神闘者との戦い1
「貸していたものを返してもらいに来た。元々は、その槍は俺の物だ。
あの時はあの野郎に不覚を取ったが、これがその罰だったとしても、『もどき』如きが『灼刃』と戯れていることそのものが、俺にとっては我慢ならん。
……嬲り殺しにしてやる……」
上空に突然現れた人影。
その人影は、砂浜で修業中のファルガに向かって、侮蔑の言葉を投げ掛け続けた。
常人の目ではとても捉えられない速さで、型を繰り返していた少年ファルガ。その足元の砂浜は抉れ、南国の鮮やかな水色の海水が、彼の周りだけまるで沸騰しているかのように細かく泡立ち、濁りきっている。
頭上からの暴言を耳にしても、ファルガは演武をやめなかった。まるで、かの男の出現と接近とを把握していたかのように。そして、それ自体が殆ど問題にならないとでもいうように。
それから数瞬、炎を纏った『灼刃』を振るったファルガは、演武の最後の型を描いたあと、初めて体を崩した。
「ずいぶん遅かったなあ。もっと早く来ると思っていたんだけれど」
全身汗と海水でずぶ濡れのファルガは、上空に浮かぶ男をゆっくりと見上げた。
上空から凄まじい形相で睨みつけるかの男。
憎しみの滲み出るその表情は、只『灼刃』を弄ばれたということだけが理由ではあるまい。侮蔑と共に吐き出されたはずの言葉を軽くやり過ごされ、それどころか再来訪が遅すぎるとまで言われて、かつては少年に圧勝したはずの男は既にペースを乱されているようだった。
古代帝国イン=ギュアバの遺跡内漆黒の闇の空間で戦った時には、ほぼ光のない場所での戦闘だったため、相手の容姿等は全く分からないまま、恐るべき悍ましさと相手の赤黒いオーラ=メイルとを目印に戦っていたファルガ。
だが今は、黒い神殿のある南の島の上空にいる彼の男の姿は、はっきりとその目に捉える事が出来た。
ファルガには『神闘者』の服装に覚えがあった。
あれは、カタラット国の宰相であった頃のゴウ=ツクリーバの抱える私兵の戦闘服。
隠密行動を主とするゴウの私兵たちは、滑らかな動きと高い防御性を両立するため、プレートメイルのような装備する者の動きを阻害する重装備を持たない。盾の代わりに細い鋼の糸を何重にも編み込んで作られた手甲を用い、膝部と肘部や心臓部を護るなめし皮の防具以外は、只の布地のようでありながら手甲にも使われている細い鋼を布に編み込んだ道着のような衣服を身に着けていた。
そして。
上空にいる『神闘者』と思しき人物も、『影飛び』の装備を身に着けていた。
カタラットのシュト大瀑布での戦いで、早々に地下水脈に飲まれてカタラットでの戦線から離脱してしまったファルガは、その後のワーヘ城屋上での死闘について、実際に目で見たわけではない。あくまでレーテの話を聞いたに過ぎない。
だが、大瀑布の裏に延々と続く水の回廊にて、ファルガは『影飛び』と一触即発の状態を経験している。その時に『影飛び』の装備は目にしていた為、魔王の装備に見覚えがあったのだった。
レーテから聞いた屋上での戦いの際、黒い稲妻が沢山落ちたという。
その時に、何人か『洗礼』に耐えた者がおり、恐るべき身体能力でその場を立ち去った者もいたというから、そのうちの一人が『神闘者』となって、ファルガの前に立ち塞がったとしても何ら不思議はなかった。
ゆっくりと下降してくる『神闘者』。
その男は、ファルガの正面、五メートルほど先に降り立った。
背丈はガガロより少し小柄な程度。細い線の肉体に筋肉がバランスよくついている。そして、ガイガロス人のような真紅の瞳をしているが、違うのは瞳孔が黄色い。そして蛍光色の怪しい光を湛えている。
