妖と魔 3
幼き聖勇者二人は、あれから結局一睡もできなかった。
ただ、眠気も残らない。
氣のコントロールが出来るようになってくると、体力の回復が早くなるようだ。氣功術の≪快癒≫は、自分に施すことはできないとされるが、氣功術を何度も使うことにより、体がうまく体力を回復させるコツを掴んできたようにも感じる。
恐らく、睡眠をとるよりは瞑想による氣のコントロールの方が、体力の回復効率そのものは良いのだろう。だが、睡眠をとること自体は、生まれ持っての人間の本能だ。それに抗い続けることは困難だし、体が欲するものを無理に拒否すべきではない。
次に眠くなったらその時に眠ればいい。二人はそう結論付けた。
何の変化もない灰色の空間を窓の外に臨んでいると、隣の部屋で人の起きだす気配がする。
ややあって、テマ老人が少年たちを起こす為に部屋を訪れたが、その時には既に、旅立ちの準備を済ませていたファルガとレーテ。
いつでも出立のできる出で立ちの二人を見て、テマは驚きを隠さない。
「君たち、本当に眠れたのか? これからまとまった睡眠がとれるかどうかわからんから、しっかり寝ておけばよかったのに」
そんなテマの言葉を聞き、二人は顔を見合わせ微笑んだだけだった。
二人だけの秘密。他の人間に知られてはいけない秘密。だが、その秘密は少年たちを酷く不安にさせる。その不安を押し殺すために、敢えてファルガとレーテは笑った。
「カニマ殿が一階のキッチンを使って朝食を作ってくれている。保存されていた食材があり、火を起こして加熱することで何か作れそうだ。すぐに下に降りてくるといい」
一瞬不審そうな表情を浮かべるテマだったが、それ以上は何も追求せず、部屋を辞した。
テマが扉を閉めて少し後、レーテはファルガの両手を握り、礼を言った。
「ファルガ、昨日はありがとう。なんとなくだけど、不安は少し軽くなった気がする」
「不安は誰にでもあるさ。俺だってあまり考えないようにしているけど、『巨悪』によって世界が滅ぼされたらどうなるのかって考えると恐ろしい。それは変わらない。
けど、具体的に何をすればいいのか、何となく分かってきたから、それを一生懸命やるしかない。そう思ってるよ。今までは何が何だかわからない状態で行動していたからね。それよりは数段マシだよ」
例え困難であったとしても、手をこまねいているしかない状態よりは、自分たちのやるべきことがはっきりとしているほうが、ずっと心情的に楽だという事を、ファルガは経験から知っていた。
もう、カニバル=ジョーの時の様な思いは沢山だ。
ジョーを追いたいのに何の情報もなく、只次から次へと起きる出来事と襲ってくる敵とに対処しながら、ただ何となく行動する。必死に動き回っているのに、自分の目的に近づいている実感の持てぬ日々に、歯痒いだけではなく、怒りさえ覚えた。
周囲の人間に。そして自分自身に。そして、その感情は空振りのまま全て終わった。何もできず終わってしまった……。
そうならないために。ファルガは力をつけることを望んだ。戦闘能力だけではなく、物事を見極める力を。わからないなりに正しい方向に向かう力を。
ファルガは、レーテの両肩に手を置いた。
「レーテ。今やろうとしている事が、俺たちが頑張ってどうにかなることなのかはわからない。けれど、多分俺たちしかどうにかできる可能性のある人間はいないんだと思う。レーテはレベセスさんから聖剣を継いで、俺は父さんから聖剣を継いだ。大陸砲の直撃を受けたとはいっても、ガガロは多分生きているし、最後の聖剣も多分あいつが持っている。
でも、聖剣を揃える事だけじゃなくて、古代帝国の遺跡に眠る『皇帝』に会え、とキパさんは言っていた。多分、これもまだ、やれることの一つなんだと思う。
やれることを全部やってから、巨悪と戦おう。その結果がどうなっても、それはそれでもう仕方ないと思うしかない」
レーテは無言だったが、その瞳には強い意志が宿っていた。ややあって、少女は力強く頷いた。
荷物をまとめた二人は部屋を出ると、階下に移動する。
