ラン=サイディール禍の爪痕7 干渉
ラン=サイディール国王城デイエン城。通称『薔薇城』。
全てが失われた三百年前の『精霊神大戦争』以後、建造された中でも最大級の王城であり、その美しさも、建築物としての歴史的価値、技術的な価値も、非常に高い水準の物であるとされている。
だが、そんな建造物も、人類の歴史の日の当たる部分のみで構成されているわけではない。当然、日の目を見ない闇の歴史もあり、その証拠や資料としての側面があるのも、また拭い去れない事実だ。
そして、その資料・証拠としての存在すら危ぶまれていた、地下牢もその一つだ。
何人もの歴史学者がその存在を予言しながらも、実際に存在は確認できなかった。地下牢の存在が表に出る前に、その歴史学者が表舞台から消える。ある意味学術上のタブーだった。古代の国家の闇の部分ではなく、現存する国家の現為政者の闇の部分の具現だとするならば、世界情勢に与える影響は計り知れない。
その地下牢に、神賢者レーテは薔薇人に誘われ、神勇者ファルガはレーテの『氣』を追って到達する。
「おお、あれはマユリなのか? 幾人もの若い女を吊るし上げ、その血を搾り取って……。あの悪魔のような女は、一体何をしているのだ?」
牢獄の入口で、ファルガに投げ捨てられた、空気の抜けきった肉人はふらりと立ち上がりながら呻いた。
決して大きい声ではなかった。だが、その言葉をマユリは聞き逃さなかった。
自分を愛してくれていたはずの男から出た言葉。
それは残酷な現実だった。
どれほど愛されようが、全身血みどろの女を抱こうという気にはならない。仮にその呪われた『若さを取り戻す呪法』が、自分のためになされたものであることを知ったとしても。
「何を……? それは勿論、叔父様の為に美しくなろうと……」
顎を砕かれたままのベニーバは、ふらふらと後ずさると、噛み合わせの悪くなった顎のせいで発音しづらそうに、しかし躊躇することなく言葉を吐き出す。
「儂の為だと?
確かにかつてお前は魅力的だった。容姿も、若さも。そして、ラン=サイディール国の後継者という立場もな。そして、お前は儂を佳く楽しませてくれた。
だが、今の血塗れのお前はダメだ。
気持ちが悪い。
それになんだ? その意味不明の儀式は。
お前はもう年を取り過ぎた。儂はもっと若い娘を楽しみたいのだ。何をどうやろうが、若い娘には及ばんのだ、お前は。
お前が儂の役に立ちたいと思うならば、若い女を連れてくるのだ。それが何よりの親孝行というものだろう?」
マユリは、眼前の叔父の言葉に絶句した。
そして、ベニーバの言葉の意味を理解するのに少しの時間を要した。
だが、醜い皮だけの化け物に成り果てたベニーバの言葉が、ある意味とてつもなく純粋だったマユリの心に染み込んでいく。それは、まるで強酸が肌を溶かしながら染みていくような、途轍もない苦痛と共に。
マユリは、全身に血を滴らせた状態で一糸纏う事なく、『美しの湯』からゆっくりと上がった。そのまま、ベニーバの元に歩み続ける。
「だ……、駄目ですマユリ様!」
レーテは慌ててマユリを止めようとする。だが、何某かの力が、マユリの腕を掴もうとするレーテの手を弾いた。
思わず弾かれた手首を握り、ゆっくりと歩み去っていくマユリを見つめたまま、レーテは動く事が出来ずにいた。
純粋な肉体の強さとか、術をどれだけうまく使えるか、強力な術を使えるか、といったようなものではなく、マユリのとてつもなく重い想いに一瞬負けた。
レーテはそう感じた。
マユリの表情が、ベニーバに近づく程に失われていく。冷たい面持ちとは、こういうものを言うのか。
今度は、ファルガがマユリとベニーバの間に割って入った。
「駄目ですよ。貴女がこの男を憎いという気持ちは痛い程にわかります。でも、貴女が手を下してはいけない」
ファルガの言葉を聞き入れたかは不明だが、マユリはその歩みを止めた。
「おい、蒼い甲冑の男! そなたはこの血だらけの女を早く儂の目の届かぬところに連れていけ。目障りだ!
