ラン=サイディール禍の爪痕1 デイエン再訪
「気持ちはわからんでもないが、その力を私的に使用するべきではない。……と言いたいところだが、我々の力を超えたそなたらをもはや止めることはできまい。
それに、こういっては何だが、今回の『巨悪』との戦いも、本来の神勇者と神賢者の力の使い方としては、正しいものとは言えぬ。それでも、『巨悪』というかつてない敵と対峙するのに、我々は神勇者と神賢者の力に頼るしかないのが現状だ。歴代の神勇者と神賢者の力を凌駕した、そなたたちの力に。
気になる事とやらの決着を、出来るだけ早くつけてくるのだ。巨悪グアリザムがこの地に到達する前に。
それと、そなたらがこれから行なおうとしている事の、事態が収拾しておらずとも、巨悪来襲時は強制的にこちらに呼び戻す。それでよいな?」
少年たちは了承した。
かつて母国であったラン=サイディール国内に、微かな異変を感じた二人。
ほぼ三年前、彼らは首都デイエンの崩壊の様を目の当たりにした。そして、当時の力では何もできないまま、荒れ狂う人々の欲望を尻目に、逃げ出すのがやっとだった。
そして、その後のデイエンの様子を、少年たちが知ることはできなかった。
SMGの特派員となり、世界を飛び回ることになっても、古代帝国遺跡探索隊の一員となって古代帝国イン=ギュアバの遺跡を探ることになっても、ラン=サイディール国首都デイエンの崩壊後の情報だけは得ることができなかった。
それがデイエンの象徴ともいうべき、とある花達の悲痛な叫びによって突然伝わってきた。
母国の首都の事が、常に心のどこかで引っ掛かっていた少年と少女が、その叫びを聞いて平常心でいられる筈もなかった。
彼らは女神フィアマーグに、デイエンの町の様子を見に行きたいと告げた。
止めることは困難。そして、止める意味もあまりない。『巨悪』の到達時は、そんな街の状況など問題にならなくなる。何しろ世界が消滅するのだ。
不承不承ながらではあるものの、女神フィアマーグは、新しき神勇者と神賢者の首都デイエン訪問を許可したのだった。
ファルガとレーテが、ラン=サイディール国首都デイエンを取り囲む城塞部のゲートに到着したのは、黒い神殿の中で女神フィアマーグとの会話から数日も経たぬ日の早朝だった。
幾ら戦闘に特化したファルガの≪天空翔≫であっても、黒い神殿の南の島からラン=サイディールまではどんなに急いでも五日はかかる。飛行術≪天空翔≫の最高速は出せても、それを巡航速度として維持することは難しい。人間の全力疾走が十数秒持てばいいのと同じようなものだ。
その点、女神の作り出す≪洞≫の術の存在は、どれほど強くなっても、身体能力や術の使用技術が向上しても、超えることのできない神と人間との境界線の存在を明確に示していた。高次の存在との壁は、確かに存在した。
ゲート前に立ち、城壁を見上げる少年は、SMGで支給されたのとまったく同じデザインの装束を身に纏い、城壁とは反対側にある『陽床の丘』と呼ばれるハタナハ高原に視線を向ける少女は、お転婆なレーテの為にかつてルサー=ツテーダが作った野外活動用の麻布で作られたズボンとスパッツ、厚手の服を身に着けていた。
それらの着衣は、女神ザムマーグによる贈り物だった。
二年間という長くも短い鍛錬の期間中。
少年も少女も、鍛錬の間は超神剣の装備をずっと身に着けていたので、体の変化は特に気にしていなかったのだが、実は超神剣の装備……剣・鎧にせよ錫杖・法衣にせよ……が、所有者の体の変化に応じて自らサイズを変えていた。
いきなりサイズが大きくなるのではなく、体の成長に合わせて徐々に大きくなっていく。それ故、彼らは自身の体の成長に気づかなかった。
しかし、彼らが以前身に着けていた衣服は、体の成長により既にサイズが合わなくなってしまっていた。
いざ鎧や法衣を脱ぎ、着替えようとした少年と少女が自分の着られる服がないことに愕然とする。鎧にせよ法衣にせよ、身に着けていく工程や外していく工程を必要としない、神掛かった機能を持つ装備故の悲劇だった。