そこには、朝食の準備をほぼ終えたカニマがいた。彼女も既に軽装鎧を着こみ、いつでも旅立てるように準備も終えている。ただ、バスタが降りてこないのだという。
やはりこの灰色の建造物は、大きなホテルだったのだろうか。入り口から真っ直ぐに進むと階段があり、上階が客室スペースになっているようだ。そして、入り口を入ってすぐに左手の扉を潜ると、テーブル席が無数に存在し、カウンターを挟んでその奥に厨房がある。そこでカニマが料理の腕を振るっていたのだろう。
すべては灰色だったが、そこにある鍋や皿は非常に良いもののように思えた。
ややあって、隊長であるウズンが階下へ降りてきたようだ。扉を潜って食堂大ホールに入ってくる。
「隊長、バスタはどうなんですか?」
テマは軽く首を横に振った。
「原因はわからんが、かなり高い熱を出している。このまま奴を連れていくわけにはいかないが、ここに一人置いていく事もできない」
カニマは料理の取り分けの手こそ止めないが、心配そうな表情を浮かべた。
「そうか。では、残念だが一度ここでこのパーティは解散だな。ウズン隊長。我々は先に進まねばならない。
ここで我々が戻るのを待つのもよいが、同じ場所に戻ってこられる保証もない。戻る事よりはここにいる方が安全な気もするが、バスタ君が回復したら、地上を目指してほしい」
テマはそういうと、肉料理を口に入れる。
「承知した。契約が履行できず済まない」
ウズンも食事を口に運びながら答えた。
「我々が地上に戻る際にはここに寄る事にする。その時に合流できたら合流しよう」
そういうと、テマは最後の一口を平らげた。そのまま立ち上がると、ホテルの入口に戻り、カウンターを物色する。ホテルのスタッフが出入りする事務室ならば、薬などもあるかもしれないと踏んでの行動だった。
無国家時代後は、熱さましにせよ、痛み止めにせよ、医者が処方するのは薬草だったが、古代帝国時代では、薬草から成分だけを抽出した錠剤があったという。そして、≪快癒≫という氣功術を道具術にて再現した治療器もあったというから、恐るべき技術力だ。
奥からタブレットを持ってくると、テマは、その錠剤を水と共に朝晩一錠ずつバスタに飲ませるよう、カニマに告げた。
「……この錠剤も、封から出すと色が戻るのでしょうか?」
テマから錠剤を受け取ったカニマは尋ねる。
「そうだろうな。きっかけは私にもわからないが、物を本来の用途に使おうとする行為が、その『灰色の封印』を解くように感じられる」
カニマは食堂で料理をする直前、食糧庫にて様々な食材を見つけた。大量の肉と野菜。そして、水と塩。その他調味料が多数。だが、それは口に入れてよい代物だとはとても思えなかった。
食材の形はそのまま残されており、形も感触も匂いも新鮮なまま。だが、色が灰色だった。少なくとも灰色の食材に対して異常を感じないわけにはいかない。そして、色だけならまだよいが、客観的な事実として、三百年は放置されている。
食材を目の当たりにしたテマは、色だけが新鮮さを感じさせぬ食材を色々調べてみた。第一段階とはいえ、指輪を使っての≪索≫も用いた。その結果は驚くべきもので、色だけが灰色で、それ以外の状態は新鮮なままだ、というものだった。
という事は、この『灰色』に、何か意味があるのではないか。テマはそう考えた。そして、そこで得た結論は、この灰色の状態は物質の変化が止まっているものだ、というものだった。
どうやってそれを起こしているのか。どうやって解除するのか。それは今の段階では分からない。だが、この放棄された都市が全て灰色、というのは何か意味がある。そう考えざるを得なかった。
建造物を見ているだけでは、思いもよらなかった結論。
建造物が灰色一色であるという事は、あり得ない話ではない。実際、テマの母国であるジョウノ=ソウ国では、建造物はその地域独特の粘土質の白い土をセメント宜しく煉瓦の繋ぎに用い、最後に積んだ煉瓦の表面をその粘土質の白い土を薄く延ばすことでコーティングする。夏場の暑さと冬場の寒さをしのぎ、建造物そのものの強度向上の意味合いの処置が、結果的に白い街並みを形成していた。
