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界遊記  作者: かえで
巨悪との確執

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ラン=サイディール禍の爪痕6 薔薇人

 ラン=サイディール国首都デイエンの外城壁に程近い、スラム街を織りなす建造物群の屋上部から、神隠しのターゲットとして行動するファルガを観察していたレーテ。

 彼女は、背後から受けた『攻撃』により意識を失った。

 だが、実際レーテが気を失っていた時間はコンマ数秒に過ぎなかった。

 少女が気を失った次の瞬間、彼女の分身ともいえる超神剣の装備『黄道の軌跡』と『暁の銀嶺』が彼女の元に駆け付け、相手の奇襲『攻撃』を退けつつ、少女の意識を高いレベルで呼び戻したからだ。

「貴方は……!」

 漆黒の闇に紛れる人影。

 性別すらわからないが、少女の眼前に立つ人影は、少女の身長を優に超えていた。恐らくSMG現頭領ヒータックよりも長身だっただろう。

 そして、その人影からは、人間の『氣』が感じられなかった。

 だが、確かに生命体。そして、感じた事のない『氣』ではなかった。どちらかというと、馴染みのある感じ。つい最近も感じた事のあるもの。

 一瞬、躊躇したような仕草を見せる人影。その次の瞬間、その人影は遁走を始めた。

 人間離れした身体能力。

 彼の者が人間でないことも、レーテはよくわかっていた。

 一瞬で姿を消した人影を追って、レーテは追跡を開始した。

 追跡をしている最中、視野に彼の者を捉えることは一度もなかったが、神賢者は躊躇することなく、ある場所を目指した。

 それは、首都デイエンの中心に聳え立つ、かつては世界の名城の一つに数えられていた城の庭園だった。

 薄々ではあるが、レーテは気づいていた。

 彼の者は、レーテを攻撃しようとしたのではない。ただ、少女に何かを伝えたかっただけなのだ、と。

 言葉が通じず、視覚や聴覚で意思の疎通ができない彼の者が、レーテに自分の気持ちを伝えようとするならば、『香り』を用いるしかない。彼の者が自身の強い想いを伝えようとするならば、その香りはとてつもなく強力な物になる。伝えるべき相手の意識を奪う程に。

 少女の鼻孔に届いたのは、間違いなく薔薇の芳香だった。そして、それはレーテに眩暈を覚えさせる程に、強く切ないものだった。


 神賢者として覚醒したレーテが庭園に到着したのは、建造物の屋上で何者かに『襲撃』された、僅か数分後だった。

 庭園には、色とりどりに咲き乱れる薔薇の茎と葉で組み上げられた無数の垣根によって、何通りもの道筋が作られている。それらの道のどれを辿っても、最終的には中央に設置された薔薇の噴水に辿り着く。

 庭園の中心に到着したレーテは、その庭園の象徴であるはずの噴水を見上げた。

 現在のその噴水は、以前の彫刻として一流の創作物であったものとは、見た目が全く異なっていた。それは、何者かがかつての美しい彫刻であった噴水を破棄し、薔薇の茎と葉、そして花を組み上げて、噴水の形状を作り上げたのではないか、とさえ思える程だ。

 だが、実際の所はこの噴水は、薔薇の茎と葉とが幾重にも巻き付いており、元々存在した噴水を覆い尽くして、全く別のものに見せていたのだった。

 勿論、人間の手ではそこまで薔薇という存在を活性化することはできない。やはり、薔薇そのものの強い意思の力が働いたとしか思えなかった。

 少女が過去に何度か訪れた薔薇園だったが、今回のような薔薇の圧倒的な生命力を、この庭園の薔薇たちから感じたのは初めてだった。

 いや、生命力というよりはむしろ、命の在り方を超えた強い意志。

 人間ではない存在の圧倒的な意志が、レーテが庭園内に足を踏み入れた時から庭園内に立ち込める。

 幾つもの強い意志が混ざり合い、巨大な一つの意志となって庭園内に充満していた。

 レーテは薔薇の庭園内をゆっくりと進み、噴水に近づいた。

 敵意は全く感じないが、途轍もなく巨大な意志が鎮座する。

 その意志は、巨大な一つの存在であるように見えるが、小さい無数の意志が重なっているようにも感じられる。そして、神賢者レーテ=アーグはそれらの存在により、ありとあらゆる方向から見つめられていた。