慌てふためく少年と、何故かその少年に対し理不尽にも怒り出す少女。自分も着る服がないのにも拘らず、同様に一糸まとわぬ状態のレーテに責められ、どんどん委縮していくファルガ。
そんな彼らを見かねて、女神ザムマーグが少年たちの衣服を準備した。流石に、復興中の都市に隠密で訪れようとしている時に、蒼い鎧と白銀の法衣を身に着けていては、些か目立ちすぎる。その配慮もあったのだろう。
年頃の少年と少女だ。
身に着ける服装にも独特の拘りがあるだろう、とザムマーグは踏んでいたのだが、ファルガもレーテもかつて自分自身が身に着けていた服を望んだ。むしろそれが拘りだったのかもしれない。
それが、ファルガの場合はSMGにて支給された装束であり、レーテの場合はデイエンから旅立つ時に身に着けていた冒険者の服装だった。どうやら、彼らにはその服装が一番しっくり来るらしかった。
三年前のあの日。
城砦都市全体が大火に包まれた。それはデイエンの外城壁も例外ない筈だった。
しかし、組み上げられた岩石ブロックの接合部を埋めるための粘土部に焼きが入った形になり、ほんの僅かではあるが強度が増しているようだった。城塞都市デイエンの代名詞ともいうべき外城壁は、遷都後築十三年という年月しか経過していないにも拘らず、業火の煤のせいか幾多の戦を潜り抜けてきた歴史のある城壁のような重厚感を滲ませていた。
以前レーテとファルガが共にこの地を訪れた時には、城砦のゲートの所にも衛兵が何人かいた筈だったが、現在では衛兵はおろか人一人立っている様子もなかった。あの日以降、日が暮れる時間を過ぎても門は閉ざされていないのだろう。
あの日の後、デイエンという都市は荒廃しきってしまったのか?
そんな望まざる予感を持ちながら門を潜ると、以前のデイエンとは明らかに趣の異なった、漁業の街特有の朝の忙しさに直面することになる。
遠洋漁業を終え、デイエン港に戻ってきた何隻もの中型漁船からは、大量の海産物が水揚げされ、それを仕分ける漁師たちとそれを買い付ける商店の人間、そして、陸の輸送を受ける魚売りたちが往来を行き来する。
以前のような、大型の港に何隻もの貿易船が出入りし輸入と輸出の利ザヤで設ける、汗水垂らさない上級商人たちの優雅な商売、表面上だけは上品な商業の街、という印象はもはやどこにもない。
どちらかというと、粗野ながらもこれから発展していくだろう中規模の町、と言った風情だ。戦後の混迷期を彷彿とさせるが、人々の目には悲壮感はなく、また街を元に戻してやる、という気概さえ感じられる。
まさに『泥臭い』商人たちの商売のやり方だった。
十年前の遷都も、経済の発展も、そして、大勢の人間が亡くなり町も破壊された『ラン=サイディール禍』と言われる歴史的事変も、デイエン町であった頃からの住民からすれば、三百年近く続いた町の歴史のうちの極一部にすぎないという事なのだろうか。
小さな港町、漁業の町デイエンが首都デイエンと化したのは、遷都後大量のベニーバ派のテキイセ貴族が移り住み、それに伴い旧都テキイセから流出した民がデイエンに移り住んだ事で、人口が大量に増加したからだ。そして、それはベニーバの目論見通りとなった。
その際に大金は確かに動いたが、元からその地で生活していたデイエン町の住人たちからすれば、デイエンの瞬間的に膨らんだバブル経済に過ぎなかったのではないだろうか。
吟遊詩人は後世ではこの事変を『一時の夢の跡』と唄ったが、デイエンの民は期待していなかったどころか、危機感さえ持っていたとされるから、どこかでそのバブルの恩恵は享受しつつも、過度に踊らされることのない様に準備はしていたのだろう。
それでも、あの深夜の暴動までは予想外だったようだが。
元々の産業を破壊されているわけではなく、突然の経済活動拡大に際しても、そこまで自分達の業種の活動ペースを崩さなかったデイエンの民。