それと同様に、何か目的があって古代帝国の民は、墜ちた大陸内の都市に灰色の街並みを形成していたとしてもおかしくはない。
だが、建造物と比べて比較にならない程に足が速いはずの肉や野菜が腐食もせず、干からびもせずその状態を維持し続けている、というのは異常なことだ。ましてや、三百年以上経過しているこの遺跡内で、未だにその形を維持している事だけでも奇跡といえる。
そして、奇跡は再度起きた。
物は試しに、と、カニマの持っている調理用の組み立て式肉焼き器に灰色の肉をセットし、火をつけた瞬間に、肉は色を取り戻したのだ。後は、普段の肉料理をするのと同じように、赤みがかった肉は火で炙られると肉汁を滴らせながら香ばしい匂いを周囲にまき散らした。近隣に恐ろしい肉食獣がいないことが分かっていながら、何か得体の知れぬ獰猛な獣を呼び寄せてしまうのではないか、と危惧してしまう位に食欲をそそられる匂いを。
他の食材も同様だった。カニマの持つ、調理用にも使える短剣の刃が入れられた野菜は、色を取り戻し、瑞々しさを切断面に保っていた。
時を止める、というのが正しいのか、変化を妨げる、というのが正しいのか。
だが、その食材は調理を開始したその瞬間から、変化を取り戻したのだろうか。後は調理されるがまま、その食材の魅力をふんだんに披露し、料理へと姿を変える。
冷凍保存とも、真空保存とも違う、全く新しい物質の保存方法。これも古代帝国の技術の一つなのだろうか。
誰も気づかなかった技術。それをテマは生涯を通じての研究対象に選ぶことに躊躇はなかった。
破壊と侵略、支配の為の技術は無数にあるだろう古代帝国。だが、この物質の変化を止める技術は、ひょっとすると生命の神秘にまでたどり着くかもしれない。変化を止めるという事は老いを止める事もできるかもしれない。
一生を賭しても終わらぬかもしれない研究。だが、その技術を人間がコントロールできたなら。人は更なる幸せを手に入れる事が出来るかもしれない。
ファルガとレーテも勧められるままに、カニマの料理を堪能した。
そして、ここを出立して次の食事の弁当を準備してもらった。
「いつかまた、この地に戻ってきた人たちがすぐに元の生活に戻れるように、何か特殊な技術を使って変化を止める方法を、古代帝国人は持っていたということか。
変化が止まる、という事は時が止まる、という事とほぼ同義。古代帝国の民が時を操った、というのもあながち誇大広告ではないのかもしれんな」
テマはカニマに礼を言い、弁当を受け取った。
そして。
ファルガとレーテ、そしてテマの三人は、ほどなくして灰色の街並みの、更に中心地を目指した。
ファルガとレーテは、指輪の力を引き出したテマに合わせて移動を開始する。
テマの指輪は古代帝国の遺跡から出土したものではあるが、やはり聖剣ほど効率よくエネルギーを使うことができない。第一段階はどちらかといえば、効率度外視の身体能力の上昇を意図しているようにさえ思える。そして、指輪が発動できるのは第一段階のみ。やはり、長時間の移動は難しい。
それでも、テマは先に急ぎたいという。
彼の中の考古学者の血が滾るのか。
ビルディングの向こう側遠くに霞んで見える、周囲の建造物と同じ灰色の巨大な錘。
円錐なのか、三角錐なのか、四角錘なのかは不明だが、もう少し近づいてみればわかるだろう。
テマは、カディアン族の村で聞いた。
皇帝は力の集まる場所で眠る、と。
あれから常に力の集まりそうな場所を探していたが、やっとそれらしきものが見つかった。錘は図形上重心がわかりやすいが、もしそこに力を集める造りに古代帝国人がしていたとしたら。他に錘状の建造物は見当たらない。そして、他にそれらしきビルディングも存在しない。
傭兵たちと別れて数時間の移動の後、彼らは巨大なピラミッドの前にいよいよ立つ。
ピラミッドは、見上げる程に高かった。
