低限の所で維持し続けてきた。古代帝国の崩壊後も、空中武装商船団を名乗り、世界の貿易を牛耳れたのは、一重に飛天龍の機動力あっての事だ。だが、飛天龍をメンテナンスすることのできる人間も徐々に減ってきている。それは、単純にSMGそのものが高齢化してきているからだ。
ヒータックは、『丼の底』に上がる為の梯子に手を掛け、昇り始めた。丼の側面を上り、キャビンの周りを縁取る落下防止の柵を乗り越えると、そのまま操縦桿の傍にゆっくりと歩みを進める。床から生える操縦桿を握りしめ、何かを確かめるように何度か前後に動かしては、元に戻す。
彼がSMG内で名を成している理由の一つには、頭領の孫であるということ以外に、飛天龍のパイロットとして、SMG内でもトップクラスの実力があるという事実がある。実戦経験は数回と、それほど豊富ではないのだが、そこでも卓越した操縦技術を披露し、歴代のエースにも引けを取らない評価を勝ち得ている。但し、飛天龍部隊に配属されているわけではないので、正式なエースという扱いではない。ただ、飛天龍隊に配属されればエースとして隊を率いる実力があるということだ。他にも、潜入ミッションなどもこなしており、ヒータック自身、大きな成果を上げている。
だが、飛天龍隊でないにも拘らず、飛天龍に対する憧れは強く、また、彼の自己肯定の根拠は飛天龍と共にあった。
今回、彼の持つ不安は、達成困難な指令の遂行とは別の、彼の自信の根幹となる飛天龍と袂を分かつことも原因の一つであるのは間違いなかった。そして、その母体となるSMGとの袂を分かつことも……。
SMG頭領の孫、ヒータック=トオーリがSMGからの脱退を認められる条件は、単純明快だった。但し、その条件をクリアすることは非常に難しかった。
それは『ラン=サイディール国首都となったデイエンにあるとされる、自由貿易の権利を認めた免状を奪取する事』だった。
元々、その免状は、SMGが『港町デイエン』に対して発行したものであり、ラン=サイディール国そのものに対して発行したものではない。あくまで、SMGはデイエンでの貿易行為を認可した、というスタンスなのだ。
だが、それに対してラン=サイディール側は、デイエンに首都を移した上で、その首都が認可されているのだから、ラン=サイディールに対して免状を出したと同義だ、という主張をSMGに行なっている。それ故、ラン=サイディールが自由な貿易権を行使しても良いだろう、というわけだ。
免状での許可項目は、港町デイエンにおける自由な貿易。
デイエンが貿易で得た収益の一部をSMGに支払う代わりに、SMGはデイエンの貿易を許可し保護する、といったものだった。それを、デイエンという都市を窓口とし、ラン=サイディールが国として貿易を行なっているのは、SMG側からすれば違反行為に他ならない。
デイエンの貿易先は、他国の港町だ。その港町は国家としてではなく、その港町そのものが意思決定をして行なっている。従って、国がその貿易を統括しているわけではないのが現状だ。実際は、そこまで国家が各都市を掌握しきれていないということであり、その点では遷都したラン=サイディールも同様ではあるのだが。
要は、SMGが認可しているのは港町デイエンだけでありながら、実質はラン=サイディールという国家の支配下で貿易を行い始めたという、いわゆる名義貸しの貿易の形態が、SMGにとって問題だということだ。
だが、実はこの内容は曖昧な箇所を多分に含んでいる。
まず、国家としての貿易は、本来国が決めるものである。
それを決める権利を有するからこその国家だといえる。そして、自国と相手国の輸出入や関税等については、話し合いによる双方合意において行なわれるべきものだ。それを、第三者であるSMGという組織が間に入るのはおかしいだろうという考え方がある。
しかし、古代帝国後に成立した国家は、国家成立前から存在するSMGの圧倒的な軍事力により、それを言い出せないのが現状。また、そこまで国家という単位で人々がまとまりきれていないというのもある。国家の成立要件が、この世界では非常に曖昧なのだ。
本来、国家の成立要件の三つの項目は国家の三要素と言われている。領域が定められ、住民が所属している自覚があり、管理という名の支配がなされていると国家として承認されるといわれる。
だが、問題なのは、この世界にまだ国家に対する承認行為を行う存在がないのだ。となれば、宣言した者勝ちの世界と言える。そして、古代帝国亡き後、その団体として機能したかったSMGではあるが、その団体として機能するには力がなさすぎた。