そんな彼らからすれば、勝手に引っ越してきた集団が勝手に揉めて、勝手に街を燃やし、勝手に悲劇の渦中にいる気になり、その出来事を勝手に『ラン=サイディール禍』と呼び、後世にさも大事件があったように勝手に伝えた。
あの日の騒動はそんな印象だったのか。
往来沿いに簡易の屋台が並び始めている。
時期的には、ラマ村からの『お上り』も近いのだろう。
ラマ村の栄養豊富な野菜群が街道筋に並び、更なる賑わいを町に呼び込むことは間違いなかった。『お上り』は、規模こそ違えこそすれデイエン町時代から存在するイベントだった。
『お上り』とは、元来デイエン町の海の幸とラマ村の山の幸の交換イベントだった。
そのイベントは、ラン=サイディール禍後の一年は流石に実施されなかったが、翌年からは実施に移されていたそうだ。
あれだけの大火で、都市自体も全て壊滅したかと思われた。
しかし、旧都テキイセの住民と、現実を見据えたデイエン町の住民たちのいざこざが、街角のどこかで発生こそするものの、それを酒の肴にしながらも、むしろ皆で混迷に立ち向かっていこうという力強い復興の兆しが見える。以前には明に暗に存在した、旧都テキイセの住民によるデイエン町の住民に対する選民意識も、徐々に薄らいできているようだった。
ラン=サイディール禍以前と同じとまでは言えずとも、『首都デイエンの民』たちは逞しく生き抜くための努力を続けていた。
そんな中、デイエンの象徴ともいえる薔薇城だけは、どんよりとした空気が漂い、その周辺だけ数百年の長い年月が経過したのではないかと思える程に傷みが激しく、さながら廃墟の様相を呈していた。
二年前の飛天龍の激突による塔の半壊も補修されておらず、不思議な音色を奏でる鐘も、あの日以来その音を響かせることはない。それどころか、城そのものが死にかけているか、或いは既に命を失ってしまっているような印象を受けた。
死城。
人々の復興活動とは対照的な負の兆候。
ファルガは一刻も早く薔薇城を訪れ、様子を知りたかったが、レーテはかつての生家がどうなっているのかを見ておきたかったようだ。
少女に連れられ、少年もアーグ家の屋敷を訪れることになった。
少年は十二歳から十五歳へ。少女は十一歳から十四歳へ。少年も少女も徐々に青年へ。その歩幅は大きくなり、その成長は明らかだった。
白い壁が特徴的なアーグ邸。
二階建ての豪邸は、当時の面影こそ残していたが、業火の煤に汚され、白黒のまだら模様になっていた。だが、他の貴族の館が焼き討ちにあっていたにも拘らず、レベセスの屋敷に打ち壊された形跡はなかった。
後で聞いた話によると、打ち壊そうとした住民たちに対し、近所の住民が必死になって抵抗したのだという。結果、近隣の貴族の屋敷は焼き討ちにあったものの、アーグ邸だけは火災の際のほんの少しの煤の被害だけで済んだのだそうだ。
元々は、レベセスはテキイセの人間であり、テキイセ貴族の呼ばれる人種に含まれていた。そして、レーテはといえば、育ちこそデイエンだが、由縁はやはりテキイセだ。
旧都テキイセの住民は貧富の差こそあれ、やはりベニーバの甘言により移住の道を選んだ者も多い。ところが、移住後の生活は、ベニーバの説いた裕福なそれに至った者は中々おらず、それどころか今回の事変ですべてを失った者も少なからずいた。そんな民が、テキイセ貴族に対して反旗を翻すのもわからない話ではない。
だが、他のテキイセ貴族の屋敷と同様にアーグ邸を打ち壊そうとした旧都テキイセ民の前に、デイエン町の住民が立ちはだかったというから、レベセスという人間が、首都デイエンという都市において、どのような印象を住人たちに与えていたのかは推して知れよう。
屋敷の建物に近づくと、ちょうど誰かが玄関から出てこようとしていた。
打ち壊されてはいないものの、誰か不法滞在をしているのかと一瞬構えるレーテとファルガ。
だが、玄関の扉が開いて出てきたのは、二人が見覚えのある使用人の女性だった。