薔薇城を麓から見上げた時の圧迫感に酷く似ている。
やはり、この巨大な建造物は、墓所なのか。
テマは一瞬考え込む。
見る限りでは巨大な錘であり、そこには窓の一つもありはしないこの灰色の塊が、皇帝の居城とは考えにくかった。だが、他に並び立つビルディングともまた明らかに趣は異なっていた。
三人は無言のまま歩き出す。そしてゆっくりとピラミッドに近づいていく。
不思議だ。
これだけ大規模に都市の中心に建造されながら、この錘にはそこに人々が訪れる為の大通りが全く整備されていない。そして、同様にピラミッドの中へと続く入り口も存在しない。
この建造物は、一体何のために作られたのか。
建造された理由もさることながら、建造されたという事実に対して、古代帝国の民は何かしらの反応を示さなかったのだろうか。建造の費用も莫大な物の筈だ。
ともすれば、忘れてくれてもよい、位の造りをしている。これほどの巨大な建造物でありながら。建造に対しての反対の活動はなかったのだろうか。
これほどの建造物だ。縁起のいいものであれば、祭りとして騒ぎ、縁起の悪いものであれば、裏祭りとして封じた筈だ。しかし、その痕跡もない。このピラミッドが建造物としてすら認識されていなかったという事なのだろうか。
テマの疑問がこの瞬間に晴れる事はなかった。
レーテとテマが≪索≫でピラミッドの表面を探る中、ファルガは氣功術の飛翔術≪天空翔≫で錘の頂点にふわりと辿り着く。
遠巻きに見える通り、ピラミッドの頂点は鋭い鏃のようになっているかと思いきや、頂点は一辺二メートル超の正方形の平面となっており、その真ん中に引き上げ式の扉と思われる溝があった。
ファルガに呼ばれてその場所に到達したテマとレーテだったが、扉はあるがノブのない入り口に、どう処置していいかわからず、暫くその場に立ち尽くすことになった。
「貴方達が神勇と神賢の使者なのですね?」
聞いたことのない声が突然響き渡った。
はっとして周囲を見回すファルガ。眼前のレーテやテマも周囲をきょろきょろしているところを見ると、彼らにもこの声は聞こえたらしい。
一瞬、軽い頭痛のような衝撃を脳に覚え、思わず顔をしかめ、目を閉じるファルガ。
彼等はその現象を目で捉えることはできなかったが、扉が瞬間的に消えた。そして、その直後に三人も扉同様に姿を消し、消えた筈の扉がまたその口を堅く閉ざした。
ファルガが双眸を開くと、周囲は漆黒の闇に包まれていた。余りに深い闇は、自身の体すら見る事もままならない。
ファルガは丹田に力を籠め、これから起こる何かに対し警戒する。今はまだ氣を放出していないが、背の剣に手をかけ、ゆっくりと氣を溜め始めた。戦闘が始まれば、初動を全力で行なうために。
「みんないるのか!?」
ファルガは鋭く短く声を発する。
「いるぞ、ファルガ君」
「ファルガはどこにいるの?」
どうやら、テマもレーテも傍にいるようだ。という事は、自分だけがこの地に飛ばされたのではなく、三人で漆黒の闇に飛ばされたようだ。
ファルガは、その貯めた氣を使って≪索≫の手を伸ばす。先程レーテがやったように、地面に這わせた氣の触手を、自分を中心に回転させることで、自分の右正面にテマ、左正面にレーテがいる事が分かる。これは、ピラミッドの頂上で扉に向かっていた時と同じ配置だ。
そのまま氣を広げると、周囲の様子が漠然と見えてきた。
酷く広い平面の空間が続く。≪索≫を伸ばしても天井にも壁にも行きつかない。触るのは床だけだ。そして、その床にも何もない。
と、ファルガの正面に、光が浮かんだ。
かなり遠いところを見ると、この空間がそれだけの広さがあるという事なのか。
その光がゆっくりと近づいてくる。いや、光が近づいているのではなく、遠くから順番に何かに光が灯っているのだ。
ファルガは背から勇者の剣を抜き放った。
テマとレーテも、ファルガが視線を投げかける先を振り返り、警戒態勢に入る。レーテは聖剣『光龍剣』を抜いて構え、テマは得意の短剣を逆手に持った。