少し垂れ気味の双眸と、団子鼻、少し厚めの唇は親しみを覚える顔つきであるが、『魔』として少年ファルガの眼前に立つこの男に対し、ファルガは親しみどころか小馬鹿にされているような不快感を覚えた。
「あんたが、遺跡で戦った『神闘者』か?」
ファルガの問いに青年、というには少し年を取っている男は厭らしく口角を上げた。
「そうだ、といったらどうするのか? 実力差を思い出したなら、勝てないと尻尾を巻いて逃げ出すのか? キャンキャン、と負け犬の真似をすれば見逃さないでやらんこともない」
男は腰に溜めた棒を取り出し、両手で構える。色こそ違うが、形は『灼刃』そっくりの手槍だ。
「『氷雨』。三槍のうちの一本。『灼刃』もその一本に含まれる」
男が手にした棒をさっと振ると、音もなく伸びた青白い刃が空気中の水分を凍らせ、周囲の空間がキラキラと輝いた。南国特有の湿度の高い空気が、一瞬ではあるものの凍り付いた瞬間だった。
「俺は、意識が残っている状態で凍らせた相手の四肢を少しずつ砕いていくのが好きなんだ。声も出せず、目も閉じられない奴が、自分の手足が徐々に砕かれていく様を見ているのはいい気分だぜ。最初は目に驚きが宿り、次第に恐怖へと変わっていく。そして、最後は懇願の眼差しに変わるんだ。一思いに殺してくれ、とな。
……だがな。
俺は、反吐の出そうな奴らに『灼刃』を突き立てる事もそれ以上に好きなんだ。壮観だぜ? ムカつく奴が、穴という穴から炎を噴き出しながらのたうち回る様はよう。そいつが火だるまになって、醜く焦げて崩れていく様が、何とも儚げでな……。何度思い出しても笑えるぜ。
『もどき』よ。
お前のとどめは『灼刃』で刺してやるぜ。その方がおまえも幸せだろ?」
先程のファルガとのやり取りが思いのほか気に入らなかったのか、『神闘者』の男は執拗にファルガを挑発し、感情を乱そうとする。
だが、ファルガの心にはなぜか響かない。
「あんたは、真の『魔』なのか? それとも、黒い稲妻で力を得ただけなのか?」
挑発に応じないファルガに対し、些かの不快感を覚える魔王。
特に、たかが聖勇者風情にあんた呼ばわりされることが、どうにも我慢できないらしかった。彼は自ら名乗った。
「……ハンゾだ。殺される者の名くらい覚えておけ。
今回は『あの野郎』はここにいない。おまえは誰からの助けも得られず、炎に焼かれて死んでいくんだ。
目や鼻、口から火を吐き出しながらな。せいぜいいい声で鳴いてくれよ」
ハンゾと名乗った神闘者の右手に収まる手槍が、一気に背丈ほどの長さに延びる。
『神闘者』は、敢えてファルガの眼前を凍てつく刃が通過するように、もう一度『氷雨』を振った。ファルガの眼前にキラキラと氷の粉末が飛ぶ。その粉が顔や腕に触れると、少しヒヤッとした。
同じ体験を、ファルガはかつて養父ズエブ=ゴードンとの旅で一度経験した事がある。
ラマ村から首都デイエンへと下る道中で、切れ飛んでいる雲の中を歩いた時の事。白い綿毛のような雲に触れると、皮膚がしっとりと湿り、一瞬ではあるが顔がヒヤッとしたあの時の感覚に似ていた。
『氷雨』という手槍の一閃は、ファルガに養父との旅の記憶を蘇らせたが、それは果たして魔王ハンゾの目論見だったのか。
次の瞬間、ハンゾの右手がきらりと光る。
目にも止まらぬ突きとは、このようなものを言うのだろう。
きらりと光った後、光の粉が周囲に飛び散る。それが幾度となく続いた。ハンゾの足元が何度も抉れる。常人の目では捉え切れない突きは、『氷雨』の刃と、ハンゾの腰の動き、鋭い踏み込みで実現されていた。
