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界遊記  作者: かえで
巨悪との確執

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173/253

ラン=サイディール禍の爪痕5 元凶

 『ラン=サイディール禍』から三年。

 遷都後初、かつ、ラン=サイディール国最大の事変だったが、生き残った人々により街の傷痕も癒え始めた頃、首都デイエンで余り良くない噂が立ち始めた。

 『神隠し』。

 神隠しとは、人間がある日忽然と消え失せる現象を指し、突然の失踪を神の仕業として捉えた概念の事。

 ただ、今回のデイエンでの神隠しは、その発生すらも正式には認定されていない。

 なぜなら、デイエンの住民で姿を消した者がわからないからだ。それでも、人々の共通の認識は、誰かはいなくなっている、というものだった。

 知り合いの知り合いが突然姿を消した。

 情報としてはそういった類の物であり、どちらかといえば都市伝説的な性質が強い事象だったと言えるかもしれない。噂としては聞いたことはあるが、実際の被害者に直接面識のある人間がいない。それどころか、被害者が誰だか判然としない。

 デイエンの民は、その噂に怯えた。だが、警戒さえしていれば自分たちに降りかかってくることはない。そう思っていたし、そう思わなければ不安に襲われるからこそ、そう解釈したのも致し方ない事なのかもしれない。

 ……デイエンで活動するSMGの特派員が調査を始めるまでは。

 調査の結果、SMGの特派員は、神隠しの発生を噂ではなく、実際に発生している事案であると結論付けた。SMGが神隠しにあった対象を認定したからだ。

 神隠しの標的となった一人目は、旅芸人の従者の一人。

 旅芸人そのものはその人間の存在を直接知らず、従者の中でも最下層の人間だったために、名前ではなく仇名で呼ばれていた。また、その仇名に関しても似たようなものをつける傾向があった為、同じような仇名を持った者が複数人いた事も、事態の露見を遅らせることになった。

 二人目は、旅の売春集団の一員。

 以前のデイエンであれば、そのような集団は立ち入る事すらできなかったが、『禍後』の治安が乱れた状態が続き、彼らの流入が進んだ。そもそも政府が機能していないのだから、そのような集団が紛れ込んでもわかりはしなかっただろう。

 この集団はアマゾネスのように女性のみで構成されているとされた。客をとり、その客の子を孕み産む。男児であった場合は奴隷として売却されることが殆どだか、強い個体であれば、集団のボディーガードとして使用したようだ。女児であれば、集団内で育てあげ客を取らせた。

 そのようにして集団は拡大していくが、集団が一カ所に根を下ろすことはしなかった。その理由は、孕んだ女性が子を生み育てる時間が必要だった事と、女たちの身体を休ませる事。実際、神隠しの事実が発覚した時には、その集団が既に次の目的地に向かって出発した後であったことも、事態の露見を遅らせた。この集団で、九人ほど行方不明になっているのだが、申告がある筈もなく、実際にSMGが把握できたのは人数だけだった。

 十一人目は、初めてデイエンの住人が標的となる。だが、この少女も一族とは絶縁されており、ラン=サイディール国で保管する戸籍上でも既に死亡とされているという特殊な状況だったため、神隠しの対象であったと認定される前から、現存する生きた幽霊として街に出没し、同時にそのように扱われていたという数奇な人生の人間でもあった。彼女が名乗っている名前は当然偽名であり、戸籍の名のアナグラム的な物でもなかった。そうなると、素性を知らぬ者が少女に到達するのは難しかった。

 そして十二人目。彼女が初めて、失踪したことが明らかになった人間だ。

 彼女は、元々ラン=サイディールの人間ではなかった。ラン=サイディール国で起きた未曾有の事変『ラン=サイディール禍』の発生後、その復興作業の為に訪れた有志の人間の一人だった。