SMGは、一国が相手にするには強大すぎたが、世界を支配するには脆弱すぎたのだ。
「親父は、何故SMGを捨てた? そもそも、俺は何故SMGから抜けようとしている?」
物心ついてからというもの、躍起になってSMGから抜けることを切望したヒータック。だが、祖母は言う。お前のその望みは、持つことそのものが贅沢だ、と。
確かに、SMG内にいるからこそ、現在のSMGに対して不満を持てるわけで、SMGから脱退してしまえば、後は強力なSMGは、自身のありとあらゆる権利を押さえつけ、搾取することも可能だ。そして、そもそもそういう団体だ。その搾取という行為に対して疑問を投げかけたところで、今ここで自分自身がSMGの搾取の上に成り立っている存在である以上、そこに異論をはさむことは、単純に自己否定という事になりかねない。
だが、それでも父はSMGを去った。
SMGを、頭領リーザを納得させたという事だ。結果を出してきたという事だ。少なくともリーザの命令を遂行した。命令を遂行することで、SMGに対して自分の力を誇示した。その上で、SMGからの独立を勝ち得た。
ヒータックの父フリコは、死んだとされている。実際、遺体をSMGの人間が埋葬したという記録もある。彼の墓の所在ははっきりしている。だが、彼が何故SMGを抜けたいと願ったのか、それは謎とされた。
今、同じことを子ヒータックは望む。その理由は何だ。
言葉にすると、『何となく』なのだが、恐らくは、外の世界をSMGというフィルタを介さずに見る事。
SMGの人間という立場を越えて、世界という物を見てみたかった。その上で、現状のSMGがこのままでよいのか思いを馳せたかった。もし仮に、SMGの状態が現在にそぐわないのならば、変化をしなければならぬ。自分にSMGを変える力があるかはわからない。だが、それをしていかなければ、SMGは滅びる。
そう考えると、SMGを去ろうとした人間たちの行動は、SMGを愛していたが故のものだったのではないか。SMGの今を憂いて、何とかしようとしていたのではないのか。組織としての力も技術も、構成する人間の年齢さえも、摩耗していくだけになってしまった今のSMGを何とかしたかったのではないか。
「……そうなのか? 親父……」
SMGを去ろうとする人間に、SMGに対してプラスになるような試練を与える。そして、それを克服すれば脱退を認める。
一見すると妙な話だ。
通常の組織では、抜け者を排除する。技術を奪い、家族を奪い、命を奪う。
だが、SMGはそれをしない。離脱を望む者に、手土産を求め、その者が去る事を推奨しているようにすら見える。
それは、行き詰っているSMGに対して、いつか新しい風を吹き込んでくれることを願っての措置ではないのか?
リーザは、今までに脱退の意志を伝えた人間には、それを求めてきたのではないのか? 実際、脱退を条件付きで認めるようになったのは、リーザが頭領になってからだという話がある。事の真偽は不明だが、そう考えると、全て合点がいく。本当はリーザ自身が外に飛び出し、世界を見たいという気持ちがあるのかもしれない。だが、それをするにはリーザは高齢過ぎた。そういうことなのだろう。
「俺も、SMGを何とかしたいと思っているというのか?」
今のSMGに違和感を覚えていたヒータック。
だが、それがSMGを良い方向に持って行きたいと望む彼の本心であるとするならば、SMGを現在の世の中にそぐった形にして行きたいとする彼の気持ちの表れならば、彼のSMG脱退の意志は、SMGから離れた所に立って世界を見てみたいという気持ちに加え、現実をSMGにフィードバックしたいという意思と同義だ。
「……ならば、この命令は、いわば俺の卒業試験というわけだ」
ヒータックは薄く笑った。
頭領リーザから命令を受け取った後、それをどのように実行するかに頭を悩ませた。
頭数を揃え、大挙してデイエンを襲い、免状を奪うやり方も考えた。
何人かの精鋭を揃え、隠密に行動し、免状を奪い取った後、奪い取った事実を世界に周知し、ラン=サイディールの無力化を謳う方法も考えた。
だが、これからSMGを抜けようとする人間が抜けようとする組織の力を借りてしか命令を遂行できないのは、やはりおかしいと感じた。
そうなると、やはり、単独で命令を遂行するしかない。大地に降り立ち、自分の足で行動するしかない。
そう思い至った時、彼は単独行動に恐れ戦いた。