ファルガは微動だにしない。
余りに速く鋭いハンゾの突きが見えず、対応しきれないのだろうか。
否。
前回の戦闘から何日も経っていないにも拘らず、ファルガにはこの恐ろしい速さの突きがすべて見えるようになっていたのだった。そして、ハンゾがファルガの恐怖を必要以上に煽る為に、敢えて当てない突きを打っている事も解っていた。
ほんの数日前の戦闘では、この突きで両手両足を貫かれ、身動きが取れなくなっていたテマ。そして、刺殺ではなく敢えて撲殺を狙うために、四肢を槍で貫かれた後、その後石突で何度となく打ちのめされたファルガ。
だが、今のファルガには、『氣』を籠めればその分力を発揮する魔槍『灼刃』がある。聖剣ではなく、魔の超神剣を手にしたファルガは、聖剣によって力を抑え込まれることなく、むしろ氣のコントロールで身体能力を遥かに向上させていた。
その余裕が、ファルガにハンゾの突きを見切らせていた。
そして、『氣』を込めた武器はその分ファルガの手に馴染み、聖剣『勇者の剣』以上の武具となって、ハンゾの攻撃を凌いでいた。
焦りを見せないファルガに対し更に苛立ちを募らせた魔王は、早々に当てる突きに切り替える。
金属の衝突音ではなく、何かが破裂するような音が何度も響き渡り、ファルガとハンゾの間に雲のように粒子の細かい水蒸気の靄が発生した。
「……まさか、『灼刃』を手懐けたというのか」
ハンゾの表情から、初めて薄ら笑いが消えた。
空気中の水分が『氷雨』で冷やされ、刃に纏わりつく様に凝固するが、それが『灼刃』の高熱の刃と衝突し、固体から一気に気体へと昇華、その体積を爆発的に膨張させる。その際の爆音が、魔槍『氷雨』と『灼刃』がぶつかる度に幾度となく鳴り響く。
水蒸気爆発。
赤い槍と蒼い槍が激しく交わるその度に、打ち合ったその箇所に雲と光とが発生した。
力を引き出された『灼刃』と『氷雨』の強い衝突の直後、二人の戦士の背後の砂が大量に舞い上がった。昇華による空気中の水分の爆発的膨張が、瞬間的に突風を巻き起こし、砂浜の砂を幾度となく爆発的に吹き飛ばしたのだ。
『灼刃』の刃を柄の長い剣として扱うファルガ。そして、『氷雨』の刃を槍の穂先として扱うハンゾ。
お互いの戦闘スタイルが、はっきりと出た武器の打ち合いとなった。
炎の槍と氷の槍の衝突の衝撃は、黒い神殿にも届いていた。
神殿の一角を使い、封印の解かれようとしている四聖剣の前で禅を組み、四つの巨大な力を一つに纏める為に、聖勇者ガガロ=ドンは『氣』を集中していた。
別の一角では、神賢者になろうとする聖勇者レーテ=アーグが座する。
レーテは、聖剣発動時のような強いオーラ=メイルではなく、己の体を膜で包むように繊細なコントロールで、氣を自らの周囲に留めていた。神ザムマーグは、その膜を収束、一本の糸とした上で、己の神の氣と練り込むことで一本の神々しい糸を物質として創り出し、それを編み込むように一着の法衣を創り出そうとしていた。
音はせず、地震を思わせる巨大な振動が、神殿内を揺らす。だが、神殿内でその揺れを感じた者はいても、それを刃同士の衝突音として認識した者はいなかった。それほどに、大きなエネルギーのぶつかり合いだった。
双眸を固く閉じ、禅を組むガガロはピクリとも動かない。だが、同じ空間の対角線上で法衣を紡ぎ出そうとするレーテは、いてもたってもいられず、振動に震える黒い神殿の上空に思いを馳せた。
「集中を解かないでください、レーテ。
今、貴女が集中をやめてしまうと、氣の糸の強度にムラが出てしまいます。そうすると、法衣の製作の失敗に繋がってしまいます!」