 拐かした者は、事前に下調べした時点で、彼女が国内に戸籍を持たぬこと、また以前には彼女の目撃者がおらず、直近でこの地を訪れた存在であることが判明した為、彼女を標的にしたのだろうと思われた。

 だが、彼女はデイエンではない別の都市に戸籍があり、活動も丁寧に行なわれている団体の人間であった為、団体の名簿管理もきちんと行われていた。

 デイエンに派遣した筈の彼女の消息が不明になったことを受け、その団体からその国のSMGの支部に調査依頼が入り、ルイテウ経由でデイエン支部の特派員に依頼が届いた、という流れだった。

 十三人目。

 但し、被害者にはまだなっていない。

 厳密にいえば、一人目から十二人目の標的は神隠しの標的とはなったが、安否が不明なだけで、被害者という表現はまだ妥当ではない訳だが。

 SMGのデイエン支部は、神隠しにおける様々な調査を進めた。そして、この事件を終わらせるべく十三人目の候補が、彼らの手によって作られた。それは、奇しくも少女とは呼べない存在だった。


「どこに行けば、その神隠しの奴らが現れるんだ?」

 SMGの調査報告を聞いたファルガは、神隠しの発生法則については理解した。

 誘拐犯も出来るだけ足がつかぬよう、他国の者か戸籍を持たぬ者を選んで、誘拐を実施していたらしい。だが、標的となる法則はわかったものの、誘拐が実施に移される場所はバラバラ。というより、そこまで絞り込みが進んでいなかった。場所がわからなければ、手法も不明のままだ。

 そこで、ファルガたちは標的となった者の性質から、彼女たちがいたであろう場所を推測する。

 雑多な人間が出入りし、一期一会を繰り返す場所と言えば、『禍後』に発生したスラム街が一番有力な場所だと思えた。

 スラム街は『禍後』に発生した地区で、衛兵を外城壁から内城壁の城門に集中させたことで、外部からの流入者に対してのフィルタ機能が失われ、実質誰でもデイエン内に出入りする事が出来るようになった。その為、夜盗の類が跋扈したのはかつて記したとおりだが、住民はそれらに対抗する為に自警団を結成し、彼らの暴挙を事前に食い止める事が出来るようになった。

 そして、自警団もかつてのラン=サイディール国軍の兵士を講師として招き入れることにより、戦闘集団へと育ちつつあった。実質解体状態のラン=サイディール国軍ではあったが、幾つか結成された自警団の組織運営の講師や、戦術的指導者として元兵士を雇う事により、仕事に溢れていた者達の雇用に繋がったのは、不幸中の幸いだっただろう。

 ただ、三百年前の無国家時代と同じ状況が、ミニマムな状態ではあるものの、デイエンの中で発生していることもあり、この後予測されるのは、自警団同士の覇権争いだった。

「人間は同じことを繰り返すんだな……」

 ファルガのような齢十五歳の少年が呟く世の心理を耳にしたドイハンは、若造が何を言っているんだ、と鼻で笑ったものだが、神勇者になる際に過去の知識をこれでもかとばかりに詰め込まれた事を知っているレーテは、笑いながらもドイハンを諫めるメリコと同じように振舞う事はできなかった。