 意志が一つなのか、無数なのかは如何とも判別しづらい。だが一つ言えることは、その意志はとてつもなく強い。そして、その目的は同一。その想いは岩をも穿つものになるだろう。

 少女の見つめる噴水は、確かに以前からここにあった。

 噴水の前で立ち尽くすレーテ。

 『ラン=サイディール禍』の後、風車で組み上げる噴水の水は、設備の故障で止まったはずだった。そして、その影響で薔薇園の薔薇は朽ち果てた。

 そんな噂を風の便りに聞いた。

 だが、これだけの薔薇が繁茂している状況では、過酷な条件ながらも薔薇たちが何とかして生き延びようとしている力を感じざるを得ない。そして、それが何者かによって保護されている結果であることは明らかだった。

「……貴方が……。いいえ、貴方達が、私をここに連れてこようとしたの?」

 レーテは噴水の一番高い部分に視線を移した。その部位は、周囲の薔薇の花と比較しても花の直径が数倍はありそうな、大輪の花を咲かせていた。

 人間の顔の二倍以上の大きさのある薔薇の花。

 その幾重にも重なりあう花弁の一枚一枚が、既存の物より遥かに大きいだけなのかと思いきや、その花は、通常の何十倍もの枚数の花弁を身に着け、その姿を巨大に……しかし繊細に見せていた。

 まさに、薔薇の王。

 傍に来る者が、薔薇の芳香で泥酔する程に強い香りを放っていた。

 壮大で美しい。

 世の中にこれほど心惹かれる存在があるだろうか。

 一瞬、何か不思議な力がレーテを貫いていく。

 普通の人間ならば、それを眩暈と感じたかもしれない。

 だが、レーテにははっきりと分かった。

 薔薇園の薔薇たちが力を合わせ、何かをレーテに伝えようとしていた。

 レーテの後ろに人影が立つ。眼前の大輪の薔薇が王ならば、この薔薇の人影は騎士といったところか。

 レーテはとうにその人影の存在に気づいていた。

 その人影に対しゆっくりと振り返り、正対した。

「(貴女なら、あの方を救えるかもしれない……)」

 長身の男性……というには余りに中性的な表情を浮かべる人影が、レーテの前に歩みを進めてきた。

 暗がり故、その人影の恰好はレーテにはよく見る事が出来ない。だが、敵意を持っている様には感じられなかった。

「貴方のことは、薔薇の精と呼ぶのが一番あっているかしら」

 整った顔つきの人影が、今初めて無性別であることに気づく。

「(あの人を救ってください……)」

 人影はレーテに向かって立膝をつき、首を垂れた。薔薇の精が、人間に対する懇願の所作をどう知ったのだろうか。

「あの方……というのは、マユリ様の事よね?」

 首を垂れた人影は返事をしない。だが、その無言こそが、回答だった。

「マユリ様はどこにいるの? 私を連れて行って」

 レーテの言葉に反応し、無音で立ち上がる人影。その人影は、無言で移動を開始した。

 レーテには、その人影がマユリの所に案内してくれる、という妙な確信があった。

 レーテが庭園から出ていこうとした時、音でもなく、光でもないエネルギーが、庭園全体で波打った。花たちの鼓動ともいうべき振動に、レーテはすべてを委ねられたような気がした。

 今思い返してみると、ラン=サイディール国首都デイエンの外城壁そばの建造物の上で、意識を失いそうになった時も、そこに悪意や敵意は感じなかった。むしろ、自分たちの意識をなんとか正確に伝えようとしている印象を受けた。