女神ザムマーグから注意され、一度は姿勢を戻し、オーラの糸を実体化させるレーテ。
だが、同様の衝撃が続き、少女は平常心ではいられない。
「ザムマーグ様、外にはファルガがいるはず。彼は何と戦っているんですか!?」
一瞬の躊躇の後、可憐な女神ザムマーグは、術式を中断する。
「魔王が来ています。ファルガは、魔王を抑えています」
本当は、法衣と錫杖、帽子をレーテに向けて作り終えた上で、神賢者の修行に移りたかったザムマーグ。だが、今の精神状態では修行は愚か、法衣の製作すらおぼつかない。
心乱れた状態でのオーラの糸で紡いだ法衣では、恐らく巨悪との戦いには耐えられない。ならば、一度超神剣の調整や、法衣の製作を中断し、全員であの『神闘者』を倒すか。女神二人とガガロ、そしてレーテが聖剣を振るえば、如何に魔王と言えど、優勢に戦いが進められる筈だ。
結果的にその方が近道かもしれない。ザムマーグはそう感じていた。
だが、もう一人の女神フィアマーグは、超神剣の調整にガガロ共々集中しているせいか、重なる衝撃にも微動だにしない。いや、それどころか、黒い神殿の外でファルガと神闘者ハンゾが争っている事も気づいていないかもしれない。恐るべき集中力だが、この状況下において、その集中力は異常ともいえる。
禅を組み固く双眸を閉ざすガガロと、聖台に設置された四本の聖剣。聖剣を囲むように、青白い光の半球に包まれている蒼き髪の戦士を見つめるフィアマーグ。未だ超神剣はその姿を現さない。
ガガロとフィアマーグが動かない以上、ザムマーグも術式を中断するわけにはいかない。
天を仰ぐレーテを宥めると、ザムマーグはオーラの糸を紡ぐ作業を再開した。
一歩を激しく踏み出し、冷気の槍『氷雨』で薙ぐ魔王『神闘者』。
その軌跡が、大気中の水分の凍結により明確に出現する。
だが、それは聖勇者でなくなった筈の、ただの少年剣士ファルガには届かない。
更に踏み出し、薙ぎ、踏み出し、薙ぎ、踏み出し……。
普通の人間ならば、その体躯を微塵切りにされて、大地に冷凍の肉片の山を築くことになっていただろう。形など残らず、かつて『人』であったものに姿を変える。斬撃の威力は凄まじかった。
だが、少年剣士には届かない。ファルガの方が一歩速いのだ。
バックステップで華麗に『氷雨』の斬撃を幾度か躱したところで、斬撃と返しの斬撃の間を見計らい、一歩前に踏み出た。そして、刃部ではなく柄部で魔王の鳩尾に一撃を加え、その状態で更に数歩前進、そのまま柄を思い切り伸ばした。
『灼刃』も『氷雨』同様、使用者の意志に従い、柄の長さをある程度自在に操作できる。ファルガは『灼刃』の如意機能を使ったのだった。
ハンゾは腹部を『灼刃』に押された状態で遥か後方に押し出された。柄の一撃を鳩尾に受けた瞬間、ハンゾは一瞬ではあるが間違いなく気を失っていた。
顔から砂浜に転がされ、ハンゾは口の中が砂だらけになる。激しく咳き込みながら口の中の砂を吐き出した魔王。
「なぜだ……。遺跡の中での戦闘では、圧倒的に俺の方が実力は上だったはず。
あれからほんの数日しか経っていないのに、なぜこれほどにあのガキは力をつけた……!?」
『氷雨』の柄部分を杖にして、ゆっくりと立ち上がる魔王ハンゾ。
もはや驚きしかない。どれほど相手を罵ろうが卑下しようが、眼前の少年は明らかに力をつけてきている。このまま戦いを続けていけば、いずれ自分が敗北するのは目に見えていた。
最初の『黒い稲妻』を受けて数カ月。驚くほどに身体能力が向上した。