次の瞬間、彼らの両横を光が駆け抜けた。前方から灯ってくる光はそのままに、彼らの背後にまで光の帯が出来上がった。ゆっくり見えた発光は、実はかなり遠くのものが見えていたという事だろう。
光の正体は、燭台に灯った蝋燭でも、敵の持つ照明でもなかった。
漆黒の床に、通路を示すように光が引かれたのだ。同様に天井にも光が引かれる。
床と天井の光の見え方からして、この場所はそれほど天井の高くない漆黒の床と壁に囲われた回廊のようだった。≪索≫で周囲を確認する限りでは、壁すら見当たらぬほどの広い空間だったのに。
「……行こう」
ファルガは警戒こそ解かないものの、剣を構えるのをやめ、ゆっくりと進み始めた。
ファルガたちを導く光は、決して激しく明るいものではなかった。だが、確実に進路を示す意図を感じさせるものだった。黄金色の光は、街路灯のように、しかしそれよりも遥かにきめ細やかに道を浮かび上がらせた。
しばらく進むと、光で描かれた回廊が細くなっているように見える場所があった。
だが、よく見ると、それは階段を縁取ったためそう見えたのであり、どうやらその部分だけ高台になっているようだった。
相変わらずの漆黒の闇。しかし、床と上空に黄金色の細い光の線で幾何学模様が描かれている。
ファルガは闇の中、微かな光で進む事に我慢が出来なくなり、レベセスから教えてもらった幾つかの術のうちの一つ、≪操光≫を使用した。だが、周囲の様子は全く変わらない。指先が光っていないわけではない。光は確実に周囲に飛散しているのだが、物がないので当たらない。床を照らしている筈なのだが、漆黒の闇の為、光を跳ね返さない。結果闇の中に立つファルガとレーテ、テマの三人の姿が確認できただけだった。床にある黄金色の光も、術の光の為見えなくなってしまったが、≪操光≫を取りやめた瞬間に確認できるようになった。
「術の光が周囲に届かないのは、ある程度予測できたが、まさかあの台まで≪操光≫で映らないとは」
テマは思わず呻いた。古代帝国は、やはり術に対する研究がかなり進んでいたのだろう。術に検知されないようなものを作るような技術者が古代帝国にはいたという事か。
と、突然後方に悍ましい気配が立ち昇る。
先程までの≪索≫では捉えられなかった。突然出現したのか。
三人はそれぞれ武器を構えた。
テマは目を凝らしたが、敵を全く視認できない。だが、明らかに前方に何かがいる。気配、というより、怪しげな雰囲気といった感じだ。他人には説明しにくいが、明らかに不快感を覚える。
指輪で第一段階の身を引き出すことのできるテマは、高次の敵を気配だけ感じられるようだ。だが、第三段階に到達したレーテ、そして、聖剣の補助の不要な段階に到達したファルガにはその姿がはっきりと見えていた。
やがて、目を凝らすテマの目にも、その巨大な影がうっすらとだが見え始めた。
彼らの目に映るのは、三つ首の巨大な犬の化け物だった。
ケルベロス。
神話によっては地獄の番犬とも呼ばれる存在。
だが、実際はその奇怪な姿を想像し、或いは見た昔の人間が、想像できる最も恐ろしい場所に飼われている『犬』として解釈したに過ぎない。
「……レーテ、敵はあいつじゃないぞ」
「わかってる」
「な、何? あの三つ首の犬ではないのか?」
テマの見るものと、少年少女との会話がかみ合わないことに気づいたテマは慌てる。
「あの三つの首の犬は、確かにあそこに見えますが、あの気配の主じゃない。あの気配はもっと別の何かです」
ファルガはある一点から視線を外さずに、テマの問いに答える。
テマはファルガの視線の先を追った。だが、そこはあの三つ首の犬より少し左奥。ちょうど犬の足元の少し先に、人影が見える。
次の瞬間、凄まじい放電現象が起こり、三つ首の犬は断末魔なく掻き消えた。
巨大な獣の姿が掻き消えてなお、件の悍ましさは消えない。それどころかむしろ強くなって来ている。
「あいつ、さっきまではここにいなかったな」
「ええ。私達がここに来た直後に、後ろからきて追い越していったようだった」