「まあ、ファルガに関しては命の危険はないと思う。問題は、ファルガがきちっと『神隠し』でいなくなった人たちの元にうまく連れていかれる様に振舞えるか、ってところね」

 レーテとしては褒めたつもりだったが、聞き様によっては、囮にすらなれない可能性のあるファルガ、とも聞こえ、まさにファルガはそう解釈した。

「酷い言われようだな。

 よし、見てろ。

 誘拐される前に、どれだけ数多くの男にナンパされるか見せてやる!」

 少し方向性の違う事に妙にやる気を見せ始めた少年ファルガ。だが、それが実はレーテの誘導だったとは、ファルガは終ぞ知ることはない。

 ファルガに見えぬように投げ掛けられたレーテの悪戯っぽい微笑みを見て、微笑み返すものの、メリコは内心レーテを少し恐ろしいと感じたものだった。


 少し時代遅れだが、まだ十分違和感のない服装。

 神によって選ばれた少年・神勇者ファルガ=ノンは、少しオーバーな位になよなよとスラム内を歩いた。

 日も陰り、外城壁と建造物の間の空間が大分薄暗くなると、往来を歩く人々の種類も徐々に変わっていく。

 日中は普通の行商が環状線を練り歩く。その行商の持ち歩く様々な商品を一目見ようと、子供たちも列をなして歩く。

 ところが、一旦薄暗くなると、スラムの子供たちも屋外の治安がよくない事を知っており、早々に家の中に籠る。自分達では御し得ない相手が往来を闊歩し始めるからだ。

 そんな奴らに目をつけられたら最後、家まで押しかけられた結果、一族郎党皆殺しにされ、金目のものは全て持っていかれるだろう。

 彼らに温情はない。ましてや義理も道理もない。取れるものはすべて奪い取る。

 金、性、命。

 まるで他の人間が保有していることそのものが許せないとでもいうように。

 少し薄暗くなったデイエンを歩く人たちは、柄の悪い連中に絡まれないように、可能であれば遠回りしてスラムを避ける。また、どうしても通らなければならない人間も、足早に通り過ぎ、呼び止められても決して振り返ろうとはしない。それが当たり前の光景だった。

 そんな中、僅かに流行遅れだが、現代の流行として十分通用するファッションでスラムを歩く偽少女。

 直ぐに偽少女を取り囲むように、人垣ができる。

 遠くから眺めていたドイハンとメリコは一瞬色めき立つ。

 まさか、本当に声を掛けられるとは。

 だが、その人垣は一向に縮まる気配を見せない。

 最初は得意げだったファルガも、徐々に違和感に気づき、何となく不機嫌になり始めた。

 ナンパをされるのが目的だったファルガだったが、ナンパはされないものの、少し距離を取った状態でファルガが歩く方向に人垣がずれていく。ファルガを中心に同心円状の人垣が動いていく様は、酷く滑稽だった。

 何故そのような状態が起きたのか。

 スラムの住人は、自分たちの境遇を知っており、自分たちが他者からどういう目で見られ、どういう扱いを受けるかも熟知している。治安が悪いようでいて、自分たちの力量を弁え、棲み分けができた者達の集団が、デイエンにおけるスラムだった。

 自然に住み分けがなされた居住区。それはある意味大自然の環境に酷似している。

 住人でない者はそこを避けるわけだが、そんなスラムに意気揚々と乗り込んできて、歩き続ける少女は、彼らにとってある意味脅威だった。

 夜の儚さに失望した自殺志願者か、病気を感染させるために男を物色する女か、はたまた腕試しをしにきた女戦士か。

 自警団の効果もあり、スラムでの犯罪も大分収まってきた現在にあって、女装して歩くファルガの存在は、異端そのものだった。女装した少年ファルガの目的が、彼らにとって全く想像の及ばないものだったのだ。従って、少年ファルガを囲む人垣の意味は、興味というよりは警戒の色合いが強かった。住み分けが進み、ほんの少しだが住みやすくなってきたスラム。それを壊されてはたまったものではない、という事なのだろうか。

 それに気づいたドイハンとメリコ。

 まさか、スラムの住人がここまで明確に拒絶反応を示すとは。

 金目の物を持っているようには見えず、かといって迷い込んでしまった子羊のようなおどおどした様子もなく、只颯爽と歩く姿を目撃したスラムの住人たちは、異端の少女らしき存在に対し恐怖感を持ってしまっているようだった。

 スラムが成立したとはいえ、高々三年。

 まだスラム内での明確な序列もなく、彼らなりの秩序もはっきりしない状態で、目的も正体も不明の存在に対し、デイエンスラムのルールを教え込もうとするリーダーもおらず、只遠巻きに……というには近すぎるが……異端分子を見ているしかなかったのだろう。