ったく、なぜこの儂があんな悍ましい物を見なければならんのだ……」
ベニーバが思慮なく発した言葉。
ファルガはそれを言い終わらせぬうちに、再度拳でベニーバを打った。今度は砕いた頬とは逆側だ。
ベニーバは体を変な方向に曲げ、転げていった。
立ち尽くすマユリは、苦しげな呻き声を上げ始めた。
社会的にとか、倫理的にとか、そういう言葉では単純には割り切れない、彼女にとっての心の支えが、見事に崩れ落ちた瞬間だった。
『ラン=サイディール禍』という歴史的な事変の後の三年、彼女は待ち続けた。
国が傾いた状態で、突然姿を消した為政者であった叔父の代わりに、残された忠実な家臣たちと共に様々な出来事に対処しながら。いつか自分を助けに来てくれるであろう、叔父の存在を信じて。
文字通り、様々な事件や事案があった。そして、それらについて、彼女はほぼ未経験だった。一部については想定すらしていなかったに違いない。
ある時には、職を失った兵士たちに怒鳴り込まれた事もあった。その兵士たちの行為は、クーデターとさえ言っていい。様々な手を使い鎮圧した後の、首謀者の処罰も彼女主体で行わなければならなかった。
またある時は、外城壁の傍に形成されたスラムの住人達に、城内の様々な物を強奪されたこともあった。彼女はその中で討伐隊を組織し、自ら打って出て、全身に傷を負いながらもスラムの長を処断し、スラムの一角を認知する代わりに、自制するよう密約を取り交わしたりもした。
およそ国王がすべき交渉とはかけ離れた内容の物も多々あった。先送りにしなければいけない問題も多々あり、それでも、マユリは気丈にも家臣たちと共に一つ一つ対処していった。
だが、それは未経験の少女にとって、過剰な負担だったのは当然だろう。
そして、叔父が姿を消す直前に吐いた心ない台詞が、心を一部壊したまま稼働してきた少女の衝動となったのも間違いないことだ。それでも、彼女は自分の記憶と思考とを改変する事で、努力の足りない自分の、更なる課題として自身に課した。
その、いびつな形で均衡を保ってしまった少女の心が、突然沸いた無責任な男の一言によって、完全に粉砕されてしまった。
叔父の言葉の次の瞬間。
信じられないことが起きた。
ここに空はない。
幾ら上空を見渡しても、あるのはホールの天井だけだ。貧相なシャンデリアがぶら下がるドーム状の構造物だけだ。
だが、『それ』は、ホールの天井を突き破ることなく、マユリに降り注いだのだ。
何度となく彼女を打つ『それ』。
マユリは蹲り、ぶるぶると震え始めた。
「ま、まさか……!」
レーテとファルガは駆け寄った。
この現象には見覚えがあった。
ドレーノ国首都ロニーコで行われた公開裁判の直後。カタラット国首都ワーヘの城の屋上での戦闘の直後。そして、黒い神殿のある南の島での戦闘の直後。
『黒い稲妻』。
まるで焼け焦げたかのように、マユリの肌が徐々に黒ずんでいく。
このまま、人間の姿を保ちながら邪悪の化身になるのか、はたまた醜い化け物へと変化するのか。いずれにせよ、『巨悪からの招待状』が届いたに違いなかった。
変わったのは、神賢者レーテだった。
以前の『黒い稲妻』の現象を、少女たちは黙ってみているしかなかった。
だが、現在の神賢者は冷静に、のたうちまわり苦しむマユリに対して、手を翳した。
レーテの身体が光に包まれる。そして、一瞬大きな拍動のように空間が歪んだ。
次の瞬間、マユリの身体を包む悍ましき倦怠感だけが消し飛ばされた。
ファルガは見た。
マユリの体内からはじき出された黒いエネルギーの塊を。恐らく、この黒いエネルギーの塊は、『氣』のコントロールと『真』のコントロールが可能な二人にしか見えていなかった筈。
だが、『黒い稲妻』のもつ特殊な効果は、確かにマユリの身体から取り除かれた。そして、その黒い靄は、再度小さく気合を込めたレーテの『氣』に包まれ、消滅した。
『黒い稲妻』の浄化。
これが出来るのは、神賢者のレーテだけだった。
神勇者のファルガは勿論の事、神であるフィアマーグやザムマーグも困難だったはずだ。
そして。