稲妻を受けたあの瞬間、いても立ってもいられなくなり、何人かの仲間と共にワーヘ城を後にした。彼ら数名が平城ワーヘの屋根から飛び降りた次の瞬間、何人かの仲間は後方から狙撃された大陸砲のエネルギーの奔流に飲みこまれていった。
だが、その時も人の物とは到底思えぬ身体能力で、平城とはいえ一国家の城を一飛びで越えていくほどの跳躍を見せる。かつて崇高な目的を抱えていたような記憶も僅かながらあるが、現実問題として目的を失った男たちは、ただひたすら直進した。山を越え、谷を越え、進み続けた。
不思議なことに、疲れを感じなかった。
そして、並走している仲間がいつの間にか誰もいなくなった時、彼は初めて立ち止まった。
自分はなぜ走り続けていたのか。その理由はわからない。
ただ走りたかっただけ。
ワーヘ城で、頭領であるスサッケイに立ち会っていたはずのハンゾ。頭領スサッケイは、主の敵討ちをすべく、あの地に立っていたはずだった。そして、その手伝いをすべく『影飛び』の戦いの衣に身を包んでいたはずだった。
だが、迸る衝動に身を任せた後は、自分の居場所がわからなくなっていた。そして、徐々に酩酊状態に陥った。何とか耐えようとするが、心の中に、何かドロドロした黒い物が出来上がり、正常な思考を妨げた。
その感情の中身は、かつての自分ならば唾棄して憚らない感情だった。
身体的には何ら特徴的な変化は起きていない。筋肉が膨張した訳でもなければ、姿かたちに変化が齎されたわけでもなかった。
ただ、圧倒的な力を身に着けたのと同時に、自分の中で価値観がガラリと変わったのがわかった。
その自分が、数日前に戦って圧勝した筈の相手に凌駕されている。
ハンゾは、大気中の『真』を、左掌に集中させた。
「俺がお前に負けるはずがない!」
マナ術≪燃滅≫。
かつて、黒い稲妻に打たれた少女ギラ=ドリマが使用した術。物質の燃焼現象を『真』を用いて発生させ、熱と燃焼とでダメージを与える術。
その形状は火球の場合もあれば、立ち上る炎の壁の場合もあり、地を走る野焼きの炎のように広がる場合もある。それはあくまで術者のイメージ次第。
今回のハンゾの≪燃滅≫は、火球の形状をしていた。それを連続で左の掌底から何発も打ち出す。
ハンゾという男は、元来『火』というものが好きなのかもしれない。それ故、同じ三槍でありながら、『氷雨』よりも『灼刃』を好んだ。
だが、打ち出された火球は、『灼刃』を振るうファルガによって、悉く打ち砕かれた。
なおも火球を速射するハンゾ。だが、その火球が到達するのは、ファルガが元居た場所のみ。火球が到達する頃にはファルガはそこから移動しており、砂を焦がすに過ぎない。
「おのれ……。ならば奥の手を使ってやる」
軽やかに飛び回るファルガだったが、『神闘者』ハンゾの攻撃が止んだため、十メートルほど離れた砂浜に降り立った。
だが、それは罠だった。
恐るべき罠。そして、神の力に比肩すると言われる『神闘者』故の攻撃だった。
ハンゾは、自分の手元に黒い水晶『洞』を作り出し、もう一つの『洞』をファルガの背後に作り出した。大きさは握り拳大。だが、『氷雨』の刃は十分に通る大きさだった。
醜く大きく裂けた口から、人間にしてはいささか長い舌をぺろりと出し、舌なめずりをするハンゾ。緋色の瞳にある蛍光の黄色い瞳孔が、一瞬スッと締まる。次の瞬間、自分の手元の『洞』に手槍を突き刺し、かき混ぜた。
狂ったように何度も何度も、抜いては刺し、抜いては刺し……。
「『もどき』が偉そうな態度をとるからだ! ざまぁみやがれ!」
高らかな狂気の笑い声が、波の狭間にこだました。