 いつまで経っても声を掛けてこない人垣の男共に、だんだん苛立ちを募らせ始めるファルガ。

「失敗か、これは……」

 思わず溜息をつくドイハンとメリコ。

 この計画の発案者である当のレーテは、その様をスラムの建造物の上部から眺めていた。

 女装したファルガに近づく怪しげな集団を早めに発見し、その行動を確認した上で、己の存在を気取られぬ状態で追跡を試みるつもりだった。

 だが、現在は良くも悪くも、周囲を囲む人垣が、偽少女の安全を確保していた。

「これは予想外ね……」

 さも面白くなさそうに呟くレーテ。

 そんなレーテだったが、予期せぬ襲撃に会い、少女は抵抗する間もなく一瞬で意識を失った。

 神ザムマーグとの術組手にて、どれほどに様々な戦闘における鍛錬を積んでいたとしても、不意打ちで背後から香料を嗅がされては、ひとたまりもなかった。そして、それが人ならざるものであればなおさらのことだ。


 いつまでも自分に言い寄ってこない人間共にいささか怒りを覚えつつも、何とかしてレーテとの賭けに勝ちたいと思ったファルガは、必要以上に彼自身の考える女性っぽい振る舞いを心がけた。

 だがその所作は、泥酔し千鳥足で歩く老齢の男性の『それ』にしか見えないものとなってしまっていた。

 自意識過剰な少女の振る舞いから、酔拳でも披露しようかという足の運びに、思わず頭を抱えるドイハンとメリコ。

 釣り堀では、水面を泳ぐ魚はなかなか釣れない。だが、釣りの初心者は、何とかして水面に映る魚を釣り上げようとする。幾ら魚の前に餌を落としても、魚は餌に掛かることなく、むしろ棹から伸びる餌から逃れるように遠ざかろうとする。釣り人の初心者は徐々にイライラが募り、いつの間にか魚の傍の水面を棹の先で叩くようになってしまい、結果他の魚にも逃げられてしまう。

 ファルガの行なっている自称『女性っぽい振る舞い』は、まさにその状態だった。

 別の意味で注目の的になってしまったファルガ。

 だが、それが今回仇となってしまう。

 少年ファルガが、頭上より監視を続けていたレーテの『氣』を見失ったのは、彼女がその場から連れ去られてから、数分後の事だった。レーテの『氣』が感じられなくなっていることに、ファルガはやっと気づき、慌てて周囲に≪索≫の術を走らせる。だが、同心円状に広げた≪索≫の術に、少女の『氣』が掛かる事はなかった。

「……しまった……わよ!」

 動転し、言葉遣いすら滅茶苦茶になったファルガは、思わず天を仰いだ。

 その動きのあまりの鋭さに、ファルガを取り囲む同心円状の人垣はさっと広がった。

 もはやこれ以上のファルガの醜態を見ていられなかったドイハンとメリコは、人垣からファルガを救い出し、一度スラムから撤退するのだった。


「レーテがいない!」

 両腕を押さえつけられながら、スラムの街を出るファルガ。

 彼が平静を取り戻したのは、それからすぐだった。

「慌てるな! 今の心理状態でレーテを探したところで、取り乱していては残された痕跡を見失うぞ!」

 当たり障りのない文句を、必死になって説くドイハン。だが、その言葉はファルガの怒りで逆上せた頭を冷やすのに十分だった。

「ドイハンさん、メリコさん、俺はこのまま城に向かいます。後よろしくお願いします!」

 そういうと、ファルガは大きく跳躍し、建造物の屋上に飛び乗った。

 先程までファルガを取り囲んでいた人垣は、そのファルガの所作で蜘蛛の子を散らすように逃げ、ドイハンとメリコの周りには誰もいなくなった。僅かに建造物の陰から彼女たちの様子を伺う人間の視線を感じるだけだ。