「ジョホさん!」
レーテに名を呼ばれて、一瞬周囲を見回す壮年の女性。その視線の先にレーテを見つけた瞬間、彼女は持って出ようとしていたゴミ袋を投げ捨て、駆け寄ってきた。
「お嬢様! よくご無事で!」
壮年の女性は、まるで泣き叫ぶような声で少女の名を呼んだが、後は言葉にならないようで、何か唸り声を発しながらレーテを抱きしめるのだった。
城門から薔薇城へと続く主要街道で、半分奇声を上げる壮年の女性に組み付かれているように見えた少女を助けようと、何人かの人が動きを見せようとしていることに気づいたファルガは、女性とレーテの手を引き、屋敷の中へと入った。
レーテの膝ですがるように泣き続ける壮年の女性は、リビングのソファに腰かけたレーテから、暫く離れようとしなかった。
居心地の悪さを感じたファルガは、頭を掻きながら台所に行き、汲み置きしてあった井戸水を水差しに移すと、三つのグラスと共に盆に乗せ、リビングへと戻った。二年前に僅かの期間滞在しただけだったが、家の構造はよく覚えていた。
ファルガはレーテと反対側のソファに腰かけ、グラスに水を灌ぐ。レーテはそのグラスを手に取り、壮年の女性ジョホにやさしく手渡した。
ジョホはグラスの水を一気に飲み干すと、大きく息をついた。
「お嬢様……。よくぞご無事で」
レーテが生まれた時からずっとこの家に仕えていた使用人。ツテーダ夫妻とも面識はあるだろう彼女は、レーテを生んでそのまま命を落としたレーテの母を看取った人間のうちの一人だ。
ツテーダ夫妻と共に、長女カナールと次女レーテの行く末を頼まれていた彼女は、荒み去っていったカナールの事もずっと気にしてきた。同時にまだ何も知らぬレーテを同じようにしてはならぬと、カゴスとルサーと共に、必死になってレーテに様々な事を教えてきた。その様は、少し厳しすぎる感もあるくらいだった。
そんなジョホだったが、『ラン=サイディール禍』の業火の中で、もう一人の約束の少女さえも失ってしまったと悲嘆に暮れた。ともすれば生きる気力を失ってしまいそうな彼女だったが、その度に周囲の人間に助けられた。
レベセスを愛する周囲の人間は、家だけでなく、使用人であるジョホも守ったのだ。
壮年の女性の服装は、三年前と同じメイド服だった。ただ、生活の汚れはこびりついていた。特段それが異臭を発することはなかったところを見ると、手入れはされているようだったが、流石に劣化が目立つ。
レーテは宥めるように壮年の女性の肩に手を置くと、スッと立ち上がり、衣装棚から一着のワンピースを持ってきた。昔少女たちの母親が身に着けていたものだったが、それをジョホに手渡す。
それは、メイド服ではなかった。
ジョホは不思議そうに受け取るが、少し寂しそうなレーテの表情から、何かを感じ取ったようだった。
「私もお父さんも、もうここには戻ってきません。
今までこの家を守ってくれてありがとう。
もし、ジョホさんが良ければ、この家に住み続けてください。そして、もし許されるなら、私はたまにここをお父さんと一緒に訪れたいです」
レーテなりの決別だった。
自分がラン=サイディール国の警察組織から指名手配をされていようが、もう関係なかった。
平和の下、この地に住むのならばありかもしれないが、父であるレベセスも恐らくラン=サイディールには戻らない。父から直接は聞いていないが、恐らく間違いないだろう。
父は、親友の息子を探すために、ラン=サイディールに固執した。宰相であるベニーバ=サイディールに疎まれながらも国内に留まり、最終的にドレーノ国の首都ロニーコにて望まざる総督を演じ、ついに親友の息子を見つけた。そして、その親友の息子と共にこれから『巨悪』と戦おうとしている。
そんな父親が、デイエンに拘るとは思えなかった。
勝手な決定。だが、わかり切っている父レベセスの判断を待ってはいられなかった。
壮年の女性、ジョホは泣き崩れた。