肉人と化したベニーバ。
この男には、黒い稲妻が落ちることはなかった。
この男は、誰もが受け入れない『妖』の只の男だった。姑息で困難から逃げ惑い、この期に及んで長生きを画策しようとしていた。
時の為政者ベニーバ=サイディールという男は、かつては絶大な権力を持ち、世界の中枢で思うが儘に振舞っていた。
だが現在。ベニーバに『黒い稲妻』は落ちなかった。
ベニーバは、黒い稲妻にすら、相手にされなかったのだ。
かつての世界屈指の権勢を誇った宰相は、全てから見放された。
『黒い稲妻』に一瞬毒されたマユリは、その罪悪感の為に衝動的に、小鬼たちが持っていた短刀を喉に当て、自害を計ろうとした。
ファルガはその短刀をマユリから奪った。そして、自分の思いをどれも果たせず、泣きながら崩れ落ちるマユリを見下ろす。
「こいつは許せないし、許されるべきじゃない。
でも、マユリ様。それは貴女も同じだと思います。
俺は許されるべきではないのだと思います。ですが、決めるのは俺ではありません。レーテでもないでしょう。勿論マユリ様、貴女でもない。
貴女もこいつ同様、自分の欲の為にいろいろやりすぎた。理由は色々あるのでしょうが、貴女の為に涙を流した者達は数多い」
マユリは肩を震わせながら嗚咽する。
「私は……、一体どうすれば……」
ファルガは背を向けた。そのまま、入口の方に歩み始める。
「俺は貴女を処断できません。処断するべきではないと思っています。
貴女が今までの所業についてどう感じ、どう償っていくのかは貴女が決めること。
そして、それを許すのは、恐らくラン=サイディールの民。涙を流した人たち。
その短剣を俺が止めたのは、俺が貴女にそれを伝えたかったからです。
それを聞いた上で、それでも尚その短剣で命を絶とうというのなら、もうそれは俺には止められないと思います。
ただ、せめて俺が居なくなってからにしてください」
そのまま、ファルガは這い蹲って逃げようとするベニーバの襟首を捕まえ、持ち上げた。
貧弱になった皮の化け物は、ぐえっ、と小さな呻き声を発した。
「俺は、このままこいつを町に連れ出します。そして、そのまま往来にでも投げ捨てます。
日の出と共に街に出てきた人たちが、路面で這いつくばるこいつをみて、一体どうするのか。
こいつは、かつての宰相だと気づいてもらえて、助けてもらえるのか。それとも、かつての宰相だと気づいた上で、嬲り殺しの憂き目に会うのか。はたまた、誰の目にも止まらず、そのまま朽ちていくのか。
もし、この男が生き残れるのならば、まだこの男にも更生の余地があると判断して、人々が許したという事でしょう。
そう思うしかありません。
俺は、少なくともこの力で、この国に干渉してはいけない気がしています。
だから、最低限の復讐だけにします。俺が、俺の責任で、俺の為に晴らす恨みです。
マユリ様。俺は貴女には恨みはありません。
自分で感じて、自分で決めるのがいいと思います」
神賢者レーテは、最初ファルガとマユリの間で立ち尽くしていたが、やがて、マユリの所に駆け寄り、跪く。
「今までありがとうございました。
マユリ様。
貴女が私に対してしてくださった色々な事、忘れません。
貴女が連れてきた女性たちの傷を治したのは、せめてもの恩返しです。
皆、生きています。後は、貴女のなさりたいようにしてください」
そういうと、レーテは立ち上がり、ファルガについていく。
涙ながらに見送るマユリの方には、一度も振り返ることなく。
ホールから出たところで、ファルガは立ち止まり、レーテの方に振り返った。
「レーテ、マユリ様と一緒にいてもいいんだよ? 俺はここにいられないだけで、レーテは俺よりあの人と関わりが深い。それを俺がどうこうは言えないし。
俺はこいつだけは、許したくない。……けど、俺が手を下すのも違う気がする。
俺は、夜が明けると同時に、この男を町に放置する。
その結果、デイエンの人たちがどうするのか、それだけを見届けたい。
この男の今までの悪事が、今までの善行で帳消しにできるものなのか? それとも、善行では帳消しにできないのか?