「……やはり凄いな、うちのフリーは」

 SMGの特派員も、体術や戦闘術の鍛錬は受けている。常人から見れば、超人的な動きが十分に可能なほどの力を持っている。だが、そんな彼らでさえも、ファルガの身体能力は高すぎると感じざるをえない程の動きだった。

 溜息の後に漏れるドイハンの呟きは、やはり羨望の念を含んでいた。

 SMG特派員メリコは、この何もない状況で何かレーテの痕跡を見つけたのかと驚愕するが、実際にはファルガは痕跡を見つけていたわけではない。

 逆転の発想だ。

 あれほど強くなったレーテが、人の手にあっさり落ちるとは思えない。

 人ならざる者が介したか、或いは自ら進んでそこに飛び込んでいったかのどちらかだ。

 そして、何かしらのヒントがそのどちらかを物語っている筈。元々、SMGデイエン支部の人間にも、第一皇女マユリが被疑者であることは伝えていない。だが、それが間違いないならば、マユリが動きを起こしたのであり、場所は薔薇城内のはずなのだ。

 ファルガは急いだ。

 もう自警団に気づかれようが関係ない。今急がなければ、次に事態解決の糸口に辿り着けるのがいつになってしまうのか、見当もつかない。下手をすれば、次の機会が訪れる前に『巨悪』の襲来が始まってしまう。そうなれば、この地で事態の解決を図ることは不可能になる。精悍な女神フィアマーグとの約束があるし、何より、『巨悪』の襲来が始まれば、最早そこにかかりっきりになってしまい、他の事に手が回らなくなってしまう。

 薔薇の慟哭は、恐らく神勇者と神賢者が解決すべき事案ではない。そこに『魔』は関わってきていないように感じられるし、今後関わる事もないだろう。

 だが、それでも捨て置くことはできなかった。やはり、三年前に薔薇園で出会った美しい姫君マユリ=サイディールの前に立ちふさがる困難を排除したい。そして、あの悪夢が嘘だったことを証明したい。

 それはレーテとの共通見解だった。

 最速で走り、建造物間を一気に跳躍して渡り、最短で移動する。

 外城壁そばから内城壁の数キロを、ものの数分で駆け抜けたファルガは、景観を大事にする為に一律に高さを設定された建造物群よりも人一人分背の高い内城壁に飛び移り、そのまま天空翔で一気に鐘楼堂に穿たれた穴に飛び込む。

 その直前、ファルガの氣の高まりが、南国の島にある黒い神殿に保管されていた筈の超神剣の装備を呼び寄せた。

 四つの光の玉が、尾を引きながら高速で飛来し、内城壁から鐘楼堂へと飛び移る瞬間のファルガに衝突、光の爆発を起こした。轟音がしないことが不思議なくらいの閃光ではあったが、その眩い光が深夜眠りにつく人々を起こすことはなかった。もしデイエンの人たちが日中にその光景を目撃していたら、衝撃的な光景に唖然としてしまったに違いない。

 光の玉が飛び込んだ場所は奇しくも、ガイガロス人であるガガロと、聖剣の勇者であったファルガが初めて剣を交えた鐘楼堂の頂上部、まさに『平和の大鐘』の間だった。

 鐘楼堂に降り立ったファルガは、赤い外套を纏った蒼き甲冑に身を包んでいた。

 鐘楼堂『平和の大鐘』の間。

 ここから打ち鳴らされた鐘の音が、デイエンと周囲の都市まで、響き渡っていたのは、ほんの三年前までだった。

 三年前のある日。

 それはちょうど、聖剣を持って少年が旅をはじめて少し経った頃の、ある夏の日。そして、少女が冒険者になる事を選択した日。

 その日に起きた悲劇は、後世まで語られる、国家規模での最悪の事変となった。

 人々の心を揺り動かしていた『平和の大鐘』は、SMG現頭領によって最後の音を響かせ、その事変にてその役割を終えた。

 あの時鐘を包んでいた透明な膜のようなものは、今のファルガの目には映らない。

 今思い返してみると、高次の存在を認識できるようになったファルガが見た、鐘の周りに漂っていた何かというのが、半物質となった『真』(マナ)だったのだろうとわかる。古代帝国イン=ギュアバの技術の一つ『平和の大鐘』の技術は、失われてしまった。