 種の異なる生命体が、視覚でも聴覚でもない、史上初の意志の疎通を行うための、薔薇側の必死の努力。

 柔らかく話しかけてくる感覚。言葉としてではなく伝わる感情。薔薇の騎士の感情は、音声を伴う言葉ではなかったが、正確に理解できた。

 それは言葉としては体をなさないが、母犬が子犬に対し呼びかけるような、明らかに感情が相手に伝わる伝達手段だったような気がする。

 正確なニュアンスを伝える為に、先入観を植え付けないように、夢の中で情報を伝えようとしたのが、薔薇たちのコミュニケーション手段だったということなのかもしれない。

 恐らく、レーテは薔薇と意志の疎通を『芳香』と『音』という非共通のツールを使って行なった初めての人間かもしれない。

 それでも、彼の者は少女に自分の思いを伝える事が出来た。

 薔薇人の大切な気持ちを受け取ったレーテは、人影と共に移動を開始した。




「……あの薔薇人は高次の存在。そして、実際にあの庭園に植えられた薔薇たちの思念の集合体。

 その集合体が人の形をとって、レーテの前に姿を見せた、という事ですか……。そして、意志の疎通を図ろうとした……。

 神賢者レーテ。彼女も凄まじい才能の持ち主ですね。まさか、高次の存在とあれほど容易に意思の疎通を実現するとは」

「彼らの存在エネルギーの源は、幾ら強い意志を持っていたとしても、通常の人間には、決して見る事も存在を感知することもできない、ねじれの位置に存在する『氣』の生命体。

 同時刻同座標に居ながら互いに干渉する事のない、絶対的不可侵の存在。

 第一段階ではうっすらと存在を捉え、第二段階ではぼんやりと視認でき、第三段階でやっと存在がはっきりと知覚できる」

「確かに、第三段階経験者は、高次の存在を捉えることはできます。

 しかし、相手に自分の存在を知らしめることができるかどうかは、また別問題。

 そして、知らしめることができたとして、高次の存在が受け入れるかどうかも、また別問題。

 殆どの高次の存在は、怖れを成して逃げてしまうわけですから。高次の存在からしても、認識できる第三段階経験者は、幽霊のようなもの」

「そういうことだな。

 高次の存在を感知出来るのは、レーテ=アーグという少女が第三段階を扱える聖勇者を経て神賢者になったからだが、まさかあの高次の薔薇人と意志の疎通が出来るとは……。そして、それをプロトコルの異なる『芳香』と『音声』で、意志の疎通を正確に行うとは……。

 あの薔薇人は、高次の存在になりたてで、強い想いはあっても意志の疎通までの知能は持ち合わせていなかった。それをレーテは、意志の疎通が可能なまでのレベルに会話を通じて引き上げた。

 神勇者ファルガ=ノンといい、この神賢者の少女といい、今までの神勇者や神賢者と、何か全く別の存在である気がする。

 何十億年という、とてつもなく長い時間繰り返されてきた、『妖』と『魔』の関係する事象が、ここ数百年の間に一気に変化しつつある。

 思えば、ドイムの魔神皇を屠り、我々の神から『魔』の神皇へと『妖魔反転』したグアリザムから始まっている。この世界では一体何が起ころうとしているのか……」

 黒い神殿の一室、レーテが可憐な女神ザムマーグと共に鍛錬を積んだ、窓一つない黒い壁に四方を囲まれた『祈りの間』にて、オーラ=オーブを掌底に作り出す精悍な女神フィアマーグと可憐な女神ザムマーグは、オーブの中に映し出されたレーテの様子を見て、思わず呻きながら、表情を見せぬ仮面の下で溜息をつく。




