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界遊記  作者: かえで
新たなる世界

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224/260

少年のリハビリ

 医務室での待機はひどく退屈だった。しかし何かをしようと起き上がると数秒で眩暈を起こす。この違和感は何なのか。

 体と心がズレている。

 かつて、父の友人であり自身も絶大な信頼を寄せる神勇者の先輩であるファルガ=ノンが、同じような容態になった時の記憶をそう語ったことがある。

 今の彼も同じような状態だった。

 四肢は動く。

 立ち上がることもできる。しかし、体の隅々まで神経が行き届いていない感じがする。手足を早く動かそうとすると、感覚が肉体を置いてきてしまうのではないか。

 そんな不安に駆られる。そして、実際そう感じた事が何度もあった。

「『心魂』が身体から剥がれかけているんだ」

 よき兄貴分は、安静が大事だと告げた。

 『その』場所を少年は知らない。自分の故郷ではなく両親の故郷。『その』場所は別界元だったと聞いている。『その』界元を護るためファルガは『巨悪』と戦った。死闘の末、巨悪を打ち破ったがその直後、『巨悪』が保持していた魔剣『マインド=サクション』の中に入り、『剣宮の主』という剣に巣食う精神生命体と戦うことになった。

 魔剣マインド=サクションは肉体から魂……所謂『心魂』を切り取ることができる武器だった。

 心魂とは、その生命体が『妖』であるのか『魔』であるのかを決定づける重要な要素なのだが、これが身体から剥がれてしまうと、身体は所謂『死』に向かい始める。文字通り『氣』が『真』(マナ)に遷移し始めてしまっている状態だ。

 『巨悪』との戦闘の最中、ドイム界元の神賢者レーテ=アーグはマインド=サクションでの斬撃を受け、心魂を切り取られマインド=サクション内に吸収されてしまった。

 生物的な死よりも悲惨な状況になってしまったレーテの身体だったが、ドイム界元の神皇ゾウガはファルガの申し出もあって、レーテの心魂を取り戻すためにファルガの心魂を彼の身体に縫い付けた状態で、彼の肉体を高次に昇華させることにした。

 神皇をもってしても成功の可能性は低いといわれた、ファルガの肉体ごとの高次への昇華。この神術を用いて肉体を保持したままマインド=サクション内に侵入する事に成功したファルガは、『剣宮の主』と名乗る精神生命体との対決を制してレーテの心魂を取り戻し、現次に帰還した。

 しかしながら、本来現次の物質であるはずの肉体を無理矢理高次に持って行ったことで、見た目では分からないが著しく肉体が損傷し、心魂が剥がれかけている状態だったという。

 本来であれば、高次に昇華した瞬間に肉体から心魂が離れるところを、無理矢理肉体に固定した状態で、肉体そのものを高次へと昇華させたのだ。負荷が掛かっているのは致し方ない。それはファルガもゾウガも承知済みの事だった。

 ファルガは現次に戻ったその瞬間に、倒れ込むように意識を失った。

 その状態で一か月間眠り続けたファルガは、剥がれかけた心魂が身体に再癒着したことでようやく活動を開始できたという。

「そんなにかかるんですか?」

 ギューは驚いたが、ギューの状態はファルガのその時の症状よりは軽快であり、そこまで修復には時間はかからないだろう、と青年神勇者は展望を語った。

 いずれにせよ、安静が必要だったギューはそのまま『基地』(ホーム)に残り、身体を静養せざるを得なかった。

 身体の負傷や心の負傷のどちらかなら、負傷をしていない方を鍛錬する事も出来たが、身体と心魂の結びつきが希薄になっているのだといわれると、どのような鍛錬もその結びつこうとしている体と心の修復活動を阻害してしまうことになり、結局安静にしているしかないのがギューにとっては辛い日々となった。


 ギューが模擬戦にて負傷してから二週間ほどたったある日、『基地』(ホーム)が騒然とする。

 特に騒々しくなったのは、科学者でありパクマンの無二の親友であったドォンキ率いる研究室だった。

 ギューは情報がもたらされることを待っていた。

 意識がある程度はっきりしている時に、廊下から聞こえる『基地』(ホーム)のスタッフの会話から推測をしてみたり、体調がよく少し話せるときには看護師に質問してみたりもしたが詳細はわからない。だが、ギューが見る限り彼らの表情は硬かった。