狂ったように笑った後、魔王ハンゾは敵の方を見た。先程までは、手元にできた『洞』のみに注意を奪われ、『洞』の先にいる相手に一瞥もくれていなかったのだ。
にやにやしながら厭らしい眼差しを向ける。下卑た男が女を品定めするように……。
だが、その双眸は徐々に見開かれていく。
言葉にならぬ声が漏れる。そこに、もはや魔王『神闘者』としての貫禄も、見栄も意地も存在しなかった。誇りに至ってはとうの昔に捨てていた。
『氷雨』の刃が傷つけた筈の少年が、そこに立っていた。全くの無傷で。
『氷雨』の刃は確かに『洞』を潜ったはずだった。そして、もう一方の『洞』から打ち出された槍の穂先が、少年を貫いているはずだった。
だが、少年はその刃の一撃を全て躱していた。
元々、『神闘者』の作る『洞』はそれほど大きいものではない。『洞』を通ってきた穂先は軌道が一律的だったために、背後に殺気を感じ、半身をずらしたファルガには、結果的に一度も当たらずに、ハンゾの攻撃は終了していたのだった。
興奮状態で何度も『洞』に穂先を出し入れしていたため、その穂先が伝える『空振り』の情報を拾うことなく、ハンゾはただめった刺しという動作に酔いしれ、敵であるファルガの状態を全く確認していなかった。
「俺のとっておきの術なのに……。なぜ『もどき』如きが完全に躱すことができるんだ……!?」
ファルガは『灼刃』を握りしめる。相手を見つめる冷ややかな眼差しが、一瞬激しい怒りで燃え盛り、ハンゾが穂先を出してきていた穴の部分を、全力で斬り捨てた。
黒い水晶は音もなく砕け散り、僅かに『洞』の外に出ていた『氷雨』の穂先が断ち切られ、鈍い金属音と共に地面に落ちた。
「ひ……『氷雨』がぁぁぁっ……!」
ハンゾは両膝を地面についた。そして、両手で穂先を失った『氷雨』を持ち、呆然とする。
『氷雨』は『灼刃』と同じく魔の超神剣。物理的に破壊をすることは極めて困難なはずだった。有史において、聖剣を破壊した存在はいない。その聖剣を上回る存在である超神剣を破壊するなど、神ですら不可能とされている。
だが、『氷雨』は切断された。空間を操る術『洞』の誤用により、空間ごと切断された形になる。
ハンゾは初めて怯えた。
魔の超神剣の一つを破壊されたことに。
だが、破壊をしたのは空間であり、ファルガではない。実際、彼の恐怖はファルガに向けられた訳ではなかった。
「も……申し訳ございません! 『灼刃』を奪われたに留まらず、『氷雨』を破壊されてしまいました。ですが、この命を賭して、あの『もどき』を始末してごらんに入れます。もう一度機会を頂戴致したく……」
突然天を仰ぎ、何者かに懇願を始めるハンゾ。その対象は、少なくとも眼前のファルガでもなければ、フィアマーグやザムマーグでもない。
神は神でも、魔の神皇、魔神に対しての懇願なのだろう。
『洞』を破壊する事で『氷雨』を破壊する事に成功したファルガは、音声として。そして、この地にいなかった二人の女神や神勇者候補、神賢者候補は強烈な意志として。
『巨悪』の意志を知った。
「否! やはり即興では役に立たんか」
心の底に響く恐ろしい声。魂を震え上がらせる恐ろしい意志。
ハンゾは、『巨悪』の明らかな意思表示に、戦いを放棄し、逃亡を図った。
……筈だった。
だが、ファルガに背を向け走り出した次の瞬間。
黒い稲妻が雲一つない空から落ち、ハンゾを打った。何度も何度も。まるで懲罰で打擲を行う鞭のように。
何十回と黒い稲妻に打たれ続けた魔王・『神闘者』ハンゾは、ピクリとも動かなくなった。
終わった。
そう思ったファルガ。