 『黄道の軌跡』と『暁の銀嶺』を身に着けたレーテと、薔薇城の庭園で発生したと思われる薔薇人。彼らは漆黒の闇の中、デイエン城の麓……文字通り人々の目に触れることはまずないとされる、『投獄者の入口』の前に立っていた。

 城勤めの人間は愚か、ベニーバを含めた限られた王族しか、この入り口の存在を知る者はいないだろう。

 観音開きでありながら全く重厚感を感じさせぬ鉄扉は、苔と錆で覆い尽くされていた。半月より少し欠けた月の放つ光は勿論の事、満月が真上からの光で周囲を照らしたとしても、この場所には光は届かず漆黒の闇に沈んでいるだろう。夏至で一番太陽の位置が高い時ですら、この場所に陽が射すことはなく、常に地面もぬかるんでいる。不思議な湿り気が辺りに立ち込め、鼻孔を刺激するのはヘドロの腐臭だ。

 内城壁と城との限られたスペースに造られた、この地下牢獄への入口は、かつてファルガが捕らえられていた牢獄とは、全く用途の違うものであるのは明らかだった。

 捕えられたが最後、決して陽の目を見ることはない。

 存在を闇に葬られた者達が、人知れずこの世から実際に葬られる場所への入口。存在すら忘れられた者たちが、処分されるまでの間、収監される場所だった。

 鉄扉の閂部に設置された南京錠も腐食が進み、少し膂力のありそうな者なら、そのまま引っ張れば引きちぎる事が出来そうな位に痛んでいた。

 だが、流石にレーテも、その南京錠を引き千切って中に入ろうとは思わなかった。

 南京錠を壊さずに、このドアを開けることはできないか。

 そう思いながら南京錠を手にした瞬間、底部から鍵を差し込み、捻る部位だけが錆がとれている事に気づく。

 どこで手に入れたかはわからないが、南京錠を鍵で開け、この鉄の扉を開閉し、出入りをしている者がいるという事だ。

 そういう目で周囲を見渡すと、水溜りこそない物の明らかに水分過多で柔らかくなっている入口部に、ごく僅かに足跡が残っている事に気づく。しかも、その足跡が一人や二人分ではないところを見ると、薔薇人の言う通り、ここに連れてこられた人間は、ここ先にあるとされる牢獄に入れられている可能性は高い。

 入るしかない。

 レーテは心を決め、南京錠を手に取る。

 だが、そこで南京錠が外れていることに気づく。

 中に人がいる……。

 驚きはしたものの、薔薇人がレーテをここに連れてきたという事は、今まさに『その』瞬間、ということなのだ。

 そして、渦中の人物は当然中にいる。

 認めたくない。

 だが、レーテのよく知るあの人物が、神隠しの犯人であるなら……、そして、夢で見た行為を今まさにしようとしているその瞬間だとしたなら、止めなければ。

 もはやレーテに躊躇はなかった。

 南京錠を外し、地面に投げ捨てると、ドアを大きく開け放った。

 中に体を滑り込ませたレーテは、むせ返る程の血の匂いに強い吐き気を覚え、蹲りながら口元を抑えた。

 鉄のドアの向こう側は、城の外壁と同じく、巨大な岩石を切り出して作り出したブロックで組まれた細い廊下。天井は申し訳程度にアーチ状になっていたが、そこには薔薇城を強度的に支えるという機能的な意味以外は何もない。

 見る者の目を喜ばせる装飾という趣旨など全く存在しない廊下の壁には、僅かな数の燭台に灯る蝋燭の火しかなかったが、それでも漆黒の闇である外に比べれば、明かりがあるだけまだましだといえる。

 そして、五メートルも進まないところに、もう一枚扉がある。

 レーテは余りの不快感に、双眸に涙を貯めながらも、足を止めずに前進する。

 扉まで近づくと、その材質である鉄板を通じて、何かが聞こえてくる。

 均一的な響きで、金属を震わせる不思議な低周波。

 最初はその音と振動が何だか全くわからなかった。

 だが、それが人間の……若い女性の呻き声が何重にもなって響いてくるのだとわかった時、レーテはいてもたってもいられなくなり、ドアを開けるのではなく、ドアごと吹き飛ばした。

