丘の上の小さな家への来訪者2
少女レーテの、都会の少女とは少し違った様子を描きます。
カゴス=ツテーダは、久しぶりにワクワクしていた。
一年に一回の、彼が最も楽しみにしているイベントがあるからだ。
少女レーテ=アーグの訪問。
彼女の存在は、子に恵まれなかったツテーダ夫妻にとって、娘のようでも孫のようでもあった。
定年を迎え、ラン=サイディール国大将レベセス=アーグ邸の奉公人としての職を辞し、元々老後はここに住みたい、と考えていた陽床の丘ハタナハのまさに麓に小屋を建てた。無論、一人では無理なので、レベセス配下の兵士たちも資材の調達、荷物の運搬には従事した。だが、基本はカゴスが自分で設計し、工期も決定する。組立を手伝ったのはレベセス他数名くらいだ。レベセスは彼にとって主ではあったのだが、同時に弟子なのだった。
まだ首都になる前のデイエンの町並みは木造の住居で占められていた。奉公人としてレベセス邸に務める前は、腕利きの大工で、その家々の建築の八割は、カゴス一門の大工が施工したという。
だが、首都移転が決まり、それに応じて様々な首都としての防衛機能や輸送機能など、諸々の状況が変わったため、木造の住居では急激に増加した人口に対応できなくなり、ほぼレンガ造りの町並みにとって変わった。
カゴスの弟子たちは、カゴスの下で鍛えた大工の技術と、手先の器用さを武器に、彼の後押しもあってレンガ職人やレンガと木造住居の融合を意図した第二世代の大工として方向転換をしていったが、カゴスにはもはやその気力はなかった。
彼が生涯かけて会得してきた技術の不要さを見せつけられ、今更何か新しい技術を習得する気力を、彼は既に失っていたのだ。
そんな中、妻ルサーの勤め先であったレベセス邸に、住み込みの奉公人として職を得たカゴスは、庭師として、家の補修要員としてその手腕を存分に振るった。
おそらく、弟子たちがカゴスの働きを見たなら、またレンガ大工として弟子入りしたいと言う者がいたかもしれない。
物を作る本質は、材料や手順が違っていても要はその物に対して、自分の持てる力をどれだけ注入できるか、だ。ある技術に卓越したカゴスであれば、新しい技術を迎え入れ、共に歩む覚悟さえできれば、新しい技術も彼に十分に応えるのだ。
レベセス他数名は、全てカゴスの弟子たちだった。
いよいよカゴスの終の棲家を作らんとする時、彼らは久しく触っていなかった木材の加工を楽しみながら、カゴスの小屋を作っていった。建築を始めて凡そ十四日で完成する。それぞれの弟子たちは、カゴスの見繕った工期よりも早く作業できるだけの実力を身につけていた。カゴスにはそれが嬉しくもあり、物悲しくもあった。
新しい家に越し、家畜を飼い始めたが、小屋を家畜用に増設するより、新しく小さな小屋を作ったほうが良いと考えたカゴスは、畑仕事の合間に小屋を作った。
ちょうどその頃、レベセスがドレーノの総督として派遣される話が上がってきた。二人の娘の長女カナールは既に小等学校を卒業、次女レーテも低学年ではあったものの小等学校に入学を済ませており、ある程度子供たちから手が離れる事もあったのだろう。赴任の前に一度娘たちをこの小屋に連れてきたい、とレベセスは言っていたが、ちょうどその時がこのタイミングなのだろう。
カナールはその時一度だけ訪れたが、既にその頃は反抗期が始まっていたせいか、ツテーダ夫妻とも余り会話することなく、それ以後毎年この地を訪れるレーテとは対照的に、一度も訪れることはなかった。
ルサーもカナールを気にしてこそいたが、それ以後ルサーの口からカナールの話題が出たことはない。同性というのは思ったよりドライなのだろうか、とカゴスは思ったものだった。
その後、レーテはこの地を何度か訪れたが、その際も、カゴスがデイエンからの街道そばまで迎えに降りて、小屋まで荷物を担いだものだった。だが、今年からはレーテが手紙で、自身の手で小屋まで行きたいと告げていたため、カゴスは小屋の外の畑の所でレーテが現れるのを待った。小さい畑はそれほどの時間なく耕し終わったが、手持ち無沙汰のカゴスは、その日何往復も畑を鍬で耕し続ける。
昼を周り、日が少し傾き始めた頃、小屋から街道筋まで伸びる道に、白いワンピースに麦わら帽子をかぶり、大きめのなめし革のトランクを持った少女らしき人影が見えた時には、カゴスは家の中のルサーを呼び出したものだった。
約束は約束だ。小屋まで誰の助けも借りずにたどり着きたいというレーテの希望を裏切るわけには行かないが、なんとかそばまで行きたいという衝動は抑えられるものではなかった。彼がいいと思ったギリギリまで、レーテを迎えるために坂道を降り始めたのだった。