「これだけ嫌な感じなのに、俺たちに攻撃を仕掛けないとは、どういう事なんだろう……」
三つ首の犬の足元で凄まじい電撃を放ったと思われる人影が、ゆっくりと三人に近づいてくる。
「……警戒しているな。無理もあるまい。
私も君たちからはとてつもない腐臭を感じている。我慢できない位のな」
声の主は、三人の立つ位置から十メートルほど離れたところで止まった。
「君たちが招き入れてくれるまでは、私はこの金字塔に入る事はままならなかった。礼を言わせてもらおう。
ここで『皇帝』を壊し、君たちを処分することで、一度は敗れた『魔』の世界を取り戻すための足がかりにする。この先の扉も、私の力では開けることが出来なさそうだ。君たちのうちの一人のみ生かし、その扉を開けてもらうことにする」
次の瞬間、その人影に赤黒い光が巻き付き、炎状に激しく燃え盛る。まるで人の体に火が燃え移ったようだ。だが、その人影はもだえ苦しむこともなく、ゆっくりと歩みを進め始めた。
「似ている……。あのギラという女性に。でも、目の前のあの人の方がずっと恐ろしい雰囲気だわ。
……大丈夫よ、ファルガ。貴方は臭くないから」
レーテの視界の隅で、自分の臭いを確認するファルガに、思わずレーテは冷たく言い放つ。
燃え盛る赤黒い炎が大きくはじけた。
第三段階のレーテでも捉え切れない速さだった。だが、鋭く突き出された槍の一撃は、ファルガの切り上げによってその軌道を変え、天を突いた。
「テマ様と一緒に離れてくれ!」
一度天を突いた矛先は、一瞬で人影の元に吸い込まれ、再び射出される。その速度は先程までとは違い、一撃ではなく連撃として繰り出された。
少年ファルガの体に、巻き付くように吹き上がる青白い光の炎。その瞬間から、彼の動きは格段に速度を増す。レーテの目には、蒼い炎と赤黒い炎が激しく押し合い、舐め合っているようにしか見えない。
「よし、ファルガ君がここを抑えてくれているうちに先に進むぞ!」
「えっ!? 一緒に戦わないと」
レーテは先に進む事を拒むが、テマは言う。
「我々がここに居ては足手まといだ。もしあの赤黒い炎の者が我々を盾に戦い始めたら、ファルガ君に勝ち目はなくなる」
共に走り始めたテマを思わず見上げるレーテ。
青い光と赤い光に照らされる彼の表情は苦悶に満ちていた。彼も本当はこの場に残り、ファルガと共に戦いたいのだ。だが、その力は遥かに劣る。足手まといになるくらいなら、先に行き、『皇帝』と呼ばれる存在に会う方が正しい。
「あの赤黒い炎の者は言っていた。『皇帝』を壊す、と。
『皇帝』は、人ではないのかもしれない。何か特殊な装置なのか。いずれにせよ、奴からすれば『皇帝』という存在はかなり邪魔なものなのだろう。ならば、先に『皇帝』の元に到達して、『皇帝』の安全を確保し、その上で共に戦うのが最善の策だと考える」
その『皇帝』とやらが、我々の味方になるかどうかは、また別問題だが……。この言葉だけは、テマは口にすることはなかった。
赤黒い炎に包まれた悍ましき人影は、ファルガと剣を交えながら、レーテとテマに追撃の一撃を何度も放った。だが、レーテはテマを庇いながら台の上まで駆け上った。
次の瞬間、テマとレーテの姿は掻き消えた。
「自ら進んで『皇帝』への道を開いてくれるか。それは助かる!」
赤黒い炎に包まれた人影は、ファルガとの戦闘を中断し、飛ぶように二人を追いかけた。だが、ファルガの横薙ぎの斬撃を跳躍して躱してからの動きは、ファルガに比べて曲線的だった。
ファルガはそのまま床を滑るように移動し、台の手前で赤い炎の前に立ちはだかる。
ファルガの背後で、人影が二つ掻き消えた。
「どうあっても私を行かせたくないみたいだな。『妖近衛』候補。だが、君の断末魔を聞いて、彼等は戻ってこざるを得なくなる。封印されしその扉を開けて」
「なんだかよくわからないけど、あんたを行かせてはいけない気がする。初めてだよ。こんな感情は……」
少年ファルガは、初めて『魔』と対峙する。
黒い稲妻の選別に耐えた疑似的な『魔』ではなく、真の『魔』と。