だが、実際には、まだ終わっていなかった。
何事もなかったかのように立ち上がったハンゾ。だが、その顔からは生気は失われ、更に無表情だった。
そして次の瞬間、体が肥大する。両の肩甲骨から、更に一対の腕が生え始め、徐々に人の形を失っていく。皮膚や筋肉が体の肥大化についていけず、嫌な音を立てながら引きちぎれ、血が飛び散る。全身の皮がつぎはぎの服のようになり、剥き出しになった筋繊維が膨張を続け、千切れる度にそれ以上の速度で筋繊維同士が結び付き、腕や足が長く太くなっていく。体内では骨が砕け、変形した上で再生しているのだろう。背丈も三メートルを超え、人間であった筈の顔にある口は大きく裂け、鼻は落ち、額に更なる瞳が浮かび上がった。
怪物。
まさにそう評するしか、かの生命体を指す言葉は見つからない。そもそも生命体かどうかもわからない。
だが、かつてハンゾであった筈の存在は、命と引き換えに強い力を手に入れたらしかった。
少年ファルガは、余りの出来事に直視できずに、嘔吐した。血生臭さと腐肉の匂いとが鼻孔を猛烈に刺激したからだ。
「ちくしょう!」
ファルガは嘔吐した口を拭いもせずに、『灼刃』の刃をハンゾの右肩口に突き立てる。
ファルガの意志を受け、炎を噴き出す『灼刃』。だが、その刃をもってしても、変身を開始したハンゾの体を傷つけるには及ばない。
生物には存在しない異形の怪物と化したハンゾは、天に向かい、酷く耳障りな咆哮をあげた。だが、その咆哮は、ファルガにとっては魂の悲鳴にしか聞こえなかった。
あの時のあの男。
ドレーノの首都ロニーコの裁判にて、黒い稲妻を受け、醜悪な怪物に変身しようとしたあの男。
本当は、ギワヤ家の再興を誰よりも強く望んだはずの男、ツーシッヂ。
ある意味誰よりも純粋な心を持っていた彼は、選別に耐えきれずに風化していった。
だが、眼前の魔王ハンゾは選別に耐えきり、『魔』の神勇者『神闘者』になったのだ。選別に耐えきれなかったわけではない。
だが、不可思議な……醜い変身をする。
巨体だ。
しかし、速かった。
『灼刃』を駆り、迎え撃とうとするファルガが、前後左右に回避を試みるが、その先の反撃に転じる事が出来ない。
移動速度はそれほどでもないが、素早い四本の腕の一撃。額の三つ目の瞳から打ち出される光線は、放たれる瞬間には既に回避行動をとっていないと間に合わない。人の口の形状をかろうじて保つ口吻も、大きく開かれると、そこには先端が二本に分かれた舌が覗き、全ての歯が鮫の歯のように鋭い。
暫くは眼前を素早く動き続けるファルガを狙っていたが、ジャングルの向こうに黒い神殿の屋根を見つけたハンゾだった物。
確かに笑った。
人間の笑い方ではないが、歓喜に打ち震えたようだった。
ファルガへの追撃の手を止め、ゆっくりと密林の方に歩みを進め始めた。まるで、変身した意義を見出したかのように。
「ま、まずい!」
ファルガは≪天空翔≫を駆り、ハンゾであった怪物の前に回り込むと、『灼刃』を振るい続けた。
だが、止まらない。
足の腱を斬ろうが、膝であった箇所を潰そうが、恐ろしい速さで修復され、ほんのわずかに歩みの速度を落とすに過ぎない。
『灼刃』を握るファルガの両手から血が滲む。何十回、何百回と強い力で握りしめ、斬りつける行為を続けるファルガの掌も限界を迎えようとしていた。
そして、ついに『魔』の超神剣であるはずの『灼刃』が折れた。
どうやら、強い酸の性質を持つらしい変身ハンゾの体液が、『灼刃』を蝕み続けていたらしかった。
戦士ファルガ=ノンは、敵と対する武器を失った。