「遠路はるばるよく来なさった。今回は、御自分の立てた目標にも到達されたようじゃな」
ルサーと抱き合って再会を喜ぶレーテを見て、気難しさの象徴のように深く刻まれた眉間の皺は、若干浅くなったように見える。だが、彼のことを知らぬ者が見れば、十分に取っ付きにくい心象は受けただろう。
今までの職人人生で、中々破顔したことはない。また、そういう心境であったとしても、中々他者の前でその表情を見せることはなかった。歓喜する出来事があったとしても、その時にはその感情を爆発させず、その夜の晩酌で、酒の力でその歓喜を倍増させて、またその歓喜を酒の肴にして酒を楽しんだものだった。
「カゴスさん、また今年もお世話になります」
レーテは額に浮かんだ汗を拭いもせず、カゴスにぺこりと頭を下げた。
「さあ、皆家に入りなさい。お嬢様も汗を拭いて、着替えなさるとよい。部屋には水を張った盥と乾いた手拭いを準備してありますぞ」
カゴスはそう言うと踵を返し、畑に戻る。
レーテはそんなカゴスの言葉に、元大工の棟梁のわかりにくい優しさを感じ、満足そうに頷くのだった。
盥の水で湿らせた手拭いで全身の汗を拭きとったレーテは、ルサーの準備していた服に着替える。元々自分には上品なワンピースと麦わら帽子など似合いはしない。ここに来る度に、都会で馬鹿にされないように振る舞っていることが馬鹿らしくなる。
胸の上を紐で縛り、首周りのサイズを調節する麻製の服はルサーの手作り。馬車の幌で作られた膝上のパンツは、カゴスが大工から庭師に移行する過程で一時だけ就いた洋裁店で身に付けた技術で作った物だ。ここでもカゴスは手先の器用さで、先輩職人の手際を見て覚え、すぐに同じレベルに追いついた。だが、彼は洋裁が苦手だった。手先の器用さは、長年の経験とは比例しない。それはいい意味でもその通りなのだが、悪い意味でもその通りだった。手先が器用なので真似はできるのだが、その技術の本当の狙いがなかなか理解できず、結果カゴスは惜しまれつつも洋裁店を去る事になった。
レーテはパンツに足を通すと、二束の三つ編みからリボンを外した。頭を振って髪をほぐし、後ろで縛り上げると、そのまま観音開きの窓を押し開けるのとほぼ同時に窓に足を掛け、盥を片づける前に一階の屋根に飛び移った。そして、手と足を上手く使い二階の屋根まで駆け上った。そのまま跨るように屋根の最も高い所に座ると、先程彼女が見た翠と蒼の大海原、そして白い綿の工作物を見た。
ここで見る『神の悪戯』は、道中で見たものよりも、より美しく見えた。そして、背後のハタナハの影に入ろうとしている夕日は、立ち上がる巨大な積乱雲を朱色に染め上げていた。
「こらーっ! そこには上がるなと何度も言ったろうが!」
思わず首をすくめるレーテ。だが、その口元には笑みが浮かぶ。やはり、カゴスの叱責はこうでなくては。一発目はこれがないと、ここの生活は始まらない。
「あなた、相手はお嬢様ですよ! そんな叱り方がありますか!」
カゴスの怒声を聞き、家の中から飛び出してきたルサーが諫める。
「お前、お嬢様が落ちて怪我などされたらどうするつもりだ!」
思わず出てしまった厳しい言葉に対する反省もあるのだろうか。必死に言い訳じみた反論を試みるカゴス。
そんなカゴスとルサーのやり取りを横目に滑るように部屋に戻ると、レーテは直ぐに盥を一階に持って行き、ルサーの叱責を受けきまり悪そうに農作業を継続しようとするカゴスの元で、手伝いを開始した。
レーテが手伝って、農作業の効率が上がったかどうかは、客観的に見ると不明だ。毎日農作業をしている人間に、年に数回程度の経験しかない者の支援がどの程度効果があるかなどわかるはずもない。
少なくとも、レーテ自身はそう思っていたが、どうやらカゴスの表情を見ると、自分が思っているよりはかなり満足してくれたようにも見える。
無言を貫き、眉間の皺は消えていないが、何となくカゴスは喜んでいる。
最初の頃は、カゴスの表情を読み取れず、後でルサーに言われて初めて、そうだったのか、と気づくこともあったが、ここ数回はカゴスの表情ではなく、立ち上る雰囲気からそれを悟るようになっていた。そんなカゴスを見て微笑むルサーを見ることで、更にレーテの充実感も増すのだった。
高原とはいえ真夏。灼熱の炎天下での作業ではなかったが、やはり全身汗みずくとなる。
作業終了後に、ルサーに着替えが準備してあると告げられ、レーテは二階に上がると、レーテの部屋の真ん中に盥と手拭いがまた準備してあった。カゴスと農作業に従事している間に、ルサーが気を使って準備してくれたに違いなかった。レーテはさっと手拭いを水に浸し汗を拭きとると、新しい服に袖を通す。そして、今度はルサーの夕飯の支度を手伝いに取り掛かる事にした。