 これが『黄道の軌跡』を鍛錬外で使った初めてのマナ術となった。

 床に落ちたドアは、少し曲がっているように見えた。レーテ自身はドアだけを弾き飛ばすつもりだったのだろうが、飛躍的に伸びたレーテの術の力が、ドアさえもひしゃげさせたのだった。

 ゆっくりと歩みを進め、ドアの向こう側に入っていくレーテ。

 中はちょっとした球技が出来そうな程の広さを持つ、高い天井のホール。

 眼前に広がるのは、夢で見た通りの光景だった。

 鮮血が貯められた浴槽に、肩まで浸かる一人の女性。そして、その周囲には衣服を全て剥がされ、手首を縄で固定され、宙づりになった何人もの女性。

 女性たちは、悲鳴を上げる力なく半分意識を失った状態で、体の様々な部位から流れ出る血液が、浴槽へと流れ込むように大きな皿状の器具の上にぶら下げられていた。彼女たちの身体を伝い、足の指先から滴る『赤い生命の力』が、皿状の器具の上に滴り落ちると、それが注ぎ口の方に流れ出し、女性の浸かる浴槽に流れ込む作りになっていた。

「足りない……。足りないわ。湯に血を混ぜた程度の濃さのものでは、私の身体は美しくならない……」

 浴槽で、若い女性の血液の混じったお湯を体に揉みこむようにマッサージをしていた女性は、ヒステリックに叫んだ。

「もっと……! もっとたくさんの血を……!」

 吊るされているのは十二人の女性。

 体に何カ所も切り込みを入れられ、血がとめどなく溢れ出てくるのだが、その出血にすら、彼女たちは無関心だった。出血過多により意識を失いかけているのかもしれないが、真相は定かではない。ただ、今この状況で、この空間のドアが開かれたところで、彼女たちが逃亡を図るには、体力を消耗しすぎているようだった。

 そして、何人もの吊るされた女性に包丁大のナイフで傷をつけ、血を搾り取っているのは、数名の男児だった。

 いや、よく見ると、彼らの顔は酷く更けている。全裸の彼らの体毛に白髪が浮いているところを見ると、ある程度の年齢なのだろうか。

 その男たちが、十二人の女性たちの体に、うっすらと剣で切れ目を入れ、滴る血を浴槽に注ぎ込んでいた。

 一人の男が突然、吊り下げられている女性のうちの一人の胸部に竹槍を突き刺した。その竹槍は、先端を斜めにカットされ、中の節を取り去る事で一本の管として、効率の良い血抜きの機能を与えられていた。

 心臓を貫かれた女性は、大きな悲鳴を上げながら焦点の合わぬ双眸を見開き、がっくりとうなだれる。それとほぼ同時に、まとまった量の鮮血が、皿を経由することなく竹槍から直接、女性の浸かる浴槽に注ぎ込まれた。

 勢いよく噴き出した鮮血だったが、直ぐに竹槍からの大きな流出は終わった。

 その後は、竹槍の傷口から胸と腹、足を伝って皿に滴った赤い命の源が、遅れて注ぎ口から浴槽へと落ち込んでいく。

 絶叫したこの女性は、半眼でうなだれ、手足を一度大きく震わせ、痙攣した後動かなくなった。

「マ……、マユリ様! 何をやっているんですか!」

 レーテは思わず絶叫し、動かなくなった女性に駆け寄ると、竹槍を抜き、直ぐに≪快癒≫を施す。

 体中に飛び散った血痕はそのままに、女性の身体からは傷は消えたものの、その女性が目を開くことはなかった。

 吊るされた女性を降ろし、竹槍を排除したレーテと、相変わらず浴槽に浸かり続けるマユリの間は、約一メートル半。

 その間に、幼児程の身長の男たちが割って入った。

 果たしてこの者達が人間なのか、はたまたこの呪われた儀式の中で召喚された怪物たちなのかはわからない。一説によると、血の召喚により現れた、地獄の小鬼たちだと言われているが、頭頂部に角があるわけでもなく、身長に対して異様なほどに巨頭であるこの存在は、牛刀のような獲物を手に、レーテの周りを囲い、徐々に退路を奪っていこうとしていた。