彼女は、いつか戻るアーグ家の人間を待ち続け、家を守り続けた。いつかこの家を持ち主の元に返すために。
だが、それはある意味叶い、そして叶わなかった。
ただ、一つの依頼をされた。
いつか、少女は父と共にこの家を訪ねるだろう。その時に、ホストとしてこの家で迎えて欲しい。
暫く壮年の女性は泣き続けていたが、やがて泣き止み、少女と抱擁を交わす。
「わかりました。ですが、この家はお預かりするだけです。良いですね」
少女はにこやかに微笑みながらも明確な応答はせず、親愛のチークキスを交わすと、かつての生家を後にした。
アーグ邸を離れてしばらくした頃、レーテはファルガに耳打ちをする。
「追跡られているわね……」
「わかっている。
彼らはSMGの特派員だよ。
ただ、彼らはSMGであることを隠して行動するのが仕事だからね。俺たちが裏路地にでも入るのを待って接触してくるのじゃないかな。
でも、凄いよな。同じ人間が五分以上は尾行していないよ。多分、五分或いは五百メートルごとに、尾行する人間が交代している。これじゃ、普通の人間なら絶対に気づかれない」
ファルガは慌てるでもなく答えた。
ファルガの余りの認識力の高さに、レーテは思わず目を見開いた。神皇の鍛錬は、そんなところの能力まで高めるのか、と。
だが、それ以上の行動は流石にとらない。ファルガたちの実際の行動に対しての影響の有無はともかくとして、彼らはラン=サイディール国内では指名手配犯の筈なのだ。
早朝の人々の往来で目立ってしまうと、デイエンの警察組織に勘付かれる恐れがある。火の粉は払わねばならないが、出来るだけ関わりたくはない。
「今のSMGとラン=サイディールと交戦状態は、実はあの日以来ずっと続いている。
でも、その状態だからこそ、俺たちにデイエンの警察組織が手を出してこないように見守っている、ってところなんだろうね。
単純に組織同士の紛争、という面で言えば、どちらも負けたとは思っていない。ただ、勝利というには余りに不安定な状態だよ。
SMG側の立場で言えば、元頭領リーザさんの命令だった免状を入手できず、SMGを賊として扱うラン=サイディール側の立場で言えば、王城をあれだけ痛めつけた賊を処断するどころか、確保すらできていない。
どちらも今更、積極的に動くことはしないけれども、相手がやるならやってやるぞ、という認識なんだろう」
レーテはそんなファルガの説明を聞き、納得する。
少女も、『ラン=サイディール禍』にて、SMGとラン=サイディールの小競り合いを目撃している。だからこそ、ファルガの説明が突拍子のない物には聞こえなかった。
その一方で、ファルガに対して違和感がぬぐえない。
神勇者として戻ってきてからの、ファルガの余りの感情の起伏の無さ。レーテには、この青年戦士は、感情がなくなってしまったのではないかとさえ感じられた。
妙に冷めているというか、悟ってしまったというか……。
知識が先行してしまうとどうしてもそのようになる傾向はあるが、以前のファルガを知っているだけに、それが酷く悪い状態なのではないかと思えて仕方ない。
少年期のファルガの内面にあるジョーに対する激しい怒りと、その怒りの矛先を失った際の喪失感を知っているレーテ。そして、そんな負の感情に翻弄されながらも、危機に対して自分が最前線で戦って、仲間たちを失ったり傷つけたりしないようにしようと必死になっていたファルガ。強くなればなるほど、護り救いたいという感情は味方だけではなく、敵にまで及ぶようになっていた。
戦うこと、衝突することで得られる信頼関係も、確かに存在する。
それは彼にとって、敵との戦いというよりはむしろ、自分との戦いだったといってもいいかもしれない。
そんな少年ファルガ=ノンが青年期へと移行しつつある今このタイミングで、彼の心から感情が失われた。
だが、それも無理はないのだろう。
神であるフィアマーグがかつて受けたような、神皇からの強制的な知識付与。