結局、自分は今までSMGという後ろ盾の元行動していたのだと。様々な物を欲し、満たしていたのだと気づかされた。彼の持つ選択肢は、結局SMGという組織の力を借りた上で発生するものでしかなかった、という事なのだ。
不安は拭えない。だが、道筋はできた。
操縦桿を弄る手が止まり、ゆっくりと顔を上げた。
「お兄ちゃん……!」
足元で自分を呼ぶ声に気付き、我に返るヒータック。
声の主は、飛天龍の麓にいる。その声のトーンから、自分を心配して追ってきた事が容易に想像できた。
「サキか。子供がこんなところをうろつくな」
ヒータックは必要以上に無愛想に応える。だが、それは自分が持っている迷いと不安とを妹に気付かれてしまったかもしれない、という若干の気恥ずかしさもあったのだろう。
結局、どれ程粋がってみた所で、自分の今ある環境はSMGによって維持されているに過ぎない。SMGという後ろ盾のない、ヒータック=トオーリという一人の若者に、どの程度のことが出来るのだろうか。どの程度の事がわかるのだろうか。
鼻息荒く、SMGからの脱退を吼えたとして、その咆哮が一体どの程度の人間に響くのか。そして、結局SMGから抜けたとして、自分は何がしたいのか、何ができるのかがはっきりとわからない以上、宣言だけが虚ろに響く。
ならば、そう構えることもあるまい。
構えることに意味はない。決めた以上は流れに身を任せるだけだ。
賽は投げられた。
カツン、カツン、と飛天龍のボディの横に設置された金属の梯子を上る音が聞こえた。ややあって、サキの不安そうな表情が足元から近づいてくる。
元々色白であったサキの顔は、水銀灯の明かりに照らされ、病的に青白く透き通って見えた。肩までの髪は適度に梳かれ、もっさりとした印象は受けない。
ヒータックより五歳下の妹は、兄ヒータックとは喧嘩をしながら育った。その反面兄に頼り切った部分があった。決してすべて兄がいなければ行動できなかったわけではないが、反目する兄が彼女の行動の原動力であったのは間違いない。だが、今ここで兄が完全に自分の元から離れ、二度と帰ってこないかもしれぬ現状は、彼女を今までにない不安に晒すことになる。
子供でも大人でもない年頃の少女は、兄に対しどう接していいかわからぬまま、不安に襲われた兄の元を訪れた。だが、それは自分の不安の裏返しであることを少女は気づいていない。
搭乗用の梯子から手摺に移る時、何気なく伸ばされたヒータックの手に引き寄せられ、もう一方の手で手摺を掴んだ瞬間、彼女は、思わず思っていた言葉を口にした。
「……もう戻らないの?」
ヒータックはハンマーで頭を殴られた気がした。
今まで反目していた妹は、単純に小生意気な存在でしかなかった。自分に抗う力もない些細な存在でしかなかった少女。何かヒータックが悪さをすれば、嬉々としてそれを祖母に告げ口するような存在。鬱陶しいとしか思えない存在。
だが。
SMGからの離反を決めたヒータックにとって、妹は何故か愛おしい存在に思えた。
彼に与えられた力……権力も、技術力も、判断力も……は、全てがSMGの力を根拠に成り立っていた。SMGでの地位ですら。
だが、サキという少女はヒータックにとって、自分がどこに所属していようとも、自分の妹であるという事実に変わりはない。SMGに帰属する自分自身からSMGの要素を排除していっても、サキがヒータックの妹であることに何ら変化はない。それが、彼にとって非常に大きな拠り所として感じられた。
生意気でありながら、一人では何もできない存在。ヒータックに守られながら今まで生きてきた存在。だからこそ、自分が不安に駆られた時、彼女も不安に駆られたはずだった。
いつもであれば、時間をかけてじっくりと話をする。場合によっては喧嘩をしながら説得もする。本当は禁止されているが、ルイテウの最上部で夜空を見ながら話をすることもあった。
時間をかけて不安を取り除いてやりたい。だが、その時間も彼にはもうなかった。
彼は、不安に震える妹を優しく包みこむことしかできなかった。
だが、サキにとってヒータックは頼りになる憎らしい兄だったが、同時に非常に強力な異性だった。
今回ばかりは、それが災いした。
失う事の恐ろしさを痛感するサキは、僅かな時間、兄と共にあろうとした。彼女の持てる全ての手段を用いて。
一瞬の気の迷い。
そうかもしれない。
だがこの兄妹は、その一瞬だけ、心の繋がりだけでは満足しなかった。そして、それは純然たる事実。今更変えようのない事実。どちらを責める事もできないだろう。
そして、その変えようのない事実は、彼らの人生に今後大きな影を落とすことになる。