 恐らく、小鬼たちはレーテを引き裂き、血の浴槽の一部に加えようとしていたのだろう。

 その小鬼たちには目もくれず、レーテは吐き気と悍ましさと戦いながら、浴槽内で恍惚の表情を浮かべるマユリに……、いや、マユリの姿をした悪魔に掛ける言葉を探したが、彼女の頭には、かつて憧れであった公女の心を呼び戻すための表現が、何一つ浮かんでこなかった。

 レーテは、『黄道の軌跡』に大気中の『真』を集め、真空の刃を作り出すと、吊るされた残りの女性十一人の手首を固定している綱に向かって放った。

 全ての刃は、女性たちの固定された手首の数十センチ上部を斬り、女性たちの拘束を解いた。だが、女性たちは既に逃げる気力も体力も持ち合わせている様子はなく、只皿の上に崩れ落ちるだけだった。

 レーテは安否を問う言葉を掛けたが、誰一人として皿の上から立ち上がって答える事の出来る者はいなかった。

 小鬼たちは、レーテの使ったマナ術≪風刃≫をみて、度肝を抜かれたのか、徐々にレーテから距離を取っていく。ある程度の距離まではなれたところで、彼らは一目散に逃げだした。

 女性たち全員に、順番に≪快癒≫を施すレーテ。今のレーテの『氣』の量であれば、彼女たちの傷を治すことは十分にできた筈だった。

 だが、傷を治されても、彼女たちはピクリとも動かない。意識を失っているわけでも、命を失っているわけでもないのだが、すでに心が破壊されてしまっている、という事なのだろうか。

 そして、当のマユリも心ここにあらず、といった感じだった。

 だが、浴槽の中の妖しい美少女マユリは、浴槽から立ち上がると、一糸まとわぬその美しい裸体を更に血に染めた。そして、ゆっくりとレーテの方を振り返る。

「あら、レーテ。

 貴女も美しくなりに来たの?

 古代より伝わる『美しの湯』に、一緒に入りましょうよ」

 マユリから出た言葉に、レーテは耳を疑った。

 雨の日も風の日も薔薇城の薔薇園を手入れし、他の人間にも分け隔てなく接し、動物や植物を愛で続けた、心優しく美しいあのマユリが、若い女性を嬲りながら血の入浴を行うどころか、その場にレーテを誘おうとするとは。

「血の風呂に一緒に入る……?」

 心を失った公女の言葉を反芻し、レーテは絶句する。

 もはや、眼前の赤い少女は、人間の皮を身に纏った悪魔になってしまったのではないか。そんな風にしか感じられなかった。

 悍ましい言葉を吐くマユリ。

 だが、彼女から『魔』の氣を感じない。

 マユリは、『魔』になったわけではない? これだけ女性たちに酷いことをしておきながら?