 だが、今はそれすらも気にしている場合ではない事も重々承知していた。

 超神剣の装備を身に纏ったファルガは、腹部の丹田に気を集中することで、体内を巡る生命エネルギーである『氣』を増幅させ、それを練り研ぎ澄ますことでコントロールする。

「≪索・穿≫!」

 少年には妙な確信があった。

 今の自身の力があれば使いこなせるだろうと思われる術を、練習なしで使用する。

 ≪索≫で使用する『氣』を、物質の表面に広げてその正体を探るのではなく、物質を一気に貫通させる。今回は文字通り城を貫通させ、城全体の情報を探った。

 同一空間ではなく、何かに隔てられた別の階層に対し≪索≫を貫通させて伸ばすのは難しい。だが、神勇者となったファルガは、その術をあっさり成功させて見せた。

 そして、探すべき少女の存在を見つけたのだった。

 ≪索≫の術でレーテを見つけたファルガは、飛び込んだ鐘楼堂の穴から、地面に飛び降りようとする。少女がいる所は、この城の地下だ。そのエリアはファルガが三年前に幽閉されていた牢獄よりも更に深層にあるようだ。

 ≪索≫の発動結果にいささか驚くファルガ。この建造物は、十三年近く前に築城されたものだったが、その時点で牢獄よりも更に地下に何かを作る必要があったという事だ。直接見てはいないが、その最下層エリアが処刑者の遺体搬出口である事は直ぐにわかった。

 まだラン=サイディールが強国でありながら貿易国家に移行しようとしていた時期。その時期に、軍事国家である名残から、遷都に反対した反ベニーバ派の貴族が何度も武力蜂起をした。その度にその者達は鎮圧され、首謀者達は薔薇城の地下に幽閉された。幽閉はされたものの、解放された記録はないところを見ると、デイエンの転覆を画策した反乱分子たちは、恐らく生きて地下の牢獄から出ることはできなかったのだろう。そして、屍と化したテキイセ貴族達は、薔薇城の地下から搬出された。その通路は、恐らく海へと繋がっており、そこから投棄された筈だ。

 そして、現在。

 神隠しにあった被害者達は、ラン=サイディールに牙を剥いた元テキイセ貴族達と同様、そこから海へと捨てられたのだろう。

 その出口とは別に、犯罪者を地下牢へと連れていくための入口がある筈だ。そこは間違いなく城内を通っていける場所ではない。生者と行動域を交わらせてはいけないという縁起担ぎと、城勤めの人間も知らぬその場所からの遺体搬出の際に目撃者を出さないなどの実用性を考えると、入口は城の外の分かりにくい場所に準備されている筈だ。

 ファルガはそれを≪索≫で探し、早々に発見する。時間短縮のために、城内を移動するのではなく、鐘楼堂からそのまま飛び降りる気でいた。

 その時だった。

「おい……。儂のかわいい娘を知らんか……?」

 突然背後からしゃがれた声がファルガを呼ぶ。

 ファルガは、特段驚く様子もなく声の方に振り返った。

 彼の男がいる事は、当然気づいていた。しかし、相手にするまでもないと思い、殊更反応するつもりはなかったのだ。

 だが、この男は娘と言った。

 かつて世界の頂点に君臨した国家元首の居城であったラン=サイディール国の王城、デイエン城。別名薔薇城と呼ばれるこの城の居住者において、娘と言えば王女マユリ=サイディールしかいない。そして、彼女の事をそのように呼ぶのは、あの男しかいなかった。