あの時、耐えがたい程に圧力を高められた電撃のように、様々な情報が脳髄に何度も直撃した。そして、世の中で人間が知る事の出来る情報を、全て強制的に短時間で打ち込まれたのだ。
いかに探求心や知的欲求のある人間であろうとも、これだけの短時間で、人間の持つ知識だけではなく、神のレベルの知識量の保持管理運用を要求されるとするなら、それはもはや拷問だ。
情報は、単純にそれを知るだけではなく、それに対しての自分なりの処理を求められる。実体験の伴わぬ情報は、情報でしかない。しかし、経験した事に対し、自分の頭の中で整理し、昇華することでそれがその人間にとっての内面的な血肉になる。
本来人間がじっくりと経験し、昇華していく作業を抜きにして、いきなり大量の情報を与えられたファルガは、食あたりならぬ情報あたりを起こしてしまい、それが現在のファルガの無反応に繋がっているのかもしれない。
レーテはそう思った。
ファルガが後にレーテに伝えることになるが、神皇いわく、神勇者が存在しない時期もあったという。
それは、神勇者候補として挙がってきたはずの戦士たち……文字通り、元神勇者フィーと元神賢者サミーの代よりも何世代も前の神勇者候補や神賢者候補たちの事だ。
彼らの頃は、超神剣を使うための氣のコントロールの教材としての聖剣もなかった時代だ。何百年に一人という発生率の低い、たまたま氣のコントロールが僅かにできる存在を神勇者として育て、同様に神賢者として育てた筈の存在に、この膨大な知識の付与を行なった時、普通に候補たちは死んでいった。
いつの間にか気がふれた者。
いつの間にか自害した者。
大半は膨大な知識の量が入れ込まれた瞬間、そのまま絶命していた。
知識とは、物事の道理だけではない。かつて人間をはじめとする知的生命体が行なってきた様々な活動。正義の名の下に繰り広げられる人間の人間に対する残虐行為や略奪行為。乱獲による絶滅や環境の変化による個の減少。まるで星が人間を消しに来ているとしか思えないような自然災害。
ありとあらゆる知識が、人々の記憶に刻まれ記録に残る。それらを全て知ったなら、人間は自身が人間であることを嫌になる可能性は十分にあった。
そんな危険な情報群だ。
その享受は、その時代の最強の戦士に対して行なわれた筈だったが、終わった時にその瞳に僅かにでも光が残っていれば、御の字だった。
現在は『巨悪』として敵対する、かつてこの星の神であったグアリザムが、長い年月神勇者と神賢者を育てようとして失敗しつづけたのは、そのやり方に問題があったのではないか、とは女神フィアマーグの弁だ。
だが、そもそもの問題として、高々数十年の人間に対し、有史以前からの知識量を授けるのは些か無謀といえるだろう。その必要性も含めて。
今回、この星で神が入れ替わったのは、イレギュラー中のイレギュラーだった。
恐らく、帝国イン=ギュアバよりも遥かに昔に栄えた文明がまだ誕生する前から、グアリザムは神だったとされる。そして、神はずっと神だった。神グアリザムが妖魔反転し、魔神皇として高次の存在に移行し、神勇者フィーと神賢者サミーが、成り行き上とは言え女神フィアマーグとザムマーグへと高次転位するという事象は、恐らくこの星は愚か、この世界が出来上がった時から皆無に近いだろう。
神勇者の育成は、聖剣を集める事よりも、氣のコントロールが出来る事よりも、神皇から享受された様々な知識を共有し、界元の成り立ちに必要な知識を自分の思い通りに使える事が一番重要であり、課題であった。
神勇者と神賢者の行動は、神皇代行の意味合いもかなり強いからだ。
往来を行き交う人間が増えてきた。
このまま移動し、何も情報のないまま行動しても、手間と時間を費やすだけだと判断したファルガは、飲食が可能な食事処に入った。
そして。
入り口から最も奥の席についたファルガたちは、後からついてきた二人組の追跡者の方を見る事もなく席を勧めた。
 