 誰も明瞭な説明はしてくれない。

 ただ、何となく『基地』(ホーム)全体が落ち着かない。

 それだけはベッドの上で他の情報を何も得ることができないギューにも感じ取ることができた。

 『基地』(ホーム)内の職員たちの足音が、普段よりも荒々しく廊下を駆け抜けていく。断片的に聞こえてくる言葉の端々に、不穏な響きが混じっていた。その言葉がギューに酷く嫌な夢を見せる。

「……パクマン隊長が……。……撃墜……。……戦死……」

 眼を開けることが簡単には出来ず、意識もそこまで覚醒していなかったため、夢見心地ではあったものの、ギューの心には不穏な単語が深く刺さった。

(戦死? パクマンさんが? なぜ……)

 新機鎧を使った模擬戦の記憶がうっすらと映像で甦る。その内容は酷く幻想的で、パクマンもギューも神懸かり的な挙動で互角な戦いを演じているというものだった。このようなシーンなどあっただろうか、というギューの朦朧とする中での自問自答も、雲散霧消しそうな意識では効果を成さない。

 パクマンの死。

 その言葉が頭に明確に浮かび上がった時、それまでの幻想的な戦闘の夢は消えた。

 深層の沼に浸かっていた意識が、徐々に浮き上がっていく。周囲の様子が、音としても空気の流れとしても知覚できるようになる。

 ゆっくり眼を開いてみる。今回は眼を開けた夢を見ることはなかった。いや、実は双眸を開いていないのかもしれない。ただ、今回の感覚として感じられる周囲の光景は今までのような抽象的な景色ではなかった。

 力強くはっきりとした映像。

 彼の目に飛び込んできたのは天井。意識が朦朧とする前に幾度となく見た医務室の天井だった。電灯の横にある汚れもそのままだ。

(掃除したらいいのに……)

 思っただけのはずだったが、ギューの口から言葉が漏れ出ていたようだ。

 椅子に腰かけ背を向けていた軍医オリマが、ベッドに横たわるギューの方を見ると、椅子から立ち上がりベッドの傍まで歩みを進めてきた。

「意識が戻ったようだな。

 どうだ。前みたいに指先まで感覚が行き届いていない、などの違和感はあるかね?」

 オリマより尋ねられた質問に答えるために、ギューは馬鹿正直に四肢の状態の確認をしてみる。

 右腕の感覚を確認し、人差し指からゆっくり曲げてみる。小指まで曲げたところで親指を強く握り、拳を作ってみた。その握りを強くしていき、力一杯握ってみる。指が掌に軽く刺さり若干痛い。間違いなく右手の感覚だ。そのまま手首を回し、肘を曲げる。肩まで上げたところで同じ作業を左手と左腕で行った。

 その後は両足の可動と力の入り具合を確かめる。

 ……問題ない。

 以前感じたような、身体の部位が若干振り回されているような不安定さはない。

 途中からは多分大丈夫だろうという確信のもと、上半身を起こす。

 そのまま立ち上がると、ギューは跳ね上がった緑の髪をくしゃくしゃといじった。

 二週間近く洗うどころか触っていない髪の毛は皮脂でごわついていた。

 「うう……シャワー浴びたいよー……」

 泣きそうな声を出し、入浴の許可を求めるギューの様子を見て、思わずオリマはにやりとした。

 身体から心魂が剥がれかけている時にはとても浮かべることのできなかった表情が出てきたことで、少年の回復を確信するオリマ。

 だが、そもそも身体から心魂が剥がれるなどという症例に出くわしたことのない軍医。診断などできようはずもない。それでも、長年の医者としての勘は、ギューの身体が復調しかけていることだけは間違いないとオリマに伝える。

 シャワー室に移動したギューは、今までの時間を取り戻すように体中をボディシャンプーを泡立てて洗った。最初は泡立ちにくかったボディシャンプーも、徐々に細かい泡が立ち始めていく。特に顕著だったのがギューの明るい緑の髪だった。皮脂が多すぎて変な寝癖のようになっていたギューの髪型だったが、シャンプーで皮脂を落とすと彼の髪は見事に逆立ち、元のヘアスタイルに戻った。

 準備されたランニングとブリーフパンツを身に着けると、渡されたファミス国の制服に袖を通すギュー。

 彼は一瞬怪訝そうな表情を浮かべた。

 ファミス国がどれ程きちんとした軍服を準備しようとも、自分は軍に入る事はない。

 再度その内容を確認しようとするが、話すことのできる人間がオリマしかおらず、軍服を渡されたことに関しても、首を横に振り、その意図について知っているようには思えなかった。