 それは、あの小鬼たちも同様だった。

 あの小鬼たちは、マユリの恐ろしい儀式で呼び出された怪物。ひょっとするとマユリの目にも映っていないのかもしれない。

 マユリの儀式で呼び出された『魔物』、という表現が適切なのだろうが、神勇者と神賢者が戦おうとしている『魔』とは別の存在。

 あの小鬼どもは、人間たちが干渉できるわけではないので、高次の存在であることは間違いないのだが、高尚な知能を与えられているわけではなさそうだ。

 恐らくこの地にいる少女たちを拐かしてきたのも、この小鬼たちだったのだろう。もし、この小鬼どもが犯人であれば、確かに証拠など残らない。高次ゆえのアリバイが成立してしまう。

 何かに憑りつかれているマユリ。だが、彼女の心を縛っているのは彼女自身。そして、異世界の小鬼どもを招いてしまったのは、彼女の歪んだ心。

「そういう事なのね……」

 レーテは、感じる悍ましさの差に納得をする。

 『妖』の持つ悍ましさには、理由があった。価値観の差異やその時代の常識からの逸脱、その他さまざまな尺度があり、その尺度にはずれている者や、それらを当然のごとくに踏みにじろうとする者に対し、悍ましさを感じる。

 だが。

 『魔』は違う。

 存在そのものに悍ましさを感じるのだ。共に生活をする人間。その中で、どうしても受け入れられない部分があるのではなく、存在そのものが受け入れられない。

 そう考えると、何となく『妖』と『魔』の差別化が図れるような気がした。

 あの小鬼たちは、人間たちの言う『魔物』ではあるのだが、神皇たちの言う『魔』ではない。

「マユリ様……もう止めてください! 貴女は十分に綺麗です。誰も貴女が美しくないなどとは思っていません!」

 レーテの説得に、マユリは柳眉を逆立てた。

「そんな訳ない……。

 そんな訳ないじゃない!

 私が美しいというなら、なぜあの人は私の元から立ち去ったの? 私はもっと美しくなりたい! あの人が私の元に戻ってきてくれるように……!」

 マユリはヒステリックに叫んだ。

 彼女の双眸から、一筋の透明な液体が流れ落ちる。その流れは、マユリの頬を伝い、顔の血の汚れを少しだけ拭うことになった。

 誰かに対する深い愛。それ故流れる涙は、悍ましい血のマユリを浄化しているように感じられた。だが、それは同時にレーテを唖然とさせる。

「あ……、あの人?」

 驚いた。ラン=サイディール国第一王女であるマユリ=サイディールに意中の人がいたとは。しかし、そんな話は何年も首都デイエンに住んできたレーテでも、終ぞ耳にしたことがなかった。

 レーテは、知らなかった。

 いや、その状況を示す言葉は、何人かの人間の口から発せられ、それを耳にはしていた。だが、レーテが当時幼すぎ、その言葉の意味を理解していなかったのだ。

「叔父様は、私をかわいがってくれた……。ずっと一人だった私を。私は、あの人に愛されていたいの。どんな時でも私を求めてくれる。私を必要としてくれているのよ」

 その瞬間、全ての情報が一つに繋がった。

 そして、その情報は鋭い槍となり、レーテの心を大きく貫いた。

(そういうことなの? マユリ様は、あの肉の塊のようなベニーバ公を愛していると……)

 ベニーバはマユリにとって叔父だ。そのベニーバがマユリを愛している? それは血縁者として、なのか? だが、レーテが細切れに得てきた情報を繋がり、全体像を描いた時、そこに見え隠れするのは、叔父ベニーバの汚い肉欲と権力欲……。

「もう一度……、叔父様に綺麗だと言われたいのよ……」

 マユリは、両手で顔を覆い、泣き始めた。まるで迷子の幼女が母を求めるように。

「マユリ様。貴女が慕っていた男っていうのは、こいつですか?」

 突然レーテの背後から、聞き慣れた声がする。

 と同時に、何かが床に打ち捨てられた音がした。酷く粘液性の高い何かが床に放り出されたのだ。

 レーテは振り返り、マユリは覆っていた両手を顔から外した。

 彼女たちの眼前には、およそ人とは思えない容姿の、空気の抜けた風船のような物体が、怪しげな呻き声を上げながら藻掻いていた。

 薔薇人はいつの間にか姿を消していた。彼の者は、遅ればせながらも目的を達したのだ。

マユリは救われないんでしょうか……。

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