それを知る必要が、俺にはある。
そうすることで、あの人を葬送れる気がする……」
神勇者ファルガは、剣の師であるソヴァが、この男の欲望の渦に巻き込まれ殺されたことを直接は見知っていない。
だが、薄々感じ取っていた。
戦士として……、そして聖勇者、神勇者として何段階もレベルを上げて戻ってきたファルガ。その彼でさえ、デイエン内にソヴァを見つける事が出来ない。
恐らく、それはそういう事なのだろう。
……もし、彼が存命であったら、今のファルガを見てどう思うだろうか。
出来る事なら、もう一度、剣の指南をして欲しかった。
彼の言葉があったからこそ、剣士としての自覚はないものの、剣の腕を磨こうと思った。そして、自分が護るべき物を護れる力の大事さを、彼は身を以て学んだ。
そこには感謝しかない。
彼の言う『戦士』とは、戦う者。武器で敵を倒したりすることだけが戦士ではない。自分や自分が護りたい物を護る為に、様々な能力を伸ばすために努力をすることも、戦士の重要な要件だ。
彼はそう思い至った。
そして。
そうなることができたかどうか、ソヴァに見て欲しかった。
そして、言葉をかけて欲しかった。
まだ戦士のイロハもわからなかった少年の太刀筋を見て、本気で言葉を掛けてくれた、あの時のように。
「よし、いい感じだ! そのまま続けると、更にいい感じになるぞ! もう少しやってみようか!」
あの言葉を聞きたい。
それだけが今の彼の気持ちだった。
これから巨悪という得体の知れぬ存在と戦わねばならない。
単純に武力で制すればいいのか、それとも追い返すだけでいいのか。はたまた、自分達ではどうにも手の打ちようがない相手なのか。
決戦間近。
師・ソヴァ。
仮に彼が生きていたとして、今の少年戦士の実力には、恐らく何も言えないに違いない。冷静に見て、戦士としての力も、剣士としての力も、彼を大きく上回っている。
それでも。
彼に報告し、彼なりの反応を見たかった。
「……いいの。
私も、あの人には大きな恩がある。何とかしてあげたいとは考えているわ。
けれど、今回の件で、私が色々考えて何をしたとしても、それは彼女の望む事じゃないと思う。彼女からこうしたい、という話が出た時に初めて、やり方を考えていくわ」
ファルガは頷くと、ほんの微かに白み始めた空に向かい、ゆっくりと飛行を開始した。
左手には、腰紐で吊るされたベニーバを持ったまま。
遅れてレーテもついていく。
内城壁の向こうに飛んでいく二人の姿は、初秋の空を旅する渡り鳥の如くに黒い点になり、消えた。
数時間後。
およそ人の姿とは思えない、たわみ切った皮の塊の男が、往来に放置された。
同心円状の城壁に囲まれた都市の、海岸に面した部分。
毎朝開かれる朝市で、鮮魚などの海産物を買い求める料亭や食事処、宿泊施設の調理責任者たちが集まり始める。
そんな中、往来に放置され、唸り声を上げるかつての権威ベニーバ=サイディールであった何かの周りにも、人だかりができ始めた。
その人だかりを、ファルガとレーテは建造物の屋上から見下ろしていた。
肉塊が、果たして許されるのか。許されないのか。それとも、忘れ去られているのか。
いつもと変わらない一日が、今日も始まる。
水平線の向こうから、命の光を齎す星が、ゆっくりとその姿を見せ始めた。