 ギューは仕方なく軍服を羽織るが、誰が計測したのか不明だが軍服のサイズはぴったりだった。そして、軍服のデザインがギューの学生服に酷似していたため、余り嫌な気持ちにはならなかったのも彼自身意外といえば意外だった。

「オリマ先生。この服だと動きにくいです。必要な時はこの軍服を着ますから、もう少し動きやすい服はないですか?」

 軍医オリマは少し考えるような仕草を見せたが、やがて椅子から立ち上がると、少し体の大きい中学生が身に着けている体操着のような白いTシャツにスポーツ用パンツを持ってきた。

 オリマに対してこれ以上文句を言っても、身に着ける服がそれほど劇的には変わらないだろうと考えたギューは、顔を少し引きつらせながらも、その体操着のような衣服を身に着けることにした。

 身体に違和感はない。

 だが、その身体で『氣』のコントロールをしても良いものなのだろうか。

 症状についてちゃんとした説明ができないものの、生命体という観点で診察した場合のギューの復調具合は、万全という表現は憚られるものの、ほぼ治癒しているのは間違いなかった。ただ二週間という長い期間を寝たきりだったため、急激な激しい運動の禁止などは従来の医者の所見から示さざるを得ない。

「そうなんですか……。もうとっくに治っているのかと思っていましたが……」

 ギューは残念そうな表情を浮かべた。

「ならば、リハビリトレーニングをやってみるか? 本来であれば、負傷して長期戦線離脱をした兵士に対して行うプログラムなのだが、今回ギュー君にとっては二週間という割に短い期間ながらもあれほどの戦闘を行なった際の身体の負荷を考えると、やってみて損はないと思う」

 軍医オリマはリハビリを提案する。

 ギューはオリマの指示に従い、ベッドの縁に腰かけた。

 軍医オリマは自身のデスクに戻ると小さなノート型のコンピューターのキーボードを叩き始めた。

 ギューが覚えた違和感。それは、白衣を着た軍医がキーボードを片手の人差し指のみで打っているのに凄まじく速く入力できることだった。

 完全に我流のキータッチだ。

 ギューはそう思った。


 リハビリトレーニングプログラム。

 戦争を経験した兵士は、精神的にも肉体的にも短期的あるいは長期的なダメージを受ける。その影響は社会的に復帰することを困難にするだけでなく、肉体的な生命活動・精神的な生命活動を継続することが困難な状況に陥っている場合もある。

 このプログラムはその状態の元従軍兵士たちの社会復帰を促進させるためのものであり、その項目は多岐に渡るという。

 プログラム開始時にその説明を受けたギュー。

 だが、それに取り組み始めたギューは、すぐにオリマに苦言を呈する。

「これは本当にリハビリプログラムなんですか?」

 病室にセットされた席に着いたギューは絶句する。

 デスクの上には、二枚の大きな皿が置かれている。

 左側の大皿には豆が数千個という単位で置かれているが、右側の大皿の中には何も入っていない。そして、眼前には一膳の割り箸。

 彼がこなすプログラムは、割り箸で一粒ずつ豆を摘まみ、左の皿から右の皿に移すという、どう見ても乳幼児向けのお箸トレーニングとしか思えないものだった。そして、少年の容姿でありながら、ギューの年齢が五歳であることも災いする。お箸トレーニングといえば、数年前にやっと終わったあまり良くない思い出でもある。

 オリマはいたって真面目に回答する。

「このプログラムでの目的は、心魂が肉体から離れていないか、離れていなくとも細かい部分での結びつきが緩い部分があるかどうかの確認をし、トレーニングを行う事によりその部分を減らし、堅固にしていくという趣旨のものだ。

 ギュー君はこれに積極的に取り組んでもらって早く感覚を取り戻してほしい」

 ギューは何とも言えない表情を浮かべた。

 その後に続くプログラムも、どこかでギューがやったことのあるものばかりだった。その中身はといえば、人が成長するに際して、どこかしらで必ずぶつかる類いの鍛錬メニューだった。