 ベニーバ=サイディール。

 かつて最強の軍事国家であったラン=サイディール国を、遷都により世界有数の貿易国へと押し上げた稀代の名君。同時に、誰しもがあまりの美しさに溜息をつくと言われた名城を一代にして築き上げた宰相。

 世間ではそう評価されている。ごく一部の真相を知る者以外は。

 彼の男の行動の全ての原動力は、増大した私利私欲。国家としての力ではなく、自分のみが自由に使える強い力を求める為、遷都を行い、大規模な軍のリストラを行い、途轍もなく巨大で豪奢な居城を作り上げた。その為に国庫を空にしてしまった暴君。自身の姪を慰み者にし、肉欲で覆い尽くしてしまった外道。そこに、他者の為の尽力は微塵もない。ただただ利己のみ。

 そんな彼には反発する者も多かった。だが、彼は見て見ぬ振りをし、やり過ごした。対策を打たずにただただ頭を低く下げ、或いはどこかに閉じこもり、取り巻きが必死に鎮静化させるのを待ってから、反省なく行動を再開する。

 運がよかったのだろう。これだけ何も知らず無策の男が十年も王気取りで振舞えたことが。取り巻きもよかったのだろう。だが、その有能な取り巻きも、彼の無能王の人としての人生を改善させることはできなかった。

 だが、流石に超商工団体SMGにまともに対抗したのは運の尽きだった。

 SMGの来襲が、誰しもが予想しない大事変『ラン=サイディール禍』を引き起こした。

 その時も、この男は逃げ続けた。姪であるマユリの元に。

 鐘楼堂から伸びる階段を転がり落ちた時、この男の命運は潰えたと、その現場に居合わせた誰もが思っていた。

 だが、その男は生きていた。以前とは全く違う容姿となって。

 その男が、ファルガの事を背後から呼ぶ。名すら呼ばず、路傍の石のごとくに取るに足らぬ物を扱うように。

 ファルガは、その声の主に初めて向き合う。

 見覚えのある顔ではあるが、三年前の贅沢を極めた男の姿は見る影もない。

 余りに体を動かさずに侍従に全てをやらせていたため、ビア樽に手足が生えたような醜い姿をしていたベニーバ=サイディール。

 だが、三年間の『禍後』の生活はベニーバの生活を一変させた。

 物はなくなり、金もなくなり、彼を為政者として扱う者も王として扱う者もいなくなった。不摂生を繰り返してぶよぶよだった体は、見る影もなくなり、あばらに骨が浮くような細身になっていた。しかし、一度伸びきった皮が元に戻る事はなかなかない。

 結果、ベニーバ=サイディールという男は、伸びきった体中の皮を垂らしながら、病により肉体崩壊を起こした乞食のような見た目になっていた。下腹部から垂れる皮は床を引きずり、頬も腹回りも背中も腰も、醜く垂れさがった皮に覆い尽くされていた。

 かつて『肉人』という妖怪がいたという。子供の様な大きさだが、目も鼻も口もなく、只垂れ下がった皮から手足が生え、素早く動き回ったという。

 ベニーバという男は、今まさにそんな風体をしていた。身に着けているものがかつての王の服の一部なので、品質そのものはよいのだが、それも手入れがされているものではなかった。そしてそれを差し引いても、お世辞にも品格のある人間とは呼びたくもなかった。

 三年前の少年ファルガにとって、恐るべき大事変ではあったが、その全貌は見えていなかった。このベニーバと呼ばれた人間が、あの大事変の直接の原因であることも、当然少年は知らない。

 だが、謂れの無い怒りが込み上げてきた。

 あの時、この男は鐘楼堂の階段でファルガの足を掴み、助けを求めようとした。だが、自分で体制を崩し、階下まで転がり落ちていった。あの時ですら、ファルガはこの男を殴ろうとは思わなかった。