 自転車の補助輪取り。

 水の中で目を開けての小石取り。

 苦手な野菜を残さずに食べること。

 等々。

 ギューの表情がだんだん険しくなっていく。

 物心のついた頃には『氣』のコントロールを行っていたため、子供たちが成長する際に必ず超えるべきハードルを超える必要がなかったギュー。

 その幾つものハードルが、彼の前に整然と並べられた時、彼は思わず吐き気を覚えたのだった。


「ギュー君、よく頑張った。

 このリハビリで、一通りのメニューは終了する。その後は見極めをしたいが、少し間を空ける方がいいかもしれないな。大分消耗しているようだしな」

 医務室の一角に設けられた椅子に腰かけ、机に向かうギューの姿は、勉強部屋で宿題に追われる子供のように見える。

 机の上に置かれた四百字詰めの原稿用紙には、何も書き込まれていないが、ギューにはこのマス目に字を書きこんでいくことはよくわかった。しかし、書き込んでいく文字が彼の知っている字ではない。初見の字をただひたすらにトレーニングでマスの中に書き続けるのは、もはやリハビリの域を逸脱する。特にギューからすれば、これは拷問の類だといってもいいかもしれない。

「オリマ先生、これって絶対リハビリじゃないですよね? これって絶対学校の宿題ですよね?」

「ん? そんなことはないぞ。身体の復調には欠かせないプログラムだ。

 このプログラムを行う事で、指先に神経が集中できるようになる。マスに字を書きこんでいくためには、指先を微細に動かす必要があるが、それをすることで特に体の動きが活発になり、更に知らない字を覚えられるほか、裏面の数字を扱うプログラムでは、なんと計算練習までできてしまう」

「やっぱり学校の宿題じゃないですかー! 嫌だー!」

「ほら、とりかからないと時間内に終わらないぞ。終わらなければ居残りになるぞ」

「リハビリなのに居残り……」

 ギューは涙目になりながら、必死に鉛筆でマスを埋め始めた。

 三十分ほど経った頃、問題を全て解き終えて机に突っ伏しながら半泣きのギューの肩に手を置くオリマ。

「ギュー君、よく頑張ったな。

 これでプログラムは終了だ。

 ……実は、これはファルガ君の依頼でな。

 ファルガ君は、ギュー君と行動を共にしている間、戦闘を始めとする身体能力については目を見張るものがあると感じていたようだ。

 しかし、ファルガ君がいうには基礎的な学問の知識がなければ、今後の技の習得などに支障が出るだろうとのことだった。それを回避する為にも身体が動かせない今のうちに、リハビリを兼ねてプログラムを実施に移してほしいとお願いされたわけだ。

 ……こらこら、そんな目で見るんじゃない。これはファルガ君なりの君に対する愛情だ。

 学のないまま説明を受けたところで、その理解度は半減する。やはり、今後冒険を続けていくためには、ある程度の学は必要だろう。

 彼は仇を追うために無理矢理旅に出た時に、自身の学がないことで相当苦労したようだ。

 彼はその苦労を君にさせたくなかったようだ」

 嘘つけ、とギューは思った。

 だが、思い返してみると、ファルガとの会話で、彼が何度か表現を変えて言い直している場面に遭遇したことが幾度となくあった。

 そのときは特に気にしなかったが、同じ内容のことを言い直す、という場面も多かった。特に二回目を簡易的な表現に改めることが多かった。また、旅の途中で水を汲む時も、その量が指定されたものに対して少なすぎたり多すぎたりした。言われた通り単位で考えることをしていなかった気がする。

 ギューは、ガイガロス人とイン=ギュアバ人のハーフ故、五歳児にしては知能が高く身体の成長の速度も著しく速かった。それゆえ、魔神皇を倒す戦闘力を最短で得ることはできた。だが、それはギューの界元を救うためには必要な行動ではあったが、同時にギュー=ドンという少年が社会に出て生きていく時に、必要な知識を得られる機会が失われたことは、不幸だったといっていい。

 その不幸の結果の一つ。それはギューという少年が、日常生活を営む時の常識がまるで欠落していることだった。

 本来なら、親が子供を教育するにあたって、育てていくと同時に親自身も成長する、という工程がついて回る。しかし、敵があまりにも早く発生し、少年の力もあまりにも早く覚醒したため、ギューはそれ以外の部分の成長が追い付かないまま今に至っている。それがファルガのずっと気にしていることだった。

 ファルガは過去の自分の経験から、『適齢』ハードルを超える行為を抽象的な理論ではなく、実践による方法論で身に付けさせようと思ったのだろう。

 ギューは言葉を失い、遠い空の下戦っているであろうファルガに思いを馳せたのだった。


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