 ただ、穢れていて触りたくない。

 その感情だけがあった。

 だが、今は違う。

 全てを知ったファルガは、この男を初めて自分の意志で斬ろうと思った。

 ラン=サイディールを荒廃させ、デイエンの治安を破壊した張本人。能力がないにも拘らず血縁だけで後見人になり、私利私欲の粋を極めた男。

 全てを失ったその男が、再度マユリの元に逃げようとしているのを、ファルガはどうしても許すことができなかった。

「儂のマユリはどこなんじゃ……」

 眼前の妖怪は、些か精神に異常をきたしているようにも見えた。

 それでも。

 ファルガはベニーバを詰問した。

「あんたのせいでこの街が……、この国がおかしくなった! どう責任を取るつもりなんだよ!」

 ファルガの言葉に、ベニーバは答えない。いや、何らかの言葉は口元から零れている。しかし、それが意味を成しているのかはわからない。

「あの娘、儂が『少し肌の張りがなくなった』と言ったら目の色を変えおった。それから儂がいくら声を掛けても返事なく、部屋にも入れなくなった。

 おかしな娘だ……。

 確かに若い娘の方がいいが、あの娘はこの国家の象徴だ。その娘を利用しない手はないだろう……」

 意味は通らないが、異常に不快な言葉としてファルガの耳に届く。

 不愉快だ。

 剣を握り直し、ベニーバを斬ろうと腕に力を込めた。

 そこで、彼の中に稲妻が走る。そう錯覚しておかしくない程の衝撃だった。

「まさか……」

 ファルガとレーテの見た鮮血の悪夢。その主であるマユリらしく女性。そして、マユリに一言心ない言葉を投げ掛けたベニーバ。

 繋がった。

 いや、認めたくなかった。

 国を破壊するほどの愚かな人間の放った、利己的な言葉が、美しい王女をどれだけ傷つけたのか。

「年齢的にも、肌がもっと美しい若い娘にはかなわない。それでも、儂は奴を愛する振りをしなければならん。今の地位はその努力の上に載っているからな」

 自分で自分を納得させるように、独り言を呻くベニーバ。

 美しい少女マユリの肌が気に入らず、彼の愚王は平然と少女を傷つける言葉を吐いた。

 たった一言。

 そして、マユリはこの愚か者に愛されたいがために、瑞々しいとベニーバが認める肌を取り戻すために、他人から生気を奪おうとしたのだ。少女たちの生き血を浴びる、という行為をすることで……。

 マユリが自らの肌にどの程度コンプレックスを持っていたかはわからない。実際、ファルガはマユリの素肌を凝視したことはない。例え見たとしても、今の少年ではわからなかったに違いない。

 だが、マユリはそれを気にした。ベニーバはそれを指摘したことで。

 この男は何も考えていなかっただろう。言葉を発した際も軽い気持ちで。残酷なほどに簡単な言葉で。

 幼い頃に先王である父に先立たれ、幼少期からベニーバの庇護下に入った。だが、それは通常の王家とは異なり、酷く欲望に塗れたものだった。

 権力欲。肉欲。食欲。

 その具現ともいうべきベニーバとその息子リャニップの非道を記した書物は無数にあると言われるが、それも現実にはその程度では収まらないだろう。

 ファルガは強く拳を握ると、ベニーバの頬を殴りつけた。

 ぐちゃりと音がし、ベニーバの顎周りが変形する。

 痛みは感じるのだろう。倒れ込んだ状態で少年ファルガを怯えた目で見ながら、何かを呻く。だが、それは言葉にならない。

「あんたは責任を取らなければならない。俺やレーテ、ラン=サイディールの人々、そしてマユリ様に対して」

 一歩も動けない肉人の如きベニーバの襟首をつかむと、ファルガはそのまま『平和の大鐘』の間から飛び降りた。

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